あなたと花に酔いて

07

藤真がふらりと現れ、商店街が英雄の帰還に沸いた週末。長谷川の件でちょっとしんみりしてしまった藤真と花形や、藤真にしてやられた店長を除けば、誰もが彼との再会を喜んだ。しかもプロ入りしますなんていうニュースを片手にやってきた彼を誇りに思っただろう。

だがその影で、花形の「いつかもっと大変なことが起こるんじゃないか」という不安が音もなく忍び寄ってきていた。

「不審者って、だけどもう……
「まだそう決まったわけじゃないんだけど、も志津ママも、そこは人より敏感だからさ」

あとは卒業式を待つばかりで時間のある藤真と花形は、用がなければ日中商店街をウロつくようになっていた。だいたいは花あかりにいるのだが、基本的には女性客向けの店だし、気を付けないと藤真が囲まれるので、場所はころころ変わる。今日はあさひ屋。

藤真が戻る少し前から、と志津香のアパート、店長と葉奈のマンション、花形家の周辺で妙な人影が目撃されるようになっていたのだという。近所の住人とも訪問販売とも違うが、どうも同じ人間らしい。普通の人なら気付かない程度の頻度だが、と志津香が気付き、気になった薫さんが自宅と葉奈宅でも確認した。

しかし藤真の言うように、と志津香が警戒していたのは、指名手配されていた父、そして元夫だけであり、彼はもう他界している。例えば誰かのストーカーだったのだとしても、その3軒を回る必要はない。しかも花形家は薫さんが現職の警察官なのである。

「でも、『お巡りさん』の制服着て帰ってくるわけじゃないからなあ。捜査一課のデカってわけでもないし」
「その3軒は付き合いも濃いしそれぞれ関係が絡まってるけど、第三者にとっては一緒にする理由がないよな」

これについては今のところ特に被害もないし、と志津香は警戒心が強いので、それを徹底して行くこと、と志津香だけでなく、その3軒の人間は全員日が高くてもひと気のないところでひとり歩きはしないこと、などが薫さんから指示された。

「だからこの間呈一さんも閉店してから来たろ。あの日はオレたち帰らない予定だったから、来てくれたんだ」
「ターゲットが絞れないのも怖いな。最近は老若男女あんまり関係ないし」
「でも実際、男はうちの父親と店長だけなんだぞ。オレも先週戻ってきたばっかりだし」

藤真スペシャルを食べながら、藤真は顔をしかめた。なんでこう家周辺は不穏なトラブルが頻発するのか。

「せっかく戻ってきてと一泊だったのに悪かったな、急に」
「ほんとにな」
「そこは気にするなって言えよ」
「言うかバカ。当分そんなチャンスないっていうのに」

家族同士が仲良く距離も近いのは何かと助かることもあるが、ふたりきりになるという点においては不便だ。面白くなさそうな顔をしている花形が面白い藤真がニヤニヤと笑っていると、幼稚園から帰ってきた初実が旭さんと共に店に戻ってきた。もうランチタイムをとっくに過ぎているので、店内は空いている。

「ふじまー、とーるちゃん、ただいま!」
「おー、はーちゃんおかえり。幼稚園楽しかったか。あとオレはけんじ兄ちゃんな」
「楽しいけど、はーちゃんは先生の方が好きだからさ。幼稚園の男の子は退屈」

腕を組んで体をひねる初実に、藤真と花形と旭母さんは苦笑い。初実は葉奈と同じく商店街育ちなので、語彙が豊富だ。親が育太兄貴と旭さんなのでゲスにはならないだろうが、葉奈のようにませた小学生ませた中学生になっていくに違いない。

またお友達のお母さんが児童館に連れて行ってくれるらしく、初実は厨房の隣の小部屋で弟達にただいまを連呼すると、着替えを始めた。児童館は若先生の勤めるクリニックの前を通って行くので、初実は必ず着替えてからでないと店を出ない。3歳でも女だ。

「ねえねえ、そういえば一志くんは元気にしてるの?」

客がほとんどいないので、旭さんは藤真の隣に腰を下ろしてそんなことを言い出した。思わずうどんを吹き出しそうになった藤真と花形だが、根性で堪えた。相変わらず少女のように可愛らしい旭さんの笑顔が心に痛い。

「もちろん元気だよ。この間帰ってきたばっかりでまだ慌ただしいみたい」
「オレと違ってこっちに戻るから、そのうち顔出すと思うよ」
「先生になるんだって? 葉奈ちゃんと同じね!」

藤真と花形の心がぎりぎりと痛む。せっかくのおいしいうどんの味がわからなくなってきた。藤真は残っていたうどんを勢いよく啜り込み、水で流し込むと、横にいる旭さんの方へ向き直った。

