星屑の軌跡

14

罠にかかった信長3

信長とが朝っぱらからオフィスに呼び出された日の深夜、清田家のリビングはダウンライトの明かりが柔らかく灯り、テーブルの上のグラスがちらちらと光を反射して煌めいていた。

普段ならいて当たり前の母さんがいないので、この日は特に子供たちが不安定で、由香里とウサコはもちろん、ぶーちんや四郎さんの奥さんもぐったり、元気なのはやはりセイラちゃんだけで、この日の清田家は珍しく外食をした。

しかし車の台数にも限りがあるため全員が一気に出かけることは不可能なので、普段から週末になるとよく出かけている頼朝とウサコはセイラちゃんと共にコスモを預かる形で残り、新九郎はぶーちんとだぁも連れて大きな座敷のある地元の古いレストランに出かけた。

そして小山田夫婦と四郎さんご夫妻を送り届け、外食の後にアイスクリームショップでアイスを買ってもらって大はしゃぎだった子供たちが糸が切れたように寝てしまった午後10時、リビングではやっぱり酒が出てきた。と言っても、由香里は疲れてダウン、ウサコもセイラちゃんに寝かされ、そのセイラちゃんもコスモを部屋に連れ帰ったまま出てこない。

じゃあ寝る前に少し酒でも飲みながら話すか……となったところで尊も帰ってきたので、信長は改めて新九郎にことのあらましを説明し、動機という点では非常に疑問が残る結果であったことを報告していた。というか信長は仕事のいろはを仕込んでくれた頼れる先輩の犯行だったということが、まだ少し腑に落ちない様子だった。

「なんていうか、体育会系独特のというか、細かいことを気にしない姉御肌な人だったんだよ」
「でも蓋を開けてみたらベッタベタにウェッティな人だったわけね」
「信長ってどうしてそういう女にモテるの? って昔そういう女だった?」
「失礼な」
「ウェッティなところはあったよね〜」
「みこっさん、それはもう弁当作らなくていいってことかな?」

完全に被害者なので明日も1日休みをもらった信長はホッとして緩んでおり、酔いも早い。尊に突っ込むの声に薄ら笑いを浮かべている。無職にならずに済んだし、沢嶋さんは戻ってくるし、怖い思いはしたが、むしろ結果は上々じゃないか?

「だけど、あんな何の飾り気もないお弁当ひとつでスイッチが入っちゃうなんて……

とてもじゃないが、他人の嫉妬を掻き立てるような弁当ではなかったはずだ。目的は信長の夏バテ防止だったわけだし、そういう意味でならもう少し洒落っ気があってもよかったんじゃないかと思うくらいには栄養素優先の弁当だった。は少し肩をすくめてグラスを傾けた。

すると、新九郎がヒゲをしごきながら体を起こした。

「人の、しかも心の奥の方にあって、普段隠れてるものというのは、そういう、一見なんでもないようなスイッチで出てくるもんなんだよ。一瞬で通電してしまって、もう自分ではオフに出来ない。よく聞くだろ、人に言われたほんの一言で頭に血が上ってしまって、って。あれだ」

だが、信長は弁当を持っていった初日のことを思い返してまた首を捻った。

「奥さん大変なんじゃないの、って言ってたくらいだったのに」
「それが本心とは限らないじゃないか。内心では別のことを考えてたかもしれない」
「ていうかさっき沢嶋さんから連絡きたけど、例の共犯の後輩、男だったって」

それが一般的な恋愛関係にあったかどうかはまだわからないそうだが、とにかくの弁当にムカついて、という点ではまた疑問が増えることになった。

「だから信長、それが恋愛や夫婦関係への嫉妬心だったかどうか、わからんだろう」
「どういうこと?」
「例えば、おっかさんがいなくて、弁当作ってもらったことなかったかもしれないじゃないか」

リビングにいた全員が「あー」と声を上げた。

「いずれにせよ、彼女は弁当食ってる信長を見て、ポン、と頭に火がついた。怒りか嫉妬かそれはわからないけど、とにかく腹に黒いものが湧き出た。だけどその根源がもし過去のことだったりして、もう解決できないことだったら、どうやって溜飲を下げる?」

その腹の黒いものを呼び寄せる原因を作った本人に矛先が向く。そこは簡単な話だ。

「過去の脅迫とはまた別だったんじゃないか。脅迫に使っていたのと似たような手口になったことは、ただ単に得意で慣れた手法だったからで、とにかく信長を陥れてやらねばと言う思いに囚われてしまったんじゃないか、目的はそういう自分を慰めるためだった、オレはそう思うよ」

ついでに新九郎は「毎日暑いしな」と付け加えて少し笑った。彼は今2度目の結婚式に備えて本気でダイエット中であり、しかもウェディングドレスを着た由香里をお姫様抱っこしたいとかで、筋トレも続けている。なので酒は薄いレモンサワー、つまみもごく少量。

