星屑の軌跡

29

告白6

年が明け、3月の半ばのことである。

カズサが春休みに入る頃合いを狙って、新九郎と由香里の2度目の挙式が行われた。場所はやっぱり葉山、信長が利用したところではなかったけれど、こじんまりした式が可能な施設で、まさに身内だけの挙式が行われた。

当日の朝まで還暦を過ぎた両親の再挙式に苦笑いの息子たちだったわけだが、ウェディングドレスの由香里にタキシードの新九郎を目の当たりにすると笑えなくなってしまった。その上尊はたち女子組に混じって目を真っ赤にし始め、「ゆかりん、めっちゃ可愛いよ」と言っては鼻をすすっていた。

一方で、ダイエットと顔の色戻しがきちんと間に合った新九郎のタキシード姿は中々の出来で、嫁3人とぶーちんは大はしゃぎだった。なんかじいじめっちゃかっこいいんですけど!?

そして新九郎は念願だった由香里をお姫様抱っこでご満悦、この日だけは孫たちに抱っこをせがまれても「今日はゆかりんだけしか抱っこしないよ」と断り、エンジュがさらに悶絶していた。

挙式と言ってもいわゆる人前式であり、犬も参列で誓いを新たにすることと、フラワーシャワー、そしてとどめはやっぱり宴会である。犬や乳児がいる都合上、挙式会場からとんぼ返りで自宅宴会なわけだが、本日はリビングとダイニングを特別仕様に作り変えて、普段洗濯物で溢れかえっているリビング脇の庭も使い、新九郎の意向で「由香里が主役」のパーティだ。

パーティの支度のために先に帰ったたちを見送ると、新九郎と由香里は控室で装いを解いて着替えていた。新九郎はちょっとおしゃれしたかな、という程度の普段着だが、由香里は今日は徹底して白い服である。ニットのワンピースと、まとめ直した髪にはいつか新九郎と出会った頃に付けていたようなリボンが編み込まれている。

「やっぱり庭はやめた方がよかったんじゃない?」
「えっ、なんで?」
「誰か入ってこないかしら」
「普段バーベキューやってる方の庭じゃないから、身内の席だなってわかるだろ」

新九郎は気楽に構えているが、かれこれ40年近く他人がひっきりなしにやって来る生活をしていたので、由香里はなんとなく落ち着かない。最近幼い子供が増えたことで他人の出入りは一時期に比べたら激減したのだが、それでも気軽に「何やってんの〜?」と声をかけられる家には変わりない。

すっかり身支度を終えたふたりはスタッフに何度も礼を言って、会場を後にした。今日のためにピカピカに磨き込まれた新九郎のアウディが3月の暖かい風の中を駆け抜ける。

「どうにも子供たちが学生だった頃くらいの感覚が抜けないのよね」
「忙しかったけどオレたちは1番アグレッシブだった頃だなあ」
「もうあんなのはほんと嫌よ。子供たちが全員家を出てたときは気楽だったわあ」
「母さんがいないとふたりっきりだったもんなあ」

その基本ふたりっきりの数年間は、ふたりにとっては遅れてやって来た新婚生活のようで、日中は忙しくても、それを過ぎると犬4匹と一緒にずいぶんのんびりと過ごした。

「結局私も楽しかったけど、どう、2度目の結婚式。これで満足した?」
……由香里、ちょっと聞いてくれる?」
「えっ、何よ」

ゆったりとハンドルを操りながら、新九郎は少し声を落とした。由香里はいつか遠い日に渋滞にハマって暗い車内にふたりきりだった時のことを思い出していた。あの時フロントガラスの向こうに見ていたテールランプの鈍い明かりを今でも覚えている。

「あなたのおやっさんが逃亡した時、うちに事情を聞きに来ただろ、庭に小屋建てる見積もりの件で」
「ああ、カキさんが強引に工務店教えろって詰め寄ってね」
「すぐに来たんだよな。捜査員ふたりくらいで、記録は残ってますかって」

思わぬところで由香里の父親と清田工務店が繋がってしまい、おかげで清田家は由香里の父が焦って逃亡した直後に事情を知ることになってしまった。新九郎は由香里の父親が思想活動家であることを承知していたけれど、親方も女将も寝耳に水の話だった。

