あなたと花に酔いて

09

18時を回り、ゆったりしているようだが緊急事態の花あかりは閉店した。いつもより照明を省いている店内は薄暗く、通りに面したガラス面にはロールスクリーンが降りたので、外の様子は見えない。そこへドアが勢いよく開いてが飛び込んできた。

「おっ、だ。おかえりー」
「は、長谷川く……わた、航くん!?」

駅から走ってきたのか、はぜいぜい言いながら肩で大きく息をしている。志津香から一報を受けて飛んできたのだろう。だが、花あかりに到着したら懐かしい顔がふたつ。少し混乱しているようだ。

「透、ハグくらいいいよな」
……いいよ」
「お、おい花形」

航は今日初めてにっこりと微笑んだ。花形がさらりと許したので、航はさっと立ち上がり、に歩み寄るとありきたりな言葉をかけてからぎゅっと抱きついた。は驚いたようだが、ぎこちなく手を伸ばして背中をポンポンと叩いた。あくまでハグ、抱擁ではない。

そこへ志津香と朋恵がサービスワゴンを2台引き連れてキッチンから出てきた。店内にある4つのテーブルを全て集め、自分たちも座った。ワゴンの上にはアルコールと料理が積まれていた。

「長谷川くんも久しぶり。元気だった? 会えて嬉しいよ」
「全然帰って来られなくてごめん。オレはずっと元気だったよ。も元気そうでよかった」

航と違い、にとって長谷川は花形との間を見守ってくれていたある意味では恩人なのである。それが少々ややこしい葉奈との日々を最後に言葉も交わしていなかった。懐かしさと嬉しさで、こちらは純粋に親愛なるハグをした。花形も嬉しそうだ。

志津香から連絡をもらってはいたが、改めて藤真に説明を受けると、もがっくりと肩を落とした。花形の隣で項垂れて、何度もため息をつく。きっかけは航の無神経な言葉だったけれど、全部まとめて並べてみると、やはり店長と亜寿美の方に問題があるような気がする。

朋恵と志津香は黙って飲んでいるし、藤真たちも疲れているし、また花あかりは静寂に包まれた。そこへ、乱暴にドアが開かれて、葉奈と薫さんと呈一さんが雪崩れ込んできた。

「えっ、ふたりとも早くない? お父さんまだ仕事じゃ――
「私が呈一さんに迎えをお願いしたの。呈一さん、すみません」
「いいんですよ。時間がある人間なんだから、使ってください」

それまで黙っていた朋恵は薫さんに飛びつき、薫さんも朋恵の頭を撫でた。薫さんは朋恵を抱き締めてやりながら、静かに、しかし厳しい声で航を呼びつけ、3人は輪を離れてカウンターに移動した。航も父親が相手だと、真面目な表情である。

一方、店と店長がとんでもないことになっていると報せを受けて飛んで帰ってきた葉奈は、やってきてみたら長谷川がいるので、言葉が出ない。それを察したが葉奈の手を引いて、自分と藤真の間に座らせた。

「ええっと、あの、あのバカ店長が、ご迷惑を、おかけしまして」
「きっかけは航だったんだよ。それから、も志津香さんも謝るけど、それはもういらないからな」
「だけどこんな、花あかり閉めてまで騒ぐほどのことじゃないじゃん?」

葉奈はそう言っておどけたが、誰もそれに乗ろうとはしない。今はまさに花あかりを閉めて緊急会議を開くような事態だ。葉奈は茶化しが通じない空気だということを察して黙った。そこで口を開いたのは、呈一さんである。

「こういう時は第三者が口を出しましょうかね。葉奈ちゃん、しばらく店とは距離を置いたらどうかな」
「オレもそうした方がいいと思うよ。志津香さんのところにいればいいじゃないか」

藤真が呈一さんに乗っかる。だが、葉奈は俯いたままで返事をしない。

「志津香さんだって引き取れたらって考えてたでしょ」
「それでも何ら問題ないのよ、っていつも言ってるんだけど」
「ねえ葉奈ちゃん、誰も怒ったりしないから、どう思ってるのか教えてよ」

の言葉に顔を上げた葉奈の表情に、全員がウッと息を呑んだ。悪態をつかせたら商店街一であり、子供らしからぬ言動で知られた葉奈が、うまく顔を作れていなかった。動揺が目に現れて泳ぎ、なんとか笑おうとしている唇は歪み、眉はどの形にしたらいいかわからないらしく、上がったり下がったりを繰り返している。

「もちろん、どんなにおかしくなっていようが、君にはたったひとりの家族なんだから、離れたくない気持ちもあるでしょう。だけど、まだ学生なのだし、こんな風に振り回されていては、ストレスが溜まるだけではないかな?」