それを眺めていたは、ぽつりと言った。

「目的が見えないのは、怖い」

視線が集中したは少し身を引いて、しかしまたぽつりとこぼした。

「お弁当と、あんな悪意が結びつく目的なんて、見えないもん。例えばほら、じいじはゆかりんのこと大好きだから、それでよっしゃダイエットしようって、そこは全部イコールで繋がるでしょ。だけど、外からは繋がってるように見えなくて、その人の中でだけ繋がってしまってて、誰かの中で糸がものすごく絡まってても、私たちには全然わからないのは、怖い」

ウサコの叔父さんのようにあからさまに不審ならまだしも、信長が未だに先輩の裏の顔が信じられないように、その人の中では既に糸がぐちゃぐちゃに絡まり合ってしまっている、そのことに気付けないのは確かに身近な恐怖であろう。新九郎は頷く。

、それがだから『思い込み』だよ」
「どういう意味?」
「お弁当と悪意はイコールで繋がらない、繋がるはずがない、という思い込みだ」

確かに一般的ではないかもしれない。よくある話でもないだろう。だけど、妙見の中では、我を忘れてしまうほど「イコールで繋がること」だったのだ。だから引き金は引かれる。

「人の目的はみんな違う。例えば、今オレのダイエットの話が出たけど、親父が癌になった時、オレは28だった。当時は叔父や弟もいたんだが、親父は跡継ぎは新九郎だと言って聞かなかったし、そのせいで叔父を始め何人もの従業員が出てっちまった。しかもオレはその時点でキャリア10年とは言え、ここじゃ下っ端の方だった。それがいきなり親方代行だろ。大変だった」

ダイエットの話がいきなり親方の癌の話になってしまったので、皆しんと静まり返っている。

「で、親父が死んだのはそこから7年後。今度は30代でいきなり社長だ。また従業員が出ていった。死ぬ前に親父にちらりと聞いた話によれば、もちろん親父は癌になんかなるつもりなかった。だけど病に倒れて自分の手で会社も家族も守れなくなったと気付いて初めて、怖くなったそうだ」

新九郎、オレは家族にこの家と会社を残したいんだよ。親方はそうぽつりと漏らした。

「オレの叔父はつまり、親父の弟だ。それだって家族のはずだし、オレの弟もいたけど、親父は頑なにオレを跡取りにして工務店と家を守れとしか言わなかった。今ではもう勝手に想像するしかないけど、おそらく、親父の目的は……お前たちだったと思うんだ」

そう言って新九郎は息子たちをひたと見つめた。

「そう考えると親父が頑なに、だけど詳しいことは言いもせずに死んでいったのはわかる気がするんだ。オレの弟は親父の死後はふたりで工務店をやっていくものとばかり思っていたから、憤慨したものだったけど、あとでやっぱりオレと同じ結論に至ったらしく、笑ってたよ。あんな怖い顔して孫可愛さに弟と次男を追い出したのかよってな」

親方は顔が怖くて、滅多に感情を外に出さない人だった。それが強い口調で、跡取りは長男しか認めない、気に入らないなら出て行け、長男も逆らうことは許さないと痩せ衰えた体で言っていた。それはもしかしたら、自分が病んでいくそばで次々と生まれてきた孫たちのためだったのかもしれない。

……それがダイエットとどう繋がるんだ」
「結婚式までにダイエットして、ついでにヒゲを剃ろうかと思ってたから」

もしかしたら自分が今専務の座に就いていられるのはおじいちゃんのおかげだったかもしれない頼朝は、ちょっと照れくさそうに言ったが、また首を傾げた。

「このヒゲも、若造が親方になっちまったことで、外で舐められないようにと生やしたもんだったんだよ。あの頃はおっかねえ職人さんがたくさんいてな。親方が床に伏したのはしょうがないけど、お前みたいな若造にその代わりが務まると思ってんのか、って面と向かってよく言われたもんだよ」

定年のない世界、まだ30代半ばの新九郎など、やっと仕事を覚えた程度にしか認めてもらえなかった。

「あの頃は、おっさんになればなるほど偉いっていう時代だった。家族を顧みずに無茶をやる男はかっこいいと言われた。どんなに疲れてても遅くまでガバガバ酒を飲んで、咥え煙草で仕事してんのがかっこいいと思ってるようなのが、たくさんいたんだ。オレはそこに混ざらなきゃいけなかった」

新九郎の目的はそういう世界で幅を利かすことだっただろうか。そんなわけはない。

「オレは由香里と結婚して、子供が生まれて、家族で仲良く暮らしたかっただけだった。由香里に女将の後を継いでもらいたいなんて考えたこともない。だから、オレの目的とは違う生き方をしなきゃならなかった。もう何十年も、オレは自分の本当の目的とは向き合えなかった」

