ルーザーズ&ラバーズ

Side-M 06

新学期だが、検査入院のは登校してこない。ダンス部員たちはそれも心配だが、何しろ大会まで残り1ヶ月。彼女たちは米松先生と相談した上でをメンバーから外した。が出られないなら私たち全員出ません! なんていう茶番劇を好むようなら、落ちこぼれ部になど与しないのである。

そして新学期を迎えたことで、国体神奈川代表たちも毎日のように来ることがなくなった。合同練習は引き続き行われるが、週末のみである。の不運な事故は、そんな環境の変化の中にあって、忙しい彼らにとってはすぐに「過去の出来事」になっていった。

更に数日後にはの診断結果が下り、現状では異常はないが、激しい嘔吐と事故後の記憶障害を軽く考えない方がいいという判断から、2週間の安静・運動禁止、以前のようなアクロバティックなダンスは1か月後の再検査の結果を見てから判断それまで禁止、と相成った。

検査のため2日間ほど入院していただが、それと週末を挟んでも登校してこなかった。

「そりゃまあ、ショックだろうからな。とりあえず無事で何よりだけど」
「メンバーも外されたんじゃ、ダンス部と顔を合わせるのもキツいだろうしな」

週末の合同練習、監督と3年生のミーティング中、急に湘北の監督が顔を出したので、高頭と田岡の両監督はすっ飛んでいって頭をペコペコ下げている。そんなわけで待機の3年生は、仕方ないので静かに雑談している。最前列にいた牧と藤真は、ダンス部不在のステージをぼんやり眺めながらそっとため息をつく。

「文化祭、どうにかならないのか」
「どうにかなるならマックスがとっくにやってるだろ」
「そういうもんか? お前の立場ならあるいは、ってことは」
「いくら運動部に力入れてたって、結局はただのクラブの部長だぞ。そんな権限あるかよ」
「権限はなくても、影響力はあるんじゃないのか」

ただ、歴代の海南の主将くんたちは、そういう立場にあっても「部活外ではただの人」だと思っている場合がほとんどで、下級生がビビって話しかけられないことも「自分が何か悪いことをしたんじゃ」などと頓珍漢なことを考えがちである。特に牧のように有名になりすぎると、今度は「オレはものすごくモテない」と思い始める。

「お前の方はどうなんだよ。ずいぶん気になるようだけど」
「だから、言ったろ。あの子はオレなんだよ。他人とは思えない」
「お前より状況が悪い気がするけど」
「だから余計にだよ。来年がある冬があるっていうオレよりひどいって、想像しただけでキツい」

その上の場合、海南に勝てないだけで高い評価を受けてきた藤真とは違い、負け犬扱いである。

「この間、帰りに先生から聞かされたろ。さんがごめんとありがとうって言ってたって」
「ああ、言ってたな」
「あんなの絶対嘘だからな」

藤真のきっぱりした声に、牧は驚いて顔を向けた。藤真は穏やかな顔で正面を見ている。

「何も悪いことしてないのにボールぶつけられて1年間が台無し、おまけに大勢の前で吐いて、その上オレとお前が病院まで追いかけてきてお袋さんと話までしてる。お前はまだいいよ、その前から普通に話してたし。だけどオレは翔陽。そんなのにごめんもありがとうも言いたくないに決まってる」

藤真の表情は変わらない。だが、その声は普段より低く、重苦しかった。

はそんなヤツじゃ……
「お前に見せてたのが本当の彼女とは限らないぞ」

なんとなく庇いたくなった牧の言葉に、藤真はにっこり微笑んで振り返る。

「お前なら……わかるのか、本当のが」
「まあそりゃ、少なくともお前よりはわかるはずだ。何しろ負け犬だからな」
「ずいぶん気弱なんだな、翔陽の監督は」
「気弱? 負けっぱなしなのは事実だ。だからなりふり構わず冬まで残るし、使えるものは何でも使う」

そういえば、と牧は口元に手をやり、首を傾げた。件の紅白試合の際、藤真は陵南の監督の田岡に、一緒のチームになった福田に対するコート上での指示を仰いでいた。練習の間のことだし、打倒海南という感情に流されていた田岡監督は、ペラペラと喋っていた。混成になっていて忘れがちだが、藤真は翔陽の監督なのである。

本人は棚ボタで国体に出場できることになったと言うけれど、それ以上のものを持ち帰る気だな――

「それにしても、おかしな話だ」
「何が」
「お前らはオレたちを勝ち組とか言うけど、IHでは負けてきてるんだぞ」

謙遜ではなく、ここしばらくのダンス部絡みの騒動のせいで、急に牧に襲いかかってきた感情である。勝つために、勝てる自分を作るために日々の努力はある。何よりも欲するのは勝利で間違いはない。けれど、負けを知らない人間のように言われてしまうと、少しばかり反論したくなってくる。