「ねえ旭さん、オレ今、人生勉強してるんだけど、ちょっと質問してもいい?」
「えっ、私そんなに人生経験豊富じゃないんだけどな、いい?」
「うん。色んな意見を聞いてみたいから、思った通りに答えて」

なんだか藤真がまた余計なことを言いそうなので、花形も急いでうどんを食べ終える。ちらりと厨房の方を覗けば、ランチタイムが終わってホッとしている育太兄貴が着替える初実を手伝っていた。初実は髪が崩れるのが嫌だと育太兄貴に文句を言っている。藤真の声は聞こえないだろう。

「もし今オレが旭さんのこと好きって言ったらどう思う?」

わかっちゃいたけどド直球過ぎて、花形は水を零した。

「えっ、やだあ、健司くん私のこと好きなの?」
「そーいうのいいから。一回り以上離れてる男に惚れられたらどう思う?」
「健司くんに冷静に突っ込まれると凹むね……

成り行きを見守っている花形をちらりと見て旭さんは舌を出す。が、すぐに藤真に向き直ると咳払いをひとつ。

「そうね、これを全ての女性の意見だと思わないで欲しいんだけど……
「もちろん、それはわかってるよ。旭さんならどう思うかなっていうだけだから」

方便ではない。他の女性がどう思うかなど本当にどうでもいいのだ。旭さんの答えだけが知りたい。

「相手にもよるという前提は置かせてね。それがもし嫌いな相手でなかったら、気持ちの上では大喜びします」

旭さんは藤真の目をじっと見つめながら、真剣な顔で答えた。

「まだ小学生くらいだったら微笑ましく思うかもしれない。恋愛感情ではないと思うから。だけど、思春期を過ぎた人なら、それは全部恋だと思うの。だから、嬉しい。幸せも感じると思う。自分に自信が持てると思う。もし健司くんにそんなこと言われたら、嬉しいって思うと思う」

藤真も旭さんの目をじっと見つめている。花形も、旭さんの横顔を見つめている。

「だけど、それは絶対に表には出さないよ。例えば健司くんに好きって言われて、その時でもありがとうとか気持ちは嬉しいとか、言わないと思う。私ならたぶん、茶化すんじゃないかな。真面目に取り合わないようにする」
……そうしたらもう全く気にならないと思う?」
「まさか。私そんなに強くないよ。たぶん、一生忘れられないと思う」

少し視線を逸らした旭さんは、すっと厨房の方を見る。まだ初実が文句を言っている。

「でもね、私はあの人に決めたの」

か細い声だった。テーブルを挟んで向かいにいた花形もやっと聞き取れたかというほどの小さな声だった。しばらくしてから視線を戻すと、いつもの可愛らしい笑顔に戻ってちょこんと首を傾げた。

「学生の頃からの友達にね、不倫ばっかりしてる子がいたんだけど、結局30くらいで初婚の人と結婚したの。そしたら、1年と経たずに浮気されたの。だってそうよね、不倫好きが選んだ男だもん、一途なわけがなかった。私その話聞いて後で大笑いしちゃって」

旭さんはさも可笑しそうに口元に手を当てて笑っている。

「私はそういうの嫌だし、バカな女って思うんだけど、私その子とすっごく仲がいいの」
「えっ、嫌にならないの」
「だって私がその子と恋愛してるわけじゃないんだし、愚痴も自慢も言わないし、私とはただの女友達」

理解できないのが顔に出ている藤真の腕を撫でると、旭さんは花形の方もちらりと見て何度も頷いた。

「人の数だけ思いがあるって言うじゃない。私はちゃんのお父さんみたいになったりしない限り、どれが良くてどれがダメってこともないと思うな。でも実はこれ、最近店長と志津香さん見てて思ったことなんだけどね」

初実が着替え終わったので、旭さんは席を立ってふたりに囁きかけた。

「だけどあんまり参考にしないでくれると嬉しいな」

すたすたと去っていった旭さんの後ろ姿をぼんやりと見つめていた藤真と花形は、やがて静かに顔を見交わすと、静かにため息をついた。藤真がのろのろと水を飲み、ぼんやりした顔で花形を見上げる。

……オレ、やっぱりあんまりよくわかんないわ。お前わかるか?」
「いいや、わかんねえ。ただ、上手く言えないけど、一志は人を見る目があるなって思った」
「あいつ、いい先生になるかもしれないな」

翌日、不審者の件はともかく、とりあえず葉奈があまりよろしくない状態になっている原因である亜寿美と対面することになった藤真は、10分ほどで音を上げて花あかりに逃げ込んできた。というか、店長があまりにもデレデレなので、余計につらくなってしまった。

