ミスラの海

15

は自分がどこをどう走っているのかわからなかった。清田に導かれるまま、ただ彼のなびく髪だけを見ていた。2月の冷たい風も街の喧騒も、何も感じられない。繋いだ手だけが暖かくて、は息を切らしながらずっと泣いていた。

ようやく清田が足を止めたのは、例のロココガーリーな喫茶店のある辺り、飲食店が並ぶが人通りの少ない場所だった。清田は横道に逸れ、駅へのショートカットになっている遊歩道までやって来た。そして入り口に設えられているベンチにがくりと倒れこむ。ちょうど自販の影になっていて、表の通りからは見えづらい。

もその隣に崩れ落ちる。清田はなんとか逃げ切れたので安心して疲れているようだが、は泣きながらたくさん走ったので、息をするので精一杯、というか息をするのもやっと、気管支が変な音を立てている。

けれど、はぜいぜい喘ぎながら、繋いだままの手を締め上げた。

「痛っ、もう大丈夫だから、そんな力入れんな」
……が、……が」
「水戸は大丈夫だよ、あれだけ人がいたんだし、オレたちを庇ったってのもすぐにわかる」

清田はそう言って大きく息を吐いたが、の頭には入って来ない。息が落ち着いてくると、また涙が溢れてきた。走ったせいで張り裂けそうな心臓、震える手足、うまく声が出せない唇。それをどこか遠くに感じながら、はしゃくり上げた。

「お、おい、また泣いてんのかよ! もー、大丈夫だって」
「ぶ、が」
「あー、怖かったよな、よしよし、もう平気だから落ち着け、な?」

清田は頭を撫で、そして指で頬の涙を払った。それでもがガクガクと震えながら泣いているので、ふうと一息吐くと、清田はベンチに片膝を立てて、を引き寄せ、ぎゅっと抱き締めた。そしてまたの頭をゆっくりと、けれどしっかりと撫でた。その瞬間、は声を上げて泣き出した。

「あんなことはもうないから、大丈夫」
「信長、腕、バスケ」
「折られてないしどこも怪我してないし、問題ないから」

そういうことじゃない。は清田の体を締め上げながら、言葉にならない声を上げて泣いた。

清田が飽きもせずに撫で続けてくれたので、は徐々に落ち着いてきたが、がっちりと清田をホールドしたまま、離れようとしない。清田は肩やら背中やらも撫でてやって宥めようとしたけれど、あまり効果がなかった。

「ほんっとにお前、オレといると泣いてばっかりだな。オレが疫病神みてえじゃねーか」
「なんで、あんなこと」
「あんなこと?」
「腕、折られたら、バスケ、海南、神奈川最強なのに」
「いや、だってお前、置いて逃げるわけにいかねえだろよ……

清田は照れてゴニョゴニョと言葉を濁した。

「せっかく、せっかく見つかってるのに、好きなものが得意で上手なのに、あんなこと」
「まあ、それはそうなんだけど、いいじゃねーかもう、助かったんだから」
「よくないよ! 大事なバスケ捨てるようなこと、なんでしたのよ!! バカ!!!」
「バカってなんだよ、だったら置いて逃げればよかったってのかよ!」

は身を引くと、清田の肩をバチンと叩いた。

「そうだよ!!」
「ふざけんな!!」
「私なんか、どうでもいいじゃん!!!」
「よくねえよバカ!!!」

清田は、力なく叩いているの手を掴んで落ち着かせると、両手で頬を挟んで顔を寄せる。

「そりゃバスケはオレの全てだけど、お前をあんなとこに置いて逃げるくらいなら、腕なんかいらない」
「信、長……
「そう思ったんだよ。しょーがない、バスケは諦めよう、まあ他にも何か見つかるだろって」

そして、清田は目を閉じた。

「だけど、はひとりしかいないから、他にもいるわけじゃないから」

はひとつしゃくり上げて、ぴたりと止まった。言っていることはわかるが、それが理由になるのかと首を傾げる。両頬にある清田の手が暖かくて、はそっと手を重ねた。大きな手だった。

「どうしてよ……こんな、私、助けてもらってばっかりで、なのに……
「どうして、って、そりゃ、まあ」
「私何も出来ないのに、何も持ってないのに、信長にしてあげられることなんか、何も」

は清田の手を頬に置いたまま大きく首を振る。

「別に何かしてもらおうと思ってやったわけじゃないからなあ。お前のチョコと一緒」
「だけど、こんなの、何かないの、私が信長にしてあげられること、何かないの」
「いや、いいってそんなの……ないよ何も……
「そりゃ、私別に特技とかないし迷惑ばっかりかけてるけど、何かひとつくらい」
……無理だって」

