ミスラの海

09

カフェでいいなんて何も考えずに答えただが、よく考えたらアルバイトもしていないのに毎度毎度カフェでドリンクをオーダーできるほど小遣いがなかった。頼朝はドリンクくらい奢ってやるから気にするなと言うが、彼も働いているわけじゃないし、難しい国家資格の取得に向けて勉強中の身だ。

少し迷ったけれど、は思い切って自宅に来てもらうことにした。これならそれほど負担がないはずだし、の親も清田家の人間なら警戒しない気がした。それに、三兄弟の中でも頼朝は1番「大人受け」するタイプだ。清田も人懐っこいし、尊も人の懐にするりと入り込むタイプだが、頼朝の安定感には勝てない。

案の定、頼朝は大歓迎された。むしろ優秀な学生にタダで家庭教師してもらえるなんてラッキーだと喜んだ。

週に何度も来てもらえるわけじゃないが、それでも頼朝の「成績底上げ計画」は的確で、の弱点を探りつつ、得意教科も不得意教科も、どちらも捨てることなく上げていこうという教え方には奮起した。

それに、頼朝が教えてくれるのは勉強法であって、問題の解き方ではなかった。なので、例え週に1回2時間ほどしか一緒に勉強できなくても、の理解力は面白いように伸びていった。というか、なぜ中間であんなひどい点数をとったのかというほど、湘北の授業が簡単に思えるようにまでなった。

さらに、頼朝が家庭教師してるならまたバーベキューおいで、そこでまた勉強でもなんでもしたらいいじゃないのという清田母の提案にも、の両親はぜひ行きなさいと送り出してくれるようになった。家の修繕は割安に済むし、娘には無料の家庭教師がつくし、それに乗じてたまに犬と触れ合えるし、ふたりは上機嫌だ。

「へえ〜、頼朝に家庭教師してもらってんの。どう、わかりやすい?」
「はい、なんだか頭の良くなる薬でも飲んだみたいです」
「あはは、面白いこと言うねえ。勉強のやり方がうまくなかったんだねえ」

この日は頼朝が夕方頃に帰るというので、は清田家のリビングで尊と清田母とユキを挟んでお喋りをしている。そしてとうとう平日である。これまで日曜にしか清田家に来たことがなかっただが、平日の清田家も変わらずに騒がしくて、それが少し楽しい。

は一応、平日の放課後に清田家で勉強など、三男が嫌がるんじゃないかと頼朝に言ってみた。だが、頼朝はの家庭教師を引き受けたことは信長に話してあるし、リビングやダイニングで勉強するわけじゃないし、信長のプライベートにはまったく影響のないことなのだから構わないと言う。

さらにが来れば清田父母も喜ぶし、ユキも喜ぶし、帰りは自宅まで送って行かれるし、メリットは多いと頼朝は言う。確かにもユキに会えるのは嬉しいし、ついでに尊にも会えたら言うことはない。というか、むしろ喜んでお邪魔させていただきますというところだ。

清田のことは気になったけれど、頼朝の言うように、彼には触れないでおいたらいい。清田が帰宅したら不用意に家の中をウロウロしたりせずに、勉強だけして帰ればいい。あれほど強く胸が痛んだというのに、楽しい清田家の誘惑の前に、そんな出来事はどこかへ飛んでいってしまった。

「そうそう、ちゃん今日はご飯食べていくわよね?」
「え!?」
「今さら遠慮なんてやめてちょうだいよ、好き嫌いある?」

偏食ではないのだが、体質に合わなくて食べられないものがあるは正直にそれを伝えると、清田母はよし任せとけと胸を叩いた。

「じゃあオレはケーキ買ってこようかな。ちゃんも食べるだろ」
「えっ、はい、あの――
「うちはさー、ケーキ好きなのオレだけなんだよね」
「私は和菓子の方が好きなのよね〜!」

タダで勉強を教えてもらってご飯もケーキも食べさせてもらって犬は触り放題、一体清田家はをどこまで喜ばせようというのだろう。もしかしたらだけでなく親しい人にはこんな風に接するのが清田家では当たり前なのかもしれないが、それでもは愉悦の渦に飲み込まれていく。

