あなたと花に酔いて

02

「おい、嘘だろ、健司じゃないか、なんだよ相変わらずかっこいいなお前ええ」
「あああ、兄貴ー! マジ久しぶりっす!」

旭さんは藤真が来たことを内緒にしていたらしい。店に入ってきた藤真を見るなり、育太兄貴は顔をくしゃくしゃにして涙ぐみ、藤真を掻き抱いた。育太兄貴は子供が出来て以来涙腺が緩いことで知られる。先日も初実の幼稚園の発表会で号泣、録画を楽しみにしていた人々は育太兄貴の泣き声を延々聞く羽目になった。

藤真と育太兄貴は、の両親をめぐるトラブルの時に真夏の商店街を猛ダッシュした仲間であり、商店街の隠れた名物である銭湯「黄金湯」を愛する同志でもあった。藤真が3年生になり部活が忙しくなるまではよくふたりで銭湯に行っていたが、黄金湯も3年前に惜しまれつつ閉店した。

「兄貴、旭さん、オレ、今度プロになるんです」
「嘘、ほんと!?」
「マジかよマジかよ、なんだよ健司お前頑張れよおお」

育太兄貴はとうとう泣き出した。昼のピークを過ぎたとはいえ、まだ店内には客がいて、葉奈はちょっと恥ずかしい。こそこそと厨房の横の小部屋へ入ると、例の双子をつれて戻ってきた。ふたりともまだ1歳である。ちなみに初実は同じ幼稚園のお友達と児童館に行っていて留守。

「おおそうだよ、健司、オレの息子ふたりだ。オレによく似てんだろ」
「ほんとによかったっすね、兄貴。はーちゃんも大きくなったんだろうなあ」
「もうちょっとしたら帰ってくると思うから、会ってあげてね」

初実が生まれたのは藤真たちが高校3年生の時。初めての子育てということで旭さんは店に出てくる回数が減り、藤真たちは足が遠のいていた。そのせいもあって藤真は1歳になる前の初実を何度か見たことがあるだけだ。

「食べていくんだろ? なにがいい」
「もちろんアレです」
「よっしゃ任せとけ、葉奈ちゃんもいつものでいいか」
「店長のツケで天ぷらよろしく」
「何言ってんだよ、健司のプロ入り祝いだ。好きなだけ食べて行けよ」

育太兄貴はまた温度が上がっている。すぐこんな風にタダで食ってけとなるので、あとできちんと会計を取るのは旭さんの役目である。若先生はともかく、葉奈もここで食べる時は兄貴に隠れてちゃんと支払っている。

「藤真スペシャル、懐かしいねえ。ワカメと梅とネギ大盛りとあとなんだっけ」
「磯辺天。覚えててくれたんだなあ、兄貴。やばいちょっと泣きそう」

藤真の好きなトッピングばかり乗せ、うどんは少し柔らかめに茹でてあるのが藤真スペシャルである。藤真だけでなく葉奈もも花形も、このあさひ屋と仲のいい人はだいたいマイスペシャルを持っている。兄貴は物覚えがいいらしく、それぞれのスペシャルメニューは全部正しく記憶している。

そしてほぼ指定席状態であった入り口脇のテーブルに座る。膝の上に康太と壮太が乗せられると、藤真はへにゃりと笑み崩れた。同じ顔をした双子だが、その顔は兄貴に似ていて、つまり同じ顔が3つだ。普段から問答無用で親以外に抱かれる日々の双子は人見知りが少ない。今も二人がかりで藤真の顔をべちべち叩いている。

「それにしても店長はお前に店番押し付けて何やってんだよ」

育太兄貴と旭さんは子供が可愛くて仕方ない様子だが、ゲスな店長は土曜だというのに遊びたい盛りの葉奈に店番をさせて不在だ。藤真は大森夫妻を見ていたら少し苛ついてきた。そういう藤真に葉奈は苦笑い。それを見た藤真も嫌な予感がして苦笑いをした。

