あなたと花に酔いて

04

「付き合うって言ってもさ、そこはアタシだし長谷川さんだし、大したことはなかったと思うけどね」
「付き合ってたのに苗字で呼んでたのか」
……うん。名前で呼んでいいかって聞きそびれて。向こうも何も言わないし」

そもそもが長谷川は口数も少なく、普段からあまり愛想のいい方ではない。基本喋りっぱなしで相手を問わずに笑顔で話しかけられる葉奈とは対極にある人物だ。本人が言うように、付き合うと言っても、ほとんどの部分で友達付き合いの延長だった。

それに、当時はまだ葉奈が中学生だったので、期間限定で付き合っているなどとは大っぴらに言えたことではなくて、特に長谷川の方は誰にもそのことを言わなかった。

「オレがそのことを聞いたのは夏休みになってからでさ。その年のインターハイ一緒に見に行ったんだ」
「夏休み……その頃アタシは毎日はーちゃんと遊んでたな」
「びっくりもしたんだけど、なんかこう、一志が後悔してるような気がして」
「まあ……そうだろうね。アタシのことが好きだったわけじゃないんだし」
「いや、そうじゃなくて」

葉奈はスティックパイをくわえたままきょとんとしている。

「お前を傷つけたんじゃないかって、葉奈ちゃんのためだからって安易に受け入れて、逆にそれが葉奈ちゃんを苦しめたんじゃないかって。だけど成就しそうにない片思いの辛さは身をもってわかってるから、つい頷いちゃったんだって。……まあ、そーいうの、お前のことだから知ってただろうけど」

葉奈はまたプッと吹き出すと、スプリングオペラを傾けて椅子の背もたれに寄りかかった。

「だけどそれはアタシのせいだよねえ。確かに傷ついたけど、傷つくってわかっててそんなこと頼んだわけだし、長谷川さんが傷つくのもわかってて言ったんだし。だけどもうはーちゃんも生まれてたから、いいかと思って」

しみじみと語っていた葉奈の横で藤真がハイネケンの入ったグラスを取り落としそうになった。テーブルに硬いグラスが当たり、大きな音がした。また葉奈はスティックパイを手にぽかんとしている。

「なに」
「ちょ、ちょっと待って、一志の好きだった人って、まさか」
「えー、それも知らなかったの? 何だよ情報は正確に頼むよ、あーあ、余計なこと言っちゃった」
「マジかよ一志……

長谷川が当時想いを寄せていたのは、旭さんである。それも知らなかったらしい藤真はテーブルに頭を打ち付けた。知っていたらどうだということもないが、例えば年齢差であったり、育太兄貴とも仲良くしていたりだとか、当時のことを思い返すほどに長谷川がどれだけつらい恋心を抱えていたのかがわかる。

「てかなにこの片思い連鎖。航だって花形とがくっついていくのを目の前で見てたわけだろ。キツい!」
「しかも長谷川さんの場合は途中で旭さん妊娠したからね」
「いやもうそんなの想像しただけで吐きそう」
「吐いたって言ってた」
「ですよねえ……

エグい話なので喉が渇くし、素面で楽しく聞ける話じゃない。藤真は残っていたハイネケンを飲み干すと、カウンターの向こうにおかわりを頼みに行き、その場でもらって帰ってきた。花形も戻ってくると言うし、たくさん飲んでも大丈夫。酔っ払ったら花形に搬送させればいい。

「自分だって一度も来なかったくせにアレなんだけど、そりゃあいつも来ないよな」
「季節ごとの休みになると透兄ちゃんだけ帰ってくるって感じだったからね。航くんも来ないし」
「その話はそれっきりで終わったけど、大丈夫だったのかなあいつ」
「どうだろうね。最後に、引っ越す前に会った時は、まだ無理だったんじゃないのかな」
……お前もまだ無理なのか」
「イケメンのそーいう勘のいいところ、ほんっと嫌い」

