あなたと花に酔いて

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とりあえず大きいので盾としての威圧感はあるかな、などとのんきなことを考えながら花形は葉奈を背中に隠して立ち上がった。何しろほぼ2メートル。葉奈は彼女に似たのか晃代も背が高いが、なんということはない。晃代たちが驚いている隙にが葉奈の腕を引いてカウンターの中へ引っ張り込んだ。

それを受けて薫さんと呈一さんも前に出る。それぞれまだ何の関係もない他人だが、ふたりとも威圧要員だ。薫さんも背は高いし、呈一さんは作ると顔が恐ろしい。いざとなれば手帳という手もある。

「他所様は口を出さないで頂けます? これは親子の間の問題ですのよ」
「親子? ろくに言葉も話せない子供を置いて出て行くような人は親じゃないわ!」
「ええっと、ああ、この店の共同経営者ね。志津香さんの娘の、彼氏の母親? 遠いわね……

思わず声を上げた朋恵だが、晃代はさらりと受け流す。増えたスーツのうちひとりが書類を手に晃代に説明しているところを見ると、葉奈の周辺の人物は全員調査の手が及んでいるようだ。ということは、花形家が警察関係に縁が深いことはもうバレているというわけだ。手帳は武器として役に立たない。薫さんが顔をしかめる。

「あなたの価値観はどうでも結構。私が産んだことには変わりないのよ。それは揺るがないわ」
「だからどうだというの。親権は孝幸さんにあるのよ。葉奈ちゃんの自由を侵害できる理由にはならないわ」
「親権てあなたね、葉奈ももう二十歳なのよ。子供じゃないんだからそんなもので騒いでもしょうがないでしょう」

何言ってんのこの人。晃代の言葉にと花形が頬をひきつらせた。葉奈を引き取るし連れて帰るけど、二十歳になるんだから親権とか関係ないわ――一体何が言いたいんだこの人。

「だったらこんな無理矢理連れて行くようなこと――
「んもう、わからない人たちね。無理矢理連れて行くとか何の話ですの?」
「だってそうでしょう、葉奈ちゃんはこの商店街から離れたくないのよ」
「そんなものは刷り込みと洗脳みたいなものよ。すぐにどうでもよくなるわ」

晃代の理屈がわからない。花形と藤真が亜寿美を怖がったように、朋恵は怖気が立って黙ってしまった。

「実の母親が迎えに来て後継者としてのポストも用意してあるのよ。葉奈、あなたの言い分は子供の駄々というものです。聞き分けのないことを言ってないでさっさと来なさい。こんなところで時間を浪費したくないのよ」

晃代にとって、葉奈が自分と自分の会社の跡継ぎになることを選ぶのは、当たり前のことなのだ。喉が渇いたら水を飲む、歯が痛くなったら歯医者に行く、寒くなったらコートを着る、それくらい当然のことで、それ以外の選択肢は正常な判断の出来ない状態にある人間の駄々でしかない。

「いい年して商店街も何もないものだわ。商店街が好きなら向こうにもあるから探したらいいじゃないの」

葉奈の方へ近寄ろうとした晃代の前に花形が立ち塞がる。こんなおかしな人間、近寄らせてはならない。

「だから無関係な他人は口を挟まないでくださる?」
「店長、孝幸さんは納得されてるんですか」
「孝幸? そりゃあ納得するわよ、これまでの養育費もちゃんと払ったし」

店内の空気が音を立てて凍りついたようだった。その中で、花形はスッと息を吸い込むと、何も言わずに店を飛び出した。や志津香が慌てるが、それを手で制して、代わりに薫さんが間に入ってきた。

「そちらのお立場もありましょう。無理強いはなさらないことです」

薫さんは、朋恵ですら見たことのない怖い顔をして晃代を睨んだ。

日曜の午前中、商店街の店が揃って開店していく中、清三さんは店の外でバケツを洗っていた。そこへ怖い顔をした花形が猛ダッシュしてきた。何しろ2メートル弱、それが走っていると迫力がある。

「おお、透兄ちゃんおはよう。どうした、またちゃんなんかやらかしたのか」

だが、花形はそれには答えず、フローリストの中に飛び込んだ。清三さんが慌てて後を追うと、これまた店内の掃除をしていた店長に詰め寄った花形が渾身の大声で怒鳴っているところだった。