そう言うなり、またが片目からぽたりと涙を零すので、清田はため息を付いて項垂れた。

……友達でいたいんだよ。だから無理」
「私もうだいたいのことは平気だって、嫌いになったりしないよ!」
「無理だと思うけど……

もう一度長くため息をついた清田は、の頬を両手でするりと撫で、ぼそりと呟いた。

「オレのこと、好きになって、欲しい」
……え?」
「ほら、無理だろ、そんなの。だから言ったのに」
「好きって、私が?」
「あんまり引っ張るなよ、もう忘れろ」

はぽかんとしつつ、背けてしまった清田の顔をぐいっと戻した。

「今でも好きだけど」
「いやそーいう意味じゃねえから」
「何が違うの」
「違うだろよ、オレの好きは彼女とかそーいう意味で、だからもういいって」
……よくないよ、信長は、そーいう意味で私のこと好きなの?」
「悪かったな、しょうがないだろ、これだけ一緒にいて、楽しくて、それで――

眉が下がりきって情けない顔をしたが微笑むので、清田は言葉を切った。

「私でいいの、尊さんや頼朝さんにふらふらと擦り寄るような、そういうことしたのに」
「それは別に……だからあいつらより好きになってくれたらって」
「そんなの当たり前じゃん、好きだよ、一番好きだよ、信長――

また涙を零しながらが言うので、清田は思わず引き寄せてキスした。涙に濡れたの唇はしょっぱくて、少し震えていて、だけどしっかり清田を受け入れていた。首に絡むの腕を滑り降りて、背中をぎゅっと抱き締める。

あの日、ユキに引きずられて海に飛び込んだのピンク色の唇にキスしてみたいと思った。波に洗われて白々とした頬がまぶしくて目が眩んだ。海に飲まれて束の間悲しみを忘れたの笑顔を可愛いと思った。

よく晴れた夏の朝、清田の中でへの思いが産声をあげていた。それが長い時間をかけて、を大切に思い、を守りたい、に笑顔でいて欲しいと思うようになった。何の理由もない、愛犬を失った悲しみの共有者だったはずのが、いつしか、掛け替えのない存在になった。

「あの時は、怖かった、嫌だった。だけど、今は、嬉しい、好きだから、嬉しい――
……

涙で赤い目をしていたは、今度は頬まで赤くして、ふにゃりと笑った。の指が頬をくすぐるので、清田はまた唇を押し付けて、そして抱き締め、大きく息を吐いた。も、清田にぴったりとくっついて、安堵のため息をつく。誰より、心が繋がった気がした。

薄暗いベンチで抱き合っていたふたりのところに来た水戸からの報告に寄れば、あの突然現れた不埒な輩は「永源」の客だったのだそうだ。だが、以前から女性客にちょっかいをかけるので、困っていた。水戸も含め、従業員は毎度毎度やんわりと間に入っていたのだが、つまり、少し前にを狙うようなことを言ったらしい。

こりゃマズいと思った水戸はつい睨みを効かせて牽制してしまったのだという。それを逆恨みしてのことだった。

だが、通報により警察が飛んでくると、清田の読み通り、たちが絡まれている頃から見ているだけしか出来なかった人々が水戸を擁護し始めた。絡まれて乱暴されてたカップルを助けに入っただけで、悪いのはあの子たちの方。そんなわけで、水戸は暴力的手段に出たらいかんと釘を差されただけで済んだ。

一応バイト先の客である3人をのしてしまったことについては、「永源」の店長は元々長くヤンチャしていたような御仁なので、まるでお咎めなし。むしろこっそり褒められた。のみならず、今月は時給20円上げてやると言われたそうで、水戸は上機嫌だった。

「悪かったな、。オレが余計なことしたから」
「そんなことないよ、助けてくれてありがとう」
「そこに清田いんのか?」
「えっ、うん、いる」
「今さら照れんな。悪いけどちょっと代わってくれ」

水戸はたちの状況を読んでいるようで、ふんと鼻で笑った。が携帯を清田に渡すと、水戸は声を落として彼に詫びた。

「すまなかった。もあんたも、あんな目に遭わせるつもりじゃなかった」
「いや、いいよ、そんなこと。本当に腕折られるかと思ったから、助かった」
……のこと、好きなんだろ」
……ああ」
「単純で世間知らずだからな、守ってやってくれよ」
「わかった。色々ありがとう」
「なあに、海南には強いまんまでいてもらわにゃ困るんだよ。花道が成長できねえからな」

水戸はヒヒヒ、と笑って通話を切った。この日、が落ち着いてから駆け込んだお菓子の激安ショップにて、翌日の水戸用バレンタインプレゼントが増量されたのは言うまでもない。そしてその殆どが桜木の腹に収まったという話だが、この時ばかりは清田も文句を言わなかった。

さて、この件を水戸以外で最初に知ることになったのはぶーちんとだぁである。というか、清田はもう少し様子を見てから親に話すというし、1番に報せなければならないような人もいないし、感謝チョコを渡しに行った時に、はぶーちんとだぁに正座して報告した。

「マージーでー! ほんとにぃ!?」
「オレ、ノブはそうなんじゃないかと思ってたからなあ」
「いや、だぁのそーいうのあてになんないからあ」
「えー、今回は当たったじゃん」

