ルーザーズ&ラバーズ

Side-M 08

それからというもの、牧はを見かける度に声をかけてくるようになった。何か用事があるわけではないので、暑いだの寒いだの具合はどうだだの、まあ要するに挨拶だ。余計なことは言わないので、もある程度は返さないわけにはいかない。何しろ牧は目立つし、の方も割と「旬」な人物である。

それを少々鬱陶しく思いながら、は渋々ダンス部に戻った。大会が近くて少しでも多く練習したい彼女たちだが、何しろ固定の活動場所はない。体育館3つと駐車場、そして場合によっては空いている教室を転々としながら何とか練習場所を確保していた。

がダンス部不在になっていたのは2週間ほどだが、彼女が抜けたことで大会で踊る予定のダンスはかなり不安定になっていた。は渋っている間もなく計算をやり直し、場合によってはポジションを取り替え、失敗の多いアクロバットは成功率の高いものに替えるなどして、何とか間に合わせようと必死になっていた。

大会まではもう時間がないので、ダンス部も遅くまで残る日が続いていた。まだ真夏のように暑い日があっても日没の時間は早くなってくるし、へとへとに疲れたダンス部が着替えて下校する頃は真っ暗になっている。この日もは最後まで残って計算をやり直していて、米松先生に追い出されるようにして校舎を出た。

居残っていたのは割と自宅が近い部員4人で、は電車通学だが、自宅までは1時間とかからないので、部員の中では近い方に入る。他にいつも一緒に居残るのは自転車通学とバス通学なので、学校を出るとはひとりだ。自転車組とは正門で別れ、バス通学とは表通りに出たところで別れる。

まだ計算が終わっていないというのに追い出されたたちは、ノロノロと歩きながらああでもないこうでもないとアクロバットの内容を協議していた。そして体育館の横を通りかかった時のことだ。

「あれ、こんな時間までやってたのか」
「はっ?」

斜め上から降ってきた声に、ダンス部の4人は一斉に顔を上げた。すると、体育館のドアの辺りに、逆光で真っ黒になっている影があった。だが、目が慣れてくると、本体も結構な黒さの牧であることがわかる。何しろ落ちこぼれ部、だけでなく、他の3人も驚いて身を引き、肩を竦めている。バスケ部が何の用?

だが、制服の牧はそんなことにはお構いなしで体育館の中に一声声をかけると、肩にスポーツバッグをひっかけた状態で外に出てきた。たちは示し合わせたように一歩下がる。

「もう真っ暗だけど、みんな大丈夫なのか」
「大丈夫って、何が」
「帰り。危ないだろ」

は背中に部員3人を庇うような形で牧を見上げる。だから何の話よ。

「危ないって、毎日こうやって帰ってるけど。この子たちはチャリとバスで近いし」
……は?」
「私もフツーに駅まで行って電車だけど」

海南には越境者用の寮もあるけれど、これはのように駅まで出てひと駅乗らなければならない。古くは徒歩圏内にあったのだが、学校と寮の往復で間に何もない環境がノイローゼ状態を引き起こしたので、少し離れた場所にある。なので、生徒の殆どはのような電車通学である。

ごくごく当たり前の毎日を急に危ないと言われても。そういう顔をしていただが、牧はうんうんと頷くと、まるで邪気のない笑顔を投げて寄越してきた。

「じゃあ、オレ、送っていくよ」
「ハァ!?」

は思わず素っ頓狂な声を上げ、体を傾けた。だが、背中に庇っていた仲間3人はそれを聞くや、じゃあねと言って逃げるようにしてその場を立ち去ってしまった。慌てて追いすがろうとしただが、何しろひとりだけ電車通学である。待ってもらう理由がなかった。

「じゃ、行こうか」
「ちょっと待って、送ってもらう理由がないけど……
「理由って、暗いから。駅前までは人通りも少ないし」
「いや、そーいうことじゃなくて、なんで牧が」
「他に送って行ってくれるヤツがいるなら遠慮するけど」
「べ、別にそんなのいないけど、てかそういう問題じゃないし……

牧は淡々と言いながら、の背中をぐいぐいと押す。何でこんなことになってんだ、とだいぶ混乱しているは転がるようにして正門を出た。確かに牧の言うように、学校の近辺は住宅が少ないので人通りも少ない。