「店長、葉奈ちゃんを売ったんですか!?」
「葉奈を売ったあ!? ちゃんまさかあの女に金で葉奈を!?」

突然怒鳴り込まれた店長は目を白黒させていて、しかもバックヤードから亜寿美が顔を出した。

「どういうことだ透兄ちゃん、葉奈どうしたんだ、無事なんだろうな」
「今、晃代さんが花あかりに来てます。葉奈ちゃんを連れて帰るって言って、押しかけてきました」

ヒェッと情けない声を上げた清三さんの後ろから雑貨屋のおじいちゃんと芳子さんも顔を出して、息を呑んだ。花形の声が客の殆どいない周囲に響いたのか、旭さんも育太兄貴もえどやや栃木屋のおじさんも来ている。花形の話は丸聞こえだ。

「どういうことだよちゃん、葉奈最近見ねえなと思ってたけど」
「金で売ったってどういうことだい、あんた何したんだ」
「葉奈ちゃん大丈夫なの、連れて行かれるって何?」

みんな口々にそう言ってフローリストの入り口にへばりついている。その声に背中を押された花形は、もう我慢がならずにまた怒鳴った。

「店長、あんた実の父親でしょう、何やってるんですか。葉奈ちゃんがどうなってもいいんですか!!!」

店長は急に花形が怒鳴るので、ぽかんとしてしまって返事ができない。ともかく花あかりに行った方がいいんじゃないかと言いながら清三さんが店長に腕をかけた時だった。バックヤードから音もなく出てきた亜寿美が反対側の店長の腕を取った。

「なんでゆきぽんが怒られるんですか。葉奈ちゃんは本当のお母さんが迎えに来てくれたんですよ」
「ちょっとあんたは黙っててくれないか、店長はこれでも父親なんだよ」
「だから、ゆきぽんもお父さんかもしれないけど、お母さんがいればそっちの方がいいじゃないですか」

お母さんすごくお金持ちだし、と亜寿美は結んで首を傾げた。花形はまた背筋がぞくりと震える。結果として葉奈がどんな選択をしようとも、もう少しで二十歳になるのだとしても、店長は父親の務めを果たすべきだというその意味が亜寿美にはわからないのだ。

「どっちがいいかなんてあんたが知ったことじゃないだろ。店長、行きましょうよ」
「何言ってるんですか。これからお店開けるんですー」
「黙れって言ってるだろ!」

苛々がピークに達してしまった花形はつい亜寿美に向かって怒鳴った。そのおかげと言おうか、店長が覚醒、花形に向かって押し殺した声でぼそぼそと話し出した。

「透くん、君こそ黙ってくれ、このことと亜寿美は関係ないだろ。君もだいぶ関係ないじゃないか」
ちゃん何言ってんだよ、そんな情けないこと言うんじゃねえよ」
「勘違いしないでほしいな。僕は別に葉奈を売ったりしてない。晃代は払うと言ってるけど、もらってない」

もらってはいないが、打診は受けているはずだ。それをどう受け応えたかは店長は口にしない。

「それにね、葉奈ももう二十歳になるんだし、本人の意志を尊重するべきじゃないのか」
「だからその意志を――
「本来なら翔陽を出た時点で独立してもらうはずだったんだ」

ざわついていたフローリストの店内が静まり返る。

の祖父さんの生前贈与がなかったら、それを志津香が使ってもいいよって言いさえしなかったら大学なんか行かなくてよかったんだ。何でもかんでもと同じにしなきゃいけない理由はない。就職して独立してもらうはずだったのが、大学なんか行くから毎月大変なんだぞ。国立だって無料じゃないんだ」

亜寿美がつんと顎を上げて挑むような目つきになっている。旭さんが口元を押さえて震えだした。

「晃代が引き取りたいって言うならそれでいいじゃないか。大きい会社の役員で、金なんか腐るほどある。大学でも何でも好きなだけ行かれる。ここに残る理由がないだろ、実の母親なんだし」

ある意味では似たもの夫婦だったのかもしれない。店長は晃代に似た理屈を並べている。

……葉奈ちゃんは、この商店街が好きなんだ。故郷と思ってる、人も大好き、出来るならずっとここにいたい、離れたくないって言ってる。就職や結婚でいつか出て行かなきゃいけないかもしれないけど、それまではここにいたい、それだけを拠り所にここでひとりで店番してたんだ。それがここに残る理由だよ」

旭さんと芳子さんの細い悲鳴を聞きながら、花形は店長の腕を掴んだ。

「だけど、それとは関係なく父親としての責任は果たしてもらう」
「ちょっとやめてくださいー乱暴したら警察呼びますよー」
「好きにしろ。向こうにも警察がいるから気にせず呼んでくれ」

