ルーザーズ&ラバーズ

Side-M 07

安静期間もとっくに明け、いつまでも休んでいるのが嫌になって登校してきたを待っていたのは、自分だけ参加できないダンス部と、そして「牧と翔陽のエースにゲロ引っ掛けた女」という風評だった。

も友達がゼロというわけではないけれど、仲がいいのはダンス部員の3年生だし、そうでない友達もそれぞれ厳しい縦社会の部活に所属していたりして、つまり、誰もを庇ってくれる人はいなかったし、一応事実なので、脳震盪を起こしているのだという説明をしてくれる人もいなかった。

静養明け1日目では限界まで腐りきった。なんなのこの学校。

ただ、クラスが同じダンス部員の友人によれば、いわゆる牧のような、部の中でもさらにトップにいるようなタイプはあまり噂を本気にしていないらしいという。のことを面白おかしくイジって騒いでいるようなのは、何とか3年間しがみついていたけれど特に何も残せていない役にも立たなかった――というようなのが殆どだという。

つまり憂さ晴らしだ。落ちこぼれダンス部部長の失態はいい獲物に違いない。

「一応先生も聞けば訂正してるんだけどね」
「してもどうせ聞く気がないんじゃないの」
「そんな感じはする」

そりゃあ米松先生の耳に入ればそういうことじゃないと事情を説明してくれただろう。けれど、面白がってそういうことをする輩というものは、真実などどうでもいい。自分たちが楽しめるように改ざんされた「事実から生まれた話」があればそれでいい。どうせ又聞きだから間違ってても構わない。

はほぼ毎月恒例の米松先生との面談のため、彼の根城である社会科準備室に来ている。面談とは言うものの、内容は主に雑談、そして昼休みなら先生と昼食、放課後なら先生とおやつである。今日のおやつはルマンド。さらに毎回米松先生の自家製はちみつレモンが振る舞われる。夏はソーダ割り冬はお湯割り。

「だけど、どうよ体調の方は」
「面白いくらい何もないよ。吐いたのもあれっきりだし、記憶はちょっと飛んでるけど」

が覚えているのは、体育館に入っていくところまで。もちろんインパクトの瞬間は覚えていない。そして、倒れた後に牧や藤真に押さえつけられていた時のことも、ぼんやりと覚えているだけ。その割に吐いた時のことだけは鮮明に覚えていて、はげんなりしている。そっちの方が忘れたいのに。

「シャワー室に運んでもらった時のこともしっかり覚えてるし、その辺の記憶もなくなればいいのにさ」
「その時に部室棟にいた他の部の子に見られてるんだよね。だから噂の出どころはそこなんだけど……
「だけどあの時って私タオルでグルグル巻きだったはずなんだけどなあ。なんでバレたんだろ」
「そりゃあ牧と藤真くんが『』って連呼してたから」
「ああそう……

はまたげんなりして仰け反った。誰に言われるまでもなく、牧と藤真の行動が尊いことくらいはわかっている。しかしそれとの感情とは別だ。いっそ嘔吐に恐れをなして逃げ出してくれたらよかったのに。そうしたら手を貸してくれたのは先生やダンス部だっただろうし、そっちの方が話は簡単だった。

だいたい、そんな悲惨な状況で牧にお姫様抱っこされていたというだけで、既につらい。も人並み程度には憧れがあったけれど、それはこんなシチュエーションではなかったはずだ。

……てか先生、私って引退?」
「うーん、別にそこのところは誰も何も言ってないけど」
「だけど何もしない状態で部長ですって顔しててもねえ」

は未だに激しい運動は禁止である。授業程度ならいいけれど、それも頭に強い振動を与えるような運動であれば厳禁、と釘を刺されてきた。そんな状態ではダンス部にいても、まるで役立たずである。そんなわけで、早々に大会出場メンバーからは外されている。

「一応顔出してみたら? フォーメーションなんかはが中心になって作ってきたんだし」
「うん……みんな練習見て欲しいって言うんだよね」
「つらいとは思うけど……

今年の大会の演目は、3年生部員のさらに中心的な数人で1学期から捏ね繰り回されてきたもので、当然はその中心であったし、メンバーから外れてしまっても全体の把握は出来ているので、つまり監督的な立場で手伝ってくれないかとは言われている。が、気持ちが乗らなかった。