「あのさ、気を遣ってくれなくても――
「そういうつもりじゃないけど」
「じゃあ何なの」
たちがダンス部だから何かしてあげなきゃとか、そういうわけじゃない」

並んで歩いている牧を見上げたは、牧が歩くスピードを合わせてくれていることに気付くと、カッと頬が熱くなった。どことなく恥ずかしいのと、これも気遣いのうちじゃないかという怒りと、急展開によるパニックが重なって体が熱い。しかもの場合、海南に入ってから男子と下校するのはこれが初めてだった。

「ただ、オレたちの活動は学校側のサポートだけじゃなくて、たちみたいな境遇の同級生たちの協力の上に成り立ってるんだと思うし、それを『オレたちは強いんだから構わない』とは思いたくない。でも、送るって言ったのは別に計画してたわけじゃなくて、こんな暗い時間に危ないだろと思っただけだから、他意はないぞ」

牧は相変わらず、いっそ潔いほどの真顔だ。これが演技ならバスケットなんかやめて俳優になるべきだ。

「この間は言い合いみたいになっちゃったから、話もしたかったし」
「話って……
「ダンス部、戻ったんだろ。どうだ、間に合いそうか?」

また深刻なブチ撒け合いを吹っ掛けられているのかと思っただったが、ここ数日の間の牧と変わらない、挨拶に毛が生えた程度の雑談、世間話みたいなものだった。

「それはまだちょっと何とも……そっちこそどうなの、国体」
「使いづらいのが何人かいるけど、そこを除けば割と順調。面白いチームになってきたな」
「へ、へえ……
「ああいうダンスってどこから決めるんだ? 振り付けとか自分たちでするのか」

は歩きながら牧をちらちらと見上げつつ、何か言われる度にポカンとしてみたり、口をだらしなく開けてみたり、落ち着いて話している牧に対して、の方は忙しない。

が、そんなにはお構いなしで、牧はダンス部の活動や大会について疑問に思っていることをガンガン突っ込んでくる。のみならず、落ちこぼれ部である軽音楽部やアウトドア部に関しても現状どんな様子なのかを知りたがった。それも真顔で落ち着いて淡々と、なので、の方もつい警戒が解けてくる。

「アウトドアは今はBMXとスケボーと、スラックラインと」
「スラックライン……て何だっけ」
「ええと、少し幅広の固いゴムみたいな、その上で綱渡りみたいな状態で……
「綱渡り?」

言葉で説明しづらいは携帯でわかりやすい画像を検索して牧に見せる。の手元を覗きこんだ牧は「ああ、これか」とすぐに納得している。が、急に顔が近くなったので、は思わず亀のように首を引っ込める。この人、対人ゼロ距離タイプなんだろうか……

期せずしてドギマギしてしまっているを他所に、牧はなんだか切なそうに目を細めている。

……オレはあんまり話ができないからな。しかしそうか、色々やってるんだな」
「退部すると話もできないの?」
「お互い気まずい思いするだけだから。明るく楽しく退部していったやつなんて、いないしな」

それはアウトドア部に限らないことなので、は深く頷いた。友達同士で入部したけれど、脱落してしまったら友達付き合いの方までもが保てなくなってしまったという話は珍しくない。ましてや、二軍に落とされた上で退部などしようものなら、友達付き合い以前に自分の殻に籠もってしまいがちだ。

それでなくとも牧は強豪校・海南の象徴、生徒ヒエラルキーの頂点、全生徒の代表みたいなものだ。部活縦社会の海南において、一番付き合いにくい人物でもある。脱落した落ちこぼれ部が気楽に仲良くしようとは思わないし、それが元バスケット部ならなおさらだ。がこうして雑談しているこの状況の方がオカシイ。

「この間先生が言ってた、瀬田さんの気持ちがよくわかる」
「ああ、日本代表とか言う……
「自分たちが特別で上にいるなんて思いたくない」
「ふぅん……
の怪我がきっかけって言ったら悪いけど、あの辺りからそう思うようになって」

だらだらとそんなことを話している間に、ふたりは駅に到着した。

、駅は?」
……同じ」
「あれっ、ほとんど地元なのか」

牧が特待生で寮生なことはよく知られたことである。なので、の方は牧の最寄り駅がどこなのかを知っている。牧の言うようにも海南の最寄り駅からは1駅。ほぼ地元組だ。バスなどの都合が合わないので電車を利用しているだけである。一応自転車で来られないこともない。時間がかかるだけで。

