9月になればひとまず夏休みが終わる。まずはカズサの学校が始まり、そののちアマナと寿里の幼稚園も始まり、その上、が思いついて子供たちの通う幼稚園に話をしてみたところ、年末に転勤でひとり減るとかで、宇宙と彼方の編入の相談を受けてくれることになった。
何しろこちらの幼稚園、頼朝を皮切りに尊、信長、小山田家のふたり、カズサ、アマナ、寿里……と既に清田家周辺だけで8人を通わせているお馴染みさん。さらにツグミともうすぐ生まれてくる女の子も控えており、その辺の事情は現在副園長で信長の担任だった先生が特に詳しい。
そこにいきなり双子が増えたと聞いて、3年保育なら今のうち、と言ってくれた。
なのでもしそれが叶えば、8月の終わりとともにこの保育園状態は終わる。はそれが見えてくると、妙な達成感で高揚するようになっていた。由香里の後を継いで数ヶ月、試行錯誤の日々だったけど、これを乗り切れたなら、もう何も怖くない気がする。私はやれる。やってやった。
そんな中、突然懐かしい人から連絡が入った。尊の元カノであるマユだった。
久しぶりにお茶でも飲みながら少し話せない? ということだったのだが、としては9月になったら、というのが正直なところだった。だが、そう返してみると、9月に入ったら都合が合わないという。それを過ぎてしまうとしばらく時間が取れないと言うので、は悩んだ挙げ句、ウサコがアマナと寿里と共に小山田家に行っている間を狙って出かけることにした。
マユは、が忙しいことはわかっているので近くまで行くよと言ってくれたので、地元の駅である。ついでに帰りに買い物もして帰れる。
「清田家忙しいのに、ほんっとごめん! 9月に入ってからだともう無理で……」
「そんなことないって! 今私が休むことに積極的な人がいるから全然大丈夫」
が休むことに積極的なのはもちろんセイラちゃんである。しかも引き取ると決めて以来ユリイはセイラちゃんの弟子のようになっていて、最近ではよく家事を手伝わされている。本日が不在の間もあれこれやらされているに違いない。なので問題なし。
「ずっと会ってなかったから嬉しい。てかマユ、どしたのその化粧の薄さは」
マユこと真友子は、が知り合った頃からずっと華やかな巻き髪に上品な色合いの服装しかしない人だった。休みの日に女だけで飲みに行こう! と出かけても、マユは必ず巻き髪。多少服装がラフでもフルメイクに巻き髪、という人だった。
だが、そのマユが薄化粧にざっくりとしたまとめ髪、そして自然な風合いの素材と色のワンピースにヒールの低いサンダルという有様だった。一瞬誰だかわからないほどだ。
駅前のカフェに入り、オーダーを終えて席につくとマユはアイスティーを一口飲み、先日のユリイのように膝に両の拳を突っ張って、一気に吐き出した。
「私、仕事辞めたの。で、来月引っ越すことになった」
は驚きつつも、9月に入ったら都合がつかないというのは引っ越すからだったのか、と頷いた。仕事が変われば住まいも変わろう。元々それほど近くに住んでいたわけでもないので、さらに距離が開けば余程のことがない限り会うこともなくなるだろう。だから連絡をくれたのか。
「そっかあ。ずっと会ってなかったけど、寂しくなるね」
「も忙しいと思って……ほんとはもう少し話をしてから引っ越したかったんだけど」
「ごめんねー時間取れなくて。どの辺に引っ越すの?」
ストローを咥えながら気軽に問いかけただったのだが、マユは言いづらそうに少し俯いた。
「……マユ? 大丈夫?」
「四国」
「しこ……えっ?」
転職と共に心機一転部屋を変える! くらいのつもりで聞いていたは面食らった。
「あれ? マユってそっちの出身……じゃないよね、みこっさんと同じ中学」
「……結婚して、引っ越すことになったの」
「えっ? あれ?」
おかしい。結婚して引っ越すことになった……のは普通もっとめでたい話じゃないのか。マユはどうにも歯切れが悪いし、きゃーおめでとー! と言ってはいけないような雰囲気にはたじろいだ。
「たぶん、もう戻らないと思うんだ」
「……うん」
「だから、にちょっと話、していきたいなって思って」
「マユ……大丈夫?」
「うん。ちょっと勇気が出なかっただけだから」