米松先生もそれがわかるので、行った方がいいよとは言わない。ダンス部のためにはが戻ってくれた方がいい、しかし、現状の気持ちを考えると、無理をして戻ることはない。

というところで話が途切れたふたりがはちみつレモンを啜っていると、ノックの音が響いてきた。米松先生面談というものは日時が決まっている上に、昼休みと放課後の1日2回が限界の時間がかかる面談である。しかも基本的には落ちこぼれ部の部員ばかり。なので、自分の予定でもないのに訪ねてくる生徒はいない。

「誰だろう、面談中に他の先生が入ってくるわけはないし……はぁーい!」

キャスター付きの椅子に腰掛けている米松先生は、テーブルの上に愛用のプーさんマグを置くと、若奥さんのような返事をした。見ず知らずの生徒ならいいけれど、先生が入ってくると気まずいは少し椅子を引いて膝を揃えた。すると、米松先生の声に答えてドアがガラリと開く。

「すみません、ちょっとよろし――うわ、ええと」
「どうしたの急に。何かあったのかい」

牧だった。ドアの隙間に顔を突っ込んだ本人もも、途端にピリッと緊張が走る。

「いえ、急を要することではないです。お話し中失礼しました」

当然牧はこう返して社会科準備室には足を踏み入れないだろうが、ここでなぜか米松先生の妙な勘が働いた。ちなみに彼のアンテナに何かが引っかかると、やっぱりお腹が揺れる。

「いやいいよ、おいでよ、はちみつレモン飲まない?」
「え!?」

牧は素っ頓狂な声を上げたし、は驚いて顔を上げて睨んだけれど、米松先生は優しい笑顔で牧を手招いている。生徒たちと仲良しの癒し系ベイマックスでも、一応先生であるから、牧は強張った顔のままギクシャクと準備室の中に入ってきた。

先生に勧められるまま椅子に座り、彼は彼での方を見ないようにしている。

「はいどうぞ。部活まだ始まらないの」
「今日は監督が不在なので、少し遅れると言ってきました」

はちみつレモンソーダを差し出された牧は、すぐに受け取ったけれど、手に持ったままで飲もうとしない。福々しいにこにこ顔の米松先生が何も言わないので、牧はまだギクシャクしつつも、体をの方へ向けた。

……ええと、その、
「な、何……
「もういいのか、頭の方」

は顔を逸らしたまま小さく頷く。牧もまた黙ってしまった。そこに米松先生が顔を突っ込む。

「あのね、先生さ、無理にお礼言いなさいとか、部活関係なく仲良くしなさいなんて言わないよ。だけどさ、牧もも頑張ろうって意欲がある人だし、そういう意味でなら心の強いタイプだし、思ってることは言っちゃった方がいいんじゃないかな、と思うんだよね」

お腹を撫でる米松先生を見ていたと牧は、また顔を逸らしてしまった。そうは言っても、全てブチ撒ける必要は感じなかったし、特にの方は出てくる内容が不穏なものである可能性が高いし、一体米松先生は何を企んでいるのやら。

「先生はどちらにもすごく誤解があるんじゃないかなって思ってるんだよね」
「誤解、ですか」
「そう。きっとあっちはこう思ってる、そうに違いないっていうね」

牧は首を傾げたが、はますますそっぽを向く。牧がきょとんとしている通り、そういう誤解や思い込みがあるのはきっとだけだ。米松先生が言いたいのはそういうことなんだろうとも見当は付いているが、気まずさの方が先に立つ。

「おおそうだ、せっかくバスケ部とダンス部の部長がいるんだから、話しておこうかな」
……何を?」
「ダンス、軽音、アウトドア、その3つのクラブ創設の話」

何か優しく説教でもされるのかと思ったの睨みにも動じず、米松先生はにっこりと微笑む。そして説教どころか落ちこぼれ部創成の話とは。と牧の間でピリッと張り詰めていた空気が緩む。

「その3つのクラブは部活を辞めちゃった子に学校生活を楽しんでもらいたくて先生が作ったんだけど、実は先生ひとりで作ったんじゃないんだ。牧は知ってるかもな、瀬田くん、瀬田創くん」

牧が今度はぎょっとした顔で目を剥いた。セタハジメ――

「それはもちろん……海南出身の元日本代表じゃないですか」
「そう! まあもうずいぶん前の話だけどね。その頃からバスケ部の脱落者は多かったから」

誰だよそれ、という顔をしているお構いなしに、米松先生は瀬田くんと一緒に落ちこぼれ部を作り上げていった過程をざっくりと話して聞かせた。そして、彼の言葉も言って聞かせる。先生はその思いを胸にずーっと頑張ってるんだよ!