カウンターで岩間先生の文鎮にすがってうなだれる藤真を志津香と朋恵が慰めていた。

「脅かすわけじゃないけど、私たちくらいの歳になると別に亜寿美さんが特別とも思わないのよね」
「私も言われたことあるわ。毛色が違うだけで亜寿美さんと朋恵は同類だって」
「んなわけないでしょ、あれと朋恵さんが一緒だなんてありえない」

志津香と朋恵があまり亜寿美のことを気にしていないのもちょっと苛つく。藤真はまた遅い賄いランチをもらいながら、先生の文鎮を撫でて心を宥めている。先生、オレはあんなのが急に母親になったらグレる。

現在店長との結婚を視野に派遣社員を辞めてアルバイトしているという亜寿美は、たまにフローリストを手伝いに来ている。本人は結婚したら店には出ずに専業主婦になると言っているらしいが、店長はふたりで店をやりたいと考えているようだ。けっこうなずれだが、周りは誰も忠告してやるつもりはない。

藤真がふらりと商店街に戻ってきてからそろそろ1週間、さすがに店長を無視したままではいられなくなった藤真は、葉奈が出かけているというのでひとりで顔を出してみたのだ。そしてそれを今、大変後悔している。

「だけど、ぱっと見は普通の子でしょ」
「まあ、それは。大人しそうで可愛い感じだし、中身があんなだなんて思わないと思います」

葉奈や花形がちらほらと漏らしていたが、藤真は店長と亜寿美に会うなり「あすみん」の洗礼を浴びた。ふたりは「あすみん」と「ゆきぽん」と呼び合っていた。藤真は絶句、そして葉奈のために泣きたくなってきた。それを聞いた志津香は吹き出し、朋恵はかわいい響きなんだけどねと言って笑った。

「いえその、誰がどんなように恋愛しようが自由なんでしょうけど、オレ、葉奈ちゃんが不憫で」
「ありがとね。葉奈は確かに今少し面倒な状態だけど、みんなに心配してもらって、幸せな子だわ」

先日の花すっからかん事件のことは、売上が出ているので店長は別段気にしていないらしかった。ふらりと現れた藤真ににこやかに声をかけて、ある程度お決まりのやりとりを終えると、店長はすぐに亜寿美を紹介してきた。確かに見た目だけなら何もおかしなところはない。むしろ見た目はいい方だ。

だが、ぎこちない笑顔の亜寿美はちらりと頭を下げて会釈しただけで、「初めまして」も「こんにちは」も言わなかった。わざと言わなかったというより、言わなければと思っていない――そんな感じだった。小学生の頃から体育会系で育ってきた藤真にとっては想像を絶する礼儀知らずということになる。

店長はそれを「あすみん人見知りしちゃうたちなんだよね、繊細っていうか」と評した。

思い返すと、確か最初に亜寿美の話を聞いた時、葉奈はずいぶん亜寿美を褒めていたように思う。店長にはもったいないくらいの人だ、とかなんとか。あの葉奈が気を遣ってそんなことを言ってると思うと、ますますこの礼儀知らずに腹が立った。人見知りじゃない、躾のなってないバカだ!

「格闘技ほど厳しくないけど、バスケだって挨拶くらいちゃんと出来ないとすごく怒られました」
「バスケじゃなくたってそれが普通よ、そこは亜寿美さんがおかしいわ」

厳格な父親に育てられた朋恵はきっぱりと言う。脳内はお花畑だが、朋恵さんはとてもモラリストだ。

そして亜寿美は、近況などを報告しあっている藤真と店長の会話にしおらしく割り込んできた。真相のほどはわからないけれど、藤真には「その人より私を構って」と言っているように見えた。それが10分経過したくらい。限界だった。店長も引き止める気はないようだったし、藤真は逃げるように花あかりまでやってきたというわけだ。

そうやって藤真がぐったりしていると、花あかりにひとりの客が入ってきた。背が高く、長い前髪の男性。ドアに付いたカウベルの音に顔を上げた志津香がいらっしゃいませと言うのに被せて、朋恵が短く悲鳴を上げた。驚いた藤真が振り返ると、どこかで見たような顔が仏頂面で立っていた。誰だっけ――

「航ちゃん、どうしたの急に……
……え!? 航!?」

思わず大きな声を出してしまった藤真はバチンと両手を口に当てて、カウンター席からずり落ちそうになった。

「ああ、藤真のにーちゃんか。久しぶり」

中学生の頃の航というのは線が細く色も白め、やっぱり前髪が長くて少し目つきが悪い、そんな少年だった。それから5年、やっぱり細めで白めで目つきも悪いが、藤真と同じくらいまで身長が伸びていた。花形家は父親も長男も大きいのでおかしくはないのだが、葉奈同様、成長過程を見ていないのでビビる。