「優勝、できたかもしれなかったんだ。一番欲しかったものが手に入るところだった」
「それってどういう気分なんだ」

嫌味を言っているようには聞こえなかった。牧は少し考えてから言う。

「高い山の上にある食べ物を奪い合ってる感じだな。走って、他を蹴落として勝ち上がって、どんどん腹が減るけど、ずっと上を目指してる。それで、ゴールが見えた、もう少しで掴める、食べられると思ったら、サッと横から取られる。気付いた時には極限まで腹減らしてる状態で、目の前で美味そうに飯食ってるヤツを眺めてるんだ」

その飢餓感たるや、筆舌に尽くしがたい。それは付け加えないでおいた牧だが、藤真には充分伝わったらしい。

「なるほどな、負けの意味がまるで違うのか」
「たぶんな。今年のはともかく、1年なんかだと次は負けるかもっていう恐怖感がずっと続くし」

予選で負けて山に入ることすら出来なかった藤真と、毎年山に入っているのに食べ物にありついたことがない牧、負けの意味も違うが、それ以前に腹の減らし方が違う。

「それで言うと、さんたちはつまり……
「遠くから山を眺めてんだろうな。そこでもがいてるオレたちが見えないくらい、遠くから」
「なるほどな」

小さく頷いた藤真は、やがて牧から離れて翔陽の花形と長谷川のところへ戻って行った。牧もそれを見送ってから高砂のところへ移動した。海南も翔陽も、まるで違う景色を見ている。国体では同じ頂上を見上げているかもしれないけれど、それもあとほんのひと月ほどのことだ。

そしてまた、も違う景色を見ている。

彼女が見ている景色、それはどんなものなんだろう。

牧はその景色を自分で見て確かめて、そして理解できないものかと思っている。
藤真は、違う窓から見ているだけで、同じ景色を見ていると思っている。

ふたりの思いはに寄り添うことがあるのだろうか。落ちこぼれ部での活動すら奪われたと、そうは言っても国体の県代表になるほどの彼らの間の距離は縮まることなどあるのだろうか。近付いていくことは可能なのだろうか。歩み寄ってもいいのだろうか。

光の中のふたりと、影の中の、月に吠える負け犬は何を見るのだろう。

「こんにちは。いつも突然ですみません」
「とんでもありません、こちらこそ申し訳ありません、まで……
「本当に可哀想なことをしました。お加減はいかがですか」

が退院してから1週間、土曜の午後。米松先生は真っ赤な車で海南から30分ほどの場所にある家へやって来た。静かなリビングに通された米松先生は白い顔に浮かぶ汗を拭いつつ、出されたレモン入りの冷水を一気に飲み干した。お茶では水分補給にならないので助かる。

はまったく問題ありません。その点ではナナコの方が夏バテが取れなくて」
「ナナコさんはそうでしょうね……やはり今年も無理そうなんですが、その辺りは」
「お恥ずかしい話なんですが……やっぱり考えは変わらないようです」

の姉、ナナコは不登校を起こして1年以上になる。義務教育ではないので、もちろん彼女は留年をし、1つ年下の妹と同学年である。だが、不登校のままなので今年もほとんど単位を取れておらず、留年をして来年も海南の3年生を繰り返す予定になっている。

そんな風にナナコを海南に縛っているのは、彼女たちの父親である。本人も海南大附属出身。だが、米松先生の「患者」になってしまった娘の退学を認めず、自力で復帰を果たして卒業させろと妻に強要し、そんなわけで現在家は夫婦別居中。長男ひとりが残り、母親と娘ふたりがこのマンションで暮らしている。

「姉妹揃ってなんて、本当にお恥ずかしいことなのですが……
「いえいえ、お母さん、恥じるようなことではありませんよ。ちょっと運が悪かっただけです」

このやり取りも1年近く繰り返されている。一種の挨拶のようなものだ。何しろそんなことを言っているが、とナナコの母親は米松先生同様、自分の娘達に一切の非はないという姿勢を崩したことがない。夫が娘を縛ることに関しても、毅然とした態度で抗戦中の割と強い女性である。は母親似だ。

「それじゃあナナコさんはちょっと顔出すだけにしましょうね」
「すみません、いつもこちらの都合で。その代わりは元気です。ちょっと腐ってますけど」

そう言って笑うの母親に、米松先生も笑う。またお腹がぼよんと波打った。

少しリビングで涼ませてもらった後、米松先生はまずの部屋のドアをノックして、「、先生だけど入っていい?」と声をかけた。中からドタバタと音がしたかと思うと、ボサボサの頭のがドアを薄く開いて顔を出した。普段ダンス部の練習中もボサボサ頭の練習着なので、恥ずかしいという感覚はない。

「えっ、なんでこっち? ナナコは?」
「夏バテでつらいだろうから後で少し顔出すよ。その前にと話したいなあと思って」
「いいけど……散らかってるよ」

は躊躇なくドアを開く。本当に散らかっていた。

「まあでも、ナナコの部屋よりはきれいだけどさ。適当に座って」
「具合はどうよ。頭痛がするとか、ない?」
「全然、まったく、一度も。吐いたのもあれっきり」
「そっか、それなら今のところはパーフェクトだな」

