星屑の軌跡

7

真夏の恋3

……お父さん、怖かった?」
……怖かったよ。今まで生きてきて、一番怖かった」

家に戻った信長とカズサは風呂で体を温めて着替えると、縁側で向かい合っていた。もうとっくに昼を過ぎていて、ブンじいは昼飯を調達してくる、と山を降りている。なので信長とカズサ、完全にふたりきりだ。蚊取り線香の煙が漂う中、麦茶のグラスが汗をかいている。

……オレも、怖かった」
……カズサ、ブンじいに叩かれて、どう思った?」
……ブンじいは、お母さんのおじいちゃんだから、怒ってるんだなって思った」

予想だにしない言葉が出てきたので、信長はひょいと顔を上げた。どういう意味?

「もし、オレと、お父さんが溺れて死んじゃったら、お母さん泣くじゃん」
「そうだな。ユキが死んだときより大声あげて泣くと思うよ」
「その話しないでよ! お母さんが泣くの怖いからやだ。お父さんが泣くのもやだ。怖い」
「だってお父さんも怖かったんだもん」

カズサには父親と全く同じトラウマがある。飼い犬が亡くなり、それを悲しんで声を上げて泣く母親、女性の泣き声は死と隣合わせで、怖いもの。信長もカズサも、子供の頃に「女の涙は怖い」という記憶を植え付けられることになってしまった。

……だから、ブンじいは、お母さんのおじいちゃんだから、お母さんが悲しいのは、嫌だろうなって。もしオレとお父さんが死んじゃったら、お母さんは泣くから、それはオレのせいだから、だからブンじいは怒ってるんだろうなって思った」

ブンじいが、今や世の中がこれを全否定する方向に向かっている中で敢えて手を上げた真意と遠からずだな――と信長は思いつつ、頷いた。ブンじいはなぜ父親の言うことを守らなかった、と叱りつけたが、恐らく本当に言いたかったことはただひとつ、お前たちに何かあったらが苦しむ、ということだったに違いない。彼はカズサの曽祖父になる前から、の祖父なので。

「それで?」
「それで、お父さんが泣いてるみたいに見えて、それで、いけないことしたんだって、思った」
「ほっぺ叩かれたことは、どう思った?」
「お母さんとばーばがここにいたら、もっといっぱい叩かれたんじゃないかなって思った」

ブンじいの平手打ちの意味を、カズサは正しく受け取ったらしい。しかしそれを正しい手段と思われても困る。信長はそう考えて付け加えようとしたのだが、ずっと末っ子で来た父と違い、こちらは既に下に3人いて、もうすぐ4人目が出てくる大家族の長子である。

「泣いてる赤ちゃん叩かないのと同じでしょ。オレ、アマナも叩いたことないよ」
「そ、そうだったな」

カズサはその名の由来であるスサノオのように手がつけられない暴れん坊だが、言われてみれば確かに妹たちを叩いたり蹴ったりしたことはない。どちらかと言えばカズサが叩いたり蹴ったりしてきたのは本気で遊び相手になっていた信長や新九郎、取り押さえようとしたと由香里だ。

信長ははたと思いついて顎に指を添えた。あまりにも自分に似ているので忘れがちだが、あの大家族の中ではカズサの立場は頼朝の方に近いのだ。そもそもの性格や遺伝もあろうが、環境によって作られる個性もある。とすると――

「カズサ、お父さん、カズサが出来ないなんて、思ってないよ」
……お母さんが、すぐ危ないからダメって言うのが、やなんだよ」
「お母さんがどういう意味で言ったんだと思ってる?」
「それはわかんないけど、アマナとか、寿里と、同じにされるの、やだ」
「カズサの方がお兄ちゃんだから?」

カズサはこっくりと深く頷いた。

それを見た信長は、これがカズサの「プライド」なのではないかと考えた。必ずしも結びつける必要性はないわけだが、頼朝も凄まじくプライドが高い。尊はそういうことに執着がないし、信長は使い分けができているタイプだ。

「アマナと寿里はまだ幼稚園生だし、アマナは女だし、オレは違う」
「男と女って、そんなに違う?」
「違うよ! 全然違うじゃん! お父さんとお母さんだって違うじゃん!」

