あなたと花に酔いて

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エピローグ

地味で平和と評判の某県立高校、4月。4時間目の体育館。

「今年から皆さんの体育の授業を担当する、長谷川といいます。新任ですが、よろしく」

春から高校で体育の教師となった長谷川は、どう頑張ってもあまり愛想がよくならない顔はもう諦め、声だけは明るく保つようにして挨拶をした。今日の授業は1年4組。普段は男女別に2クラスまとめて行うが、初回のみ先生の挨拶と状況に応じて質疑応答、後半は男女別れてドッジボールという、まあサービス授業のようなものだ。

「せんせー! 昔インターハイ出たってマジすかー」

もう少し挨拶は考えてあったのだが、強制的に質疑応答に突入した。新任だし、生徒は高校生で最大でも7〜8歳くらいしか年が違わないので、生徒による「いじり」は避けて通れない。ナメられては困るという気負いがあまりない長谷川は、正直に頷いた。

「翔陽ってとこ知ってるか。そこのバスケ部にいて、インターハイは2回出たよ」
「2回も!? すげえ」
「聞いたことないけど、うちのバスケ部って強いの?」

ざわつく生徒の中から、また手が上がる。やけにキラキラした目をした男子だ。

「せ、先生、翔陽、って、もしかして藤真選手とかって」
「おお、知ってるのか。チームメイトだったよ」
「ほんとですか!?」
「藤真ってあの藤真!? 今年プロ入った」
「うそ、ほんとに!? やばい、どうしよう、私超好きなんだけど」
「え、そんなにかっこいいの?」
「かっこいいとかいうレベルじゃない」

男子にも女子にも、少々ディープなファンがいたようだ。さすが藤真、と思いつつ、長谷川は付け加える。

「へえ、君ら藤真のファンなの? ちょっと前までこのあたりウロウロしてたのに」
「うそ!?」
「実家はこっちだからね。チームに入るまであちこちに顔出してたよ」
「なんで遭遇しないのおおお」

バスケットに興味がない生徒が早くも飽き始めているので、長谷川は軌道修正を入れる。

「スポーツじゃなくても、地元出身の人が活躍してるというのは嬉しいよな」

が、あんまり食いつきはよくない。それを察したのか、元気な女子から一番避けて通れない質問が来た。

「せんせー、彼女いるんですかー!」

女子が一斉にニタニタと笑い始め、男子は興味を持って首を伸ばしたのと、逆に引っ込めたのが半々というところだ。これに関しては一番最初の授業の前に、別の体育教師から「絶対聞かれる」から覚悟しておくようにと言われていた。とりあえずこの高校では、詳しく自慢したりしないのであれば、どう答えてもOKということだった。

自分は藤真のようなタイプではないから、好意の上での興味ではないし、自分に彼女がいると答えてもいないと答えても、その場限りの話で、後々には影響はないと長谷川は考えていた。ただし、いわゆる「いじり」なので、いなきゃいないで面白くないし、いればもっと突っ込んで質問されるかもしれないという面倒臭さはあった。

長谷川はそれなりに迷った。自宅から自転車で1時間弱、電車は少々遠回りなので40分、車でも30分程度の距離の県立高校である。便のいい通学ルートから少し外れるため、商店街ではあまり制服を見かけないが、それでも地元は地元。葉奈と一緒にいるところを見られるのはマズいんだろうか。

しかし、自分は一応保健体育の教師で、しかも相手はもうハイティーンの高校生で、見ちゃいけませんで通すようなことではないとも思っていた。大学4年間を拭い切れない葉奈の面影と共に過ごし、今ようやくきちんと彼女を愛せる立場になれたことは恥ずかしいことではない。

葉奈は、大好きな自慢の彼女なのだ。コソコソするのはどうだろう。

「いるよ」
「やっぱ――え!? いるの!? てかそんなんぶっちゃけていいんですか」
「彼女も地元の人だしね。隠してもしょうがないだろー」

いじりたいだけだった女子は急に照れた。むしろ興味を示したことを隠すつもりがない男子の方が食いつく。

「どこで知り合ったんすか」
「後輩みたいな感じかな。実際翔陽に通ってたし」
「どんな人なんですか」
「まだ学生さん」
「かわいいんすか」
「と、思うけど」
「結婚するんですか」
「まだ考えてないなあ。先生だって1年目だし、向こうは学生だし」