静かに言い切ると、花形は店長の腕を引っ張って店を出た。亜寿美がキーキー騒いだが、半泣きの旭さんと芳子さんが取り押さえてくれた。店長もぶつぶつ言いながら抵抗してみているが、育太兄貴も手を貸してくれている。方や2メートル弱、方や筋肉質、逃れられない。

店長を引きずっていく花形に小父さん小母さんたちは口々に声をかけた。葉奈ちゃんのこと頼んだよ、何でも力になるからね、ちゃん目を覚ましな、あんた寝ぼけてるんだよ。

「透兄ちゃん、花あかりでいいんだな」
「兄貴、店は」
「気にすんなそんなこと。さん、オレはどんなことがあっても子供を売ったりしないぞ! 初実も康太も壮太も、もちろん旭も、全員オレの命より大事な家族だ! あんたみたいに女に夢中になって家族を苦しめたりなんか、絶対しねえからな!!!」

育太兄貴は瞬間沸騰状態で、真っ赤な顔をして涙ぐんでいる。だから何なんだという顔をしている店長を引きずりながら、そう言ってぐいぐいと鼻をこすり上げた。

「どうしてこう他人がしゃしゃり出てくるのかしら。皆さん、いいですか、家族問題ですので、お引取りを」
「生物学上の母親であることは揺るぎませんが、離婚が成立した時点であなたはもう家族ではない」
「あのね、それをあなたがとやかく言う権利もないのよ、わかります?」
「今ここで家族という言葉に適合する人物がいるとすれば、戸籍・血縁共に縁戚関係があるあのふたりです」
「父親のいとことその娘でしょう、親子には勝てないのよ。血は水より濃いんですよ」

薫さんがなんとか対抗しているが、まったく話が通じない。葉奈はと志津香に抱きかかえられたまま顔を上げることもできずに震えていた。そこへ育太兄貴の怒鳴り声が響いてきた。晃代から視線を外さない薫さん以外全員が店の外を見た。店長が花形と育太兄貴に引きずられている。

だけでなく、後ろから商店街の人々がぞろぞろと着いてきた。現在朝9時、まだ開店まで時間のある人も多いので、ついてきてしまったのだろう。野次馬的興味もあるだろうが、何しろ葉奈が心配だ。その中には亜寿美もいて、店長に近寄ろうとうろちょろしている。

「父親を連れてきました」
……さん、あなた本当に葉奈ちゃんを手放すのですか」

花形と育太兄貴にフロアに放り出された店長は、怖い顔をした薫さんに低い声でそう言われておどおどし出した。体は大きくても、息子の方であればまだ怖くないが、本気を出した薫さんは中々に迫力がある。

「てっ、手放すも何も、それは葉奈の意志に――
「葉奈ちゃんはお母さんのところへ行きたいとは思っていないようですけれど」
「だからね、あなた、花形さんでしたか、どうしてあなたが口を出すの?」
「葉奈ちゃん本人がそう言っているのを、そのままお伝えしているだけですよ」

ちらりと葉奈の方を振り返ると、と志津香の腕の間から葉奈の怯えた目が覗いていた。薫さんはため息とともに顔をしかめ、店長に一歩近付いて屈みこんだ。

「店長、彼女に夢中になるのは構いませんが、それは葉奈ちゃんにきちんと目をかけてやってからでしょう」
「あ、あなたも亜寿美を悪く言うんですか。亜寿美は葉奈とは関係ありません」
「ゆきぽん、あすみんはここにいるよ! おばあちゃん、離して!」

芳子さんにガッチリ腕を掴まれている亜寿美が可愛らしい声を出す。芳子さんのおでこにビシッと血管が浮き上がるが、彼女も何も言わずにその太い腕で亜寿美を押さえている。だが、その亜寿美の言葉があまりに常軌を逸しているので、や花形、あさひ屋夫婦は汚いものを見るような顔になってきた。

「いいじゃないの、娘なんだからいずれ嫁に行って家を出るのよ。その後の孝幸を見てくれるっていうんだから、有難くお任せしたらいいじゃないの。だいたい、学生なんてお金がかかってしょうがないもの。ねえ孝幸」

店長はそっぽを向いて、ほんのわずかだが晃代の言葉に頷いた。それを見た薫さんと呈一さんの顔色がサッと変わった。亜寿美に夢中になってはいるが、それでも葉奈のたったひとりの父親と思って店長のことは尊重してきたつもりだった。だが、晃代の意見に同意したことは許しがたい。

「親がふたり揃って何を言ってる。あんたたちみたいなのに葉奈ちゃんを任せてはおけない。彼女は私がもらう」
「はあ!? あなた正気!?」
「ちょ、ちょっと薫さん!?」

カウンターの中から朋恵が飛び出してきて薫さんの腕にすがる。

「私たちの娘にします。家裁でも何でも持ち込みましょう、本人もあなたたちよりはうちを選んでくれるはずだ」
「薫さん落ち着いて、それなら志津香さんのところの方が」

朋恵も混乱している。息子の花形も混乱している。葉奈がうちの子? それはマズいだろう、花形葉奈だぞ!