まだまだ暑い日が続く8月末、空調の効いたカフェの中にいるというのに、の首筋にじわりと汗が伝った。結婚と引っ越しの報告をするのに、どうして勇気がいるんだろう。マユはまたアイスティーを少し飲むと、意を決したように口を開いた。
「私、上司と付き合ってたの、知ってるよね」
「うん、そう聞いたっきりだけど」
「その人と結婚するんだけど、その人ね、つい先月まで、結婚してたの」
の一瞬空白になった頭の中に、つい先日の信長不倫疑惑事件のときのことが猛スピードで駆け抜けていった。現在の身近には嫁スキーな男性が多いので、そういう話は遠いものだったのだ。
「そ、そっか……」
「待って、そこは説明させて。私が付き合い始めた時はもう、別居してたの」
マユの上司は離婚を望んでいたのだが、恩師の娘である妻が一向に折れてくれないので、ひとりで家を出ていた。その後に入社してきたのがマユで、そこから1年以上の時間をかけて付き合いだした。だが、そこから数えてももう10年以上の交際期間ということになる。
「奥さん、よっぽど別れたくなかったの」
「というより、離婚なんてみっともないっていう人だったみたいで」
「でもやっと応じてくれたってこと?」
「…………、私、妊娠したの」
はまたウッと喉が詰まった。なぜそんなめでたい話をこんな重苦しく話さなきゃいけないんだ。
「私、夢見てるんじゃなくて、私たちの関係は、奥さんに内緒で奥さんを傷つけるってわかってて付き合ってたみたいな、そういう不倫じゃなかったと思ってて、別居っていうかもう事実上の離婚状態だったし、子供もいなかったから、ただ向こうが離婚届に判子を押してくれれば不倫じゃなくなるだけの話だったんだけど、だけど、私、不倫て大っ嫌いだったの」
そりゃ好きだって人は中々いらっしゃらないのでは……と思うが、そこは黙っておく。
「だから十年以上付き合ってても家はずっと別々で同棲はしてなかったし、私がお料理作りに行くとかいうことも絶対しなかったし、妊娠なんか絶対したくないと思ってて、それはちゃんと離婚が成立してからやることだって、それが私の意志だったし、彼も納得してくれてた」
マユは元々が知り合った尊の中学時代の元カノの中では厳しいタイプの人だった。そういう人だから、上司のことは好きでも一線は決して超えるまいと決めていたんだろう。彼の生活の全ては独身者と同じだった。それでも、戸籍には「妻」が存在していたから。
「彼はとっくに40過ぎてるし、私だってもう若くなんかないけど、出来ちゃうもんなんだね」
「……私も避妊してたけど出来ちゃったよ」
「そうなんだ。そっか。ちょっとホッとした」
ちょっと笑ってくれたマユだったが、また真顔に戻る。
「そしたら彼が、もう待てないって話をしに行って、子供出来たから離婚してくれって言って。間に入ってくれた人もいて、それでやっと離婚できたんだけど、それはよかったんだけど、彼がね、『もっと早くこうすればよかった』って、言って……」
マユと同じようにも少しずつ傾いていく。背中が重い。
「あのね、庇ってるわけじゃなくて、彼、本当にいい人で、それこそ10年以上付き合ってるけど深刻な喧嘩とかないし、だけど慣れすぎて恋愛感情ゼロにもなってないし、彼氏としても夫としても、この子の父親としても、私にとっては完璧な人なのね。だけど……」
たった一言が刺さってしまった。何もかもが完璧な人の、たった一言が完璧を壊す。
「私、もちろん妊娠したことは嬉しいし、子供が生まれてくることも嬉しいけど、だけど離婚が成立する前にこうなったことは、今でも責任ある大人のすることではないと思ってるのね。でもそれとは別のところで、子供を授かったことを、離婚に同意させる手段に出来たのに、って言われてしまったことが、ずっと引っかかってて」
それは無理もない。というかむしろ「完璧」と言える相手であったことが災いだったのかもしれない。完璧だと思っていた相手が、まさかそんなことを言い出すなんて。エンジュの兄夫婦、ユニコにとっての尊。話によると、新九郎の両親、親方と女将もそういう夫婦だったらしい。女将にとって親方は完璧だった。50代で癌にかかりさえしなければ。
「それ、彼に言ったの?」
「迷ってる。四国は彼の出身地で、2年前に父親が亡くなってて……」
「……引っ越す前に、言うかどうか、決めたかった?」
「ごめんね、こんな話。こんな話、言える人いなくて」
