星屑の軌跡

8

真夏の恋4

翌朝、また最初に目が覚めたのはカズサだった。だが、「蚊帳」の中を見渡すと、でっかいのとちっちゃいのがふたり、酒の匂いをもうもうと立ち上らせながらうつ伏せで死んだように寝ていた。長じては遺伝や環境に逆らえずに酒を飲み始めるカズサだが、しかしこの時は「大人になってもお酒は絶対飲まない」と思ったという。

信長とブンじいは昨夜大量に酒を飲んでベラベラと喋り倒し、カズサに枕で叩かれて目覚めてから恥ずかしくて布団にくるまるほどあれこれとブチ撒けあったそうだが、そこで何を話したのかはふたりとも頑として白状せず、まあとにかく有意義な時間を過ごし、その結果ひどい二日酔いに陥っていた。

しかし新幹線の時間は決まっているのである。痛む頭をさすりながら帰り支度をした信長とカズサは、二日酔いによく効く漢方薬が家にあるというブンじいに促されて一旦現在の彼の住まいへ立ち寄り、そこで同居のおじいちゃんたちに挨拶をしてから駅に向かうことになった。

ブンじいと同居のおじいちゃんたちはふたりが顔を出したことを大変喜んでくれて、あれよあれよという間にカズサの財布はお小遣いで膨れ上がった。

「カズサ、そのお金帰ったらお母さんに預けないとダメだからな」
「えっ、なんで。オレがもらったんだよ」
「だけどたくさんのお金を持ってると危ないんだよ」
「また『危ない』かよ……。わかったけど絶対使わないでよ」

一昨日と同じ私鉄の別の駅にやって来たふたりは、なんだか夢がゆっくり覚めていくような感覚を覚えていた。送りに行くというブンじいは人混みに紛れてしまうと、掠れて消えてしまいそうなほど特徴のないおじいちゃんに見えてくる。河原での一件ですら幻のようだ。

「おじいちゃん、本当にお世話になりました。後始末まで丸投げしてしまってすみません」
「いいってことよ。気をつけてな。皆さんによろしく」
「はい。ありがとうございました」
「カズサくん、またな」
……ブンじい、オレ、また来ていい?」

信長とブンじいは二日酔いで頭が痛いので、儀礼的なやりとりをするので精一杯な様子だが、頭を撫でられたカズサはブンじいを見上げてぼそりとそう言った。特徴のないブンじいの顔が綻ぶ。

「おうとも。いつでもおいで。お父さんとふたりでもいいし、ひとりでもいいぞ」
……今度はみんなで来る。お母さんと、妹と、弟も一緒に来るね」

意外な答えが帰ってきたので信長とブンじいはちょっと目を丸くしたが、このほんの短い旅がカズサを少し変えたのかもしれない。信長はカズサを抱き寄せて肩を撫でさすり、ブンじいは嬉しそうに何度も頷いた。夢は覚めるけれど、記憶に残る夢もあるのだから。

「ああ、みんなで一緒においで。またみんなでたくさん遊ぼう」

そんな言葉に送られて、信長とカズサは帰路についた。

……なあカズサ、楽しかった?」
「うん」
「ブンじいのこと、どう思ってる?」
「うーん、ちょっと怖いけど、嘘つかないから、好き」

カズサも楽しかっただろうけど、一番楽しかったのはオレだな。

新幹線の中、痛む頭をペットボトルで冷やしていた信長は、ブンじいのように満足そうに微笑んだ。そして、夏休みの宿題のネタをなにひとつ調達できていないことに気付くのは、神奈川に帰り、清田家に到着した、そのさらに翌日のことである。

「もー、そんなに頭痛くなるほど飲むとか、おじいちゃん大丈夫だったの?」
「タクシーだし大丈夫だって」
「この薬なんて読むの、ご、ご……
「ごれいさん」
「ドラッグストアで買えるかな。ゆかりんの行く漢方薬局だと高そうだよね」

信長とカズサは午後ナカには清田家に到着した。旅先であんなことをしたこんなことをしたとみんなに自慢してドヤ顔になっているカズサを置いて、信長はに手伝ってもらいながら荷解きをしている。五苓散という漢方薬をもらって飲んだけれど、まだ頭が痛い。

