文化祭前一週間は午後の授業が作業時間に充てられることになっているのだが、その準備のおかげでダンス部は余計に練習場所がなくなってきた。それを聞いた清田父、通称親方がステージの床部分だけ先に仕上げてやろうと言い出して、とうとうバスケット部の男子たちの出番がやってきた。
クラス展示の方で抜けられないのもいたけれど、力仕事には充分な人数が集まったし、この計画が動き出して以来初めてのダンス部との共同作業だった。の脳震盪の件があったので最初はドギマギしていたけれど、何しろ親方がそんな暇も与えないので、いつしか全員わいわいと楽しそうに作業をするようになった。
役に立たないナナコとナギも一応やってきて、ステージが出来ていくさまを眺めていた。このふたりはどちらも長い髪で姿勢が悪く、しかも片や幽霊片や巨神兵、並んでじっと見つめられていると非常に怖い。ライトで明るくうるさい清田が怖いとに泣きついてきた。
「えっ、お姉さんなんすか!?」
「気を遣わせてごめんね」
「いえ、気を遣うとかはありませんけど、そしたらお名前が同じなんですよね?」
神にそう言われては初めてそのことに気づいた。牧や3年生はいい。を呼び捨ててナナコは「先輩」と言えばいいだけだ。だが、後輩たちにとってはどちらも「先輩」である。さて困った。だが、清田が不思議そうな顔で口を出した。何言ってんのあんたら、という顔だ。
「ナナコ先輩と先輩じゃダメっすか?」
それしかあるまい。3人が真顔になっていると、牧が入ってきた。
「、マックスが呼んで――」
「牧さん牧さん、さんがふたりいるので、名前呼びしようかって話になりました」
「おう? ああ、そうか、そうだったなそういえば」
「だけど牧さんは先輩に先輩つける必要ないすよね」
神は苦笑い、清田は無自覚なのかわざとなのか真顔、と牧はウッと言葉に詰まる。それを見た気の利く後輩ふたりはさっさとその場を後にする。何だか面白いことになってきたという顔は死んでも出さない。顔には出さないが口から出さないとは一言も言っていない。
「あんまり気にしないでいいよ、そんなの」
「いや気にしてるわけじゃないけど、じゃあ呼び捨てでもいいのか」
「うん、部内ではそう呼ばれてるんだし……」
米松先生がいたら憤死しそうなもじもじ具合である。
「じゃあ、、先生、呼んでるから」
「わか、わかった、ありがと」
以来バスケット部でも「」「先輩」となったわけだが、それはそれとして、と牧のハイパーもじもじは気の利く後輩ふたりにしっかり目撃され、それは文化祭準備期間の間に音もなく双方の部に知れ渡っていった。何しろバスケット部と落ちこぼれ部、海南始まって以来の珍事かもしれないのだ。
また、そんな噂があるんだよ知ってる〜? と耳打ちされた米松先生は知ってるに決まってんだろそんなのずっと前からじゃん、と自信満々で口を滑らせ、本人たちの与り知らぬところで噂だけがひとり歩きし始めた。が、外野はそれが楽しいし、からかう楽しみもあるし、ふたりの部長のもじもじは広く歓迎された。
なので、米松先生の余計なお世話も加速する。
「部長なんだから打ち合せくらい文句言わないの」
「そういう問題? ナギは来ないじゃん」
「あの子たちは大目に見てやんなよ」
何か計画全体に関わるような雑務が発生すると、米松先生はと牧のふたりを呼び出すようになった。しかも毎回作業や練習が終わった後だ。で、今日も遅くなったね、気をつけて帰りなさいよ、まあふたりは近いからいいけど。などと白々しいことを言って帰す。
ふたりはまたラッシュの一駅を降りて、駅から家への道を歩いている。
「てか普通に練習あるんでしょ、大丈夫なのこんな毎日毎日」
実を言えば、毎日必ずダンス部の手伝いに来ているのは牧だけだ。他の部員は無理のないように出られる者だけが手伝って帰るようにしている。牧も疲れないわけではないが、気力の方が勝っている状態なのであまり感じていないようだ。
「まあ、中間も終わったし、練習以外では割と暇な時期だからな」
「……予選、ていつなの」
「うちの試合はまだ先だけど、県予選自体は文化祭の翌週から。それを抜けたら本戦」
「だけど今度は1校しか行かれないんじゃなかった?」
「そう。でも大丈夫、負けないから」
牧がにっこりと微笑みながらそんなことを言うので、は別にそれは心配してないけど……と口ごもった。
「予選とか本戦てどこでやるの」