「実はさ〜店長、彼女できたんだよね」
…………まさかとは思うけど」
「相変わらず勘がよくていらっしゃる。本日デートです」

藤真は康太と壮太を抱き締めて項垂れた。言葉が出ない。

確かに店長も2歳の葉奈を残して嫁に出て行かれ、男手一つで育てた苦労はあっただろう。だが、葉奈に目をかけてくれる人はたくさんいたし、母子もいたし、店長は決してひとりではなかった。彼女が出来たのはいい。それ自体は店長のためにもいいことだ。だが、だからといって娘ひとりに店を丸投げするのはおかしい。

「またアタシその人とあんまり相性良くなくてね」
「葉奈ちゃん、平気か? あんまりつらいようならちゃんと誰かに言えよ」
「それは平気。むしろ店長の面倒を見てくれるならその方が助かるから」
「相性良くないって、何か意地悪されたりとか――
「まさか。彼女、亜寿美さんていうんだけど、まあ悪い人じゃないんだ」

藤真は左膝に乗ってる康太の頭に頬ずりしつつ、怪訝そうな顔をした。どういうことだ。

「店長にはもったいないくらいなの。可愛いし、ちょっと大人しいけど純粋というか無垢というか」
……あー、わかったわかった。お前ら親子とは真逆の人なんだな」
「ほんとに勘がいいねえ。その通り、超ピュア、超ドリーミン」

店長の方は好きだから真逆でも構わないのだろうが、つまり純真なので葉奈のこの性格に触れていると勝手に傷ついてしまう。彼氏の娘だと思って必要以上に距離を縮めようとする。擦り寄りすぎて自滅する。葉奈も父を任せられればと思うが、どうにも上手く付き合えない。

「いらないよって言うのに差し入れとかプレゼントが続いてたりしてね」
「やめるように言えば気に入らなかったのかと拗ねる、ってわけだな」
「うおおイケメンわかってくれるか!」

如何せん葉奈も19歳、新しいママと仲良し3人家族なんていう幻想は抱かないでほしいと散々店長に言うのだが、なかなか亜寿美本人には伝わらなかった。それを宥めているのは、志津香だという。

そもそも志津香は2歳で母親に捨てられた葉奈の母親代わりである。なおかつ特殊な非日常を何年も経験したことで彼女はある種の悟りを開いたようになっていて、朋恵と営むカフェではしょっちゅう人生相談を受けているらしい。そういった経験から志津香は亜寿美に葉奈の母親になろうと思わない方がいいと説いた。

「冷たいようだけど、アタシに明確な母親というものは存在しないのね。産みの母親は顔も覚えてない、母親のように育ててくれたママは親のいとこ、その上商店街には母親のようなことをたくさんしてくれた人がいっぱいいて、アタシにとってはそれら全てが母親だったりするの。それを突然亜寿美さんひとりにしろと言われてもね」

ふたりは結婚を考えているらしいのだが、それはあくまでも店長、孝幸と亜寿美の関係の発展であって、成人も近い葉奈は切り離して考えなければ破綻すると志津香は断言した。また、葉奈を生まれた時から知っている身としても、彼女に亜寿美と同じようなユルい世界を求めるのは不可能だと断言した。

志津香は根気よく話したが、亜寿美にはなかなかそれが伝わらず、時間がかかっているという。

「あとねー、朋恵ママが苦手みたいでさ。アタシはそれがきっかけであーこの人ダメだってなっちゃって」
「失礼を承知で言えば、葉奈ちゃんも花形のおっかさんもだいぶ特殊だからなあ」
「アタシも朋恵ママも思ったことはちゃんと言うでしょ、それが苦手みたいで」

思ったことをちゃんと言うのはいいことだが、葉奈は毒々しいし朋恵はお花畑だ。大人しく地味なたちの亜寿美さんにとって、この商店街をベースにした人間関係は他人との距離が近すぎてついていかれなくなっているらしい。

は何て言ってんだ」
「本人は特に何も。けど亜寿美さんも苦手」
「はあ? なんて鈍感だけど無害だろ」
「姪ならともかく、いとこの娘となんでこんなに親しいのかわからないんだって」