これまでのとマユの関係であれば、まったくの逆だった。マユの方が少しお姉さんだし、物知りで、理論的で、相談事があるならマユにしておけば間違いないというくらいには、頼れる存在だった。だが、だからこそマユのこんな話を聞いてくれる人はいなかっただろう。自分の話を聞いて欲しいと願う人は多いが、人の話を聞いてあげたいと願う人は少ない。
「……ねえ、最初に子供出来た時、ノブ、喜んでくれた?」
「最初の時はただびっくりしてたよ。いきなり手放しで喜んだのはむしろみこっさん」
「ちょ、尊、ブレねえ」
いつでもきれいでかっこよくて頼れるお姉さんだったマユがしょげているのは見るに忍びない。は努めて気楽な感じに聞こえるように言葉を選ぶ。一緒にどんより落ち込むだけでは、あの快活なマユは戻ってこない気がしたから。
「私、信長に立ち会ってもらうのは嫌だったから、ひとりで分娩したんだけど、産んだ直後に信長が入ってきてさ、なんかえらくショック受けてたみたいで、何も言わずにフラフラと寄ってきて、メソメソ泣き出したの。たぶん、そこがあの人の、お父さんとしての第一歩だったんだと思う」
腹に10ヶ月も子を抱えて過ごす女と違って、男性に親としての自覚は育ちにくい。信長は後で役立たずと言われたくないあまり、の妊娠中もそれなりに頑張っていたけれど、それでも自分がこの小さな赤ん坊の父親だという実感はなかった。そのスタート地点がカズサの誕生だった。
「……でも、3番目の時は、すごく喜んでくれた。自分も頑張るから、体大事にして無事に産んで欲しいって言ってくれたし、現役の頃より時間あったから実際ほんとによくサポートしてくれたよ。でもそれって、3度目だったからだと思う。あの人末っ子だし、余計に」
マユは何度も頷きながら聞いている。マユも彼も初めてのこと、戸惑うのは当然だ。
「妊娠中なのに引っ越しでしょ、彼はどう?」
「私がやることないくらい、彼がやってくれてる」
「その一言以外は、完璧なんだもんね」
「…………もっと早く離婚が成立して、家族になりたかったのは私も同じなの」
耐えかねたようにマユが上ずった声を上げた。はしっかりと頷き、そしてマユにエンジュの兄夫婦の話をした。たった一言が完璧同士だったふたりの間に深刻な傷をつけた、という点では似ているかもしれないが、そっちとは決定的な違いがある。
「でもマユの方は、同じだよね。家族になって、子供も出来て、仲良く暮らしたい。そこは同じ」
「……うん、そう、それは本当に同じ」
おそらく彼の方も、もう10年以上も離婚をごねていたというのに子供が出来たという最強のカードの出現で一気に形勢が逆転した、その高揚感で言ってしまったに過ぎないはずだ。でなければマユはもっと早く不満をぶち撒けていたに違いない。彼に悪意がないことを誰よりも知っているからこそ、引っかかったし、言い出せなかった。
「彼のね、実家は元々は大きな農家で、彼のお父さんは農作物の加工業をやってて、それが最近亡くなって、お義母さんと彼の妹夫婦が3人で頑張ってて、もし離婚が成立したら四国帰ろうか? って言い出したのは、私なの。彼の方が無理しなくていいよって言ってたくらいで」
勤務先は横浜、巻き髪にスーツでヒールを履いて、ヘアサロンとネイルサロンは月2回、のんびりエステなんか行ってる暇はないからセルフケアの達人、仕事はほとんどミスらない、仕事が終わったら旨い酒をたっぷり楽しむ。そういうマユだったから、彼の言葉は当然だ。
「あのね、私ね、彼のこと、ほんとに好きなの」
「うん」
「だからこそ、このこと、いつまでも抱えていたくない」
「もう付き合って10年以上でしょ。マユから見て、彼はそれを聞いたらどんな反応しそう?」
「……何も考えてなかったごめんって、言うと思う」
「でも言えない?」
「私がそんな些細な言葉に引っかかるような女だって、思われたくないだけかもしれない」
マユも変化が一気に襲いかかってきたので気持ちがついていかれないのだろう。退職、結婚、妊娠、転居。ただでさえ初めての妊娠で不安定なところに、抱えたことのない黒いものまで腹に溜め込んでしまっている。余計に不安が募るんだろう。
「言っても大丈夫だと思うから言っちゃえば? てのが正直なところだけど、断言できない」
「相談された側だったら私も絶対そう言ってたわ」