「予選は地区が終わればほら、何年か前に出来たアリーナがあるだろ、あれ。本戦は渋谷」
「それって、誰でも見に行かれるの」
「そりゃ高校生の大会だからな。誰でも無料で見られ……」
大会の説明をしている気で喋っていた牧だが、やっとの言わんとしていることに気付いて黙ってしまった。は何だか俯いているし、また米松先生がいたら弾け飛びそうなもじもじ具合である。
「見に、来てくれるのか」
「その、お礼ってのもおかしいけど、みんなで見に行こうかって話を、さっき、してて」
「気を遣わなくてもいいんだぞ」
「そういうんじゃ、ないんだけど」
気まずい沈黙。
実のところ、にしても牧にしても、明確な恋心を自覚するまでには至っていないのが現状だ。何しろ忙しいし、こうして帰り道にふたりきりになると思い出してはドギマギしてしまうけれど、普段はそれぞれの部活のことで頭がいっぱいになっている。
帰宅して眠りにつくまで相手のことが頭を離れないこともある。けれど、ひとたび目覚めれば朝練が待っているし、授業もあるし、そうしているうちに生まれたばかりのささやかな「想い」はどこかに隠れてしまう。その繰り返しだ。だから思い切りも悪いし、状況を打破しなければならないという意欲もない。
「ただ……私たちも文句言ってた割には、一度も見たことなかったよねって話してて」
「まあ、見たことあるのはチア部くらいだよな。最近は来てくれないけど」
「えっ、チア部っていつも来てくれるの?」
「オレが1年の頃はたまに来てたけど、今は全然」
「そ、そっか……」
試合を見てみたいという気持ちになってきたところだったが、チア部を引っぱり出されると弱い。男子運動部の代表的存在がバスケット部なら、女子はチア部だ。最近は女子サッカー部も強いが、成績のみならず練習の厳しさなどでもチア部には敵わない。
「……どうした?」
「あ、いやごめん、チア部が来るならやめようかなと思って」
「えっ、だから今は来ないって」
「ファッ、そうだったっけ」
どうにもが狼狽えるので、牧は少し屈んで声を潜めた。
「すまん、もしかして元チア部だったか……?」
「ううん、そういうんじゃないんだけど……」
「ナナコ先輩は合唱だったよな」
牧は今更ながらが「元」何部なのかを知らなかったことに気付いた。落ちこぼれダンス部で威勢よく部長をやっているくらいだから、どこかの運動部出身だとばかり思っていたけれど――
「それがその……私、帰宅部だったんだよね」
「……は?」
落ちこぼれ部と言われているけれど、一応ダンス部は正式に認可されているクラブで、どこかの部を脱落した生徒じゃないと入れないというわけではなない。しかし、部活動が盛んな海南のこと、ダンス部軽音楽部アウトドア部が「落ちこぼれ部」であることは入学してすぐに知れ渡る。そこに入りたいと言い出す生徒はまずいない。
「ナナコみたいに得意なことがあるわけじゃなかったから、部活はやるつもりなかったんだけど、1年の……6月頃かな、同じクラスの子がチア部に入って、見においでよって誘ってくれて。別に入部する気はなくて、本当に見るだけのつもりで行ったら、こんな時期に入部希望で初心者なんて、何考えてるのって説教されてね」
チア部がこんな風になってしまったのは、今の指導者になってからだ。それ以前は運動部の試合にも積極的に応援に行く明るく元気なクラブだった。見学に来たを説教したのも、十中八九その指導者だと思われる。
「入部するつもりはないです、友達を見に来ただけですって言ったら、邪魔だから出て行って、だもん。怖いとか悲しいとかよりも、なんか無性に腹が立ってさ。なんなのこの人偉そうに、って。それで結局友達が脱落しちゃって、1年の夏休み前かな、一緒にダンス部入ったんだよね」
ただし、脱落者ではないがダンス部の部長にまでなったのには、もうひとつ理由がある。
「その頃かな、ナナコがちょっとやらかしちゃって」
「その頃っていうとナナコ先輩は2年の夏か」
「姫まっしぐらだったんだけど、たまたま友達とカラオケに行ったらその場で応募できるオーディションをやってて」
もちろんナナコも冷やかしのつもりで参加した。けれど、ナナコはその頃実力でも合唱部ナンバーワン状態で、顔も可愛い彼女は一次審査二次審査を軽々突破、最終オーディションのエントリー通知が来てしまった。数百人の参加者の中から12人まで絞りこまれました、優勝したらデビューです!