亜寿美さんは住宅街の一戸建て核家族育ちである。親類縁者は遠方。親もひとりっ子同士でいとこすらいない。

「ええと、だけど店長にとってはいい彼女なんだよな?」
「それはもう。ちょっと年離れてるけど、仲いいよ。有難いんだけどね〜」

早く店長と亜寿美が葉奈を含めた家族という幻想から目を覚ますことだ。

「彼氏彼女といえば、もうひとつトピックがあるよ」
「なんだよみんな幸せじゃんか――お、来た来た」
「お待たせ〜。はい、藤真スペシャルと葉奈スペシャル!」

旭さんがうどんを運んできたので、康太と壮太はまた厨房の横の小部屋に戻っていった。数年振りのマイスペシャルに藤真はまた歓声を上げ、さっそく啜り始めた。店長のツケで頼んだ天ぷらも山盛りで、藤真は大喜び。テンションが上がってしまった育太兄貴は最近のヒット商品黒蜜きなこプリンも付けて寄越した。

「で、もうひとつのトピックって?」
「朋恵ママと志津香ママのカフェ、『花あかり』っていうんだけど、最初はやっぱりあんまり人来なくて」

花あかりはランチから始まって21時までの営業である。ランチが終わる15時からティータイム、18時からはバータイムになり、アルコールも出る。外装内装からファニチャー、テーブルウェアに至るまでとにかく朋恵の厳しい監修の元作られたせいで、男性は入るのをためらうような可憐な店になっている。

だが、そのこだわりが裏目に出て、高級そうな店と思われていたらしく、ターゲットと考えていた商店街を利用する普段着の女性に中々足を運んでもらえないでいた。亀屋やえどや栃木屋の女将さんたちも、きれいすぎて入れないと遠慮しまくっていたし、旭さんも子供がいては、と遠慮するので本当に誰も来なかった。

「別にメニューは高くないんだけどね。だもんで、最初の頃は毎晩のように花形父が来てたの」

しかし内装が女性好み過ぎて花形父もひとりではつらくなってきた。そこで父は同僚やら部下やら、果ては元上司まで引き連れてやってくるようになった。そもそも朋恵の父親は花形父・薫さんの上司の上司くらいにあたる。誰を連れてきても朋恵に深々と頭を下げるような人ばかりだった。

ちなみに花形父・薫さんと朋恵の父親は警察官である。

「で、その頃退官したばっかりの人が来てね、志津香ママに一目惚れ」

藤真は啜っていたうどんが変なところに入ったらしく、勢いよくむせた。

「なんかこの商店街ってそんなんばっかじゃないか」
「そうかなあ。と店長と志津香ママだけだけど」
「あー、じゃ訂正するわ。家はどーなってんだ。てか退官した元上司って独身だったのか」
「そう。早くに奥さん亡くしてから頑なに独り身を貫いてたらしいんだけどね」

だが、退官したことで意識が変わったのか、志津香に本気で惚れてしまったらしい。

家でひとくくりにされるとまたアレなんだけど、イケメンは知らないだろうけど、志津香ママって昔はあんな感じの人じゃなかったんだよね。ふつーの元気なおかーさん! て感じで」

だが、元夫に刺されて1年近く意識不明のまま過ごし、目が覚めた時にはその元夫はすでに亡く、娘やいとこが大変な苦労をしていたことで、志津香は人が変わった。しっとりと落ち着いて神秘的にすら感じるようなその佇まいは大変魅力的だっただろう。

「またこれが渋くて紳士なイケおっさんでさあ。しつこくしたりしないし、むしろ朋恵ママの方がはしゃいでて」
「容易に想像がつくなそれ……は平気なのか」
「そりゃまあ、そこはアタシと同じよ。まあの場合嫁に行っても今と大して変わらないだろうし」

なるほどな、と藤真は海老天にかじりついた。藤真自身はトラブルの少ない家庭環境で育ったため、こういう人間関係のトピックにはあまり縁がない。なので、葉奈やが大変な苦労をしているように見える。本人たちが至って明るく元気なものだから、たまに頭を撫でて褒めてやりたくなる。

花形だってそうだった。母親の頭にちょっとお花が咲いていることを除けば、出来過ぎたくらいの円満家庭で、商店街とは一切縁がなかった。それがたまたま花形が母の誕生日に花を贈ろうと思いつき、たまたまフローリストに来てしまったことから、花形家全体の運命も予想だにしない方向へと向かっていった。