……おばあちゃんの具合、どうだって?」
「今は小康状態だって言ってた。容態は安定してるみたいで、だから精神的にも落ち着いてるって」
「それならいいんだけど……退院、出来るかなあ」
「それは何とも言えないみたい」
「出来れば一度、ツグミを見てもらいたかったんだけど」
「枕元に、3人の写真飾ってあるらしいよ」
「そういうこと言うのやめて〜」

小康状態は事実なのだが、退院できるほどに回復するかどうか。独居ではないので多少のことなら対応が可能でも、急変したらどうにもなりませんよ、と宣告されてしまっているらしい。

「お母さんはもし回復の見込みがないなら退院した方がいいんじゃないかって言ってるんだけど、伯父さんが許さないみたいで。そんなことしておふくろに何かあったらどう責任取るつもりなんだって怒鳴られたみたい。実家のことなんかほとんど関わろうとしないくせに」

の母方の伯父は以前からとその母にあれこれと説教をする人だった。そして妻とふたり権利だけは主張しまくるという典型的なめんどくさい親戚なので、普段ならたちも関わりを持とうとしないのだが、おばあちゃんの生活や健康問題となると話は別だ。

信長は、オレたちが近くにいたら……と言いかけてやめた。近くに住んでいて生活の距離が近ければまた関係性も変わるだろう。遠くにいて数えるほどしか会わず、実際にブンじいたちの生活の手助けをしていないのは自分たちも同じだ。

「しかしおじいちゃんの方はまだまだ全然元気だな」
「そう? 弱ったな、って思うとことかなかった?」
「山に虫捕りに行ったんだけど、オレとカズサ、着いていくのでやっと」
「マジか」

会社勤めで住宅街生活歴ウン十年だというのに、とはくつくつ笑っている。

信長はでっかいリュックに詰まっていたものを全部引っ張り出して洗濯物をに任せると、ふと思い立って手を止めた。例のショッピングモールのビニール袋が目に入ったからだ。

ブンじいの「あの頃のに会えたかい」という声が聞こえた気がした。


「んー? 頭痛かったら寝ててもいいよ。今日はカズサも疲れてるだろうし、じいじが――
「オレ、好きな人が出来た」
……は?」

洗濯かごに服を詰めていたは思わずそれをドサリと取り落とした。顔を上げると、ボサボサ頭でぼんやりしている信長が目の前に立っている。

「何、言ってんのよ、何それ、どういう――
「前から好きだったんだけど、なんか、改めて、好きになっちゃったんだよな」

の顔色がサッと青く変わる。信長はその頬を両手でくるみ込む。

、好きです」

瞬間、はぐっと喉を鳴らしたかと思うと、勢いよく手を振り上げて信長の腕をバチンと叩いた。

「ふざけてんの……!?」
「ショッピングモール、行ってきた。昔、が住んでたところ、行ってきたんだ」

カズサとの「旅」はブンじいが調達してくれた山あいの古民家での2泊3日としか聞かされていなかったは面食らって黙った。そりゃあ、現在のブンじいたちの住まいの方に行くには、かつてブンじいの家があった辺りを通り過ぎていくことになるけれど――

が勉強してたっていうイートインスペースとか、オレと電話してたっていう公園とか、実際に行ってきたんだ。夏休みで子供がいっぱいいたからあんまり長くはいられなかったけど、そしたらおじいちゃんが、あの頃のに会えたか、って、言って」

俯いてしまったの片目から、ぽたりとしずくがこぼれる。

「あの頃の」、それはいつもいつでも信長に会いたいと思っていた。信長が恋しくて恋しくて、ショッピングモールの裏庭でひとりベンチに座って夜空を見上げながら泣き出しそうな気持ちを飲み込み続けてきた。信長は、そんなに会いに行ってくれたのか。そう思ったら、の中に眠るあの頃のが我慢していた涙を流し始めた。

