ルーザーズ&ラバーズ

Side-M 05

「そうか、さすがに全国区のクラブにもなると、そういうのやるんだねえ」
……それでもまだ5年くらいだって聞いてます」
「救急隊員の方も感心してたし、僕も驚いたよ。それに、ゲロった女の子抱き締められるなんて、すごいことだ」

が救急搬送されてから2時間、牧と藤真は米松先生の車で病院に向かっていた。ふたりはの吐瀉物を被ってしまったので、クラブ棟で体を洗い、制服とジャージに着替えて海南を出てきた。

本来ならこの国体神奈川代表を監督する立場の高頭田岡両名が病院まで行かなければならないところだが、これは米松先生に止められた。ちょっと事情があるので私だけでいいです。さんのご家族もわかっていますから。だが、それでも両監督が食い下がるので、代わりに牧と藤真が名乗りを上げた。

体育館の掃除もしなければならないし、国体代表は練習どころではなくなってしまった。しかし幸い午前中はしっかりと練習できたのだし、明日から新学期である。ショックが強いだろうから、と両監督が残る全員を帰宅させ、体育館の後始末は健気にもダンス部が請け負った。

というところで、牧と藤真だけが離れ、米松先生と病院に向かっている。その道中、米松先生が、てきぱきと脳震盪の対処をした牧と藤真に感心していると、ふたりとも講習を受けているのだと言い出した。その上藤真は自身が頭部の怪我の経験者である。

一応他校の生徒である藤真は牧と米松先生が話すのを黙って聞いている。

「一般的にはあまりそういう認識がないのですが、バスケットは怪我の多い競技なので……
「まあ素人はラグビーとか格闘技なんかを想像するよね」
「起こりやすい怪我と、熱中症の対処は毎年必ず講習を受けてます」

米松先生の車はこれがまた真っ赤なので、彼のベイマックス度は本当に高い。そして軽音楽部のためなのか、助手席にはCDが山と積まれている。

「だからって普通あんなに冷静に対処できないと僕は思うなあ。ほんとにバスケ部の主将くんは」

へらへらと笑っている米松先生の言葉に、牧はかくりと俯く。

どうも毎年海南の主将に就く選手は老成したような生徒が多く、そういう意味で賞賛を浴びがちである。だが、自身ではそんなつもりがないのも毎年恒例で、牧はバスケットと関係ないところで褒められるたびになんとなく疑問を感じるし、隣に藤真がいるのでそういう話は余計にむず痒い。

「どうもその、アウトドア部のこともあるし、今回の体育館の件もそうですし、可哀想になってきて」
「だからってゲロまみれの女の子躊躇なく触れる? 藤真くんもすごいね、そんなイケメンなのに」
「いえあの、練習中のゲロは珍しくないもんで……

そんなに楽しそうにゲロゲロ言われると気が滅入る。緊急時だったのだし、ゲロ歓迎というわけじゃない。

「それに、僕も去年同じような目にあってるので」
「えっ、頭打ったの? 大丈夫だった?」
「IHの試合中に接触事故で。傷は残りましたが、中身の方はおかげさまで無事でした」
「その後ってどうした?」

米松先生の声が少し低くなる。藤真は牧の方をちらりと見てから顔を上げた。

「僕は出血がひどかったので、会場からそのまま病院に。傷の処置をしてからこっちに戻って、それから検査入院しました。検査の結果脳に異常がなかったのと、事故後数日間の間に何も症状が出なかったので、1ヶ月単身の練習のみという条件付きで復帰出来ました。戻ったのは10日後です」

同じ頭を強打したのでも、藤真は少し事情が異なる。彼は対戦相手の肘がこめかみに直撃して転倒したけれど、その時には頭を打たなかった。それでも直後に異常がないことに安心してセカンドインパクトを起こせば、どんな症状が出るかわからない。彼は約1ヶ月、ひとりで黙々と練習していた。

「後遺症とかあった?」
「いえ、何も。ただやっぱり、怪我した時のことは覚えてません。記憶があるのは救急車の中からです」
「練習に戻ってからは?」
「それも特には。ひとりでも練習してたので、傷の治りが遅いと家族に怒られましたが」