「こんなこと言わなくてもいいのかもしれないけど、今言わないといつ言えばいいのかわからないから、言うね。その時、オレ、あなたと別れるつもりでいました」

乾いた喉に冷たい緑茶を流し込んでいた由香里はそのままピタッと止まった。

「最初から由香里を嫁さんに貰おうって思ってたし、その頃はプロポーズってどのタイミングですればいいんだろうって考えてたくらいだったんだけど、ああもうこれで終わりだ、いくら由香里自身が無関係でも、嫁にもらうことは出来ない、家族に迷惑がかかる、そう思って」

何しろ新九郎にとって父親は尊敬してやまない存在であり、父親と同じ職についてその後を継ぐことは一生をかけた夢でもあったし、それだけを目指して生きてきたから、他にできることもなかった。まだ20代に入ったばかり、父と働くことは生きていることと同義であり、由香里のために捨てるという選択肢は考えたこともなかった。

しかしそれは同時に、由香里との人生よりも父親との仕事を選んだ瞬間でもあった。

「捜査員が帰った後に、親父の部屋で事情を話して、それで頭下げて、彼女とは別れます、迷惑はかけませんって言ったんだよな。そしたら、親父に怒鳴られた」

それを思い出したのか、新九郎は少し笑って、また真顔に戻った。

「親父はあなたを、後継ぎの嫁、次の世代を生む母、息子を支える妻、清田の家を守っていく女、そういう意味で高く買ってた。お前はその意味がわからんのか、って雷が落ちてね。だけど父親が指名手配じゃ色々と世間から白い目で見られるかもしれないじゃないかって返したんだけど、それを守ってやるのが男の仕事だろう、ハタチ過ぎてそんなこともわからんのかって、また雷」

古い時代の話だ。まったくの無関係でも、父親が過激な思想活動家で指名手配と知ればその家族は全員怪しまれる。そういうことは珍しくなかった。家族は一蓮托生、連帯責任、犯罪者の血筋は犯罪を犯すかもしれない、関わってはダメ、話してはダメ。

だから新九郎が「もうダメだ」と思ってしまったのも無理はない。由香里の父親の件が方々に知れて仕事が減ったら食い扶持に困るのは自分たち親子だけではない、雇いの職人だっていっぱいいるのに。だが、親方にそう一喝された新九郎はそこで腹が据わった。

他ならぬ親方自身も、生まれ育った家より女将を選んだ。敬愛する父はそういう人だった。

「三芳の家がボロボロになってる、ってのは通いの職人が教えてくれたんだけど、その時改めて親父に由香里を嫁にもらいたい、家を直しに行かせてくれと頭を下げたんだよな。親父はみんな集めて事情をざっくりと話して、壊れた家で母子3人が身を寄せ合ってるのは見過ごせないし、親バカで申し訳ないけど、この新九郎を男にしてやってくれ、将来の親方だと思って助けてやっちゃくれねえかって」

その時の清田家は親方の熱っぽい演説のおかげで妙な盛り上がりを見せ、女将は近所の奥さんに声をかけて日持ちのする料理を作り、日中の仕事が終わって帰ってきた新九郎と職人さんたちは車3台をぶっ飛ばして三芳家へと向かった。

「オレは一度、あなたを諦めました。隠してて、ごめん」

新九郎は一貫して由香里を「世界で一番愛している」と公言して憚らず、だから由香里は自分と結婚して夫婦になるのが幸せなのだと結論づけてきた。だが、由香里よりも自分の家族を優先した瞬間は確かに存在していたのだ。

由香里はまたくいっと緑茶を流し込むと、ふう、と息を吐いて首を傾げた。

「今更だわね」
「だけど、ちゃんと言っておきたくて」
「40年近くも溜め込んでたのね、そんなこと」

図星の新九郎はちょっと恥ずかしそうに頷いた。そういう負い目を抱えていればこそ余計によい夫よい父であろうとしたわけだが、2度目の挙式という節目を得て長年腹にしまいこんでいたものをきれいさっぱり片付けてしまいたくなったんだろう。ビール腹もなくなって、隠しておく場所もなくなったか。

「大丈夫よ、私だってあなたのこと関わりたくないとか鬱陶しいとか思ってたもの」
「あっ、それは知ってる。美乃里ちゃんに聞いたから」
「あの子も一緒になって言ってたのよ」

美乃里さんは例の由香里の妹だ。由香里の結婚と時を同じくして東京の百貨店に就職、3年ほどで上司の紹介で知り合った人と結婚したが、また3年ほどで離婚、現在の夫と出会うまでにもう2度結婚離婚をしたのでバツ3である。今でも音楽に夢中で、ライブバーをやっている。