「志津香さんのところじゃ負担が大きいだろう。うちはもう透が卒業するし、国立ひとりくらい」
「それでは透くんや航くんが戸惑うでしょう、学費の問題なら私が引き受けましょう」
「呈一さん、何言って――
「公務員の退職金と言えばご理解頂けますかな。志津香さんに残そうと考えていましたが、この際いいでしょう」

薫さんと呈一さんが勢いでそんなことを言い出すと、花あかりの入り口に集まっていた野次馬の中からも声が上がり始めた。金なんかみんなでちょっとずつ出してやるから、そんなバカ親のところから出ろ、と志津香といればいい、商店街にずーっといればいい。

花あかりは熱狂の渦の中にあった。みんな雰囲気に飲まれている。義憤に駆られた人々が口々に葉奈を守ろうと声を上げた。その中で一番冷静だったのは、葉奈とと志津香の3人であった。目の前の状況がどんどんおかしくなっていき、とうとう商店街の人々をも巻き込んで騒ぎになっている。

いつもなら誰よりも冷静な薫さんや呈一さんまでもが感情的に物を言うし、葉奈にとっては一応両親である店長と晃代は、葉奈のことなど考えていない。どちらも自分の利のために葉奈が「まともな決断」をしなくてはならないと主張している。葉奈は、頭の芯がぼんやりと痺れているような気がしていた。

なんでこんな騒ぎになってるんだろう、揉めてる原因てアタシだよねえ、やだなあ、そういうの、やだなあ。

「なあ藤真、やっぱりオレが行ったって――
「そんなのオレだって同じだ。花形もそうだけど、なにかの役に立つわけじゃない」
「だったら……
「あのさあ、心の支えって、ものすごい重要なんじゃないか? 昔花形がにしたみたいにさ」

藤真の襲撃を受けた長谷川はなんとなく気が乗らない様子で商店街を早足に歩いていた。葉奈の力になってやりたい気持ちはあるけれど、母親が来て連れて行くだの行かないだのなんていう騒ぎの中では、自分など完全な役立たずじゃないかと思えて仕方がない。

だいたい、家花形家に呈一さんまでいて、他人の自分が口を出せる隙間なんてあるんだろうか。

……一志、なんかおかしくないか」
「えっ、何が?」
「店、なんで人がいないんだろう。あさひ屋なんか今頃湯気が出てる時間だぞ」

フローリストが近付いてくるに連れて、商店街はしんと静まり返ってきた。ふたりが早足から小走りになりながらあさひ屋の近くに差し掛かると、栃木屋の女将さんが声をかけてきた。惣菜の仕込みの手を止められない栃木屋とえどやは居残りである。

「藤真くん長谷川くん、ちょっとちょっと。みんな花あかりに行っちゃったわよ」
「なんでこんなみんな……どうしたんですか」
「透兄ちゃんがちゃんとこに怒鳴りこんできたの。葉奈ちゃんを売ったのか、って」
「売った!?」
「それがどうも、ちゃん、前の奥さんにお金もらったみたいなのよ」

本人が言う通り、店長はまだ晃代から金銭を受け取ってはいない。だが、花形とのやりとりはこんな風に解釈されて、やがて広まっていってしまうだろう。いよいよフローリストは後がない。育太兄貴のように沸騰しかけた藤真だったが、長谷川の顔を見ると息を呑んで目を丸くした。顔色が真っ青だ。

「お、おい、一志、大丈夫か」
「売るってどういうことだよ」
「オレが知るかよ」
「どうして葉奈ちゃんがそんな目に遭うんだよ」
「落ち着けよ一志、とにかくオレたちも花あかり行こう」

ふたりは花あかりに通じる路地に向かって走り出した。まだ商店街周辺の店舗は開店前仕込中というところが多くて、配送のトラックが停車していたりするけれど、人が少ないのでふたりは速度を上げる。いつかのように藤真の前髪が翻り、今でも髪が生えてこない傷跡が露わになる。

