藤真と別れ、渋谷をうろついてから帰宅したは、帰るなりナナコに捕まった。
「もー、あんた携帯オフにしたままなんじゃないの」
「……あ!」
「携帯なしで帰ってくるとかあんたほんとに女子高生?」
藤真がいたおかげで使わなかった暇つぶしグッズで遊んでいたらすっかり忘れていた。は慌ててバッグから携帯を取り出すと、サイレントを解除した。なんだか大量の通知が来ていて血の気が引く。一体何があったっていうの……
「に連絡つかないってあっちこっちから連絡来て大変だったんだからね」
「ごごごごめん、何かあったの?」
「1時間前くらいかな? 牧が寮に帰ってこないって、バスケ部が騒いでるみたいで」
「は!?」
はそのまま踵を返して家を飛び出した。自転車を引っ張り出し、通知を確認してから神に電話をかけた。
「あ、だけど、連絡気付かなくてごめん」
「先輩今どこですか? まだ藤真さんと一緒ですか」
「ハァ!? 神くんなんでそれ知ってんの!」
「落ち着いてください、たぶん見かけたのオレだけです。まだ一緒ですか?」
「まさか。会場の外で別れたよ。今自宅の前」
神の声が落ち着いているのではますます不安になる。
「学校で解散した時は確かにいたんです。だけど、寮に戻ったらいなくなってたらしくて」
「帰る途中に消えたの?」
「それもわかりません。気付いたらいなかったんです。みんな先輩と一緒だと思ってたんですが」
だが、誰にも何も言わずに彼女と会うために行方をくらますようなタイプではない。そろそろ夕食時なのに帰るか帰らないかの連絡も来ないので、あと数日で主将になる神に連絡が来たという。
「騒ぎにしたくないので寮生は動かないように指示して、オレが探してるんですが、連絡がつかなくて」
「私のとこにも何も……帰ってこないって、今までそういうことなかったの」
「ありません。先輩呼ばないんですかって言われても真顔で入れないって言ったような人ですよ」
それは想像に難くなくて、はつい鼻で笑った。
「先輩と一緒にいるならそれでよかったんですけど」
「私も今帰ってきたばっかりで……」
「藤真さんとデートしてたんですか」
「そんなわけないでしょ! 神くんは一体私を何だと」
「心当たり、ありませんか? オレ今海南の最寄り駅なんですけど」
そんなこと言われても、牧とは下校くらいでしか一緒にいたことがない。何しろ文化祭が終わってからは牧が忙しかったし、テスト前にカフェで一緒に勉強したくらいで、牧が行きそうなところと言われてもまったく想像つかなかった。というかより神たち後輩の方がよっぽど付き合いが長いわけで……
「私も探してみる。神くんも疲れてるでしょ、無理しないでね」
「ありがとうございます。もしどうしても見つからなかったら、マックスに連絡しますね」
けれどそれまでは騒ぎにしたくないので内密によろしく、ということだ。は了解して携帯をバッグに放り込む。やっぱり負けたことがショックだったんだろうか。試合終了後はいつもと変わらないように見えたのに。自転車を漕ぎ出し、神が駅にいるというので、は学校に向かった。
学校で解散して寮に向かったって言うけど、牧の行動範囲なんて学校と部活と海くらいしかないじゃん!