呈一さんはよく言葉を選んで葉奈に語りかける。藤真たちの感覚で言えば、あんな店長、もはや父親でなんかあるものか。さっさと捨てて出て行けばいいのにと考えてしまう。だが、あれでも店長は実の父親だし、それは本人が決めることだ。

「何も志津香さんと養子縁組をしたらとかそういうことではなくて――
「あのっ、そんな深刻なことじゃなくてですね、まあぶっちゃけ店長がどうでもアタシはいいんだけど」

また茶化すような顔に戻った葉奈のこめかみを、藤真がパチンと指で弾く。驚いた葉奈に、藤真は商店街では滅多に見せない厳しい顔を向けていた。花形と長谷川は懐かしくなる。翔陽で選手兼監督をしていた時の顔だ。

「なっ、なによイケメン」
「お前ももう子供じゃないんだから、ちゃんと話せ。例えお父さんを取られて悔しいって泣いたとしても、今更オレたちが白い目で見るわけないだろうが。ただでさえ色々入り組んでて面倒なんだから、手間をかけさせるな」

強いて言えば、「悪友」といったような間柄である藤真に厳しい言葉をかけられた葉奈は、またしぼんだ。彼女が常に葉奈というキャラクターを演じていたことくらい、全員わかっている。普段はそれでいいけれど、こんな事態なので正直に話して欲しいのが本音だ。

「別に、店長とあすみんがどうなっても構わないのは、本当なんだよ」

葉奈は念を押したが、それも全員わかっている。葉奈が愛しているのは父親ではなくと志津香だ。

「だけどアタシ、この商店街が好きなんだよね。家より長い時間をここで過ごしてるし、人も好きだし、変な表現だけど、ここがアタシのホームグラウンドって感じで、出来ることならずーっとここにいたいの、離れたくない」

淡々と話す葉奈の横で、の涙腺が緩んだ。花形が手を取ってやる。

「だけどさ、アタシにも一応将来があってさ、仕事とかなんかそういうので、ここを離れなきゃいけなくなるかもしれないじゃん? だからさ、早ければあと3年でアタシはここから離れて行くわけじゃん? それくらいの時間なら、のらりくらりとはぐらかしてれば、今のまま、フローリストにいられるかなーって思って」

仕事とか、結婚とか――葉奈は言葉を濁したが、おそらくそう言いたかったのだろう。けれど、長谷川がいるので言いたくなかったに違いない。ともかく、葉奈は子供の頃から変わらない環境で学生を終えるまで過ごしたかったわけだ。そのためには店長と亜寿美が結婚してはならない。

「店長はどうでもいいんだけどさ、あの店は、フローリストはそのままでいて欲しくて」
……なんかそれわかるな。オレたちは短い時間だったけど、清三さんたちがいて、旭さんと兄貴がいて、バックヤードで勉強したり騒いだり――そういうフローリストの環境、そのままが楽しかったよな」

花形がふーっと息を吐きつつ、葉奈に同意した。あの頃、の身には危険が迫っていたけれど、フローリストのバックヤードでわいわい言いながら過ごした時間は本当に楽しかった。

「だけど孝幸と亜寿美さんがそれを壊してしまったのね。葉奈が望む状態を維持できなくなってきた」
「それはそうだろうな。葉奈ちゃんは亜寿美さんに懐かない、それじゃ亜寿美さんは気に入らない」
「だけどお世辞にもふたりは若くない。特にあすみんは早めに一緒になりたい」

志津香の言葉を受けて藤真と花形がざっくりとまとめる。航の言葉は本当にきっかけに過ぎなかった。いつまで経っても葉奈は自分を母親として認めようとしないし、亜寿美は焦っていたのかもしれない。その上藤真や航といった、自分が店長と知り合う前の関係者が現れて、店で好き勝手なことをやったり言ったりした。

そうやって亜寿美の前に現れて面白くないことをしていくのは、いつも花形家にゆかりのある人々で、花形家はの彼氏の家のこと、は彼氏の、いとこの、さらにその娘。住宅街の一戸建て核家族育ち、親はひとりっ子同士、自分もひとりっ子。なんでこんな遠い親戚と他人がいつも大きな顔をしてるのよ――

「いつまでも変わらないというのは、本当に難しいことですからね。もう壊れかけているんでしょうね」
「ちょ、呈一さん……
「藤真くん、それからちゃんたちも。異常に感じるでしょうが、あの亜寿美さんは、普通の人なんですよ」
「は?」

少し声音が変わった呈一さんの言葉に、藤真の声がひっくり返る。何言ってんだよ、あれは異常そのものだろ。

「彼女は普通の人です。二親揃った家庭に育ち、学校もつつがなく卒業し、職に就き、働き、国民の義務を果たしている。犯罪歴もないし、まったくの健康で、それを普通は『普通』と言います。非の打ち所のない普通の人です」