藤真は音もなく微笑み、今も残る傷跡に指を伸ばすと、ほりほりと掻いた。

「もし何も異常がなくても、やっぱりその、無理、だよね? バク転とかヘッドスピンとか」
……恐らく」
「どう言ったらいいのかな、その、今回の場合は特にさ」

ダンス部には唯一の大会で、にはもう来年もなくて、文化祭すらなくて。牧と藤真は静かにため息をつく。

「僕は一応、冬もありましたし、来年もあると思えば何とか耐えられましたけど」
「去年の3年の方が凹んでたんじゃなかったか」
「ひどかった」

何しろ大量出血だった。冷静にプレイなど出来る精神状態ではなくなってしまって、翔陽はそこで沈んだ。

「今年も……IHが消えた時は絶望しました」

静かな車内に藤真の低い声が吸い込まれていく。

「だけどオレたちには冬があると思えばそれも何とかなりました。しかも、オレと花形と一志はこうして国体にも出られることになりました。夏が消えたことは今でも悔しいけど、もう飲み込めてるんじゃないかと……

けれど、には何もない。何一つ、残されていない。

病室で寝かされていたは、米松先生の顔を見るとまた泣き出した。無理をするなと止める先生の手にすがって起き上がり、お腹に顔を押し付けて泣き出した。先生のお腹がまたぼよんと波打つ。

「先生、私もうやだ」
「もう痛いところとかないか? 気分はどうだ」
「最悪、全部最悪、死にたい」

先生はの頭と背中をワサワサと撫でる。

「バカなこと言うなよ、が死んじゃったら先生もショックで死んじゃうよ」
「だって、だってあんなにいっぱい人がいたのに、私すごい吐いて」

米松先生はの肩を擦りながら険しい顔になる。今はまだたくさんの男の子の前で嘔吐してしまったことの方がショックだろう。このまま練習には戻れないかもしれないということには、気付いていない。恥ずかしさが先立っているだけで、自分にもっと深刻な事態が迫っていることを彼女はまだ知らない。

「大丈夫、みんなそんなこと気にしてないよ。練習中にはよくあるんだって言ってたよ」
「だけど、だけど」
「まあでもあのふたりはかっこいいよなあ。そんなのものともせずに助けてくれたもんな?」

そう言われてしまうと返しようがない。は黙ってしまった。クラブ棟の女子のシャワールームまでを運んでくれたのも牧と藤真だ。さすがにシャワーの介助はダンス部の子がやってくれたが、それでも運んでもらう間に何度も気遣う言葉をかけてもらったことを覚えている。

「先生、どうしよう、どうしたらいいの」
……今、牧と藤真くん来てるんだ。お母さんとお話してる。会うか?」

体を離して米松先生を見上げたは、青い顔をしてふるふると首を振った。

「監督が来るって言ったんだけど、ナナコのこともあるから断ったんだ。そしたら自分たちが行く、って」
「お母さんと話してるって、なんのこと?」
……謝ってた。ボールをぶつけたのは自分たちだからって」

またの目が涙に滲む。牧は勝ち組なのに、藤真は大嫌いな翔陽なのに。

「先生、私も謝らないとダメ? ふたりに会って、お礼とか言わなきゃダメ?」
「ダメってことは……ないよ。が心からそう言いたいって思わないのに、言ってもしょうがない」
「私もわかんないよ、私悪くないのにこんな目にあって、だけどそれはあのふたりのせいじゃないじゃん」
「そうだね。だからふたりも困ってた。が可哀想だって、言ってたよ」

はまたさめざめと泣き出した。何しろ責任の持って行きどころのない不幸な事故だ。誰も悪くない。強いて言えばダンス部にちゃんとした活動をさせてやらなかった学校が悪いというくらいだが、それも言ったところでの不運は覆しようがない。