花あかりがある狭い通りに差し掛かると、藤真は急に速度を落として後続の長谷川を手で制した。花あかりの前は人だかりができていて、なんだか騒がしい。岩間医院のものをそのまま使っている古めかしい塀に沿って近付いていったふたりだが、花あかりはまだロールスクリーンが降りていて、店内の様子は見えない。

近付いてきたのが藤真だとわかると、野次馬のみなさんはすぐに道を開けてくれたが、近付けば近付くほどふたりの顔は強張って白くなっていく。何だこの騒ぎ、なんでこんなに騒ぎが大きくなってるんだ。

やっと店内が見える位置まで来たところで、店内で言い交されている会話の内容が聞こえてきた。

「私は構いませんよ、裁判でも何でも。そちらに勝因があるとは思えませんけれど」
「ゆきぽん、もう帰ろう? お店開けないといけないんだよ、もういいでしょ」
「皆さんが仰ることも一理ありますな、葉奈ちゃんはどちらにも行かずにいた方がいいでしょう」
「朋恵、最後のわがままだと思って聞いてくれないか、葉奈ちゃんを引き取ろう」

さながら地獄絵図だ。花あかりの入り口の脇では育太兄貴に支えられた旭さんがガタガタ震えながら涙目になっていた。育太兄貴が藤真に気付いて声をかけたが、長谷川の方は旭さんすら目に入っていないようだった。店内をじっと見つめている。

「兄貴、なんなのこれ、どうなってんの」
「オレもよくわからねえんだけど、薫さんが葉奈ちゃん引き取るって言い出して、そしたら呈一さんも乗っちゃって」
「だって店長、葉奈ちゃんのこといらないっていうのよ、学生は金がかかるって」
「旭、そうは言ってないよ、それを言ったのはお母さんの方だって」

ふたりも混乱している。だが、晃代と店長の非道な態度に、薫さんと呈一さんと野次馬が一緒になって対抗しているのだということはわかった。藤真は乱れた前髪に指を差し入れると、傷跡の辺りを掻き毟った。気持ちはわかるけどこんな大騒ぎにするなよ、大人が大勢集まって何やってんだ。

「花形が邪魔で葉奈ちゃんどこにいるのか見えないな」
……藤真、この中にいるのか、葉奈ちゃん」
「えっ、そりゃいるだろ。だからおっかさん粘ってて」
「こんなひどい騒ぎの中にいるのか、こんな、みんな好き勝手なこと言ってる中に」

長谷川はまっすぐ前を向いたまま、店内の方を凝視している。藤真はそう言われて初めて、葉奈がこの異常事態を目の当たりにしているのだということに気付いた。悪態をつくことなら誰にも負けない、すぐにふざけて茶化して元気いっぱいの葉奈とはいえ、こんな騒乱の中にいてまともでいられるはずがない。

瞬間、喧騒が耳から遠ざかった藤真は、長谷川の横顔を見つめて心が緩んだ。

本当の意味で葉奈ちゃんの心配をしているのは、一志、お前だけかもしれないな――

「葉奈! いい加減にしなさい! あなたがモタモタしてるからこんな騒ぎになるのよ」
「やめなさい、怯えてるじゃないか。あなたとは行きたくないんだ」
「もう結構よ、葉奈、ほら、ちゃんとしなさい、ご挨拶してこんなところお暇するのよ!」
「葉奈ちゃん、聞くんじゃない、ここにいたいんだろう? 正直にそう言うんだ」

騒ぎの矛先がとうとう葉奈に向いた。慌てて店の入口に駆け寄った藤真と長谷川の向こうで、花形の背中の影から葉奈の頭がちらりと覗いた。止めるの腕をちょこまかとすり抜けながら、のろのろとカウンターを出る。笑顔だった。眉も頬も唇も変な形に歪んだ笑顔で、葉奈は口を開いた。

「み、みんな、落ち着いて、そんなに騒がないで、ね?」

歪んだ唇から、壊れたスピーカーのように安定しない抑揚の声が出てきた。葉奈は笑ってる。泣きそうな顔になったり怒っているように見えたりする顔で笑いながらそんなことを言い出した。葉奈を手離してしまったを花形がきつく抱き寄せている。も真っ青だ。

「心配しないで、アタシは、平気だからあ」

ぎゅっと力を入れて、葉奈は笑顔を作った。その時、しんと静まり返ったフロアに長谷川の声が響いた。

「葉奈ちゃん!」