「それが部にバレた」
「それってマズいことか? 歌が上手いんだから当然の結果なんじゃないのか」
「だけど、チャラチャラしてると思われたのか、そこからナナコは仲間外れにされだして」
ナナコも本気でオーディションを受けたわけではなかったから、学業優先なのでと押し通して辞退した。だが、オーディションを受けなくてもナナコへの冷遇は変わらなかった。やがてナナコは部に行かなくなり始めた。退部はしていなかったし学校も通っていたけれど、部活をサボるようになった。
「その頃のナナコっていうのは姫ポジが長かったせいもあって、すごくプライド高かったし、そうしてるうちに部員が謝りに来ると思ってたんだよね。大会でも自分がいなかったら絶対勝てない、だから戻ってきてくれって謝りに来るって。だけど、来なかったし、その前の年より順位が上がっちゃった」
牧は返事の代わりに呻いた。悪循環そのものだ。
「まあそれはナナコも悪いし、合唱部やめたっていいじゃんて私は思ってた。そしたらさ、当時のナナコのタメの部員が『は自分が可愛いと思ってアイドルのオーディション受けて落ちた、合唱部はあんなのいらない』って噂を流し始めて。おかげさまでナナコは登校拒否、それに父親が激怒してうちの家族は真っ二つ」
は淡々と話しているが、牧は血の気が引いてきた。海南の妙な「部活至上主義」の歪みがひとつの家庭を壊すまでに至ったということじゃないのか、それ。
「なんか自分のことと混ざっちゃって、ものすごい頭来て、ナナコにも仇取るからって約束して」
「……だからあんなに殺気立ってたんだな」
「ナナコはロックしか聞かないようになって部屋で絶叫、それであんなガラガラ声の貞子みたいに」
が真面目くさった顔でそんなことを言い出したので、牧はつい吹き出し、そのせいで何も考えておらず、普段後輩たちにするようにの頭をわしゃわしゃと撫でた。は驚いて飛び上がり、それと同時に牧も我に返った。しまった、こいつ清田じゃなかった!