は冷たい12月の夜空の下を海南に向かって走り出した。
途中、一応ふたりで寄ったことのあるカフェや、牧が好きだというファストフード店なども覗いてみたが、いない。そうしてが海南に到着すると、もうあたりはすっかり暗くなっていて、海南の敷地内もまっくらで静まり返っていた。だが、遠くに微かにボールの跳ねる音を聞いたは自転車を飛び降りた。
固く閉ざされている正門の近くに自転車を停め、通用門の方へ回る。まだ先生たちは職員室に残っているんだろう、職員用の通用門はまだ開いていた。は音を頼りに校内を駆け抜け、音のする方――第一体育館へ向かう。校内はひと気もなくて真っ暗だが、不思議と怖くなかった。
ぼんやりと常夜灯の明かりが差すだけの第一体育館脇の通路、いつかがノート片手にダンス部員と頭を突き合わせて計算をやり直していたドアの前に座り込む人影があった。それを確認するとは少し戻り、神に電話をかける。神はすぐに着信に応じる。
「どうですか、今どこですか」
「……学校。いたよ」
「えっ、ほんとですか!? そっか……先輩、あとをお願いできますか」
「うん、わかった」
「寮の方にも連絡をしておきますから、ご心配なく。少しくらい遅くなっても大丈夫ですから」
一応高校生なのだし、門限には大変厳しい寮だが、そこはそれ、代々伝わる伝統の抜け道があるそうで、どうしても遅い時間に出入りをしたい時は寮生の協力があれば何とかなるという。
「牧さんのためならバスケ部はなんだってやりますから、安心してくださいね」
「……どこまで出来るかわからないけど、やってみる」
「大袈裟だなあ。彼女なんだから一緒にいてあげるだけで充分じゃないですか」
神は体制が変わったら主将の座に就くことになっている。彼の牧とは違った意味で余裕を感じさせる声には覚悟を決め、また携帯をバッグの中に放り込むと、大きく深呼吸をして牧の元へ向かった。
牧のことは好きだ。まっすぐに自分を思ってくれるその心が好きだし、尊敬できるところもあるし、意外と茶目っ気もあるし、ただひとりの男の子としては本当に好きだと思っている。けれど、あまりに彼は大きくて、自分が小さいのだと思い知らされることも多かった。
それでも彼が折れそうになっているなら、せめてつっかい棒くらいにはなれないだろうかと思った。まっすぐに伸ばしてやれなくても、これ以上折れないように支えるくらいなら出来るんじゃないだろうか。
は驚かせない程度に足音を立てながら、体育館脇の通路を行く。そして、声をかける。
「――――紳一」
常夜灯のぼんやりした明かりの中で、人影が動いての方に顔を向けた。やはり牧で間違いない。すたすたと近付いてくるを見上げた牧は一瞬何が起こったのかわからないという顔をしていたが、直後に眉を下げて力なく笑った。
「びっくりした。初めて名前で呼ばれたな」
「もう1ヶ月以上も経つのに、苗字呼びってどうなんだろって思ったから」
「なんでここに来たんだ」
「寮に戻ってこないからみんな心配して、それで私にも連絡くれたの」
ドアの前は3段の石段になっていて、牧はそこでボールを手にして座っていた。は牧の傍らに膝をつく。
「もう連絡してある。寮の方は大丈夫だって。少し遅くなってもいいよって言ってた」
「……中から鍵を開けてもらえれば入れるところがあるんだ」
「そこから私を入れればって言われたのに断ったんだって?」
「……寮なんか入れたってしょうがないだろ。男だらけなんだし」
特に不貞腐れているようにも、泣きそうでも、怒っているようでもなかった。ただ牧はぼんやりした顔をしていて、ボールをポンポンと跳ねさせている。はそのぼんやりに合わせて喋る。
「今日、見てたよ」
「……そうか」
「負けちゃったね」
「ああ、また2位だった」
こういう会話になることは火を見るより明らかだった。しかしそうなったらなんて言えばいいんだろう。は牧を探して自転車を漕いでいる間、ずっとそんなことを考えていた。しかし気の利いた言葉なんかちっとも思いつかなかったし、何が牧を喜ばせて何が傷つけるかなんてもっとわからなかった。