……後悔、してたんでしょう」
「ずっとしてた。オレは一度由香里を裏切ってる、それは覆らないから」
「じゃあもう後悔はないのね?」
……怒らないの?」
「今更って言ったでしょ」

赤信号にアウディが止まったので新九郎が由香里の方を見ると、彼女はなんだかニヤついている。

「あのねえ、一体何年前の話をしてるのよ。それから何十年も私たち仲良くやって来たじゃないの。かっこよくて出来のいい息子に恵まれて、嫁もいい子で、孫は7人も! 結婚式をもう一度やって、来月にはヨーロッパに旅行に行くのよ! 幸せじゃない! そんな遠い過去の話、もういいわよ」

由香里は白いリボンに明るい色の口紅をつけていて、新九郎も遠い日の少女を思い出していた。

……由香里、愛してるからね」
「ふふん、私も愛してるわよ、新九郎さん」

思わず由香里を引き寄せてキスをした新九郎の背後でクラクションが鳴り響く。信号は青に変わっていた。アウディはまたゆったりと走り出し、そしてふたりが40年近く守ってきた清田家に帰ってきた。子供たちと孫たちがパーティの準備をしている音が聞こえる。

この家は幸せの家だ。この家に住まう人々がそれを守ろうとする限り、きっと永遠に。

一足先に帰ってきたたちはまず着替えて、事前に取り決めておいた役割分担に沿ってパーティの支度をすることになっていた。子供たちを着替えさせるのはそのあと。本日の子供たち担当はカズサがいる都合上、信長とエンジュだ。あとは全員パーティの準備。

……なあ
「なに? どした」
「オレたちも還暦過ぎたらあれやらない?」
「今朝まで苦笑いだったのは誰よ」

部屋で着替えていた信長はネクタイを引き抜いたところでぼそりと言い、パーティドレスの下に着ていたキャミソール一枚のはつい裏拳で突っ込んだ。ババアが真っ白なドレスでバージンロードとか矛盾が過ぎねえか、なんて漏らしていたくせに。

はぼんやりした表情の信長の首にするりと手をかけると、にやりと笑う。

「実際に見てみたらああいうのもいいなあって思っちゃった?」
「うん。てかあれ頼朝も絶対やると思う」
「君ら似てないようでそっくりな兄弟だよね」

光沢のあるピンクベージュのキャミソールの上を信長の手のひらが滑り、の体をそっと引き寄せる。さっさと着替えてパーティの支度をしなければならないが、子供たちはまだ階下だし、部屋の中は静まり返っている。額と額が触れ合い、信長は声を潜めた。

……だから、結構長い間、お前を頼朝と尊に盗られるんじゃないかって、思ってた」
「まあ、私の場合前科があるしね」
「でも、気付いたら頼朝も尊もそんな状態じゃなくなってて」

いつかを意のままの女性にしようとした頼朝は唯一無二のパートナーを得て子供を授かり、いつかを同意なく押し倒して行為に及ぼうとした尊は自分だけを愛してくれる存在を家族に迎えた。そして無知で無垢で幼かったはいつしか、この家を預かって先頭を歩く人になった。

、言っていい?」
……いいよ」
「可須佐が生まれた時、オレはものすごくショックを受けて」

正しくはカズサを産み落としたばかりで疲れ切ったを見て、信長は後頭部を殴られたかのようなショックを受けた。それがどういう意味のショックだったのかは本人にもわからない。ただ強い衝撃に思考が麻痺して、心が震え、胸が一杯になって、涙となって溢れ出てきた。

「可須佐はオレの人生を変えたと言っても過言じゃなくて、自分の中の色んな常識とかそういうものが次々にひっくり返っていって、それに着いていくのがやっとだったのに、自分から頭突っ込んでガンガンに子育てしてるお前を見て、なんてすげえ女と結婚したんだろって思ったんだよ。遠征で留守にしてる間、泣いてないかなっていつも心配で、だけど帰ってくると可須佐抱っこして元気よく『おかえりー!』って言われて、この人ほんとすごいなって、思ったんだよ」

の頬に信長の鼻がするりと纏わりつき、少しだけ吐息が漏れる。

「いつもいつも海で泣いてた女の子が、オレの背中に隠れて震えてた女の子が、いつの間にかスーパーガールになってて、気付いたらこの家の中心に、太陽みたいな存在になってて、そしたらすぐに天那も授かって、毎日すっげえ疲れて忙しくて大変だけど、と結婚してよかったって、思って」