「あーと、その、大変だったよな。落ちこぼれとか簡単に言うけど、頑張ってるのにな」
「そんなこと、いや、うん、ありがとう……」
せっかく過去話でドギマギが取れたというのにぶり返した。牧はの頭を撫でた手を見下ろし、そしてあの日ボールとともにひっくり返っていった彼女の姿を思い出すと、心を決めてギュッと手を握り締める。文化祭でダンス部にステージを、それはひとりのためだけにした覚悟だったはずだ。
「」
「なっ、何?」
「予選でもいいから、試合、見に来て欲しい」
もうほんの数分も行けばが現在住んでいるマンションにたどり着くという路上、牧は足を止めて、の手を取った。そっと下からすくい上げただけだが、の強張った手が牧の手のひらに静かに乗っている。
「応援とか、そういうのはいらない。ただ、オレも予選と本戦が高校最後のトーナメントになるから、もしよかったら、オレたちがどんな風に戦ってたのか、そういうの、見てもらえたら」
誰が言ったか強豪校海南の象徴バスケット部と、部活についていけなくなった脱落者の吹き溜まり落ちこぼれ部、それは天と地ほどの距離にあって、その存在は知っていても、姿を見たことがないにも等しく、すぐ隣にあっても背中合わせのように未知の存在だった。
けれどそれはもう、過去の話だから。こうして手を取り合える距離にいるから。
「絶対に勝つから、誰にも負けないから、が負けてきた分も、勝ってくるから」
だからそれを見届けて欲しい――
言ってしまってから照れが出た牧は、じゃあなと言って踵を返し、走り去った。すっかり冷たくなってきた11月の風が吹き付ける路上、はひとり、真っ赤な顔で取り残された。
迫る当日を前にメインステージの床部分が完成し、ダンス部は場所を気にせず練習できるようになった。屋外なので少し寒いが、寒かったら踊って温めろ! と言いながら練習していた。
あとは前日の組み上げ、当日の仕上げが残るのみとなったので、この頃になると練習終わりのバスケット部がちらほらと見学に来るようになった。出来れば完成形を当日に見て欲しいダンス部だったが、その中に1年生の清田が混ざっているのを見つけると、彼をステージに引っ張りあげた。牧が不在なのでとりあえず無許可。
「ちょっ、あの、なんなんすか、オレ何されるんですか」
「清田くんバク転出来るって言ってたよね」
「ええまあ……」
「やろうか」
「はあ!?」
女子に囲まれて頭ひとつ出ている清田だが、囲んでいるのが全員3年生なので口答えできない。しかも、成り行きを見守っていたバスケット部員たちから歓声が上がる。先輩たちがいいから言うこと聞けと言うのでこれにも反論できない。清田は泣きそうな顔で肩を落とした。
「途中から入ってきてバク転したら帰っていいから」
「…………本番でやるんすか!?」
いくら普段から自分のことをスーパールーキーだの何だのと自称していても、彼もバスケット一筋のスポーツ少年である。いきなりダンス部と舞台に立てと言われて大いに狼狽えている。それを見ていたは、いつぞやの剣幕が嘘のように優しい声と笑顔で笑いかける。
「うちのアクロバットチームと一緒にちょっと出てみない?」
「アクロバットチーム、て、あーゆうの全員出来るんじゃないんすか」
「私みたいな例外もいるけど、アクロバットするのは基本的に元体操部と元チア部だから」
そこで狼狽える清田を見て楽しんでいたバスケット部員たちもピタリと固まった。そうだ、ここにいる女子たちは「脱落者」で「落ちこぼれ部」なのだ。元ナントカ部、そこから弾き出されてしまった人たちの集まりなのだ。
「てかなんでいきなりそんなこと……」
「いやほら、何かバスケ部には色々助けてもらっちゃってるじゃん。だけど頭下げてお礼言うだけっていうのもおかしい気がしてさ。だったら当日も一緒に何かできないかなって思ったんだよね。楽しいことで」
ノートとストップウォッチ片手にステージに腰掛けていたの横に、神も腰掛ける。
「先輩、オレたちは裏方でいいんですよ」
「気持ちは嬉しいんだけど、裏とか表とか、上とか下とか、そういうの、なくしたくて」
の言葉に全員静かに頷く。そんなもの、邪魔なだけだから。それで気持ちが楽になったのか、一緒に練習してみないかと言われた清田は靴を履き替えると言ってステージを降りた。またノートに目を落としたの隣で、神が声を潜める。
「先輩」
「んー? どした」
「先輩のための、ステージなんですよ」
「え?」
神は可愛らしい顔でにっこりと微笑み、ポカンとしているを置いて彼もステージを降りる。
「それだけは、覚えておいてあげてくださいね」
スタスタと去っていく神の後ろ姿をぼんやり眺めていたは、やがてのろのろと首を傾げた。彼の言わんとしていることがあまりよくわからない。なぜ今そんなことを言うのかもわからない。
覚えておいて「あげて」ください?
それ、誰のこと言ってるの?