なので、は手を伸ばして牧の頭をわしゃわしゃと撫でた。
きょとんとする牧、もう後がない、ふたりの足元を冷たい風が通り過ぎて行く。
「……」
「えーと、ほら、前にこうしてもらったことあったし、3年間よく頑張りましたって、ことで……」
撫でた手の行き場がないはしどろもどろだ。だが、牧は少し腰を浮かせて距離を縮めると、膝立ちのに抱きつき、ぺったりとくっついた。も牧の頭を抱え込み、またゆっくりと撫で始める。いつも高い場所にある牧の頭を見下ろしたは、目を閉じて頭の天辺にキスを落とす。牧の匂いがした。
「決勝で負ける気分てどんなもんなんだって、藤真に聞かれたことがある」
「うん」
「勝てば勝つほど腹が減るみたいな感じで、あと少しで優勝っていう飯にありつけるのに、それを横取りされて、目の前でがつがつ美味そうに食ってるやつを眺めてるだけで、極限まで減った腹だけが残る」
「今一番、お腹減ってるんだね」
「夏も、国体も、今日も結局飯にはありつけなかった。腹ン中空っぽになってる」
は手を伸ばすと、今度は牧の背中の真ん中あたりを撫でる。推定胃の裏側。
「私は……ご飯がどういうものか知らなくて、お腹が減ってるってことも知らなくて、それを知りたかった感じだと思う。だけど、紳一も、例えば藤真くんとかも、ご飯の美味しさを知ってるから余計につらいんだね。食べたことがあるから、空腹も感じるし、ご飯が食べたいって思う」
食って満たされる喜びというものがあるらしい、それを知りたいともがいていたのがだ。すでにそれを知っていた牧たちは、以来喜びとともに空腹まで覚えてしまい、歓喜と苦痛の両方を抱えることになった。
「……だけど、もうお腹減らないなって思うまで、やめられないんだよね」
道は続いていく。空きっ腹を抱えたまま、いつか満たされることを信じてまた走って行く。
「もしまた負けちゃってもさ、私でいいならずっとそばにいるからさ」
「……学校に戻ったら、急につらくなったんだ」
の胸元でぼそぼそと牧が話し出す。はまた頭を撫でる。
「夏と同じ結果に終わって、それはそれで自分の中で納得できてたつもりだった。自分のバスケとしては、こういう結果に終わったこともステップだと思ってる。だけど、体育館見てたら、お前たち追い出してまで練習してたのにこれかよって思って、気持ちの置き場所がなくなって……」
憤りとも違う、後悔とも違う、ただあの日、練習終わりで職員室の体育館使用予定表を見た時に、ダンス部がちゃんと確保していたことを確かめた時から、牧の中に燻る気持ちが消えなかった。たちがちゃんと許可を得ていたのに、オレたちは何の疑問も持たずに体育館にいたのか――
誰もが牧を賞賛した。バスケット選手としてだけではなくて、特に主将になってからは部活と関係ないところでもなぜかよく褒められた。自分ではそれが少しむず痒かったけれど、何か困ることがあるわけでなし、あまり気にしていなかった。そこにの言葉が突き刺さった。
IHだか何だか知らないけど、偉そうに。何様のつもりよ。
バスケット部と落ちこぼれ部、つまり頂点と底辺だ。これまでの海南の両者の関係であれば、落ちこぼれ部がバスケット部に向かってそんなことを言えるわけもなかった。全国区で活躍する部に向かってそんなことを言おうと思う脱落者はいなかった。けれどは厳密に言えば脱落者ではなかった。
だから文化祭どうにかならないだろうか、と考えた。その流れの中で、を大切に思うようになった。活き活きと踊っているを見ていると、元気が出てきた。勝負の場を奪われたと泣いていたが笑っているのを見るだけで、気持ちが満たされた。
こっそり支えているだけで、自分たちのバスケットは彼女たちの犠牲の上に成り立っているのでは、という疑念から解放された。自分たちはお互い支えあって助けあって、同じ高校生同士、対等な関係を築けている。牧がダンス部の文化祭計画で得たものは、そういう安心感でもあった。
これで心置きなく戦ってこられる。全てがベストの状態だった。自分も、も、海南の中での関係も。
なのに、負けた。優勝は手に入らなかった。腹は極限まで減っている。