「そうだったんですか……
「卒業してからもちょくちょく相談に乗ってくれたりしてね。そうそう、BMX寄付してくれたのも彼だよ」

も思わず目を剥く。アウトドア部唯一の備品であるBMX5台は整備をしながら大事に受け継がれている。その他の備品は今のところ基本的に自腹。

「ま、そういう過去があってさ」
……だからバスケ部に感謝しなさいっていうの?」

米松先生が話している間、無言で通していたは低い声でそう言うと、椅子の上で膝を抱えた。

「先生そんなこと言った?」
「そういう風に言ってるように聞こえる」
「それは心外だなあ。牧もそんな風に思われたいなんて思ってないだろ」

の低い声に少し緊張している様子の牧は、小さく頷く。

「だからほら、に思うところがあるなら言ってみたら?」
「思うところ?」
「余計な外野のいないところで話す機会もそうそうないだろ」

米松先生がに声をかけている間、牧はじっと彼女を見つめていた。ちょっとした用があって訪ねてきただけだったけれど、確かに米松先生の言うように、落ちこぼれ部の部長とサシで話をする機会など滅多なことでは実現しない。しかも間に米松先生が入ってくれているのは心強い。

だが、が度重なる挫折で不貞腐れてしまう気持ちもよくわかる。自分のバスケット人生は措いておくとしても、どこかの部から弾き出され、負け犬の吹き溜まりに集められ、その上怪我で唯一の大会にも出られないとあれば、腐るのも無理はないと思う。

その上大勢の男子の前で勢いよく嘔吐してしまったショックはそう簡単に癒えないだろう。自分に置き換えてみても、絶対にノーダメージとは言い切れない。ましてやいくら気が強くてもだって女の子なのだし、余計につらいだろう。牧はそんな風に気持ちの整理をつけて、背筋を伸ばし、息を吸い込む。

「だからさ――
、体育館の件は本当に悪かった」
「はい?」

牧が急に口を挟んできたので、と米松先生もしゃきん、と背筋が伸びる。どうしたいきなり。

「最初にバッティングした時、後で確認したら、ちゃんとダンス部が使うことになってた」
「その話はもう――
「あの日、第2は、空いてたんだ」

牧が真剣な表情なので、と米松先生はちょっと引き気味だ。何の話?

「第2にもちゃんとゴールポストはあるし、第1じゃないと練習できないわけじゃない。あの日なんかほとんどミーティングで、なんなら第3でも充分だったはずなんだ。だけど先生たちは第1でやるべきだと考えてたようだし、オレは主将だったけどそれについては抗議できる立場にはなかった」

試合形式の練習が増えてからは第1でなければ無理だ。ギャラリーも多いし、そういう意味でも広い第1を使うのは妥当だった。けれど、初日から第1を占領して何をしていたかといえば、ほとんどミーティングである。もちろん練習もしたけれど、牧の言うように第2で充分だったし、第2は空いていた。

「それまでバスケ部が体育館使うのは当たり前で、他の部が第2と第3でやりくりしてるのも、ほとんど意識したことはなかった。よく考えたらジムとかシャワーもバスケ部の部室に近いし専用の設備も多いし、そういう環境でバスケやってることに、オレは今まで何の疑問も持ってなかった」

たちはきちんと正規の手段で体育館の使用許可を取ったというのに、ダンス部は落ちこぼれ部でバスケ部は全国2位だからという理由で取り上げられてしまった。誰もそんなことは言わないけれど、それ以外にどんな理由があるというのだろう。牧はそこに至ると、急に気持ちが燻ってきた。

「だからと言って……それを申し訳ないとか、可哀想とか、そんな風に思うのも失礼じゃないか」

いつの間にやらと米松先生はキャスター付きの椅子ごと寄り添って牧に向かい合っていた。何しろ1年生の頃から全国にその名を轟かす海南の看板選手である。オーラは強いわ迫力はあるわで、ふたりは少々ビビり気味だ。牧が真剣なので余計に距離を置きたくなる。

「上から目線で哀れんでるみたいで、そういうのは違うと思う。だから、確かに先生の言う通り、とちゃんと話した方がいいと思ってた。身勝手な言い方だけど、無関係なクラブに迷惑かけて甘やかされて日本一になりましたなんて、そんな風に終わりたくなかった。だから、迷惑かけて本当にすまん。悪かった」