ふたりの背後には「子作り解禁まであと42日」と書かれていて、は笑いを堪えている。

「え、てかはそーでもないみたいな感じだったじゃん?」
「だったんだけど……実はこの間の日曜日に」

だぁがいるのでざっくりと話すつもりが、ぶーちんがえらく食いつくので、は清田が言った言葉まで仔細に説明して聞かせた。ぶーちんは洋邦亜問わずメロドラマが大好きなので、大喜びだ。

「なにそれマジ感動なんだけどー! え、それほんとにノブ!?」
「そうかそうかあ、あのノブがなあ、子供だと思ってたけど」
「ていうかはそれでいいの、ほんとにノブのこと好きなん?」
「うん」
「即答なんだけどー!!!」

ぶーちんは迫る子作り解禁に向けて、現在髪が完全なるピンク色である。先だっての成人式では、振り袖の他にドレスも着て、紋付袴のだぁと写真を撮った。式は挙げていないから、その代わりなんだそうだ。42日のちに子作り解禁になった暁には、髪を切り、たばこをやめ、ヒールのある靴は実家の物置に鍵をかけて封印とのこと。

ピンク色の髪を振り乱して悶絶したぶーちんはしかし、少し涙ぐんだ。

「でもよかったー。なんか丸く収まったんじゃない? ノブ優しい?」
「うん。前から優しかったけど、今はもっと優しい。ちょっと変に感じるくらい」
「やだー、ノブものことほんとに好きなんだねーよかったねー」
「けど、なんかノブがバカやらかしたら言いなよ、お父ちゃんがしばいたるから」

だぁが真剣な顔でそんなことを言うので、は吹き出した。彼は既に父親気分になってるらしく、最近では何かというと自分のことを「お父ちゃん」だの「パパちゃん」だのと自称している。

「あっ、てか、しばくのはいいんだけどお――
「いいんだ」
、出来る?」
「えっ、何が?」
「エッチ」

ぶーちん特製のミルクティーを飲んでいたは、盛大に吹き出した。済まなそうな顔でウェットティッシュを差し出すだぁに対して、ぶーちんはラグが汚れると怒っている。というかぶーちんとふたりの時はガールズ・エロトークになることもしばしばだが、何しろ今日はだぁがいるのでは驚いたというわけだ。

「ええっとお……たぶん、大丈夫なんではないかとお……

何とも言い様がないはウェッティーでラグを叩きながら、ぼそぼそと言う。

「えー、ちょっと待って、まだしてないの?」
「付き合いだしたのこの間の日曜なんだけど」
「関係ないと思うけど〜」
「お前と一緒に考えたらだめだろ……
「だからあ、フツーと同じと考えたらだめなわけでしょ〜。一度怖い思いしてるんだし」
「そりゃそうかもしれんけど……それはノブの問題であって」
「その辺は気を遣ってくれてるような感じがするんだけど……まあまだそんなことには」

とだぁは頷きあったけれど、ぶーちんは首を振る。

「だぁが言うなって話なんだけどー! マジ、覚悟はしときなよ、そんなに長くもつわけないんだから」

また呆れていたとだぁだが、結局、ぶーちんの言う通り、そんな状況など長続きするわけがなかった。というか明けて翌月、春休みの間にさっさとは覚悟することになった。両親が結婚披露宴に出席するため、泊まりで出かけてしまったのだ。

それならまたユキを貸してやろうかと言ってくれた清田だったが、清田父母ともしばらく会っていないのに、それは申し訳ない気がしたし、は思ったまま素直に、「ユキより信長がいい」と言った。そんなわけで、彼は部活終わりですっ飛んでの家までやってきて、一泊したというわけだ。

ぶーちんから散々、彼女が言うところの「作法」やら「心得」やらを聞かされていたは、思っていたよりは緊張しなかった。尊を思い出すようなこともなかったし、今度は本当に清田のことが好きだったので、恐怖も嫌悪感もなかった。ただそれでも初めて同士、まごつきながらどうにか、というところだっただけだ。

さて、身も心も繋がったことで自信を得たかどうかはわからないが、やっと清田は両親にとのことをカミングアウトした。ふたりは三男に落ち着いたことを驚き、しかしがまた少しだけ近い存在になったのが嬉しいようだった。兄ふたりとも仲良くしていたことについては、何も言わないでくれた。

清田の方も兄ふたりには言わなかったし、兄たちの方もに関しては何も言わない聞かないという状態のままとなっていた。未だ清田家に遊びに来られる状態ではないとはいえ、と清田の関係は順調そのもの、少々清田の方が盛っている点を除けば、この頃のふたりは幸せの絶頂にあったと言っていいだろう。

春休みが明け、と清田は2年生に進級、ぶーちんとだぁは子作り解禁、家は洗面所の取り替えを清田父に頼もうかという話になっていた。そんな4月の末頃のことである。

の父親が急逝した。