子供は素直だな――信長は不意に学生の頃に受けた講義の横道に逸れた雑談を思い出した。原始の海に漂う我々の祖先にはそもそも性別や個性なんかなかった。けれど、自分のコピーを作り続けることより、他と混ざりあうことを選んだ。その時我々は男と女に分かれることを、選んだのだ――

「女はダメで、男はいいの?」
「それは知らない。だけどオレは男だから、弱いって思われるの、いやなだけ」

立場は頼朝でも、やっぱりオレの子だなあ。信長はつい頬が緩んでしまいそうになるのを堪えていた。社会的な性差別はもちろん正当性に欠ける。男性優位も然りだ。けれど、こうして幼い子供の中にも、それを抱えたまま大人になった自分の中にも、どうしても自身が男であることへのこだわりのようなものが、ある。なくならない。

例えばカズサがそれを理由に妹をいじめたとか、アマナと寿里で区別するべきだと言えば父はもう少し踏み込んで話をしなければならないところだったけれど、そこは問題なさそうだ。彼は自分が男であることへのプライドが強いあまり、強い人間であることを誇示したい欲求に抗えなかったらしい。

じゃあなぜ誇示したいのかという話になれば――

「だけどカズサ、今日、怖かったよな?」
……うん」
「それって、弱いとか、いけないことだと思う?」
「そんなこと、ないと思うけど、みんな、オレのことよく笑うから」

やはりな。信長は納得の思いでしっかりと頷いた。この子は頼朝レベルでプライドが高く、それが由香里のような負けず嫌いとなって吹き出している。頑固なところは母の血筋にもよく似ている。そう、笑われるのは癪に障るのだ。腹が立つのだ。だから誇示したい。証明したい。

それは当然の感情だろう。これは周囲の大人の方が彼を尊重して改めるべきだ。よし、帰ったら全員集めてまずは以後一切どれだけ微笑ましくてもカズサを笑わないようにしてくれと言わねばなるまいな。父親として、彼の中の「男」のために頭を下げよう。

幸い清田家には「子供が偉そうに、人をバカにして笑うのも、こっちの勝手だから好きにする」というようなタイプがいない。きっと理解を示してくれるはずだ。

「わかった。お父さんは二度とカズサのことバカにしたように笑ったりしない」
……うん」
「そしたら、カズサも約束してほしいんだけど」
「何を?」
「怖いことでも、恥ずかしいことでも、なんでも、お父さんにだけは、嘘、つかないで」

どうにも自分が男で兄であることにプライドがある様子のカズサなので、いずれ長じては母親に言いたくないことも出てくるだろう。その辺は身に覚えがありすぎる信長なので、安易な想像ではないはずだ。かといって、それを放置でもマズい。そこは自分の役目のような気がした。

「お父さんもカズサに嘘、つかないから、カズサもお父さんには、何も秘密にしないで」
……本当に嘘つかないの」
「つかないよ」
「お父さんて、お母さんとオレどっちが好きなの」
「お母さん」
「早!!!」

即座に真顔で返されたのでカズサはついツッコミ、そしてむせた。

「まあでも、お母さんの好きと、カズサの好きはちょっと種類が違うからなあ」
「知ってるよ」
「じゃあ何で聞いたんだ」
「こういうこと聞くと、みんなオレが子供だからって感じで、変な声出して嘘つくもん」

大人はそうやって嘘をつく。子供だからバレない、どうせ覚えていない、理解出来ないと思って、当り障りのないことを言ったりする。そういう小賢しさごと全部、バレてんだよなあ。自分にも覚えがある信長はついふわりと笑った。そしていつの間にか、新九郎と同じになってしまった。お父さんはお母さん大好きです。それは隠してもしょうがない。

「じゃあカズサ、約束」
「うん、約束。男の約束だね」
「そうだ。破るなよ」
「破ったらお父さんは腕時計捨てる」
「ちょ、いやそれは、じゃあカズサが破ったらゲーム捨てる」
「は!?」

せっかく男の約束でガッチリ固い握手を交わしたのに、ふたりはそのままバチバチと手を叩きあった。腕時計捨てるのもゲーム捨てるのも絶対無理。するとブンじいが軽トラで戻ってきた。お昼ご飯だ。

「カズサ、ブンじいと普通に出来るな?」
「普通ってなに。オレ、ブンじいにまだごめんて言ってないから、言ってくる」

あら? なんかずいぶんかっこよくなったねカズサくん?

