ルーザーズ&ラバーズ

Side-M 16

「まーじーでー! まーじーでー!! まーじーでー!!!」
「感謝のつもりで報告しようと思った私がバカだった」

文化祭の翌々日、代休の日の午後、社会科準備室である。文化祭2日目の翌日は片付け日であり、午前中が片付け、午後からは普通に授業、そして代休はその後に改めて、である。文化祭期間が明けたので部活動は解禁、一仕事終えてしまったダンス部はお休みだが、牧は予選に向けて本格的に練習を再開している。

よく気の利く後輩やら姉やらのお膳立てで無事にくっついたので、一応報告しようと思っては登校してきた。牧の方は朝から練習で18時過ぎには終わるというので、それまで米松先生と喋って時間を潰し、一緒に帰ればいいやとも思っていた。

だが、話のあらましを聞いた米松先生は両目を三日月のように細めてニヤニヤしっぱなし。

「まーね、先生は割と最初からそんな気がしてたし、もどかしいなあと思ってたし!」
「すいませんねチンタラしてて」
「いいよねえ青春だ。文化祭カップルだけど君たちは心配なさそうだし」
「そうかなあ……

ニヤニヤが止まらない米松先生に対して、はずいぶん冷静である。あの夜は誰もいない教室で花火を眺めながらくっついていたけれど、かといって米松先生と一緒になってはしゃぐような気分でもなかった。

「何でよ。嬉しくないの?」
「いや嬉しいけど……今日になったら急に信じられなくなってきて」
「まあ、君には試練の多い数ヶ月だったから、疑心暗鬼になるのも仕方ないけどね」

それに、気持ちが通じて改めて進路が大きく別れることに気付いたは、文化祭が終わったことによる虚脱感とともに寂しさを感じている。もちろん嬉しいけれど、手放しで喜べない。それを感じ取った米松先生は、やっとホットになったはちみつレモンを傾け、一転優しい笑顔で首を傾げた。

「いつも聞くばっかりだからね、たまには先生の話をしようか」
……それは一昨日のあのドヤ顔のドラムの件も込みでよろしく」

の冷めた目に米松先生はエヘヘと笑うと、またお腹を撫でた。

「いやあ、僕に比べたら、君たちなんか真面目で一生懸命で素晴らしく『マトモ』だよ。そりゃ高校生の頃は普通だったけど、大学に入ってから先生はひどく自堕落になってね。親の金でひとり暮らしして大学通いながらバンドやって、それで世の中の何もかもが面白くないって怒って、不貞腐れて、大暴れして死にたいとか思ってた」

そんな風に荒れてしまった原因は今でもわからないと先生は笑った。強いて言えば、そういう感情に流されただけだったかもしれないと言う。なんとなく、そんな気がしたから、それがいいと思ってしまったから。

「君たちはこれっぽっちも信じてくれないけど、ナギみたいにガリガリに痩せてて、髪も長くて、ハードロックとかメタルばっかり聞いてて、だけどなぜか女の子には好かれた。だから余計に自堕落になってたんだよねえ」

どれだけ自堕落に荒んでいても、その頃から癒やし体質の片鱗は見えていたわけだ。

「それでよく先生になれたね」
「そんなどうしようもない先生を助けてくれたのが、奥さんです」
「へえー! ありがち!」
…………先生の奥さんはすごいんだからな」

自身が愛妻家であることは普段からよく口にしている米松先生だが、具体的な話は滅多に出てこない。なのでいくら米松先生が「僕の奥さんは宇宙一!」と言っても、はいはい、と聞き流されることがほとんどだ。

「先生は口を開けば文句ばっかりで、奥さんにもひどいことをたくさん言ったんだよ」
「よくそれで付き合う気になったね」
「そこが奥さんのすごいところで、先生がいくら文句言っても、こいつ今頭おかしいからなって思ってたらしくて」

つまり、まともに取り合わなかった。しかし、金はCDと酒につぎ込み、まともに食事も取らない米松先生を見捨てるようなことはしなかった。見るも無残な汚部屋だったので、米松先生に金を握らせて部屋から追い出すと、その間にすっかりきれいにしてしまったり、強制的に食事を取らせたりしたそうだ。