そう言うと、牧は両膝に手をついて、勢いよく頭を下げた。

「ええと、牧、そのことで来たの?」
……いえ、それとはまた別件です。だけど、先生が」
「ああうん、そうなんだけど」

は冷ややかな視線を米松先生に向けた。やっぱり私に何か言わせようとしてあんなこと言ったんだな。牧がこんな風にベラベラ喋るなんて思いもしなかったからテンパッてんだろ、ざまあみろ。だが、そんな風に暗黒化していくに米松先生は向き直って、にっこりと微笑む。

はどう、今の牧の話聞いて」

暗黒化しかかっていたはその言葉に竦み上がった。

どうって、何が!? 牧がバスケ部と落ちこぼれ部の格差に居心地悪くなったからって、私何も思うところなんかないけど!? やっぱりバスケ部に感謝して仲良くしましょうって言いたいの!?

暗黒化の途中だったの思考はそんな思いで埋め尽くされた。だが、牧も米松先生も、そんなことをに強いているわけがないのだ。おそらくそのことはが一番よくわかっている。米松先生はお互い思っていることをブチ撒けさせたいだけ、牧はそれを正直にブチ撒けただけ。

だったら、そっちがそのつもりならブチ撒けてやろうじゃないの。

「前にも言ったけど、牧が悪いわけじゃないよね」
「だとしても、そう思ったし、代表の主将だったから」
「ゲロってんのに助けてくれたことは感謝してる」

だが、そういうの表情は固く厳しく、とても感謝の意を表しているようには見えなかった。

「みんな、先生も親も、牧と藤真くんはすごいねって言う。普通ビビって触ったりなんか出来ないって、かっこいいねって、みんなそう言って、感謝しなきゃねって顔してる。だけど、私、それどころじゃなかった。死ぬかもしれないから動くなって、ダンスダメ、大会も当然ダメ、だけど部に戻って、参加できない大会にも、来てって」

いっそ怒っているような顔で淡々と話していただが、ふいにポタリと涙を落とした。牧と米松先生が息を呑み、また背筋がしゃきんと伸びる。だが、の表情は変わらなかった。

「私の唯一の勝負の場が、最後の勝負が、飛んできたボールひとつで消えた」

また涙がひとしずく。

「落ちこぼれ部が負け犬って言われてることは知ってる。だけど私はもう負けることも出来ない。勝負させてもらえないんだから。3年間が台無しになった挙句に致死率50%、学校に来ればゲロ掛け女って言われて、それで目をキラキラさせてありがとう! って言えるほど、私は強くない」

米松先生もの心のケアには気を使ってきたつもりだった。けれど、何しろ米松先生はの専任ではないし、は家庭も少し慌ただしいし、彼女の心がダークサイドに向かうのを止められなかった。しかも、は静養明けで登校してきたばかり、気持ちを整理する間もなかった。

「負け犬でも3年間頑張ってきた結果がこれなのかって、今ちょうど絶望してるところ。さーてどうやってこの気持ちを片付けていこうかな、って考えてるところ。その他に考えられることなんか、何もないから」

はそう言うと立ち上がり、絶句しているふたりを残して準備室を飛び出した。

遠ざかる足音、のはちみつレモンのグラスの中で、氷がカランと音を立てて崩れ落ちる。静かにため息をついた米松先生は椅子に座り直すと、キャスターを転がして牧の方に近寄る。

「なあ、牧――
「先生」

牧の方に手を伸ばし、は今すごく傷ついているから、と言おうとした先生は、その声に手を止めた。やがて振り返った牧の表情に、先生はぴたりと固まる。この表情には覚えがある。この顔を知っている。そして、米松先生は牧が何を言おうとしているのか、それを感じ取ってごくりと喉を鳴らした。

「彼女を助けたいと思うことは、傲慢でしょうか」

そう、これは――瀬田くんだ。逃げ場なんかないと言ったあの時の瀬田くんと同じだ。そこに哀れみや同情はない。ただ同じ目線でいたい、それだけ。だから牧もほとんど真顔だった。を助けたいと思ってしまった、果たしてそれは今以上にを傷付けることになりはしないだろうか。それを気にしているだけ。

牧は迷っているわけじゃない。もう彼は覚悟しているのだ。

米松先生は首を振り、牧の肩をグッと掴む。そしてまた、お腹がキュッと締まった。