信長は小走りで軽トラを追いかけるカズサの後ろ姿を眺めつつ、無性にに会いたくなっていた。

その後男3人でお昼を食べながらじっくり話し合った結果、川での一件は信長とカズサとブンじいだけの秘密とすることに決まった。カズサはどうして飛び込みたかったのかを正直に話したし、しかしそれはブンじいには話せても、母や祖母には恥ずかしくて言いたくないことだったからだ。

ブンじいも古い時代の人なので、「そりゃあ男の沽券に関わるからな」と納得していた。

そして、慣れない平手打ちを食らわされたというのに自分から謝りに来たカズサを手放しで褒めちぎり、これが強い男っていうことだ、君は強い男になったんだぞ、とまたカズサの男子心をくすぐるようなことを連発していた。

3人共疲れたので午後は昼寝をし、起きたら今度は四苦八苦しながらピザを作り、また満天の星空の下でそれをきれいに平らげた。ピザにはカズサの嫌いな野菜もたっぷり乗っていたけれど、全部完食。そして、また糸が切れたように寝オチた。

「川の件は話さんでもいいけど、にはいい子を育てたなと伝えてくれよ」

信長がカズサを布団に押し込んでいると、またブンじいはランタンに明かりを灯して、酒の準備を始めた。というか昨日の新九郎の土産の日本酒以外にもなんだか色々増えている。そう、明日はもう神奈川に帰るのだ。ブンじいとじっくり話すなら、今夜しかない。

……には、苦労かけてます」
「苦労……というのかいな。あれはあの子が選んだ道だろうに」
「そうかもしれないんですけど」
「着たきり雀の貧乏暮らしってわけでなし、それは君の気にしすぎじゃないかい」

現在家の中のことの一切を取り仕切る立場であるなので、そりゃあ忙しいし苦労もあろう。何しろ自分も入れて大人9人に子供が4人、さらにもう少しでひとり増える。しかしブンじいはそれもが夢と定めて手放さなかった生活であることを知っているので、首を傾げた。

「なんというかその、幸せにしてる自信が、なくて」
「おいおい、結婚して何年だよ。そんなものオレたちの歳になってようやく見えてくるようなことだろ」
「忙しくしてる見てるとたまに思うんですよ。ほんとにこれでよかったんだろうかって」
「聞いてみりゃいいじゃないか。それが自分の選択だって言うに決まってる」
「そうなんですけどね」

知っていてたまに不安になってしまうのだ。髪を掻きむしりながら焼酎を傾ける信長に、ブンじいはまたニヤニヤと笑って、手酌で日本酒を注いだ。

「昨日、モールに行ってきただろ。そんで、学生時代のに会ってきたんだろ? あの頃は勉強とバイトで24時間を使い切ってた。オレたちがその理由を知るのはずいぶん後の話だけど、何もかも全て君のもとに帰りたい一心だったんだよ。あの子はそのくらい君に惚れ抜いてる」

ブンじいの古風でロマンチックで直接的な言葉選びにまた信長の頬が熱くなる。

「そりゃねえ、決まって毎週『あなた、あたしあなたと結婚できて幸せよ』なんて言わんだろうよ」
「そ、そうなんですけど……
「やれやれ、そういうのを惚気って言うんだぞ。大丈夫、君が思う以上には満足してるはずさ」

でかい図体を縮こませて信長が照れているので、その半分くらいしかないブンじいはニヤニヤしたままゆったりとため息を付き、お盆にグラスを戻した。

「どれ、ひとつ、誰にもしたことのない話をしてやろうか」
「えっ?」
「オレの恋の話だ。聞きたくなければ話さんから言ってくれ」
「い、いえ、そんな」

驚いて背筋を伸ばした信長はあたふたと手を動かした。聞きたくないとかそんなことはないけれど、むしろ逆に、そんな「誰にもしたことのない話」を自分が聞いていいのだろうかと心配になった。まさか若い頃におばあちゃんに内緒で想い人がいて……なんていう話だったらどうしよう。そういうのを背負うにはやっぱりまだ修行が足りない気がするんだけど。