「それで少しひとりになりたかったんだ。心配かけてすまん」
「それじゃ私先に帰ろうか? 神くんには連絡しておくし」
「何でだよ。そばにいてくれるんじゃないのか」
顔を上げた牧は、やっといつもの顔に戻っていて、いたずらっぽい目で笑った。
「それはそうだけど、ひとりになりたいならって思って」
「だいぶひとりでいたからもういいよ」
「じゃあ帰ろうか? 寒いし、疲れてるでしょ」
「だから何でそうなる」
「はあ?」
神や寮生たちも心配しているだろうし、ただでさえ疲れているのだから早く寮に戻さないと、と考えただったが、牧は俯いて肩を震わせつつ笑っている。やがて顔を上げるとの体を引き倒し、膝の上に乗せてしまった。いきなりひっくり返されたのでは目を白黒させている。
「来てくれて嬉しかった」
「え、いやその私は早く探して帰さなきゃと」
「……そうか、会いに来てくれたんじゃないのか」
「そういうわけでは……!」
「思い出すな、お前がゲロった時。あの時もこうやって抱っこしてたんだよな」
「もうその話ほじくり返すのやめてよ!」
は何とか体を起こして牧の頬を引っ張った。あまり伸びない。
「何よ、紳一だってウチの子たちに止められるまでシャワー介助までしようとしたくせに」
「あ、あれはそういうつもりじゃなくて、早く洗い流してやろうと」
「私は覚えてる……Tシャツに手をかけていた……」
「そんなことしたか!?」
まあそれも未遂に終わっているからこうして笑い話にできている。
「……そっかあ、そういえばこうやって抱っこしてもらったね」
「女の子抱きかかえたのなんて初めてだよ」
「私だってお姫様抱っこされたのなんて初めてだったって」
が、あれをお姫様抱っこというには状況が悲惨だ。は牧の首に両腕を絡ませてぺたりとくっつく。
「後で思い出して、ちょっとドキドキした」
「またしてやろうか」
「……うん、して」
お姫様抱っこのことを言ったのであるが、直後にキスが降りてきて、は身を捩る。12月の夜が寒いのと、牧と触れ合っている場所が熱いのと、心が疼くのと、全てが一緒になってを震わせた。
「自由登校になったら、実家に帰っちゃうの……?」
「まあそれは、そうだな。そんなに遠くないから、こっちまで来るよ」
「ほんとに?」
「ほんとに。だけどそれまでは時間、あるから……」
それから2時間ほどして、寒いけれど存分にを堪能した牧は寮に戻った。事前に連絡を入れておいたので、寮の中から引き入れてもらい、無事に帰還した。ひとりで行方不明になっていたことは誰も突っついたりしなかったけれど、ご丁寧に神からと一緒だと連絡が行っていたので、そっちは突付かれた。
というかの脳震盪からこっち、牧は突然やダンス部に執心するようになり、あれよあれよという間に文化祭を手伝い、その中でバスケット部とダンス部のカップルが牧とも含め計3組も誕生することになった。冬の選抜が終わって落ち着いてみると、2学期は何だか熱狂の渦の中にあった。
それって部長がきっかけだったような気がするんですけど?
柄にもなく気持ちが落ちて行方不明になり、伝統の抜け道から引き入れてもらった手前、後輩を中心とした寮生に取り囲まれた牧は暴露話をしないわけにはいかなかった。
まあそれも、もうすぐ退寮だと思えば、恥ずかしいけれど嫌ではない。そんな風にやダンス部への思いを牧が正直に伝えておくことも、この先の落ちこぼれ部を守ることになるかもしれない。牧は後輩に色々話してやりながら、米松先生の言葉を思い出していた。
牧、この景色をよく見ておきなさい。君が、君の気持ちが作り上げたものだよ。
優勝は残せなかったけれど、自分の気持ちがこの先何年ものような、ダンス部のような後輩たちを守っていけるかもしれない。それが続いていけば、ダンス部たちが落ちこぼれ部なんて呼ばれることもなくなるかもしれない。そう思うと、への気持ちはどんどん膨れ上がる。
オレが君を思うことは、いつかまた誰かを支え助けるかもしれない。米松先生のように、瀬田さんのように。
こうして海南大附属在学中に最も好成績を残した主将は、静かにその役目を終えた。