止まらない。男子の方の興味が尽きなくなってきた。しかもうまい軌道修正の方法が見えなくなってきた。話してやるのは構わないけれど、女子の中には少々引き気味の子がいるようにも見えるので、そろそろ切り上げたい。奥手な子には教師に性を感じる要素が見えると嫌悪感を持つ場合もあるだろうし、ほどほどにしたい。

「せんせー! 全然関係ないんすけど、ダンクできますか!?」

キラキラした目のバスケットファン少年、グッジョブ! 話の腰がポッキリ折れたが、ダンクと聞いて全員興味がそっちに移った。ダンクなんかしばらくやってないけれど、出来ないわけじゃない。

「見たい?」
「見たい見たい!!!」

説得力のある身長なので、期待によるボルテージは上がりまくり。キラキラ目の少年が頼まれもしないのにダッシュでバスケットボールを取りに行った。上手なパスでボールを受け取り、何度かバウンドさせてみる。少し空気の入りが甘いし、汚れているのが切ないが、ダンクならまあいいだろう。

「片手と両手、どっちがいい?」
「片手! 絶対片手!!!」

キラ目くんは鼻息が荒い。首からホイッスルは下がってるしバッシュでもないが、少し離れたところから助走をつけた長谷川はまっすぐ飛び上がり、少しオーバーに力を入れてボールを叩き込んだ。生徒たちから歓声が上がる。キラ目くんは拍手喝采でひとり大盛り上がりしている。

「先生、バスケ部の監督とかやらないんですか!」
「顧問の先生はもういるじゃないか」
「三井先生は元々水泳部だったって話なんですよー!」

どこかで聞いた名前であんまり思い出したくない名前だが、とりあえずそれは忘れる。別人だ。そういえば若先生が水泳部だった。それも忘れよう。確かにこの高校には水泳部がない。というかプールがない。プールの授業がないことを目的に受験する生徒もいるらしいという話だ。

「バスケ部に入ったの?」
「いや、ちょっとどうしようかまだ迷ってて……別にオレ上手くないし」

キラ目くんはクラスメイトの視線を集めたので、首をすくめた。長谷川はボールを拾って元の位置まで戻ってくると、小さく咳払いをした。あんまり思い出したくない名前のおかげで話を思いついた。

「さっき、インターハイに2回出たって言ったけど、実はその頃の翔陽っていうのはインターハイなんか当たり前の高校で、さっき話の出た藤真が優秀な選手だったから、インターハイどころか先生たちが目指してたのはインターハイ優勝だったんだ。高校日本一」

話が見えないけれど、みんなちゃんと聞いている。それを確かめた長谷川は続ける。

「海南大附属と翔陽は常に神奈川のトップを争うライバルで、その関係はずっと変わらなかったんだけど、先生たちが3年生の年、翔陽は前年の一回戦負けの高校に予選で負けたんだ。もちろんインターハイには出られない。1年間かけて目指してきたインターハイの舞台が1試合であっという間に消えた」

今思い出しても若干吐き気をもよおす悔しさだった。

「その神奈川トップ2だった翔陽に勝った高校はインターハイにも出て活躍したけど、最初はすごく弱かった。言い方は悪いけど、いわゆる弱小ってやつだったんだ。だけどその高校には、インターハイにどうしても行きたいって3年間思い続けて努力したやつがいたんだ。それも、最初はたったふたり」

個人的な理由からもうひとりはカウントしない方向で行きます。

「5人いなきゃ出来ないのに、絶対インターハイ行くぞ、日本一になってやる、ってふたりだけで頑張ってたんだ。先生たちはその高校に負けて、高校3年生のインターハイっていう、高校生活の一番の目標を成し遂げられなかった。もちろん翔陽は悔しかったけど、対戦相手をすごいなと思ったよ」

それは本音だった。今となっては、湘北と対戦出来てよかったと思っている。

「だから何事も諦めることはないよ。まあ、どれだけ努力したって先生たちみたいに負けちゃうこともあるけど、自分でやりたいと思った努力なら、たぶん後悔しないと思うんだ。なので、ぜひみなさんには高校生の間に出来ること、高校生の時にしか出来ないことにたくさんチャレンジしてほしいと思います」