そして、そんなケーキのような甘い幸せの前にあって、三男の影はどんどん薄くなっていった。いくら家の中をウロウロしないようにしていても、たまに顔を合わせてしまったりということがないわけではない。それでもの胸は痛まなかったし、清田もいつかのように目くじらを立てて怒ったりしなかった。

確かに最初は三男・信長の友人みたいなものだった。だが、あれよあれよいう間に、は客の娘になり、長男の教え子になり、次男の友人にもなった。その中で三男の友人という立場だけが影を失い、徐々に掠れて消えていくかのようだった。

こうしては頼朝に勉強を教わり、尊にはたまにデートらしきものをしてもらい、清田父には壁のヒビの修繕に入ってもらっているという、「清田家漬け」の日々を過ごしていた。ただ三男・信長だけが存在せず、まるでが彼にとって変わって清田家に入り込んでいるみたいだった。

「うーん、本当に惜しいことだな。中堅どころの私大くらいなら充分行かれそうな気がするんだけど」
「ほんとですか」
「だけど悲しいかな日本は学力だけではね。というか興味の向くものは探してる?」

清田家で勉強中のと頼朝である。

頼朝の言葉を受けて、はそれとなく両親に打診してみたことがある。だが、ふたりとも「そんな余裕はない」の一点張り。その上、父親からは、明確な目標もないのにとりあえず大学行きたいなんていういい加減な動機は認めないと言われてしまった。これは父の方が正しいだろう。

「それが見つかっていれば、ご両親も考えてくれるんだろうけどね」
「消去法で、明らかに向かない、適性がないと思える分野を弾いてはいるんですが」

例えば、当たり前のようだが、スポーツや芸能の分野など、どう考えても「違う」と思われるものを書き出し、「違うかどうかもわからない分野」を絞り込んだ。そこから得られる専門性や、就くべき職業などをリストアップしたところでは音を上げた。だからと言って興味が湧くわけがない。

「まあね、それを高校生の間に模索して、受験もなく無料で大学に進めたらいい話なんだけどさ」
「そういう国に生まれたかったです」
「これがまた語学が高校生のうちに堪能レベルに達していたら不可能でもないんだけどねえ」
「なんだか自分でどんどん首を絞めてるような気がします」

自分の道を探せば探すだけ見つからなくなる気がした。一体自分にはこの社会で生きていく場所があるんだろうかと不安になって来る。というか清田家三兄弟のように自分の目指す道、得意なものがこんなにはっきりしているのが不思議でならない。どうやって見つけたんだろう。

「うーん、興味という表現も曖昧だったね。ちゃんの言うように、適性だ」
「向いてるとか、そういうことですか」
「向き不向きもそうだけど、『苦にならない』ということだよ」
「はあ」

がきょとんとしているので、頼朝はふにゃりと笑う。

「細かい作業が苦にならない、デスクワークなんかとんでもないけど動きまわってるのは苦にならない」
「ああ、そういう……
「例えばオレなら、接客業なんか絶対に無理だからね。尊や信長ならいいかもしれないけど、オレは不可能」

はつい吹き出した。確かに頼朝じゃ接客にならない。それに比べれば尊や清田は接客向きかもしれない。だけど、銀行の窓口に尊や清田じゃ不安になる。そういうところには頼朝の方がいい。なるほど、とは何度も頷いた。しかし今のところアルバイト経験もないには、その判断もつかない。

「個人的にはあまり納得出来ないけど、親父なんかが言うような『家庭に入る』、あれもきちんとこなせているならそれも適性だと言えるだろうね。何しろウチの母親と祖母、あのふたりが完全にそうだ。しかも自分の旦那と子供だけじゃなくて、面倒見る義理のない他人まで抱えてる」

尊ほど女の子として扱ってくれるわけじゃない、ルックスももちろん尊には劣る。けれどなぜか頼朝には全てを預けたくなってしまうような魅力があると感じていた。はその理由を見た気がした。頼朝はうっかりすると「意識高い系」みたいになってしまいかねない要素を孕んでいるけれど、視線がとても低い。