「どうして連絡くれなかったの。わかってたら色々――
「だから連絡しなかったんだよ。それに、長居しないよ。明日帰るから」

朋恵は寂しそうな顔をして、しかしすぐに顔を作りなおすと、藤真の隣に座らせてメニューを差し出した。航がコーヒーと言うと、私がと言う志津香を制してキッチンに入ってしまった。

「航くん、久しぶり。の母です。元気でしたか」
「はい、おかげさまで。ていうか覚えてますよ、志津香さんもどうですか、体の方は」
「おかげさまでとても調子がいいのよ。ありがとう」

航は今19歳、30代の亜寿美よりきちんとした受け答えをしているが、なぜか影がかかっているように見える。藤真はそれを呆然と眺めていた。これは一体、航に何があったというのだろう。中学生の頃もどこか冷めていて葉奈のような明るさはなかったけれど、それはまだ思春期の不貞腐れのうちだった気がする。

……なに?」
「いや、なにってことはないけど、お前、なんか暗くなったな」

体育会系歴10年以上、年下には一切臆しない癖がついている藤真に遠慮はない。

「まあ、そうかもね。わざわざ明るく振る舞おうとは思わない」
「何があったんだよ、こんな――お前、なんか怖いぞ」
「怖いってなに。にっこり笑ってハグでもすればいいっての」
「そうじゃないけど、てか朋恵さん可哀想だろ」
「藤真のにーちゃんて、人んちのことに首突っ込むような人だったっけ?」

なんなんだこのギスギスした言葉の数々は。藤真は怒るとか悲しむとか言うよりも、本当に怖くなってきた。

……お前そんなにのこと」
「まあそれはきっかけに過ぎないよ。たまたま時期が重なっただけ」

コーヒーを持ってきた朋恵にも、航は特に言葉もかけず、携帯をいじりながらそう言った。

「別に自分の家族が憎いとかそんなんじゃないから。にーちゃんこそそんな怖い顔するなよ」
……じゃあなんなんだよ、朋恵さんにあんな――
「にーちゃん、オレはさ、欲しい物を手に入れたかっただけなんだ」
「は?」

肘をつき、手のひらに顎を乗せた航は藤真の方をちらりと見て目を細めた。

ねーちゃんもそう、学校の成績もそう、誰もが欲しがるものはオレも欲しい。だけど、何も手に入らないんだよね。ところが、透はそういうもの全部持ってる。持ってるっていうか、欲したものを手に入れたわけだ。真面目な努力の末に手に入れた。オレはそれを否定したいんだよ」

兄である花形のことを名前で呼んだ航は、また少し目を細めてにやりと笑っている。

「にーちゃんたちが3年のインターハイ逃した時、すっごい嬉しかったんだよね」
「なん……
「真面目に努力してきたのに負けた。つまり、にーちゃんたちの日々の努力は関係ないってね」

藤真は怖い通り越して寒くなってきた。体温が下がっている気がする。

「つまり、何もかもたまたま。オレがなにひとつ手に入れられないのも、透がなんでも手に入れるのも、才能とか努力とか関係ない、偶然のめぐり合わせだって思ってさ。だけど、オレはここにいたら何も手に入れられないままなんだろうって思って、家を出たんだ」

だが、それはつまり――

「環境のせいにして逃げたってことじゃないか」
「それの何が悪いの? にーちゃんバスケの強い大学行っただろ。それと同じ。自分が結果を手に入れられる環境を求めてオレは家を出た。高校時代、彼女もいたし、成績も悪くなかったし、やりたいことも出来たから大学にも進学した。誰もが欲しい物をオレは少しずつ手に入れてるよ」

それならどうしてこんなに航は暗いのだろう。どうして朋恵にきつくあたるのだろう。兄に対してもわだかまりがあるのはなぜなんだろう。藤真は腕をさすりながらため息をついた。

「それはいいけど、じゃあなんでそんなに不機嫌なんだよ」
「明るく振る舞わなきゃいけない理由ってなに? まあ、不愉快なものも見てきたし、確かに機嫌は悪いけど」
「不愉快なものって――

その時、何かまた面倒事かよと構えた藤真の背後で、ドアが勢いよく開いた。振り返ると、店長が怖い顔をして肩を怒らせていた。なんだかもううんざりしてきた藤真だったが、キッチンから出てきた志津香と朋恵が泣きそうな顔をしていたので、トラブルに付き合う覚悟を決めた。今度は一体なんだよ!

「航くん、あすみんに何言ったんだ! 怖がって泣いてるんだぞ!」

せっかく覚悟を決めた藤真だったが、やっぱり嫌になってきた。面倒くさい。誰か何とかしてくれ。

「何って、が可哀想だなって言っただけだよ」
「可哀想!? 何でだよ!」
「そりゃ、あんなのが急に母親になったらキツいじゃん」

藤真は瞬間沸騰した店長に飛びついて、店の外に押し出した。なあこれ、オレひとりで片付けるの?