「おじいちゃんともいっぱい話したし、カズサとも本当に腹割って話したし、2泊3日の間は全然暇じゃなかったんだけど、なんでか、ずっとに会いたかった。現役の頃なんか遠征ばっかりで家にいないことなんかしょっちゅうだったのにな」

ブンじいとカズサと、ふたりとじっくり話が出来たことは信長にとってあまりに充実した時間だったと言えるだろう。けれど、こうして自宅に戻ってみると、この旅は「を探しに行く旅」だった気がしてならなかった。

信長の場合、わかりやすく社会的な自信となる収入がこの清田家の男性陣の中で最も低い。その上妻には子供だけでなく兄や両親の生活の管理まで任せている状態だし、ブンじいについ漏らしてしまったように、果たしてを幸せにできているんだろうかと不安になることは少なくなかった。

だが、ブンじいが改めておばあちゃんに恋をして、それは誰にも明かさずに心に秘めているだけでも幸福だというように、が幸せか不幸せかを決めるのは自身だし、それはいつ見えてくるかもわからない。ブンじいのように、年をとってからかもしれない。

だからそれは、気にしなくていいのかもしれない。必要なことは、もっと他にあるような気がした。

「カズサに、お父さんてお母さんとオレどっちが好きなのって言われて、お母さんって即答してきた」

涙目のはつい吹き出し、そのまま信長に抱きついた。

、会いたかったよ」
……私も」

しん、と静まり返った部屋の片隅で、ふたりは音もなくキスをして、またぎゅっと抱き合った。

「私もね、ふたりがいない最初の日の夜、なんでかものすごく怖くなって、このまま信長とカズサが帰ってこなかったらどうしよう、おじいちゃんに連れられて、神隠しみたいに山に消えちゃったらどうしようって思えてきて、怖くて眠れなかった」

特にカズサとはツグミの出産の時を除けば離れたことがなかったので、一度そう考えてしまったら止まらなくなってしまった。川での一件はやっぱり死ぬまで言えねえな……と少し背中が寒くなった信長は、それを誤魔化すようにの背中を撫でた。

「大丈夫だったのか、それ」
「うん。エンジュ叩き起こしてセイラちゃんも呼んで、潰れるまで飲んだ」
「オレのこと言えねーじゃねーか」

同じ頃ブンじいと飲んで潰れていた信長は呵呵と笑ってまたの顔を掴み、何度もキスをした。

後年、旅の朝に寝ぼけて息子を抱き締めたまま妻の名を呼んだことは散々カズサにネタにされイジられるわけだが、それがごく親しい人との場であれば、信長は必ずこう答えたという。

その時、オレはに2度目の恋をしたんだよ。

最初に恋に落ちたのと同じ、真夏の恋だった。

おばあちゃんは何とか夏を乗り越え、冬に入る前に退院をしたが、次の夏を待たずに旅立った。

結局ツグミを抱いてもらえなかったことがと信長の後悔として残るが、おばあちゃんの一周忌が過ぎた頃にブンじいが「最後の旅」だと言って神奈川を訪れたので、彼が代わりにたくさん抱っこしてくれた。おじいちゃんを囲んで大宴会になったのは言うまでもない。

そしてブンじいはおばあちゃんがもう一度訪れたいと願っていた鎌倉へ赴き、長谷寺の十一面観音立像に長く長く向き合っていた。

それから約一年後、ブンじいもまた、夏を目の前にして旅立った。

卒婚を選んだふたりだったが、今は同じ墓に眠っている。

また、ブンじいはこっそりと小金を溜め込んでおり、それはささやかな額でしかなかったけれど、正式に作成した遺言書を残し、半分を息子と娘に、もう半分は孫婿に残すと記していた。

おかげでと信長はまたトラブルに巻き込まれるわけだが、それでもブンじいの気持ちは孫夫婦にしっかりと届いた。僅かだがブンじいの気持ちがいっぱい詰まった遺産とともに、信長のもとには古い腕時計が贈られ、彼のスポーティでゴージャスな腕時計コレクションの片隅には、古ぼけた革の腕時計がひっそりと置かれることになった。

親愛なる友へ、真夏の星空の思い出に――そうしたためられた一筆箋と共に。