自分では納得出来ないとしつつも、大所帯の大家族を支えてきた祖母と母には敬意があり、こんなにインテリ臭くても、日曜のバーベキューにやってくる両親の友人をネットスラングでバカにしたりしない。それはあまりに寛容で、器の大きな人物であるように見える。地に足がついてる感が異常だ。

「焦るのはもってのほかだけど、少なくとも2年生の1学期末頃には何か掴めればなあ」
「今度少し街を『お仕事』という目で見て歩いてみようと思います」
「素晴らしい! 本当にちゃんは前向きでいいね。教え甲斐があるよ」

破顔一笑、頼朝は目を細めての頭を撫でた。驚いたがしどろもどろになっていると、それにまた笑った頼朝はテーブルの上に置いてあるポットから飴を一つ取り出し、の唇にあてがった。また驚いただけれど、ピンク色の小さな飴はするりと口の中に落ちた。

飴が溶けて、口の中が甘くなっていく。それと一緒に唇に残る頼朝の指の感触には背筋を震わせた。

ちゃん、期末頑張ったら、いいところに連れて行ってあげるよ」
「い、いいところ!?」
「先輩……と言ってももう40代だけど、その人がやってる設計事務所とその人が設計したカフェ」

一瞬不埒な想像をしてしまったはカッと熱くなる頬に思わず手を当てた。

「ウチの仕事もそうだけど、オレがどんなものを目指してるのか、見てもらいたいな」

そう言ってまた頼朝はの頭を撫でた。は確かに、視界がぐらりと傾くのを感じていた。

12月の期末テストに向けては頼朝のアドバイス通りに勉強に励み、なおかつ尊にケーキを3度も奢ってもらったのが心苦しくて、週に2日間だけアルバイトを始めた。時給750円、夕方17時から22時まで。つまり1ヶ月働いてもたかが3万円。しかしそれは無駄遣いせず、尊と頼朝への礼に使うつもりだった。

の予定では、頼朝に礼として何かをプレゼントし、尊には例の店でケーキをおごり、清田父母にも何か贈り、ついでにユキにもおやつを買ってあげたいと考えていた。それで余った分は繰り越して、貯めておこうと考えた。欲しいものはいっぱいあるけれど、頼朝の言うように、状況はいつ変わるともしれないのだから。

もうの意識の中に、三男・信長の姿はほとんどなかった。

「へえ、ドラッグストアね」
「もっと頭が良かったら薬剤師になりたいと思ってしまいました……
「ははは、時給がすごいからねえ」

最寄り駅近くの大型ドラッグストアでアルバイトを始めたは、壁に貼ってある薬剤師募集の張り紙を見て仰天した。小学校卒業の時にパティシエになりたいと言っていた子が、薬学部志望になったのも頷ける。

11月も半ばを過ぎたこの日、頼朝が独学するのに良い参考書を選んでくれるというので、はうきうきしながら一緒に街まで繰り出してきた。尊では落差が激しすぎて「似てない兄妹」と思われるのが関の山だが、頼朝ならカップルに見えるかもしれない、などと思うと、11月の夜の冷たい風の中でも体が暖かくなる。

まだは初めてのアルバイト代が出ないので、結局頼朝に奢ってもらってカフェでカップを傾けていた。尊は紅茶好きらしいが、頼朝はコーヒー好き。だが、シアトル系は好きじゃないと言って、入るのはセガフレードばかりだ。頼朝のような濃いコーヒーは飲めないので、はホットチョコレートを飲んでいる。

「まだ始めて間もないけど、どう? アルバイトとはいえ、働くということは」
「覚えることは多いんですが、思ったより難しくないです。扱っているのも身近なものだし」
「続けていかれそう?」
「ええとその、実は――

の勤める店舗には、店長の他に社員が3名いる。全員男性で、以下、パート・アルバイトは全員女性という状況。だが、高校生はひとりだった。アルバイトを初めて1ヶ月弱、は社員のひとりからしつこく誘われていて、それだけが難点だった。