まさかとは思うが、姉のようになってしまいはしないだろうかという不安が拭いきれなかった米松先生だが、その心配はなさそうだった。はボサボサ頭のだらだら部屋着でお菓子を食べながらDVDを見ていた。

……ってベイマックスか! 先生が来ると思って見てたの?」
「いや別に。ベイマックスがいたらボールから守ってくれたんだろうなーと思ってさ」
「役に立たないお腹で申し訳なし」
「そんなこと言ってないじゃん……

米松先生は楽しそうにお腹を撫でながらエヘヘと笑った。

「どう、学校来られそう?」
「うん、たぶん。だけど安静期間は休むよ」
「激しく動かなかったら学校くらい来てもいいんだよ」
「まあそうなんだけど。別に卒業には関係ないでしょ」

は今のところ内部進学の予定だし、それは現状問題はないし、部活では落ちこぼれていても成績は悪くない。新学期に入ってすぐには単位に関係ない日が1日あるし、週末も入るし、2週間ほど休んだところで影響はない。米松先生もそれは心配していない。

安静期間を家でゆっくり静養したい気持ちもわかるが、おそらくの本当の目的は静養ではないだろうし、休み癖がつくと学校に顔を出しづらくなるんじゃないだろうかという心配があった。いくらが強気でも、何しろ大勢の前で嘔吐である。その話はいつの間にやら広まってしまっている。

……メンバー、外されたんでしょ、私」
ならそうするって、みんな言ってたぞ」
「うん、するね。共倒れになる必要なんてないし。それでも勝って欲しいと思うし」

それについてはも異論はないし、ダンス部は自分の私物ではないので大会を辞退される方が嫌だ。自分だけ目標を奪われてしまったことと、落ちこぼれ部だってやってやるんだという気持ちの間で、心の落とし所がまだ見えないだけだ。は米松先生から目を逸らし、小声になる。

……牧と藤真くん、なんか言ってた?」

彼らふたりがとダンス部に対してどんな風に思っているか、それをそのまま伝えるのは簡単だ。帰り道にこんな話してたんだよ、のことすごく気遣ってたよ、吐いたことなんか気にしてないってよ――いくらでも言える。でも、米松先生は言わないことにした。少なくとも、今はまだ言わないと決めた。

「そりゃ、心配してたよ。後遺症が残らないといいなって」
……そう」

は目を落として頷く。そういうことじゃないよ先生、ごめんとありがとう、言いたくもないお礼と謝罪の言葉、それをあのふたりはどんな風に受け取ったんだろう。それが知りたかっただけなのに。

「なあなあ、はやっぱり好きな子いないの?」
「その話からそれ? もー、お母さんみたいなこと言わないでよ」
「お母さん、何か言ってたの?」
「牧と藤真くんと話したでしょ、ふたりともいいじゃんとか言い出して。そんなのあり得ないって」
「何で?」

さも当然だという顔で息を吐き出しながら呆れたに、米松先生もきょとんとした顔で首を傾げた。は再度息を吐いてがっくりと顔を落とす。

「別に私も含めて3人、誰も誰がいいとか言ってないでしょうが」
「まあそりゃそうだろうけど、何がきっかけになるかなんてわかんないじゃん」
「てかなんでそういう方向に持って行こうとしてんの」
「ていうわけでもないけど、どっちかっていったらどっちがいい?」
「そういうのを誘導してるっていうんだよ!」

ついカッとなったに、米松先生はにこにこ笑ってお腹を撫でる。

「すまんすまん、ほら、先生恋バナ好きだからさ。とそういう話、してみたいなって」
「それもどうなのよ……
「先生は欲張りなんだよ。みんなに勉強も部活も恋も、全部楽しんで欲しいと思ってるから」

そのために3つのクラブを作った。居場所を作りたかった。今も米松先生は元主将くんの言葉を胸に大事に仕舞いこんで、毎年落ちこぼれてしまう生徒を拾い上げては大切に大切に守っている。

……授業に出づらかったら、最初は保健室でもいいんだよ」
「そういうのはなんか嫌」
「ははは、はそうだろうな。だけど、待ってるよ」
……もう少し待って。ちゃんと、行くから」
「焦らなくてもいいよ。先生はいつでも待ってるからな」

米松先生は腕を伸ばし、そのふくふくと膨れた手での頭を撫でた。

がいないと寂しいよ」
「嘘」
「嘘なもんか。が笑っててくれないと、悲しくなる。の声が聞こえないと胸が痛い」

はそっぽを向いて目を赤くした。何でそういうことさらっと言うかな。

「きっとそんな風に思ってるのは先生だけじゃないぞ」

そんなこと信じられない、そういう顔をしていただったが、やがて静かに頷いた。