「先生、こんなの卑怯だけど、だけど私今――
「大丈夫、牧も藤真くんもわかってるよ。何て言っておこうか?」
「吐いたこと、謝って、あと、ありが、とうって――

言いながらは喉を詰まらせた。例年通り海南だけで国体に行くなら、こんな事故も起きなかったかもしれない。自分たちは限られた練習場所で一生懸命練習してただけなのに、勝ち組になんか、翔陽になんか、お礼なんて言いたくないのに。

ここに至り、はようやく自分の状態と迫る大会のことを結びつけた。

「先生、私、大会、出られるよね……!?」

米松先生が何も言わないので、は声を上げて泣き出した。どうして大丈夫だって言ってくれないの、大した怪我じゃないから明日にでも練習再開していいよって言ってよ、大会に出て今年は審査員をぎゃふんと言わせてやろうぜって、どうして言ってくれないの先生――

泣き声は病室の外にまで響き、の母親に頭を下げていた牧と藤真の耳にも届いた。

「ごめんなさい、そろそろ戻りますね」
「あの、お大事にと、お伝え下さい」
「本当に申し訳ありませんでした」
……国体、頑張ってね。誠実な態度を示してくださって、ありがとう」

またペコペコと頭を下げる牧と藤真にの母親は力なく微笑んだ。ふたりは病院の外で待つと米松先生に伝えて下さいと言い残し、静かに去って行った。の母親はそれを見送ると、病室に戻る。

、そんな大きな声で泣いたら全部聞こえちゃうわよ」
「だって、大会、出られないかもしれな」
「先生、牧くんと藤真くん、外で待ってますって」
「わあ、そうですか、すみません。、今は余計なこと考えないで安静にしてなよ」
「そんなの無理だよ!」
「死ぬよりはいいでしょ」
「そんなの大袈裟だよ!!」

そう言っただったが、母親と米松先生の顔色が変わらないのを見てまたぐずぐずと泣き出す。

、1度目を軽視して、2度目をやった時の致死率は、50%と言われてるんだ」
「ち、致死率……!? 先生何言って……
「普通に生活している分には問題ないと思う。だけど、たちのダンスは2度目の危険が高過ぎる」

ベッドに腰掛けているの向かいにしゃがみこんだ米松先生は、の両手を取って優しく包み込む。もっちりふんわり柔らかい米松先生の手はヒーリング効果があると評判だ。

が思いっきり活躍するのも大事だと思う。そのために先生はずっとダンス部を守ってきた。だけど、の命には替えられない。生きてればいいことあるさなんて無責任なこと言いたくないけど、先生はを失いたくない。もしに何かあったら、先生耐えられないよ」

米松先生がマックスと呼ばれて慕われるのには、こういう、ともすればテンプレ的な言葉も彼にとっては100パーセント本気で、心からそう思っているというのがわかるからだ。

が頑張ってきたことはよくわかってる。ナナコの分まで頑張りたいって思ってるのも知ってる。だけどそれも生きてるから出来ることだ。、これからもずっと生きていかなきゃいけないんだよ。ここで何かあったら、お母さんもナナコも、牧も藤真くんも、この先何十年もお前のことでつらい思いをしていかなきゃいけない」

絶望した人間に他人の事情が抑止力にならないことくらいは米松先生もわかっているが、もうこれしか言い様がない。の母親はあまりきつく言い聞かせるタイプではないし、父親は特にには関心がないので、体を大事にしなさいとしっかり言ってくれる大人がにはいなかった。

……また来るよ。の大事な体、大切にしてくれ」

は不満気な顔を隠そうともしなかったが、米松先生の言葉にはしっかりと頷いた。明日から新学期なので早めに藤真を帰さなくてはならない米松先生は、またお腹をぼよんぼよん言わせながら病室を出て行った。

、少しゆっくりしようよ」
「そんなの、無理だよ」
「ナナコのことはお祖母ちゃんもいるし、お兄ちゃんも来てくれるし」

は母親の言葉にまた不貞腐れ、ベッドにぺたりと横たわる。

「ていうか会わなくてよかったの? 牧くんと藤真くん、心配してたよ」
「会えるわけないでしょ、私あのふたりにゲロ引っ掛けてんだよ」
「それなのに超心配してくれてたよ。どっちもかっこいいじゃん。あんた男運いいね」
……お母さんふざけてんの」