「駅から遠いのか」
「いや、歩いて帰れるから」
「じゃあ家まで送ってくよ」

近いから問題ないと言いたかっただが、牧は事も無げにそう言ってさっさと改札を抜ける。はその後姿を追いかけて、学生より帰宅途中の社会人が多いホームに降りていく。高校生にしてはだいぶ大きな背中が不思議でたまらない。この人一体何考えてるの。

「ねえ、ちょっと、別にそこまでしなくたっていいってば」
「家を知られるのが嫌なら適当なところで引き返すよ」
「いやそういうわけじゃ……あのさ、急になんなの、私たち友達ってほどでもなかったでしょ」
……が嫌じゃなかったら、話、聞かせて欲しい」

ホームに吹き込む風が牧の前髪を揺らす。頑なにリーゼント風な髪型を貫いてきた彼だが、1学期の終わり頃に急に前髪を下ろし始めた。とうとう彼女かと噂になったが、試合でOBだと言われて以来のことだという話だ。

「話って……
……たち、こんな言い方したくないけど、落ちこぼれ部にされてる人たちの、思うこと、感じること、そういうの、全部。どんな風に思ってたか、思ってるのか、どうしたいのか、元いた部にはどんな感情があるのか」
「知ってどうするの、そんなこと」

ふたりが乗る電車が滑りこんでくる。その轟音の中で、牧はやっぱり真顔でをひたと見つめた。

「同じ目線になりたい」

返事もできずにいるの背を押して、牧は混雑した電車の中に入っていく。スーツ姿の男性に押し潰されそうなの肩を軽く抱いて、牧はそっと深呼吸をする。は流されるままに牧に寄りかかって、ほんのひと駅、目を閉じた。

翌日、今度は面談がないことを事前に確認した牧は、監督に少し遅れると断ってから社会科準備室へと向かった。国体が目前に迫っているので長居はできないけれど、どうしても話しておかなければならないことがある。

脱落していない生徒は基本的に用がない場所であるし、好かれている割に交流が少ない米松先生はいそいそとはちみつレモンの準備をしようとしたが、これから部活だからと断られてしまった。確かに炭酸は腹が膨れる。

「この間はごめんなあ。に悪気は――
「大丈夫です、オレは何も気にしてません」
「えっ、そうなの、それじゃ今日は……

牧は米松先生の正面に座り、膝に拳を置いて真剣な眼差しをしている。

「昨日、と一緒に帰りました。駅も同じなので、家まで送りました」
「おほっ、そ、そうか、珍しいね」

何の前置きもなくそんなことを言うものだから、米松先生はちょっとばかりいかがわしい想像をしてしまい、その勢いではちみつレモンをこぼした。ああ、僕の心はなんて汚れているんだろう。

「帰る間、ダンス部やアウトドア部のことを色々教えてもらいました。が知る限りの、落ちこぼれ部の人たちの考えてることを教えてもらいました。まだ気になることはあるのですが、ほんの少しだけ彼らの目線でものを見られたような気がします」

牧がこれまた立派なことを言い出すものだから、米松先生はプルプルし始める。ああ僕は汚れた大人。

「それでその、国体も迫ってますし、推薦が決まってるとはいえテストを放棄する気もないですし、そんなことをしてたら冬の予選なんかあっという間で、こんなこと監督に言ったら怒鳴られてしまうかもしれないのですが」

一転、牧は言いづらそうに視線をそらし、口元に手を当てて咳払いをした。

「先生、ダンス部に、文化祭で何かさせてあげられないでしょうか」

はちみつレモンを飲んでいた米松先生の喉がごくりと鳴る。

「軽音の事情はもよくわからないことが多いと言ってましたし、アウトドア部は試合や発表の場を求めてないという話でしたが、ダンス部は違います。どれだけバカにされても唯一の大会にしがみついて、自分たちの練習の成果を発揮する場所を求めてます。それはもう、文化祭しか残されていないと思うんです」

何しろ米松先生が落ちこぼれ部創設以来手を焼いてきたのが女子の脱落者たちだった。気が強く向上心もあり、けれど弾き出されてしまったことで心に傷を持ち、真っ直ぐに世界を見られなくなってしまっている。そんな彼女たちは確かに結果を残すことにこだわっていた。