彼の顔をずっと覆ってきたヒゲは、その象徴だったんだろう。

「だからもう、これはいらねえかと思ってな。由香里だってそうだ。あの人は目の前にあることから絶対に逃げたくない、そういう人だから、まあある意味ではこの何十年かは自分で選んだ生活だったかもしらんが、目的という話になれば、もっと違う形だったはずだ」

すると新九郎はふと思いついたように鼻で笑った。

「頼朝にはずいぶんと『家に他人を入れるな』と怒られたもんだけど、それもな、子供の頃から常に人で溢れかえった家で育ったのに、親父の病気をきっかけにしてこの家はどんどん人がいなくなっちまって、それが居心地悪くてなあ。つい人がたくさんいると安心するもんだから、入れ入れってな。だからそこは家を子供の時みたいにしたいっていう、オレの目的どおりだ」

と信長が知り合った当時は親子5人とおばあちゃんしかいなかった。さらに後々信長たちが進学や仕事の都合で家を出ていた時は、新九郎と由香里とおばあちゃんの3人だけ、という時もあった。そして現在、一時滞在も含めると全部で17人である。そろそろ満足したのかもしれない。

すると、最近その「目的」という言葉が重いエンジュがおずおずと声を上げて、誉さんの話を始めた。

「そ、そういう人もいるんだね……
「程度は異なるけど、案外そういう人いるよ〜」
「みこっさんはほんとになんなの」
「付き合いが広いから」

新九郎の手前ニヤリ笑いで済ませた尊だったが、今彼にはどうしてもその「目的」が知りたい女性がいる。天道由仁子だ。ほとんど会話したこともなく、ただ少し捻じ曲がった形で好意を寄せられているなという感触しかなかった、いわば「通り過ぎた」だけの女。

色んな女の子を見てきた。親しくなって、付き合って、体の関係を持った。尊は女の子にあれこれ「条件」をつけるタイプではなかったから、本当に性格も外見も様々な女の子と親しくなってきた。

しかしそれは同時に、尊のポリを受け入れられて、月イチのデートでも大丈夫、何なら彼女同士面識持ってもいいよ、というタイプの人間ばかりと親しくなってきたことになる。恋愛経験は豊富なようで、恋愛は1対1じゃなきゃだめ、という女はひとりも知らなかった。

「それでも確かに途中まではお互い完璧な存在だったんだよ」

エンジュの言葉を聞きながら、尊は遠い記憶に揺らめくだけの影に目を凝らしていた。

「目的が噛み合わないだけで、そんな風に簡単に壊れる『完璧』も、あるんだなって」

きっと、ポリでなかったら、ユニコにとってオレは完璧な存在だったんじゃないだろうか。

後日、事情聴取が進む中、妙見とその後輩は過去の脅迫や盗撮については徐々に供述を始めたが、弁当にムカついて捏造を行った件だけは、貝のように固く口を閉ざして何も言わなかった。後輩も「将来の備え」だと言われて出張先の動画を撮らされていて、先日突然それを使って不倫現場に見える画像を作れと言われただけで、詳細は知らないと言う。

新九郎が邪推したような、例えば親に弁当を作ってもらった経験がない……ということもなく、過去の恋愛や学生生活の中でも、ヒントになるようなことは何も見出だせなかった。

そして反省の意がまったくない様子の妙見は、「脅迫されたくなかったら、悪いことをしなければいい」の一点張り。今問題にしているのは、それを脅迫して金品その他を脅し取ることなのではと突っ込まれても、「悪いことをしていなければ払う必要はない」としか返さなかった。

結果、自主退社していった元選手を含め、チーム関係では3人、チーム外では16人に、主に不貞行為などの証拠写真や音声データを使っての脅迫行為が明らかになった。

だが、犯行は14年前から断続的に行われており、脅し取った金額はひとりにつき最大で合計20万程度。妙見とその後輩の生活は一般平均の枠を出ることはなく、パソコンの中から脅迫に使ったデータが見つかった他には、いかなる不審な点も見つけられなかったという。

そして当事者である信長を始め、被害にあった人々、そしてチームの上層部も、彼女がなぜ犯行に及び、そして最終的には捏造に走って足をすくわれたのか……ということについては、何もわからずじまいだった。まさに、目的――真相は闇の中である。

それをのちに沢嶋さんは、「逮捕されるほどの犯罪行為よりも、社会に隠しておきたい何かが彼女の中にあったんだと思う」とこぼした。自分もそういう風にひた隠しにしてきたけれど、妙見はそれが弁当というトリガーによって引き出されてしまい、我を忘れてしまったのではないか、と。

後輩の方は反省著しく、事情聴取の間もずっと半泣きで謝罪を繰り返していたことと、実際の脅迫行為には及んでいなかったため、執行猶予となった。だが、妙見の方は反省の欠片もなく、事情聴取にも非協力的だったため、懲役刑となった。

とはいえ脅迫罪の実刑は2年以下と定められており、チームの代表には一応8ヶ月間刑に服して出所したことが知らされた。その後のふたりに関しては、誰も、何も知らない。