葉奈もスプリングオペラを飲み干すと、キッチンに顔を突っ込んでドリンクをオーダーして戻ってきた。

「翔陽にいる間に彼氏とか出来なかったのか」
「ふたりほどー」
「ダメだったんか」
「ダメだったっていうより、向こうが逃げていった」

真剣に聞いているつもりの藤真だったが、ハイネケンを吹き出しそうになって慌てて口を押さえた。確かに葉奈やと付き合うのであればこの商店街の洗礼は避けて通れないし、いつか花形が戸惑ったように、いきなりこの商店街の中に放り込まれれば驚くに違いない。

その上、万事穏やかなと違って葉奈は相手が誰でもこの調子だ。それにしては可愛い顔をしているから、見た目に惑わされてしまうと落差が激しい。だが笑ってはいけない。笑い事じゃない。

「実際、まだ忘れられないの、ってほどじゃないんだけど、中途半端に付き合ったせいで宙ぶらりんになってる」
「どう思ってるとか、聞かなかったのか」
「最初に告白した時は、アタシまだ中2だったじゃない? すごく気を使ってくれてさ――

礼を言った上で、好きな人がいるからごめん、と長谷川は50センチ近く身長差がある葉奈に頭を下げた。それに対して葉奈が、もし好きな人がいなかったらどうすると聞くと、長谷川は「だったらこっちからお願いしたいくらい」と言った。それを聞いて葉奈はしつこくせずに身を引く覚悟をしたのだった。

「嘘じゃなかったはずだよ。一志は咄嗟に都合のいい嘘を思いつくようなヤツじゃない」
「だから困ってるんじゃないか」
「ですよねー」

期間限定で付き合っている間も、長谷川は葉奈にとても優しかった。葉奈は一緒にいて嫌な思いなど一度もしたことがないし、葉奈がくっつこうがキスをねだろうが長谷川は拒否しなかった。幸せな時間だったと今も思っている。傷つきはしたけれど、忘れたい過去ではない。

「花形から聞いてるか?」
「春からのこと? ううん、何も。イケメンがプロ入りすることだってさっき知ったんだし」
「あ、そうか。一志もな、バスケはここまで。あいつ、先生になるんだ。帰ってくるよ」
「は!?」

いい選手だったが、年代が上がれば上がるほど枠は狭くなっていく。花形は怪我で、長谷川は自分の限界を感じて、バスケット選手という肩書は大学生までと決めた。花形は一般企業に就職、長谷川は教員採用試験を受けた。花形は春から方々へ研修、長谷川は高校の体育の先生だ。

……葉奈ちゃんも、先生になるんだろ」
……やだなあ、こういうの。やだなあ」

藤真は手を伸ばし、現在小学校の先生を目指している葉奈の頭をぐりぐりと撫でた。

花形父・薫さんと、と花形が花あかりにやってきたのは閉店間際の21時前だった。商店街を抜けてやってきた3人はたまたま行き合って、一緒にやってきた。と薫さんはほぼ4年振りの藤真だ。だが、浮き立つ心を抱えて花あかりに入ると、藤真は真っ赤な顔をしてハイネケンを飲んでいた。

「なんでこいつこんな酔っ払ってんだ」
「いえその、今日は1日色々ありまして……とどめに長谷川さんの話しちゃったもんだから」

花形はため息をつきつつ藤真に声をかけると、父親のところまで引きずって行った。

「うわ、ご、ご無沙汰してます、すんません、ちょっと色々あったもんで」
「いやいや、もう大人なんだからな、そういう時もあるさ。プロ入りおめでとう。透の分まで頑張ってくれよ」
「はっ、はい、ありがとうございます。あ、のことよろしくお願いします」
「なんで藤真がそんなこと言ってんの」
「うおお、〜」

気持ちよく酔っ払っている藤真はしかし、薫さんを見て少し目が覚め、を見てまた涙腺が緩んだ。既に社会人であるはずいぶん大人っぽくなっていて、まだ一応学生である花形と並ぶと花形の方が少し幼く見えた。藤真はアルコールと涙で赤くなった目で両腕を伸ばし、に抱きついた。

「聞いたよ、プロになるんだって? おめでとう、すごいね、よかったね藤真」
「ありがとう〜」
「でも寂しくなるなあ。長谷川くんは帰ってくるけど、藤真は遠くに行っちゃうんだね」
「ごめん〜でも今度はちゃんと帰ってくるから〜」