「とんでもない話だな。広義ではセクハラに当たるんじゃないか」
「週1回しか一緒にならないので、その間だけなんですけど、帰るまでずっと付きまとうんです」
「社員ていうけど、向こうは――
「ええと確か31歳とかだったような」
「不愉快極まりないな」

頼朝は瞬時に怖い顔になって声を潜めた。

「彼氏いないんだったらいいじゃんて言うんですけど、そういう問題じゃないので……
「当たり前だろ。まさかとは思うけど、具体的に乱暴されたりとかはないね?」
「はい、それは。しつこく聞かれますけど連絡先も教えてません」
「帰りは大丈夫? 送って行こうとか、そういうのは」
「社員より先に帰るのでそれはありません。だけど、履歴書は見らてれるみたいです」

プライベートな話などしたことがないのに、君の家の近所に友達がいるんだと言われた。

……ちゃん、個人的には、アルバイトとはいえ、一度勤めたところを簡単に辞めるようなのは感心しないと思う。だけどこれは別だ。働くということは尊いけれど、いつ危険に転ずるかなんてわからない状況に身を置くリスクとは、比べるまでもないと思う」

静かで穏やかな声だった。けれど、頼朝は少し身を乗り出して真剣な表情で畳み掛ける。

「何かあってからじゃ遅いんだよ」
「だけど、始めて1ヶ月で辞めますなんて言いづらくて」
「うーん、オレが保護者なら代わりに言ってやるんだけどな」

それは怖い。はそれを想像してへらへらと笑った。

「笑いごとじゃないよ。まったく、不埒な輩が多いもんだ」
「嘘でもいいから彼氏いるとか言っちゃえばよかったんですけどね。失敗しました」
「そうか、いないと思うからしつこいんだもんな」

時間が遅くなってきたので、ふたりはカフェを出て駅へ向かう。頼朝は「車に頼る生活に慣れたくないから、可能な限り公共交通機関を使う」という主義だそうで、の場合は自宅がバス停に近いので、いつも家最寄り駅の駅前でバスを一緒に待って別れている。

「そうだ、今度尊を店に行かせようか。後で彼氏ですとか言っちゃったらどうだろう」
「信じてもらえない気がします」
「どうして?」
「えっ、だって別に私そんな、ああいう美形の人と付き合えるような人間では」
「そんなことないと思うけど……ちゃんが気にならないならオレでもいいよ」

そんなことを当人に目の前で言われてしまうと、途端に緊張してしまう。は照れと困惑と拭い切れない期待とでいっぱいになっていた。だが、頼朝はそんなを困らせたと思ったか、いたずらっぽく笑って首を傾げた。顔はあまり似てないけれど、首の角度が尊とそっくりだ。

「それこそ兄妹くらいにしか思われなかったりしてね」
「そそそ、そんなことないです、頼朝さんはかっこいいです」
「あはは、ちゃんは優しいねえ。お世辞でも嬉しいよ」

そんなことないのに。尊が少し異常なだけで、充分かっこいいのに。は思い切り眉を下げた。

「困らせちゃったね、ごめん」
「そういうことじゃないです、ごめんなさい、だけどお世辞じゃないです」
……あんまりそういうことを簡単に言うものじゃないよ。男は単純だからね」

優しく微笑んでいた頼朝は少し厳しい目をしてを見下ろしていた。その頼朝を見上げるは、なんて返せばいいのかわからなくなって、余計に困った顔をした。頼朝の言葉がの心の表層をくすぐる。それはどういう意味? その「単純な男」には、頼朝さんも含まれるの?

「ごめん、変なこと言って。君のことは、妹が増えたように思っていたんだよ――

駅に向かう人の波の中で、頼朝はの方など見もせずに、素早く手を取り、緩く繋いだ。駅が近付いてきて混雑が増してきたからだったのか、それとも別の意味だったのか、は頼朝の心がわからなくて俯いた。けれど、その手を振り払いたくはなかった。

思わず握り返したの頭の中で、自分の声が響く。

「思っていた」――過去形? そうだとしたら、今はどうなの? 頼朝さんは、私のことどう思ってるの――