うまくまとまった。はーいと返事が返ってきたし、内容も悪くなかった気がする。時間もだいぶ過ぎていたし、残り時間はドッジボールしますと言ってホイッスルを鳴らした。ま、残り時間遊びます、みたいなものだ。生徒たちは男女に分かれて騒ぎながらドッジボールしていたが、授業の終わりが近付いてくると途端にダレた。

適当に試合を終わらせてしまった女子数人が近付いてきて、またニヤニヤしている。

「ねー、せんせー」
「どうした?」
「先生と彼女さん、どっちが告ったの?」
「またその話か」

一応笑ってやりつつ、長谷川は高速で頭を回転させる。嘘はつきたくないが、葉奈からだと言えば自慢気に聞こえはしないだろうか。いや待てよ、葉奈から告白された時は断ったし期間限定だったし、今の関係自体は自分の方が告白したと言ってもいいんじゃないだろうか。よし、そうしよう。

「先生だよ。お願いしますって頼んだ」
「ええー、そうなんですかー、OKしてもらったってことですよねー」
「まあ、そうだな」
「てかどうやったら告白ってうまくいくの?」
「男の人って、どーいう女の子ならいいの?」

また難しいことを……。先生の場合ガチの初恋は一回り以上年上の30代だったので参考にならないと言えればどれだけ楽か。もしくは、翔陽に近い商店街の花屋で花束作ってプレゼントしたら上手くいくかもよ、女の子から男の子は白い花ね、と言えればどれだけ楽か。

「どういう女の子がいいのかってのは、そりゃ人それぞれだよ。必ずこんな女の子じゃなきゃいけないってことはないだろ。うまくいくかいかないかも、その時のタイミングとか関係性とか、色々あるだろ」

無難な答えを返してみましたが、もちろん納得してくれません。この時期の女の子は怖い。

「いや、そーいうテンプレ的なのはいーですから」
「ダメか。まあでも、いつもにこにこしてて人に意地悪したりしない子だろうな、基本は」
「それもテンプレじゃないの。日本昔ばなしみたい」
「そんなことないよ。いつも怒ってたり人の悪口ばっかり言ってるような子はどれだけ可愛くても長続きしないよ」

藤真が可愛い子と付き合っては即別れるのはそういうパターンが多かった。らしい。

「全然参考にならないんですけど」
「しょうがないよ、先生は別に恋愛マスターじゃないからね」
「だけど彼女いるんでしょ」
「だから大事にしてるよ。彼女じゃなくても友人としても大事な人だから」
「ええー、いいなあー。私もそーいう彼氏ほしー」

女子たちが口々にブーブー言い出したので、長谷川は笑わないようにしながら、小声で続けた。

「自分の好きな人にぶつかっていくのもいいけど、もし誰かに好かれたらどうする?」
「えー、好みじゃなかったら困る」
「キモいのだったらマジやだ」

今度は一斉に顔を歪める。まあ、そういう時期だし、それが一生続く人もいるし。それは構わない。

「君たちの好きな人も、そう思ってるよ」

女の子たちは鈍器で頭を殴られたような顔になった。この当然の理屈が受け入れられないのも年齢を考えれば仕方のないことだ。だが、長谷川の乏しい経験上、こういうループからぽろりと外れた人は割と穏やかに恋愛を全うしているような気がする。

「どんな人に好かれても付き合ってあげなさいとは言ってないよ。だけど、少し真剣に考えてあげられる、少なくとも感謝の気持ちを持てるようになれるといいね。誰かに好きになってもらえるというのは、すごいことなんだよ」

やっと女の子たちはうんうんと頷いた。多少参考になったようだ。この子たちは今ほとんどが15歳、期間限定で苦しい恋の深みにはまっていたあの頃の葉奈と同じ年齢だ。そう思うと、どの子にも幸せな恋愛をしてほしいと思う。けれど、そんなことはありえないのが現実。

今のところそんな様子は皆無だけれど、例えばいつか葉奈に振られても、葉奈を恨んだりはしないと思う。

自分が葉奈を好きで、葉奈と一緒にいたい、それ以上に葉奈に感謝しているから。

真面目な話になってしまってまた少し照れた女子が、それを振り払うように言う。

「彼女さんて地元の人なんでしょ。どこでデートとかするんですか」

これには長谷川もついにんまりと笑った。そんなの、決まってるじゃないか。

「商店街」

END