もちょっと涙声になってきた。

「今日は小父さんが助けてあげるから、みんなで飲んでいったら」
「え、だめですよそんなの」
ちゃんも友達が来た時くらいゆっくりしていきなさい。息抜きも大事だよ」
「藤真既にこんなだし、オレは飲まないから、は甘えな」

薫さんもいきなり息子ふたりが家を出てしまったので、年々や葉奈も含めた子どもたちに甘くなっている。元々妻にはベタ甘なので、薫さんは誰かを甘やかしてばかりいる人になってきた。遠慮するを渋い微笑みで黙らせると、志津香が改めて設えてくれたテーブルに追い立てる。

「色々あったって、どうしたの藤真は」
「こっちに着いたのは10時半頃だったらしいんだけど、あちこちで捕まるし、兄貴はまたはしゃぐし」
「ま、そこはそうだろうな。おチビたちには会ったのか?」
「康太と壮太は抱っこしたよ。はーちゃんは出かけててさ、その後もちょっとあって会えなかった」

藤真がトイレに行っているので葉奈が簡単に説明する。

「そこまではよかったんだけど、あさひ屋に行ってる間に店長から電話来ちゃってさ」
「亀屋の小父さんが受けてくれたの?」
「あすみんと行きたいからみよし亭予約しとけって電話でさ。イケメン、怒っちゃって」
「またかよ。そりゃ怒るわ」

清三さんたちが強く言えない中、今日の藤真を除けば店長にしつこく文句を言い続けているのは花形だ。また、遠慮する葉奈に構わずと出かける時は一緒に連れ出している。

「面白かったよ、突然店番やるって言い出してさ。伝説の藤真様ご降臨だよ」
「なんでそんなこと――
「イケメンが過去最強の本気出したおかげで、今、店の中すっからかんなの」

からからと笑う葉奈の声に、と花形は目を丸くして固まった。

「それで店閉めてここに来たってわけ。ねえ、イケメン、花ほとんど残ってないよね」
「おうよ。その上花束返しジンクスほじくり返して吹聴しておいた」
「ちょ、そんな昔のこと!」

トイレから戻ってきた藤真は少し酔いから覚めている。元祖花束返しの花形は狼狽えた。

には申し訳ないけど、なんかもう腹立ってさ」
「ううん、こっちこそごめんね。なんかちょっと今色々おかしくてさ」
「オレはいいよ、どうせもう少ししたら引っ越しちゃうんだし、オレだけいなくなっちゃうんだし」
「お前変な酔い方するようになったな」

今日は特別だ。何しろ嬉しいことも悲しい思い出も腹が立つことも吐きそうなキツい話も、全部まとめて一気に来たから。藤真はそのあたりをだらだらとこぼしつつ、けれど久しぶりにと花形が並んでいるのを眺めながら目を細めていた。このふたりのためにも、遠い夏の日に必死で走った甲斐があった。

そうして4人でわいわいと喋っていると、店のドアが開いて誰か入ってきた。振り返ったと花形が気付いてすぐさま会釈をした。藤真も首を伸ばしてみるが、見覚えのない人だった。既に閉店しているのだから、誰かしらの近しい人であろうが、見覚えがない。

「葉奈ちゃんに聞いた? 呈一さん」
「えっ、志津香さんの。へえ、渋いな。、大丈夫なのか」
「安心してるよ。呈一さん、店長と違ってものすっごい紳士だし」

花形が吹き出す。どちらも子供がいて独身でという立場だが、店長がちょっとおかしくなっているのに対し、志津香は信頼の置ける相手のようだ。呈一さんはまずカウンターに行って薫さんに声をかけると、出てきた志津香の手を取ってにこやかに話している。

……って、ただあの人が好きになっちゃっただけじゃなかったのか?」
「まあ、店長たちみたいに盛り上がってはいないよ。だけど、呈一さんすごく丁寧に接してくれてて」
「毎日は来ないし、バータイムにしか来ないし、連絡先交換するんだって半年くらいかかったよな」
「藤真、ちょっと顔出してもらえる?」