「講堂は吹奏楽部、視聴覚教室は演劇部、ホールは合唱部、第一体育館はちびっこ教室とチア、第二は書道部と美術部で固定だし、第三なんか休憩所だし、場所がないのはわかってます。だけど、どうにかしたい」

牧の表情は至って穏やかだった。彼の気持ちはとっくに固まっていて、自分ひとりではどうにもならないから米松先生に相談に来た、そんな感じだ。どうにかしてやりたい、助けてやりたいということに迷いはない。

しかし米松先生は、手放しで感心してしまいたい心をグッと抑えこみ、うんうんと頷いてみせる。ダンス部のために文化祭で発表の場を設けてあげられないか――その志は尊い。だが、どうしても聞いておきたい。米松先生だって出来ることなら文化祭に発表の場を用意してあげたい。そのためにも、確かめておかねば。

牧の言う「文化祭しか残されていない」のは、現状、ひとりだけだからだ。

「なあ牧、それは、誰のため?」

突然返ってきた言葉に牧はぴたりと固まる。米松先生は机の引き出しから紙を一枚取り出して手渡す。

……君にはこんなもの必要なかったからね、はい、これをあげる。面談する子全員にあげてるものだよ」

牧に手渡されたもの、それは「誓約書」である。書かれている内容は第一に「相手が例え親でも校長でも、面談の内容は絶対に他言しません」というもの。米松先生と面談をするのは脱落者がほとんどなので、話の内容は深刻になりがちだし、絶対に秘密にするから何でも話してね! という先生の「誓い」なのである。

牧は「誓約書」に目を落としてザッと読むと、少し肩を落とした。

「もちろん牧がどんな風に思っていても、先生はそれを改めさせるようなことはしないよ」
――――のためです」

まあ、米松先生の方もその答えを勘付いていたから聞いたのである。静かに頷いた。

「あの時……体育館でが吐いた時、ぐったりした彼女がオレの腕の中に倒れこんできました。最初は早く病院に搬送しないとと思っていました。だけど、の泣き声が聞こえたんです。あんな悲しい泣き声を聞いたのは初めてでした。震えながら、あいつはずっと泣いてた」

そうして搬送の段取りが決まり、とにかくシャワールームに運ぼうという話になるまで、牧はずっとを抱き締めていた。その腕の中で、は静かに泣いてた。シャワールームに運んでもらう間も、ずっと。

「あの声が耳から離れないんです。どうしてがこんな目に、何も悪いことしてないのに、オレたちのミスで飛んでいったボールのせいで大会に出られないかもしれない、そうしたらのダンス部はここで終わってしまう、そう思って、なぜかオレまで血の気が引いたのを……今でも思い出します」

あの時そんな牧と一緒にを支えていた藤真も真っ青な顔をしていた。

「だけど、一応部には戻ったよ」
「でも大会には出られませんよね? ヘッドスピンやバク転なんかはまだ出来ない」
「そうだね。今も激しい運動は禁止だし、再検査もしなきゃならない」
「文化祭は11月です。ヘッドスピンやバク転をしないダンスならあるいは、と」

当然それがのプライドに引っかかってしまえばそれまでだ。けれど、言ってしまって楽になったのか、牧はまた穏やかな顔のまま、米松先生をしっかりと見据えている。

のために、文化祭をどうにかしたいと思ってます。それは、本当です」

ようやく米松先生はにっこりと頷いた。牧の本音が聞けてよかった。もちろんそれが本当にダンス部のために、ということでも構わない。けれど、牧の「動機」はそれだけではないような気がしていたし、それを本人の口から聞けてよかった。彼にとっては牧も可愛い生徒、手を貸すなら本音に寄り添いたい。

「これは……『不純な動機』とかいうやつになってしまうんでしょうか」
「まさか。どこをどう見たら不純になるの」
ひとりのために、というのは、あまりにその、個人的過ぎるという気もして」
「他人への感情なんて、全部自分の中だけにある身勝手なものだよ。良くも悪くもね」

米松先生が確信に満ちた笑顔でお腹を撫でるので、牧も頬が緩む。

……満足のいくステージで笑う、が見たいんです」

牧の少し照れた頬に、米松先生は高まる期待を隠しきれなかった。これってもしかして、もしかする?