「オレたちは、卒婚、しただろう。もう何年も前になるけど」

話の始まりが卒婚て、じゃあ最近の話じゃん。おじいちゃん老いらくの恋ですか……と覚悟が定まらないまま聞き出した信長が緊張していると、ブンじいの声が突然、か細く弱くなった。

「オレは、卒婚した後に、嫁さんに恋をしたんだよ」

信長は自分では「えっ」と声を出したつもりだった。けれど、それは掠れた空気となって漏れ出ただけで、音にならなかった。嫁って……嫁っておばあちゃんだよな?

「オレたちは見合い結婚で、それもあとで話し合ったら、お互い実家が近くて高校も同じだし、地元で結婚しちゃえば親兄弟になにかあっても心配ない、ってそれが決め手だったんだよな。今はそんなことが理由で結婚なんか出来ないだろうけど、あの頃は惚れた腫れたで結婚の方が少ないくらいだったから、何も疑問に思ってなかったんだよな。ちょうどいい相手だった」

自身の祖父母はその珍しく惚れた腫れたで結婚したくちなので、信長にとっても見合い婚の当事者から話を聞くのはこれが初めてだった。確かにそれだけで結婚を決めるのは実感として理解しがたい。

「だから正直、お前たちみたいに嫁さんのことを好きだなあなんて思ったことはなかった。子供が生まれて父親と母親になってからは余計にそういう感情からは遠ざかってた。まあ、強いて言えばお互い酒好きだから、いい飲み友達という感じはあったけど、それだけだな」

本当にこのブンじいとおばあちゃんは酒を飲むのが好きで、子供がふたり独立してからは居酒屋巡りをずいぶん楽しんだらしい。それについては本当にいいコンビだったようだ。

「だから卒婚で生活を別にした後も、たまに一緒に飲みに行くことにしてたんだ。もう何十年と一緒に生活してるから、飲み方やらつまみの突っつき方まで何でも知ってるだろ。あいつと飲むのが一番気楽だったんだよ。月に1回くらいか、オレが夕方、迎えに行くんだ」

山の斜面を滑り降りてきた風が吹き込み、ふたりの首をするりと撫でていく。信長はそのブンじいの声色に、一瞬年若い青年のような響きを感じて目をこすった。聞こえたのは耳だが、つられてブンじいがなんだか若返って見えたのだ。若い頃の彼など、見たこともないのに。

「卒婚して『家庭の主婦』って立場から解放されたあいつはそりゃもう活き活きしててな。あっちは女5人で生活してて、誰も何も言わねえもんだから服はなんだか明るい色になるわ、髪も染めたり化粧したり、ずいぶん楽しんでた。そういう――彼女を見たことがなかったんだ」

――こういうことって、なんで後で気付くんだろうなあ

昼間、河原でブンじいが呟いた言葉が耳に蘇る。おしゃれをして楽しそうなおばあちゃんを見たブンじいは、気付いた。おばあちゃんが、おしゃれをするのが好きで、お化粧をしたり髪を染めたりするのが楽しい女の人だとやっと気付いた。

「言い訳がましく聞こえるかもしれないけど、オレは服や化粧に金を使うななんてことは言ったことないんだぞ。だけど、オレの稼ぎじゃ子供を育てながら思う存分そういう楽しみをするのは無理だったんだよ。だから、最初はびっくりしてなあ。初めて嫁さんを可愛いと思ったんだよ」

結婚し、子を設け、孫も授かり、そして老いて郷に帰ることを選んで離れて初めて、ブンじいはおばあちゃんを可愛いと思った。信長は、一番最初にのことを可愛いと思った。ブンじいは、最後になってやっと、連れ合いを可愛いと思うことが出来た。

