あなたと花に酔いて

03

けっこうなバイト代が出るので、藤真はたまにフローリストでアルバイトをしていた。何しろ彼が手に花を持ち、にこにこ笑って女性に声をかけると売れる。仏花ですら飛ぶように売れる。ちょうど昼の時間帯が過ぎて、商店街は買い物客が増えてきている。藤真は袖をまくり上げると、少し髪を撫で付けて気合を入れる。

そして、深呼吸をして顔を上げた時には、下は幼児から上は80代までありとあらゆる女性を骨抜きにする笑顔をまとっていた。面白そうなので、葉奈と清三さんは店内に入ってそれを眺めることにした。

そこから数時間、土曜の午後であることも手伝って、フローリストは藤真の笑顔に釣られた女性客で大変賑わった。葉奈と清三さんが恐れおののくほど藤真はきらきらした笑顔で接客しまくり、普段なら顔をしかめて嫌がりそうなお世辞も言いまくった。フローリストからどんどん花がなくなっていく。

「ちょっとイケメン加減してくれ、間に合わないよ」
「もう少しだから頑張れ。ねえ清三さん、店内の花売りきったら店閉めてもいいよね」
「はあ!?」

花束を頼まれると作るのは葉奈しかいないので、葉奈はかれこれ2時間ばかり花束を作り続けている。その傍らで藤真はコロッケを補給しつつ、にんまりと笑った。思わず声がひっくり返った清三さんだが、それは彼には判断がつかない。しかし藤真は本気でそう考えているようだ。

そして日が暮れかけた17時、フローリストの店内は閑散としていた。藤真は宣言通り店内から全て花がなくなるほど売りさばいた。もちろん全部なくなるというわけにはいかなかったけれど、店の表に出していた鉢から切り花から仏花まですっからかん。本人は店長用のパイプ椅子に座って満足そうにコロッケを補充している。

途中から清三さんも藤真に乗っかることにしたらしく、おしゃべり好きな近所のご婦人が通りかかるたびに、あの英雄藤真が来ているのだと吹聴した。それを聞いたご婦人方は買い物ついでにそれを触れ回る。そうすると「商店街大捕物事件」を散々聞かされていた新入りの女性たちも藤真を拝みにやって来る。

何しろ顔がいいし、背は高いし、今に限っては本気を出しているので、葉奈や清三さんにとってはやや嘘くさいほどの笑顔の威力は半端なかった。この店の縁者と友達なのだと言っては微笑み、路地を少し行った先のカフェ花あかりにも縁があると言っては意味ありげに微笑んだ。次々とレディたちが陥落していく。

今のところまだ学生であることや、もう少ししたらプロバスケットボール選手になるのだということは絶対に口にせず、いつまた現れるかもわからない臨時のアルバイト、という風に装った。だからいつかまたお会いできるかもしれませんね、などと抜かした時には、さすがの葉奈もむせた。

さらに懐かしくなったのか、藤真と喋りたくて帰ろうとしない若い女性がいると、例の「透兄ちゃん花束事件」からの引用で、この店で小さな花束を作って告白するとうまくいくっていうジンクスが何年も前に大流行したんですよ、などと喋りまくった。女性からの場合は花束を返してもらうことで成立である。

その上、本気を出しているので頭の回転が早くなったのか、男性から女性に贈る場合は赤い花を、その逆は白い花をメインにするのだなどと新ルールをでっちあげた。一応嘘ではないので、1万円分のバラの花束でそれをやった友人がその時の相手と結婚するらしいなどと付け加えたからさあ大変。

おかげで葉奈は目が回るほど花束を作り続けた。疲れてはいるが、藤真と清三さんも満足そうだ。

「さてと、葉奈ちゃん、店長に電話していいか」
「いいけど……ケンカ売るの?」
「そう。いい?」

きっぱりと言う藤真に、葉奈はにっこり笑って頷いた。

「あ、店長? ご無沙汰してます藤真です。はいおかげさまで。いえ、実はオレ今度プロに入るんです。なのでその前に挨拶したいと思ってて。だけど来てみたら葉奈ちゃんひとりで店番してるじゃないですか。いやいや店長、デートなら店が休みの時に行きましょうよ、自分の店なんだから。でしょ、だからオレ、今日ほとんどの花売り切っちゃったんで、もう店閉めますね。売るもの残ってないから開けててもしょうがないでしょ」