正直な藤真は首をおもいっきり傾げた。そりゃあ理屈ではそうだろうけど――

「私も退職するまでは彼女のように少し話の通じない人をたくさん見てきました。そんな経験から言うと、あの人はまだそれほど異常ではないんですよ。ああいう人はよくいる。どこにでもいる。君たちがまだ遭遇してないだけで、社会に出れば否応なしにああいう人のすぐ横で生きていかなければならなくなるんです」

呈一さんはグラスを持ち上げて喉を湿すと、眉間にしわを寄せた。

「それを回避する方法は、基本的にはない。山奥でたったひとりで仙人のような生活をするというならともかく、社会と関わっている以上不可能です。それに、彼女がおかしいからといって、彼女を矯正する権利は私たちにはないんです。彼女はおかしいけれど迷惑行為に及ぶわけではない、普通の人だからね」

呈一さんが何を言いたいのかなんとなくわかってきた。藤真がため息を付いて天井を見上げた。

「どうしようもないんですね」
「そうです。葉奈ちゃんが未成年のうちは一応店長に親権がありますしね」
「親権があれば何をやってもいいわけじゃ――
「もちろんそうです。だけど、親権には居住指定権というものがあります。親が決めた家に住まなきゃいけない」

だからいくら葉奈が嫌だと言っても、店長が志津香のアパートに住んではならぬと言えばそれは店長が正しいことになる。これが葉奈の実母や祖父母ならまだしも、志津香はいとこ伯母である。

「親権には他にも色々あって、本質は親子が親子であることを守るためのものです。だけど、それは同時に、未成年がある程度は親の定めに従って生きるものである、という社会のルールになります。もちろん今回の件が法的手段に訴えられることはないでしょうが、葉奈ちゃんが二十歳になるまでこれは変わらない」

だから葉奈は店長が亜寿美と結婚して3人家族になるのだと言えばそれに従わなければならない。けれど、亜寿美は葉奈が自分のことを母親として認めそのように振る舞わない限り結婚できないという。店長は亜寿美が可愛いのでそれに従わなければならない。店長は葉奈が疎ましくなる。

「航のことは申し訳なかったけど、起こるべくして起こったことなのかもな」
「そうです。突破口があるとすれば、亜寿美さんが葉奈ちゃんを諦めることですが……難しいでしょうね」
「どうしてですか? 亜寿美さん、別に葉奈ちゃんが好きっていう感じでもないですよ」
「幸せな結婚をしたいんでしょう? 新しい母親と合わなくて出て行かれたら困るんじゃないかな」

自分の幸せな結婚の演出のためには継母に懐かない子がいてはならないのだ。はしょんぼりと眉を下げて俯く。そこへ薫さんたちが戻ってきた。航は無表情だが、朋恵が落ち着いた顔をしているので全員ホッとする。

「航が大変なことをして申し訳ありませんでした」
「やめてください、もう誰が悪いとか、そういうことじゃないわ」
「藤真くんがいてくれてよかった、本当にありがとう」

薫さんと朋恵はふたり揃って頭を下げた。急にひとりだけ名前を出された藤真はちょっと照れた顔をして、だけどぺこりと頭を下げて返した。普段ならにやにやして茶化す葉奈も、今日ばかりは黙っていた。

「だけど、店長がアクションを起こさない限りは離れていた方がいいんじゃないか」
「もちろんそうだ。葉奈ちゃん、こういう時だからうちも使っていいんだからね」

花形は真面目に提案をしたのだが、薫さんはこれ幸いにと弾んだ声を上げた。もちろん葉奈を気遣っているのは間違いないのだが、薫さんはもはやや葉奈のことは半分くらい自分の娘だと思っているようだ。

しかしとりあえず花形の提案通り、葉奈は基本的には志津香のところで過ごすこととして、店長の方が何か騒がない以上はこちらからは何もしないという結論に落ち着いた。まだ時間はあるが、葉奈も今年二十歳になる。それを過ぎればまた方法もあろう。

対策は何もないが話が落ち着いたので、やっと店内の空気が緩む。志津香と朋恵が飲み物をサーブしてくれるので、先週のような状態になってきた。懐かしい顔があるので少し近況報告などをしたりしつつ、時間は20時になろうとしていた。そんな中のことだ。

ねーちゃん、ちょっといい?」

打って変わって優しげな表情の航がに声をかけた。本人だけでなく葉奈や藤真もぎくりとしたが、航はだけを見つめている。そして、兄の方は何も言わずにグラスに口をつけていた。