「それ以来月イチの飲み会が楽しみになって、あいつを迎えに行くのが待ち遠しくなって、何度目かな、とうとう帰り道で手を繋いで歩いた。何やってんのよ恥ずかしい、なんて言うから『転ばないようにな』なんて言ったけど、手を繋いで歩きたかったんだよ。これはもう、恋だろう?」

恋というものに「してもいい年齢してはいけない年齢」があるとすれば、それは恋ではなくなにか別のものなのかもしれない。だが、ブンじいが潜めた声で語るその心が浮き立つような感情、それは信長には恋にしか聞こえなかった。みずみずしくて、生まれたばかりの恋だ。

……それ、おばあちゃんには言ったんですか」
「言いたかったんだけどな、でもそんなことを言ったら、また彼女を縛るような気がしたんだ」

せっかく卒婚をして「家庭の主婦」という立場から解き放たれ、幼馴染や家族と暮らしておしゃれを楽しんでいるおばあちゃんに、誰かの嫁という自分を思い出させるのではないか。それは結局「家庭の主婦」という数十年に直結していく。

「だから、オレが一方的に恋焦がれてるだけでいいんだよ。それに、あいつに恋をした、恋することが出来た、それがオレにとっては大事なことで、そういう照れくさい感情を心に秘めてるだけで、少し幸せだった。そういう気持ちになれたことで、また彼女に感謝もしたんだ」

順序は前後してしまったかもしれないけれど、ブンじいは間に合った。好きになれない人と結婚して気付いたら年をとっていたのではなく、ちゃんと、心から恋した人と結ばれたのだ。そして本人は知らぬままではあっても、おばあちゃんもまた、ひとりの男性に心から愛されたのである。

「だから今、見舞いに行って、髪を梳かしてやるのが、何より幸せなんだよ」

ブンじいはおばあちゃんの容態についてあまりはっきりと言わない。の母親も予断は許さないが今のところ落ち着いているとしか説明されなかったと言っている。それでもまだ、ブンじいは大好きな人の元へ通い、その髪を梳かしてやることに幸せを感じている。

信長は喉が詰まったような気がして、また焼酎を流し込む。

「退院、出来たら、ここで酒を飲みたいもんだな。このきれいな星空を見せてやりたい」
……オレも、とここに来たいです」
「おう、連れてきてあげなさい。みんなで来たらいい」
「いえ、ふたりで、来たいです」

ブンじいは意外そうな顔をして柿の種をボリボリ噛み砕いていたが、ふっと鼻で笑った。

「じゃあその時に、聞いてごらん。今幸せかって」
「はい、そうします」
「というかその前に君はどうなんだよ。と結婚して幸せかい」

信長は火照るばかりの顔を上げて夜空を仰いだ。空を埋め尽くす無数の星のように、この世界には数え切れないほどの人がいるというのに、思い出すのはのことばかりだ。

学生の頃はひとりの女の子にこだわっている自分を疑問に感じて苦しんだこともある。あの頃信長の身近には真面目に一途に恋愛したいと考える人はほとんどいなかった。その中にいて弱々しい「覚悟」とやらを揺さぶられ続ける日々だった。

だけど今、という人がともにあることは、奇跡だと思うようになっていた。

……はい。めちゃくちゃ幸せです。オレの方が、幸せにしてもらってます」
「ふふん、のじじいだからって嘘ついてるわけでもなさそうだね」
「酒も入ってますけど嘘じゃないっす。オレ、おじいちゃんの孫大好きなんで」
「かーっ、言ってくれるねえ。まったくお前さんはいい男だよ」
「おじいちゃんには叶わねえっす」
「おいおい、おだてても何にも出てこねえよ」
「おばあちゃんへの愛の言葉とか出してくれればいいっす」
「何言ってんだ、勘弁してくれ」
「あ、照れた」
「照れてねえよ!」

蚊取り線香の煙が漂う縁側、信長はブンじいと乾杯し直し、向かい合って存分に飲み明かした。目が眩むほどの星のきらめきが彩る星空、どれだけ飲んでも一瞬で酔いが覚めるような鮮烈な風、虫の声、ランタンの明かり。信長は、それら全て、一生忘れられないだろうと思った。

そしてブンじいは以後、信長のことを「親友」と呼ぶに至るのである。