「奥さんそんなに先生のこと好きだったの」
「それがそうじゃなくて……たまたま隣の部屋に住んでただけの人」
……だからそれがきっかけで好きになったとかそういうことじゃ」
「ううん、それからしばらくして付き合ってくれって言ったら断られた」
「じゃなんで結婚まで行ったのよ」
「全部話すと一晩かかるけどどうする?」
「酒が飲めるようになったら聞くわ」

米松先生はえへへと笑ってお腹を撫で、はちみつレモンを飲む。このはちみつレモンも奥さんの手作りなのだと言ってにこにこしている。というか、自称ガリガリに痩せていた米松先生をここまで膨れ上がらせたのは奥さんのおいしい料理なのだそうだが、はまだイマイチ信用できなかった。

「だけど、自分を見捨てないで手を差し伸べてくれる人がいるということは、奇跡だよね」
……うん、そうだね」
「まあ、牧の場合はだけじゃなくてナナコやダンス部まで引っ張りあげちゃったけどさ」

は牧がナナコから言われたという話を思い返す。たまにいるんだよね、そうやって人ひとり引っ張りあげてるようで、何人も引きずりだしちゃうような人。その意味がにはよくわかる。自分もナナコも、みんな牧に助けられた。落ちこぼれ部とバスケット部を優しく繋げて、それを自慢にも思っていない。

「だから不安なのかもしれない」
「どういう意味?」
「大きすぎる気がする。牧という人が、私に比べて、あまりにも大きいから」

自分など些細な存在に過ぎなくて、すぐにそばにいられなくなってしまうんじゃないか――

……海南バスケ部のキャプテンの子っていうのはそういう運命にあるんだなあ」
「なにそれ」
「瀬田くんだよ。彼もそういう大きい人だった。そしてそれが重くて、振られた」

米松先生は椅子を軋ませ、窓の外の灰色の空に目をやる。

……彼女は、脱落者だったんだ。だけど瀬田くんは部活なんか関係なく接してきて、3年生の時に告白したけど、振られちゃった。卒業してから彼女の方に会う機会があって、実は瀬田くんの告白を断ったんだと聞かされてね。彼女の方も瀬田くんなら付き合ってもいいと思ってた。だけど、瀬田くんはあまりにスターだった」

海南の主将を経て瀬田くんは大学に進学、怪我などに泣かされたこともあったが、結局日本代表に名を連ねるまでになった。最近プロチームを引退したらしく、指導者として母校に戻るそうだが、彼女と手を取り合うことはなかった。

「瀬田くんが活躍すればするほど嫉妬もしたし、例え一時の感情ではなく本気で愛されていたのだとしても、自分の方が受け止めきれない、自分はあまりに小さくて、平凡で、人を羨むような人間だから。だから、瀬田くんのことは受け入れられない。彼が第一線で活躍するような選手でさえなかったら、違ったかもしれないけど――

は膝に手を揃えて俯いた。そこまではっきりと考えていたわけではないけれど、今の自分の感情に近いような気がする。彼女の感じていた重圧にも似た複雑な感情はよくわかる。瀬田さんがただ優しいだけの平凡な同級生だったら、彼女は喜んで彼を受け入れたんだろう。瀬田さんが嫌なわけじゃなかったはずだ。

あまりに大きさが違うので天秤はずっと不安定、足元は覚束なくて、そういう恐怖や不安がいつまで経っても取れない。そんな付き合いを続けていかなければならないのなら、いっそ本気で好きになってしまう前に離れた方がいい。そういう判断だったに違いない。

「似たような経験をした先輩たちの話を聞いて、今、はどんな風に感じる?」
「他人事だから、そんなの関係ないじゃんて、思う」
「他人事なら、気にするようなことじゃないと思う?」
「そんなの、彼女の方がビビってるだけって思う。だけど、私もビビってる。だから、何も言えない」

視線を逸らすに米松先生はため息をつきつつ微笑む。

、瀬田くんとその彼女の後悔は同じだったそうだよ」
「付き合わなかったこと?」
「いいや、ふたりとも『もっと本音を言えばよかった』ていうことだけが心残りだったって」

が首を傾げていると、携帯が軽やかな音を鳴らす。牧からのメッセージで、練習が終わったけど、どこにいるのかと聞いてきていた。ここに呼んでもいいかとが聞くので、米松先生ははちみつレモンを掲げて応える。そんなのいつでもウェルカムですよ。ついでに惚気ていってくれたら楽しい。