若干楽しそうな藤真の声に、葉奈と清三さんは口元がにやついてきた。藤真の話しぶりを聞いていると、店長は思うように言い返せないようだ。無理もない、悪いのは店長の方だ。

「なので今日は葉奈ちゃん借りますよ。彼女とディナーなら自分で予約取ってくださいね。やだなあ、葉奈ちゃんは大事な友人ですよ。遅くなるかもしれませんけど、最終的には志津香さんのところに届けますし、このあとしばらくはちょいちょい借りると思うので、そんな感じでよろしく!」

そして適当にあしらうようなことを二言三言言うと、さっさと通話を切った。

……藤真くん、ありがとなあ」
「えっ、いやちょっと言い過ぎたかなと思いつつだったんですけど」
「いや、いいんだよこれで。みんなが言えなかったことを言ってくれたんだから」

清三さんは藤真の肩を掴んでグッと力を入れる。

「藤真くんちょっとおいで。葉奈、店じまいしちゃいな」

店の外に連れ出された藤真は、普段うるさいくらいの胴間声の清三さんのヒソヒソ声に耳を傾けた。

「葉奈がああだから中々気付かないことだけど、娘は道具じゃないだろ」
「葉奈ちゃんが大人になったせいで余計に便利になっちゃったんですかね」
「それもあるし、就職して稼いでくれると思ってたのも当てが外れたんだな」

藤真は店内で閉店作業をしている葉奈をちらりと見て、ため息をついた。子供をなんだと思ってるんだ。

「確かにちゃんもずっとひとりで葉奈を育ててきた苦労はあるよ、のこともあったし」
「ひとりって、だけどいつでもそばに小父さんたちがいたじゃないですか」
「そうなんだけどさ、ひとりの時間とか友達と会うとか、そういう時間がなかったことも事実だろ」
「だからそんなの、誰だってそうでしょ。志津香さんだって離婚してからはそうだったんでしょ」
「そう、そうなんだけど、ちゃんの中にはそういうのが16年間溜まりに溜まっていたんだ」

清三さんは一応店長をフォローしながらそんなことを話しているが、藤真にとってはそれは理解しがたいことだ。

「彼女も出来たし、これで葉奈が就職して自立してくれたら言うことなかったと思うんだよ」
「そうしたらもっと時間がなくなってバイトを雇わなきゃならなくなるじゃないですか」
「それは亜寿美さんにと思っていたんじゃないのかな。結婚考えてるみたいだから」
「葉奈ちゃんと3人家族になりたいんじゃないんですか?」
「それにこだわってるのは亜寿美さんだよ。ちゃんはもう葉奈から解放されたいんだ」
……なに、言ってるん、ですか、解放?」

藤真の顔がさっと青くなり、目が泳いだ。確か店長と葉奈は親子のはずだ。解放って何だよ。

「だけど亜寿美さんが夢見てるからちゃんは結婚に踏み切れない」
「その亜寿美さんてのなんなんすか。何がしたいの」
「誰からも祝福される幸せな結婚をしたいんだそうだよ」
「すりゃいいじゃないすか、店長と仲いいんでしょ」
「葉奈が心を開いてくれない間はダメなんだと」

藤真は清三さんの肩に手をかけて項垂れた。清三さんが背中を擦ってくれる。

「もちろんちゃんがおかしいんだけど、つまり、葉奈がいるおかげでちゃんの全てが色々うまく行かないということになっちゃうんだ。元々そういうところはちょっとあったんだけど、亜寿美さんが現れたことで吹き出しちゃったんだな。庇うわけじゃないけど、亜寿美さんも悪い人じゃないからね。ただちょっと夢見がちなだけで」

清三さんはふうとため息をつくと、また藤真の背中を撫でた。

「だからああしてちゃんにビシッと言ってくれて嬉しかったよ」
……オレ、向こうに発つまで実家なんです。出来るだけ来ますから」
「いやいや、そんなつもりで言ったんじゃないよ。葉奈のことはみんな考えてるから」
「いえ、いつまた戻れるかもわからないし、――の方にも会いたいし、オレもここ、好きなんで」

清三さんはちょっとしまったという顔をしていたが、やがてにっこりと笑った。

「話終わったー? もう閉めるけど」
「おお、いいぞ。これから遊びに行くのか?」
「花あかりに連れて行ってもらおうかと」
「そうかそうか、いやー、朋恵さん喜ぶぞー」