「な、何かな?」
「ちょっと話したいことあるんだけど、ここ、外せない?」
「と、透くん……

花形は小さく息を吐くと、航の方は見ずに、に何やら耳打ちをしてゆっくり頷いた。表情はない。

「じゃ、じゃあちょっとね。カウンターでいい?」
「うん、いいよ。飲み物持って行かなくていいの? それとも――
「ちょっと待った、オレも行く」
「はあ?」

花形は納得してを行かせるようだし、葉奈も今はああだこうだ言う気分になれなかった。が、今日は少々腹に据えかねるところがある藤真が立ち上がり、と航の間に立ち塞がった。兄がいいと言ったからには、ふたりきりで話すつもりだった航は顔を曇らせた。だが、藤真は取り合わない。

「お前な、自分だけ不幸みたいな顔してるけど、知ったこっちゃねえからな」
「藤真のにーちゃんは関係ないと思うけど」
「関係なくない。は親友だからな」
「初めて聞いたけど……
「そりゃそうだ。オレも初めて言ったよ」

だが、と花形はありがたい。が藤真の袖を掴んでいるので、航は渋々カウンターに向かった。

「兄ちゃん、大丈夫なのあれ」
「藤真がいれば大丈夫だろ。航も何かしようってわけじゃない、あれはたぶんあてつけだから」
「弟はどうしちゃったの、なんか……昔より怖くなった」
「まだもがいてるんだよ。ここにいたら何も手に入らない、そう言ってあいつは出て行ったんだ」

悲しいとか疎ましいとか腹立たしいとか、そんな感情は花形にもないようだった。あるとすれば、呆れている――葉奈はそんな風に感じた。自分が店長、父親に対して思っているのと同じだ。もし店長が体調を崩して死の床にあれば悲しくなるだろうし、失いたくないと思うだろう。だけど、そうでないなら、執着がない。

父親のことを「お父さん」と呼ばなくなってどれくらい経つだろう。葉奈はもうずっと「店長」と呼んでいる。

「葉奈ちゃん、平気か?」
「今のところね。と志津ママと朋恵ママがいてくれるから」

花形は可笑しくなって唇を歪めた。親父、入ってない。

「あっちは大丈夫か」
「うーん、正直キツいけど、それは両方の意味っぽくて、だからどっちも」
「話せそうか?」
「透兄ちゃんいてくれるんだよね? それならいい」

気まずいのと、今でも好きだなと思うのと、両方の意味だから、嬉しいのと苦しいのと、どっちも。それでも葉奈の目には動揺の色はなかったし、花形がいるならいいと言った言葉も落ち着いていた。花形は薫さんと朋恵に捕まっている長谷川に声をかけて呼んだ。

長谷川本人も驚いているようだし、朋恵も少し心配そうな顔をしたが、葉奈と花形の向こうにもっと不穏な3人がいるのを見て、まああれに比べればという気になった。長谷川は薫さんと朋恵に会釈をすると席を立って歩いてきた。花形が席をずれて葉奈と長谷川の間に入り、少し椅子を引く。

「ふたりとも、丸4年ぶりか?」
「そう。久しぶり、元気だったか」
「全然元気。背が伸びたでしょ」
「びっくりした。でもあんまり変わらないね」
「一志、変わらないねって言うのは25歳からだそうだ」

ちなみにこれは旭さん仕込みだ。花形が至極真面目な顔でぎこちない再会の挨拶の中にそんなものをぶっ込んで来るので、葉奈も長谷川もつい吹き出した。もちろん長谷川にそんなつもりはない。葉奈は身長は伸びたが、本当に顔はあまり変わっていない。

「てか、あっち大丈夫なのか。なんで藤真が」
「あいつ、家を出るまでの家のために働かされる運命にあると覚悟したんじゃないのかな」
「でもなんか、いっぱい迷惑かけちゃったな。5年前もそうだけど」
「また言ってる」

店長と亜寿美があれでは仕方ないけれど、今日は葉奈が葉奈らしくない。

「あの時、透兄ちゃんがうちで花を買おうって思ってくれて、本当によかった」
「懐かしいな。最初は葉奈ちゃん怖かったからなあ」
「そうだったね、その節は飛び蹴りをかましまして……
「あったなそんなこと……確か航もいて、オレたち部活終わったばっかりで」

懐かしい話に葉奈と長谷川の緊張も緩む。あの頃、葉奈は恐怖の陶酔中学生で、だけどの状況を的確に把握して花形たちとの橋渡しをしていた。いわば花形と長谷川は、商店街護衛チームの葉奈班、という位置づけだった。に内緒でよく連絡を取り合っていた。

花形は最初から怒られ、藤真はバカにされ、冷静にじっくりと話す長谷川だけ葉奈に慕われたというわけだ。

それが葉奈の中で恋に変わったのはいつのことだったんだろう。