がそう返信をすると、米松先生は牧用の冷たいはちみつレモンを用意するため、席を立つ。

「だから、にそういう不安や心配があるなら、牧に話してごらん。彼は怒ったりしないから」
「そういう話になればね……

踏ん切りが付かないようだが、がグズグズしている間に牧がやってきた。部活終わりでシャワーを使ったらしく、髪が半乾きで少しボサボサしている。制服の襟元も開いていて、急いでやって来たことが伺える状態だ。米松先生はこっそり「やっぱりも考え過ぎのビビりだな」と思っておく。

「お疲れさん。はい、クエン酸補給をどうぞ」
「おお、ありがとうございます、頂きます」

牧ははちみつレモンを受け取ると、迷わずにの隣に椅子を引いてきて腰を下ろした。は照れてむず痒そうな顔をしているが、牧は何も考えていないという顔だ。

「牧、聞いたよ。よかったね、気持ちが通じて」
「はい、ありがとうございます」

素直に返事をしている牧に、はまた照れて身を縮める。これは牧が瀬田くんのように大きい人だからではなくて、単に天然気味で正直なのでが慣れないだけなのでは、と米松先生は考えるが、とりあえず放置で観察と洒落込む。

「今ね、先生の昔の話をしてたんだよ」
「ああ……ガリガリに痩せててイケメンだったとか言う」
「その通り! その通りだったんだよ本当に」
「はあ、そうですか」
「何だよ牧も信じてくれないのか。んもーしょうがないなー特別だよ」

というか海南の生徒は誰も信じていない。米松先生はフンと鼻を鳴らすと、机の引き出しから何やら取り出してと牧に差し出した。ふたりはそれをのぞき込むと、「ヒッ」と変な短い悲鳴を上げておののいた。

「ここここれ、先生……?」
「そうだよ、顔は同じだろ。てかそれ滅多に見せないんだからね〜」
「一体……だけど……どうして……

も牧も、いっそ恐怖に歪んだような顔をしている。手渡された写真は米松先生がバンドをやっていた時の写真で、白い肌にサラサラの長い髪が美しい、本当のイケメンだった。本人が言うように、確かに同じ顔なのだが、何しろ3倍くらいに膨れ上がっていて、もはや同じ生き物に見えないレベルだ。

「奥さんの料理が美味しくてさ〜ついこんなに」
「そういうものですか……
「このお腹に詰まってるのは愛情なんだよ! これは僕が奥さんにたくさん幸せをもらった証拠なの」

は心霊写真か何かのように指で摘んでテーブルの上に写真を置く。

「あれ、先生、一緒に写ってる人たちって――
「そうそう、一昨日来てくれたでしょ。僕のバンド仲間。楽器を寄付してくれたのも彼らだよ」
「そうなの!? 確かBMXも……
「そう、瀬田くんが寄付してくれたものだよ」

と牧はちらりと目を合わせて、また米松先生の方へ向き直った。


「えっ、はい」
「だからね、助けてもらったら、助けてあげればいいじゃん」

きょとんとしている牧の横で、はウッと声を詰まらせ、顔を背けた。

「ねえねえ牧、海南の主将って、部活の外に出るとちょっと疲れるよね」
「ええと……そうですね、そういうこともあります。学校にいると特に」
「だけどと一緒にいるのは全然疲れないし嬉しいよね!」
「はい!?」

牧があまりにひっくり返った声を出したので、そっぽを向いていたはついゴフッと吹き出した。

「ほらほら、そういうことだよ! さあさあ、牧も疲れてるんだし、帰ろう!」
「先生なんでそんなに楽しそうなんですか……
「そりゃあ楽しいよ! 先生恋バナ大好きだもん! また色々話してよね!」
「それが先生の言うことかな……
「いいじゃないの、ほらほら、ちゃんと手繋いで帰るんだよ! もう暗いからね!」

調子に乗った米松先生が煽るので、牧はの手を取り、照れてむくれる彼女を引っ張って社会科準備室を出て行った。米松先生の言う通り、外はもう真っ暗だ。校舎を出たふたりは、まだ明かりの灯る第一体育館を通り過ぎて正門を出る。

「まだ誰か練習してるの?」
「神がシュート練習してる」
「そっか、もうすぐ予選、始まるもんね」
「見に、来てくれるんだよな」
「あ、ああ、うん、行こうと思ってるけど……