葉奈が閉店作業を終えて出てきたので、ふたりは何事もなかったように顔を作った。

「葉奈、藤真くんじゃないけど今日は志津香ちゃんとこ行けよ」
「そーする。もし店長帰ってきてなんか言われたらごめんね」
「そんなこと気にしなくていいよ。オレたちも藤真くんを見習わないとな」

藤真は清三さんに頭を下げると、亀屋の女将・芳子さんにも頭を下げてからフローリストを後にした。

心の準備はしていたつもりだった。だけど、岩間医院が跡形もなくなくなっているさまを目の当たりにした藤真はウッと喉を詰まらせた。先生は1日中商店街をうろうろしているようなおじいちゃんより元気で、言葉や思考が鈍るどころか、誰よりも頭がいいという風格だったのに。

「ちょっとつらい?」
「まあな。最後に会ったの、翔陽の卒業式の日だったし。うわやべ、思い出したらキツい!」

卒業祝いだと言って、またあさひ屋で飲み食いする予定になっていた藤真たちに、岩間先生は体を労って頑張りなさいよと声をかけていた。そして藤真のこめかみの傷を改め、いい勲章が残ったなと言って笑っていた。

「建物は全部壊しちゃったんだけど、門はそのままにしたの」
「うん、そうだな。見覚えあるよ」
「あと、カウンターに先生が愛用してた文鎮が置いてあるの。毎朝コーヒーをあげてる」
「もうやめてくれ、マジで泣きそうになってきた」

悪魔の様な顔でケタケタと笑った葉奈を肘で突付くと、藤真は深呼吸する。浸っているのはいいのだが、何しろ花あかりの中には朋恵がいるのだ。あんまりしんみりしていると、その落差で疲れてしまう。

花あかりはささやかな庭がある平屋の建物で、フロアは全面ガラス張りになっている。テーブル席が4つと、庭に面した1面にカウンター席があり、キッチンの方にももうひとつカウンターがある。それほど大人数は入れないが、花形父・薫さんはパーティも請け負ったらいいんじゃないかと提案しているらしい。

そうすればフローリストで花を用意出来て一石二鳥、という薫さんの親切心からなのだが、今のところこれは志津香がいい顔をしない。店長が少しおかしくなってしまっているし、亜寿美も馴染めないのにそこまですることはないというところか。

藤真は岩間先生との思い出をぐっと腹に飲み込み、葉奈のあとについて店に入った。

「あら、葉奈いらっしゃ――やだ、嘘、ほんと!?」
「大変ご無沙汰しています」

店内に入ってすぐのカウンターで伝票を見ていた志津香が藤真に気付くと、口元に手をパチンと叩きつけて息を呑んだ。志津香ママはぺこりと頭を下げた藤真に駆け寄ると、手を取ってきつく握りしめた。何しろ彼女にとっても藤真は娘のピンチを救ってくれた恩人なのである。

「元気だった? ああ、こんなに素敵になって――
「全然来られなくてごめんなさい、お加減いかがですか」
「おかげさまで本当に調子がいいの。だけど、ああどうしよう、今日いないのよ」
「葉奈ちゃんに聞きました。まだしばらくこっちにいるので、構いません」
「ちょっと待ってて、朋恵ちゃん、ちょっと、早く! 大変!」

日が落ちてからの花あかりは照明が落とされ、まさに桜が闇夜にぼうっと浮かび上がるがごとく薄紅色を模した照明がゆったりと灯されている。なので志津香は大声を上げないように頑張っているが、上ずってしまってあまり上手にできていない。そんなわけで、満を持してメルヘン母・朋恵の登場である。

「どうしたの志津――あああっ!」
「ご、ご無沙汰してます」
「いやだ、どうしよう、ほんとに? ほんとに藤真くん?」

朋恵はカフェの店員らしく志津香と揃いのボートネックのTシャツに黒のカフェエプロンをつけているが、頭と胸とポケットにコサージュがモサモサとくっついている。相変わらずだ。彼女も志津香のように藤真に駆け寄ると、腕やら肩やらを撫で回し、挙句にぎゅーっと抱きついた。

「透ちゃんから話だけは聞いてたけど、どうしてるかなって思ってたのよ」
「本当に久々になってしまってすみません。あ、開店おめでとうございます」
「葉奈ちゃんから聞いてると思うけど……先生もここにいらっしゃるから、ゆっくりしていってね」
「は、はい、そうします」