「……ただ、後悔が残らない方がいいとは、思う」
「それも言ってるな」
少し気持ちが緩んだふたりは同時にカップを傾けた。結論は出てる。勇気がほしいだけだ。
「遠恋してた頃、怖くなかった?」
「そりゃ怖かったよ。でも、信長に捨てられてもここに帰りたかった」
「ノブが近くにいて、まだ好きでも?」
「……たぶん」
そういう意気込みだけならずっと維持できていた。結果信長はちゃんとを待っていてくれたけれど、さて実際心変わりをされてしまっていたら、どうなっていたかは自分でも想像がつかない。
「でも、もし振られても、母親の都合で越していった場所で一生生きていくのは、無理だったと思う」
「まあ、生まれ育った街だしね」
「実家から離れて遠くに引っ越すことは怖くない?」
「それは平気。今の彼とのこと、父親にずっと反対されてて、仲も良くないから」
そこは迷っていないらしい。さらりと出てきた。
「だって子供も出来てんのに、まだバツイチは認めん!とかふんぞり返ってんだよ。バカバカしい」
「あ、いつものマユだ」
「……、私言ってみるよ」
「……うん、気持ちがちゃんと伝わるように祈ってる」
「いや、今ここで言うわ。ちょっと待ってて」
「はい!?」
いつかちゃんと伝われば……と思っていたは面食らって背筋をシャキンと伸ばした。ああ、そういえばみこっさんの元カノさんていうのは、こういう人が多かった。みこっさんは否定するけど、「私って大勢の中のひとり?」ではなく「ま、みんなで使い回すか」というタイプばかり。
マユは厳しい顔をして携帯を取り出し、彼に電話をかけると俯いてぼそぼそと喋りだした。は出来るだけそれを耳に入れないように背もたれに寄りかかってカップを傾ける。コーヒー美味しいな〜。あ、そっかマユがパッションティーだったの妊娠してたからだったのか〜。ノンカフェイン〜。
ほんの数分で通話を終えたマユは、いくぶんスッキリした顔を上げた。
「ど、どうだった……」
「うん、想像通り。てかまず『オレそんなこと言ったっけ!?』だった」
「ああ、ですよね……」
だが彼の方は、妊婦がそんな黒いものを溜め込んでたらいかん、と言って、迎えに行くからゆっくり話しながらご飯食べようと言ってきたらしい。丸く収まりそうだ。もホッと胸を撫で下ろす。
「……チュカと喧嘩別れしたのは、言ったっけ?」
「なんとなく。そこはしゃーない。向こうもああいう子だし」
「モエはどうしてる?」
「例の彼とまだグダグダしてるけど、今川崎で一緒に住んでるよ」
「……みこっさん、養子、取ったよ」
「うん、フェイスブックで見た。なんか、尊らしいなって思った」
そう、このSNS時代、例え海の向こうに暮らしていても、近況など1秒で伝わる。ただそこにあって触れられる距離ではないと言うだけで、親しい人の「今」はいつどこにいても知ることが出来る。ただその知ることが出来る「今」が平和なものであればいいだけだ。
「さっきの、の『いつものマユ』ってのが、ハッとした。私、これから生活がガラリと変わるっていうのに、そういう、いつもの自分を自分で守れないのは良くないと思う。妻とか母とかそういうのと一緒に、いつもの自分を持ってないとなって、思った。ありがとね、」
狙って言ったことではなかったので、は少し照れた。
「うん、なんかスッキリした。重たい話聞かせてごめんね」
「そんなこと。慣れない土地でいきなり出産大変だけど、体、気を付けてね」
「ありがと。わかんないことあったら連絡していい?」
「もちろん。うちももうすぐひとり増えるし」
「えっ、4人目!?」
「ううん、お兄ちゃんとこ。マユと同い年の姉。こっちも初産だよ」
「……そっか。そだねえ、私だけじゃ、ないんだよなあ」
離れていても関わりがなくても、ひとりじゃないと感じることは出来る。マユは肩の荷が下りたのか、ずいぶん緩んだ表情になってアイスティーを飲んでいる。
「、お野菜、送るね」
巻き髪にヒールのお姉さんは心機一転、自然がいっぱいの中で家族と暮らすことを選んだ。どうかその道が険しくも楽しく、健やかでありますように。願うことはそれだけだ。はその思いを込めてマユの手を取り、ぎゅっと握り締めた。
でもちょっと、照れくさいので。
「それほんとすっごい助かります!」
カフェに、いつものマユの笑い声が響き渡った。