「そんな感じかなあ。あとはそんなに変化ないと思うけど」
「まあその、岩間先生の件は残念だったけど、みんな元気そうで安心したよ」

黒蜜きなこプリンまできれいに平らげた藤真は整った笑顔でホッと息を吐いた。それを見た葉奈も、箸を置いて水を一口飲むと、ふう、と困ったような顔をして息を吐いた。

「イケメンはさあ、優しいんだろうけど、バレバレだよね、そういうの」
「は?」
「なんで長谷川さんの話しないの」

葉奈が言うなり、藤真はがっくりと肩を落として俯いた。

「だって……したくないだろ」
「だけど気になってたんでしょ」
「ごめん」
「アタシ別に気にしてないよ。場所、変えよっか」

藤真が返事をする前に葉奈は旭さんを呼んでこっそり会計を済ませると、店を出た。初実がもうすぐ帰ってくるというので、またあとで寄ると言い残して藤真もあさひ屋を後にした。

藤真の大好物、「惣菜 樹林」のコロッケを買うために少し歩き、樹林に来たら来たで店主のおばあちゃんが藤真の再訪を泣いて喜び、おやつにひとつくれと言ったコロッケが10個も出てきた。これも久々で、藤真はちょっと涙目になりながら笑った。

熱々のコロッケを持って帰ると、店先で亀屋の小父さんが腕組みをして雑貨屋のおじいちゃんと喋っていた。なんだかちょっと怖い顔をしている。あさひ屋でたらふく食べてしまったし、さすがにコロッケ10個は食べられそうにないし、小父さんたち食べない? と言おうとした葉奈も寸前で口をつぐんだ。

「おう、おかえり」
「おじーちゃんお久しぶりです」

藤真が雑貨屋のおじいちゃんに挨拶している横で、亀屋の主人鶴橋清三さんは葉奈の腕を掴んで声を潜めた。

「さっきちゃんから電話があったんだ」
「店長? 何かあったの? 今日は閉店まで来ない予定なんだけど」

藤真も葉奈の言葉を聞いて寄って来た。朝から晩まで葉奈がひとりで店を丸投げされていたのか。

「いや、夕飯をみよし亭で食べようと思ってたらしくて、予約しといてくれって話だった」
「そんなこと自分でやればいいじゃないか」
「おうよ、藤真くん、最近ちゃんちょっとばかりおかしいんだわ」

そして、店を任せているはずの葉奈ではなく、清三さんが電話に出たことを怒ったらしい。清三さんは藤真が来たからあさひ屋に昼飯を食べに行ってるだけだと言ったのだが、店長はそれならバックヤードで食べればいい、店を空けるなんて、と怒っていたのだそうだ。藤真はまたがっくりと頭を落とした。

「タダ働きさせといて何言ってんだよ店長! 小父さんが手伝ってくれるのもいつものことじゃないか」
「まったくだ。どうも葉奈が国立受かってからおかしいんだよな」
「やっぱそこなのかねえ。アタシは亜寿美さんかと思ってたけど」
「それは入り口だな。やっぱり進学したのが気に入らなかったんだよ」

あまり気にしていない様子の葉奈だが、藤真はそろそろ限界近くなっていた。店長も面白い人だし、高校生の頃はこの店で楽しく過ごさせてもらった。それは感謝してる。だが、同様、この葉奈も大事な友人だ。それがこんな風に店長のお花畑脳の犠牲になっているかと思うと腹が立つ。

カッと顔を上げた藤真は、葉奈と清三さんに向かって言い放った。

「オレ、店番やるわ」

ぽかんとしている葉奈と清三さんを置いて藤真は店内にさっさと入る。バックヤードに上がるとコロッケをひとつ取り出してバクバク食べ、壁際に積んである衣装ケースから白いシャツを引っ張り出した。藤真が高校時代にフローリストのヘルプをした時のものだ。まだ残っていた。

藤真がいつ来てもいいように、とは当時からこまめに洗濯をしていた。それは今でも変わらなかったらしい。もしくは葉奈がそれを引き継いでいたか。ともかく、それを羽織り、が使っていた黒のカフェエプロンを腰に巻けば、伝説の花売り・藤真様の出来上がりである。

「おいおい、いいのか葉奈、藤真くん本気だよ」
「やべー面白い懐かしい! いいじゃん、売れれば何だって」

心配そうな顔をしている清三さんの横で、葉奈はにんまりと笑った。