完全に油断していた藤真は、せっかく飲み込んだ岩間先生への思いが突き上げてきて涙声になった。こめかみの傷跡が疼くような気がする。とはいえ志津香も朋恵も既に半泣きなので、後で葉奈に突付かれるくらい、いいだろう。いきおい、藤真はレジの傍らにある先生愛用の文鎮に触れて頭を下げ、少し泣いた。

庭が見渡せるカウンター席に通された藤真と葉奈は、身内だから構わないというので18時前だがアルコールを出してもらうことになった。普段は葉奈がアルコールを飲むといい顔をしない朋恵だが、今日は構わないらしい。

「いやー、着てる服が違うだけで、朋恵さん変わんねえなあ。志津香さんも元気そうでよかった」
「朋恵ママはお惣菜に対する偏見がなくなりました」
「えっ、マジか。なんだか花形家もすっかり商店街の一員だな」

ちょうど18時からのバータイム開始直前に当たるので、店内は人が少なく、優しい音楽だけが静かに流れている。朋恵と志津香が張り切っているらしく、ふたりが頼んだアルコールはすぐに出てきた。基本的には女性向けのカフェなので、アルコールのラインナップもカクテルやワインが中心になっている。

青と桃色と黒に染まる薄暗い空が見えるカウンターで藤真と葉奈は乾杯する。

「けど、薫パパも来るし、志津香ママに夢中の呈一さんも来るから、前より種類増えてる」
「へえ、呈一さんて言うのかその人」
「蓮見呈一さん」
「また花かよ!」
「いや自分の名前だってそうでしょうが!」
……あ、ほんとだ! 藤の花か、全然そんなつもりなかったな」
「お待たせしましたー。なんかそうしてるとカップルみたいね、あなたたち」

藤真がハイネケン、葉奈がスプリングオペラを傾けていると、志津香が料理を運んできた。どう見ても頼んだ覚えのない皿がいくつもトレイに乗っているが、育太兄貴同様、逆らわずにありがたく頂戴しておいた方がいい。

「オレ、こんな怖い子やだ」
「アタシもこんな顔やだ」
「顔から否定かよ」
「藤真くん、薫さんも来るし、たちも戻るって言うからゆっくりしていってね」
「え、マジですか。すみません、なんか騒ぎにしてしまって」
「いいのいいの、内々のことで何かあれば閉店した後もここにいること多いから」

志津香はいそいそとキッチンへ戻っていった。この分ではまだまだ頼んでもいない料理が出てくるに違いない。

「なんかかえって悪かったな」
「そんなこともないよ。志津ママじゃないけど、が短大出た時なんか2時くらいまでここで飲んでたし」
「てか花形たち、戻る予定じゃなかったのか」
「ちょっと遠いから一泊したいみたいなことを透兄ちゃんは言ってた」
「それも悪かったなほんとに……いきなり来たオレも悪いんだけど」

ふたりのママが作る料理をつまみながら言う藤真に、葉奈は吹き出した。

「なんだよ」
「アタシの話、聞くの怖いんでしょ」
「おーまーえーなー」

だが、図星だったようだ。藤真はハイネケンをぐいっと飲むと、ハーッとため息をついた。

「どこまで聞いてた?」
「それが、当時は何も、一切聞かされてなかったんだ」
「え? 透兄ちゃんからも?」
「ああ。おそらく花形もお前とかに聞かされただけで、本人とはそういう話、してなかったはずだ」
「まあ、あんまり自慢できた話じゃなかったからねえ」
……そーいう自虐は聞きたくない」

葉奈は藤真の方を見ずにふっと微笑む。ことは4年前の話だ。

「今思うとさ、言う方も言う方だけど、OKする方もどうかと思うよ」

藤真たちが商店街に顔を出すようになって以来、葉奈は長谷川に片思いをしていた。そして、一度は告白して振られている。理由は長谷川に想い人がいたからだ。だが、長谷川の方も「相手がいる人」を好きになった不毛な恋であり、どちらにしても成就の望みはなかった。

そして、葉奈が推薦で翔陽に合格し、長谷川が3度目の冬を終えてバスケット部を引退した頃、葉奈はもう一度彼に告白した。そして、お互いが卒業するまででいいから付き合ってくれと頼み込んだ。その頃も長谷川は不毛な恋を諦めきれないでいたのだが、葉奈の願いを受け入れることになった。

その間、ふたりがどんな風に過ごしていたのかは、ですらも知らない。