がぼそぼそ言うので、牧は少し屈んで覗き込む。

「どうした」
「ええとその、ちょっと私、今ビビっちゃっててさ」
「ビビる? 何に?」

正直に話してその場で振られたらどうしようという不安に苛まれながら、それでもは繋いだ手を信じて言ってみた。自分ばかり怖がって自滅したくない。あとで後悔したくない。できるだけ長くこの手を繋いでいたかったから。はスッと息を吸い込み、繋いだ手にギュッと力を込める。

「一昨日はさ、他のこととか何も考えられなくて、目の前のことしか見えてなくて、だけど落ち着いてきたら、なんていうか、何で私なんかってやっぱり思っちゃって、バスケ部の主将なのにとか、瀬田さんみたいになるかもしれないのにとか、まだそんなことばっかり考えちゃって……

あなたがあまりに大きな人だから、とは言えなかった。けれど、不安に思うことはひとつだ。

「だから、すぐに一緒にいられなくなるんじゃないかって、思って……

それでなくともと牧の関係はあの脳震盪から始まっているのだ。それが文化祭へと繋がっていき、特別な2ヶ月ほどの間に育った気持ちである。果たして吊り橋効果ではなかったと言い切れるだろうか。が黙ってしまうと、牧は足を止める。そして、情けない顔で見上げてくるをじっと見つめた。

「それはつまり、オレと一緒にいたいってことだろ」
「え!? まあうん、そうなるのかな……?」
「違うのか?」
「いやその、違わないです……

生徒もすっかりいなくなった海南の前の通りは街灯だけが点々と明かりを落としている。牧はを引き寄せると、断りも入れずにぎゅっと抱き締め、頭に頬を寄せた。

「オレもと一緒にいたいよ」
……牧がさ、すごい人だから、自信がないんだよ」
「すごい人って何だよ。そりゃバスケは得意だけど、その他のことは……
「うちの部の子たちもみんな言ってた。牧ってすごいねって。出来ないよねあんなことって」
……そういうオレじゃ、ダメなのか」

は首を振りながら、牧の体を両腕で締め上げた。

「だから、ビビってるの。試合見て、牧がバスケでもすごいんだってことを目の当たりにしちゃったら、もっと自信なくなっちゃうんじゃないかって、そんなこと思うなんて、牧の隣にいる資格ないんじゃないかって」
……、だからそれは、この関係を続けていきたいと思ってくれてるってことだろ」
「それはそうなんだけど……
「すぐにわかるよ。の言う『すごい人』なんて……勘違いだって」

牧は腕を緩め、の体を支えながら顔を落とす。

「オレは試合なら勝つことしか考えてないし、そのためにはファウルを誘うことだってあるし、お前のことだってそうだ。一昨日も言ったけど、文化祭のことはに喜んで欲しかっただけで、他の人のことなんか何も考えてなかった。言い出しっぺだってことを黙ってたのも、失敗した時に失望されたくなかったからだ」

しかしそれでもやる気になったのは、米松先生が言ったからだ。他人への気持ちなんて全て身勝手なものだよ。

のために何かしたい、だけど見返りが欲しくてやってると思われたくない、施しだと思われたくない、にとって自分が悪い人間に見えないように、そういうずるい気持ちだけだったんだよ」

それが成功に終わったので、牧の手腕と誰もが感じている。確かに牧の気持ちが全てを牽引した。けれど、本人にとってはとても身勝手な「本位」の文化祭計画だったわけだ。

「同じ目線になりたいって、言ったろ。そのためにやったことでもあるし」
……何か、見えたの?」
「見えたよ。が見えた。が好きだっていう自分の気持ちが見えた」

息を呑むにキスをして、牧はまたぎゅっと抱き締めた。

、本当のオレの姿は、自分の目で確かめてくれ。それがどうしても無理だったら、別れてもいいから」
「な……
「だから、予選……いや本戦でもいいけど、見に来てくれないか」

牧の声は穏やかなままだった。しかしどこか心ここにあらずのようにも聞こえて、はただ無言で頷き、牧の胸に頬をすり寄せた。ずっとこうしていたい。ここから引き離されたくない。だけどこうして寄り添っていける自信がない。それは試合を見ることで解決できるものなのだろうか――