志津香との話が終わったようなので、は藤真の手を引いて立ち上がった。呈一さんはなんだか妙な迫力があってちょっと怖かったが、藤真は大人しくについていく。

「呈一さん、少しいいですか。懐かしい友人が来たので紹介させてください」
「おお、志津香さんが言っていたのは君か。初めまして。蓮見と申します」
「あ、は、初めまして、藤真といいます。すみません飲んでしまってて――
「私もこれから頂きますよ。透くんの高校時代の仲間なんだって?」
「呈一さん、彼、春からプロ選手になるんですよ」

また酔いが覚めた藤真がぺこぺこしながら話していると、キッチンから志津香が料理と酒を運んできた。すると、呈一さんはまた志津香の手を取って微笑みかけた。そうして佇んでいると、長年連れ添った夫婦に見える。

「君たちに比べれば新参者だけど、妙な御縁で志津香さんとお近付きになれたことに感謝してるんですよ。聞けば君はかつてちゃんが大変な目に遭った時に大活躍したそうですね。私はもう退官しましたけど、君のような人がいてくれたらと思いますよ」

怒りに任せて走り、朋恵が仕留めた残骸をふん縛っただけなのだが――と藤真は冷や汗をかく思いだ。

「志津香さん、私からもちゃんたちにお酒を」
「そ、そんな、呈一さんいいですよ、さっきお父さんにも――
「それじゃ花形くんにも奢りましょう。藤真くんのプロ入り祝いです」

花形と葉奈が待つテーブルに戻る間、藤真はしみじみと呟いた。

「なんだあのアルティメット紳士。店長、少し見習えよ」
「透くんと同じこと言ってる」
「てか、めっちゃ紳士なお父さんがふたり、よかったなあ」

瞬間、はボッと顔を赤くした。つい薫さんをお父さんと呼んでしまったことに気付いたからだ。まあ、これに関しては薫さんの方がにお父さんと呼べとしつこく迫ったという経緯がある。なので朋恵は葉奈と同じように朋恵ママと呼ぶのが普通だ。

「おかえり。呈一さん、マジ紳士だったでしょ」
「ハンパねえな。おかげで店長がますますゲスに見えるよ」
「付き合うみたいになった時もな、例え志津ママと結婚を選択しても、自分を父と思わなくていいってな」
「え、なんでだ」
「さっきの亜寿美さんの話と反対。志津ママと一緒にいたいだけで、の親になろうなんて思ってないって」

例え志津香と結婚するにしても、自分の世話を焼かせたいからじゃない、家族や夫婦なんていう重荷を志津香に背負わせたくない。だからとも家族や親子になろうなんて思っていない。遠慮も気遣いも残したまま、お互い礼を尽くし合える関係になれたら、と呈一さんはに頭を下げた。

「うおお、葉奈ちゃんすまん、店長ォォ!」
「いやいや、透兄ちゃんと同じ反応で何より」
「ほんとに困ったもんだよな。今のところ葉奈ちゃんが時々拘束されるだけで済んでるけど――

花形は腕組みをして首を傾げた。

「いつかもっと大変なことが起こるんじゃないかって気がするんだよな」
「これ以上葉奈ちゃんがつらい目に遭うような言い方するなよ」
「いやもちろんそうでないことを願ってるけど、店長、マジでトチ狂ってるから」
「まったくねえ、アタシって可哀想な女の子だよねっ」

だがそう言いながら、葉奈は嬉しそうに笑って、グラスを傾けた。

「だけどさ、イケメン、しばらくこっちにいるっていうし、またみんなで会えるね!」

もちろんそのつもりでいる。けれど、藤真もも花形も、ひとり足りないことについては言葉にしなかった。長谷川ももうそろそろ帰ってくる頃なのだが、果たして彼はどんな思いでいるのだろうか。当時は商店街が好きだと言っていたけれど、地元を出て行くまでに色々ありすぎた。

出来ればみんな揃って集まりたいけれど、そんな気持ちを持てないようならひとりで会いに行こう――藤真はそう考えつつ、薫さんと呈一さんのおごりで続々と届く酒と料理に歓喜し、大事な友達、商店街の優しい人々、そして天国の岩間先生に向かって杯を掲げた。