今晩だけ病室に泊まる予定の母親をは睨む。だが、彼女はにこにこと楽しそうな笑顔を崩さない。

「ふざけてないって〜。どっちかって言ったらどっちがいいの?」
「下らない。……牧はバスケ部キャプテン、藤真は翔陽なんだよ」
「そんなの関係ないって。そんなことに囚われてたら、ずっと負け犬のままになっちゃうよ」

ごろりと寝返りをうち、は腕で目元を覆った。そして、細く静かに息を吐く。

「囚われてるんじゃなくて、それを選んだの。ナナコにも、約束したんだから」

母親はもう何も言わなかった。の入院の支度を整えながら、様子を見にやってきた看護師と話をし、携帯での祖母に連絡を取る。ナナコをお願いねお母さん、もしお金が必要だったらお仏壇の引き出しに少し入ってるからね。は大丈夫、元気よ。

ナナコはの1つ年上の姉、現在もっとも重症な、米松先生の「患者」である。

帰り道、牧と藤真は米松先生に食事をおごってもらった。と言っても米松先生のお小遣いには限りがあるので、3人は牛丼チェーン店でもそもそと食べ、そしてまた車で駅に向かった。まずは藤真を帰さなければ。

食事中は3人ともの話はしなかった。明るい場所では全く関係ないことで喋っていられたけれど、既に暗くなった空の下、静かな車内ではそんな風に取り繕うのも疲れてくる。牧も藤真も、どちらも後部座席で窓の外をじっと眺めている。

……は大丈夫だよ」
「体の方はそうかもしれないですけど」
「心の方もきっと大丈夫。心配ならまた見舞いに行ったらどう?」
「翔陽になんか会いたくないんじゃないですか」

ふたりにしても、心配だから顔が見たいとか、そういうことではなかった。ただ、心に引っかかる。

「それに、直接顔を見ても、何を話せばいいか……。なあ牧」
「オレたちが謝ったところで、どうにもならないわけだしな」
「だけど気になるんでしょ、ふたりとも」

からかうような声ではなかった。10年以上海南の生徒を癒してきた米松先生の声に、牧と藤真も緩む。

「気になるというか、体育館の件からなんとなく引っかかるようになって」
「だけどうちのバスケ部は20年近くそういうものだからね」
「そうなんですが、ダンス部に断りもなく第1を使っていい理由にはならないと思うんです」
「僕たちはならないけど、なる人がいるんだよね、困ったことに」
「もう少し上手く回せないだろうかと思うんですが……

今年も海南だけで国体に出場ということになり、バスケット部がいつものように練習をしているだけなら、何も使用予定が入っている体育館を強奪するようなことにはならなかったはずだ。いかなバスケット部でも、ダンス部以外の部の使用や学校行事で体育館が使えないことだってあるのだから。

「いい人で終わりたいとかそういうことじゃないんですけど、でも……
「彼らと同じ目線になりたい?」
「そう、ですね……なんで、先生、そんなこと」
「何年も前に、君と同じようなことを言った人がいたんだ。バスケ部のキャプテンだった人だよ」

牧はまた俯いた。バスケット部のキャプテンだからたちと同じ目線になりたいわけじゃない。だけど、そういう立場じゃなかったら、こんなことを思わなかったかもしれない。自分の気持ちがどこにあるのかよくわからなくなってきた。米松先生は頷いて、今度は藤真に声をかけた。

「藤真くんはどうかな。こういう海南の事情は関係ないわけでしょ」

夏の夜を行き過ぎるヘッドライトの明かりが藤真の瞳の中を泳いでいく。それを目で追いながら、藤真はふうとため息を付き、窓にもたれかかった。

「彼女は――オレです」

米松先生も牧も、黙っている。

「去年のIHで、今年の予選で負けた、あの時のオレなんです」