終わることのない苦役の道にも思えた遠距離恋愛は、ほんのちょっぴり苦味を伴う切ない記憶になりつつある。もう離れて暮らした5年間よりも長い時間を一緒に生きている。今や血の繋がりのある家族よりも家族だったし、ふたり揃ってひとつの存在だと感じることもある。

信長の指がの目尻に触れる。

「犬が死んじゃったの、って泣いてた女の子はもうずっと遠くにいて、だけどあの時のがずっとオレの中の一番奥にいて、オレはあの女の子を心から笑わせてやりたいって、今でも思ってる」

の目尻から、涙がひとしずく信長の指に伝う。

「信長がそう思ってくれてるから、私はこの家を守っていきたいの」
「ふたりで守っていこうよ。新九郎と由香里みたいになって、次に受け渡せるようになるまで」

信長はの頬を両手で包み込むと、たっぷりと時間を掛けてキスをして、そしてまたキャミソール姿の妻の体を抱き締めて幸せそうに微笑んだ。

「可須佐が生まれた後、まだハイハイも出来ないあいつが可愛くて、こんなこと迂闊に言えないけど子供もっともっとたくさん欲しい、って思ってたんだ。バスケチーム作れるくらい子供作って、とそういう家族になりたいって。そしたら今家ん中に子供7人! 半分くらい人の子だけど、とふたりで子供たくさん育ててるみたいな気分になることもあって、それが楽しくてさ」

まだ双子とはある程度の距離があるし、コハルは赤ちゃんだし、自分の子のように錯覚してしまうのは寿里くらいだが、それでもとふたり、たくさんの子供たちに囲まれた生活という信長がぼんやりと思い描いた夢想は現実になってしまった。

「正直言うと、もう何人かいてもいいなって、思うこともあって」
「それ、ずっと思ってたんでしょ」
「ごめん、嗣巳が生まれた時にそう思った。3人目だけどめちゃくちゃ嬉しかったから」
「そう思ってくれてるのは嬉しいよ」
……と、オレが、混ざりあった証が、もっといっぱい欲しいなって、思ったから」

爪先立って信長の首を引き寄せてキスしたは、耳に遠く潮騒を感じながら夫の目を見つめた。彼の瞳の中に、自身が駆け抜けてきた時間が、共に歩んできた軌跡が見える。それはいつか長い時間の先に、あの海へと繋がり、白く泡立つ波の向こうへ帰っていくだろう。

その波の肌を撫でるように吹き渡る風に乗り、やがて星空に溶けて消えるまで。

「信長、大好き」
「オレも。ずっとずっと大好きだよ、

未来へ向けて放り投げた約束は、きらめく水面にゆらめいてふたりを待っているから。

いつまでも。

その後のパーティの盛り上がりは言うまでもなく深夜まで続き、新九郎と由香里の再挙式という名目のもとに清田家は存分に酒を飲み、料理を楽しみ、他愛もない話に花を咲かせた。

日が落ちてからは、酔っ払ってどうでもよくなってきた由香里が「呼びたいんだったら呼べばあ?」と言い出したので、四郎さんご夫妻やごく親しい友人知人が招かれ、宴会は若干グダグダになりつつも延々と続いた。のちに頼朝が計算したところ、酒代だけで23万だった。記録更新。

さらにこの日は信長所有のゲーム機によるカラオケが導入され、子供たちのオンステージでひとしきり盛り上がった後、たまたま由香里の近くにいたウサコへとマイクが渡された。いわく、結婚式にはちょっと合わないけど、私の好きな曲なの、歌ってよと「オリビアを聴きながら」をリクエストした。

恐縮しいしいマイクを持ったウサコが歌い出すなり、宴会は驚愕に口を開けて驚く人々で埋め尽くされた。ウサコ、めっちゃ歌うまい。そういえばこの人子供の頃からスナックの手伝いをさせられて20年の人だった。特に歌謡曲がうますぎて拍手喝采の嵐。

たちは、一緒に暮らしていても知らないことがあるもんだ……と笑い合う。

毎日一緒に暮らす気楽な家族だけれど、きっとまだまだ知らないことは隠れているし、大変なこともつらいことも楽しいことも嬉しいことも尽きないに違いない。

そしていつか、子供たちに受け継がれていくだろう。

家も、命も、記憶も。