商店街2021

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それは2月の上旬頃のことだったと思う。にわかに感染症の恐怖が襲いかかってきて、普段ならどんなことでもみんなで協力して頑張ってきた商店街もちょっと殺伐とし始めてた。商店街は高齢者も多いし、とても古い町なので何もかもが狭く小さく作られていて、人と人との距離が近くなりがち。

アタシ、葉奈は、この商店街に生まれ、この商店街に育てられ、誰よりもこの町を愛しているという自負がある。だから、あとで怒られてもいいからすぐに行動を起こそうと思い立った。幸い、愛する彼氏や従姉妹――一志やは賛成してくれて、手伝うと言ってくれた。

未知の感染症だけど、それでも身を守る知識はあった方がいいと思ったし、脳内では未だに昭和60年くらいを生きてるおじいちゃんたちも専門家の言うことなら聞くと思ったんだよね。

そういうわけで、若先生(無給)による「飛沫感染対策講座」を花あかりで開催したわけです。

「じゃ、その『飛沫』がどのくらい飛ぶのか、実際に見てみましょうね」

若先生は今、高齢者施設併設のクリニックの院長になっている。なので平成の30年間をどこかに置き忘れてきちゃったおじいちゃんたちにも分かりやすいように少しずつ解説してくれてる。アタシがこの話を持ちかけた時、先生はまだ詳細のわかっていない感染症だから無責任なことは言えないと渋っていたけれど、お祖父ちゃんが生涯をかけて守ってきた商店街なんだよ、先生はそれを見捨てるのってちくちくと突っついたら折れた。チョロい。

何しろ「飛沫感染」と言ったって、その「飛沫」の意味がいまいちよく分かってないわけ、おじいちゃんたちは。唾だよ、と言ったところで「そんなペッペペッペ唾が飛ぶほどしゃべんねえよ、オレ」としか思えないんだから、ちゃんと砕いて説明してやんなきゃダメ。しかもそれをアタシがキーキー喚いたって聞きゃしない。でも岩間先生の孫の言うことなら聞くから。

花あかり全面協力のこの講座は本日満員。もしこの中に感染者がいたら一気にアウトだけど、まだ大丈夫だと思う、たぶん。先生は大きな黒い布を用意して壁にかけ、その前に加湿器を置いた。超音波式の加湿器が勢いよく霧を吐き出してる。その加湿器を挟んでアシスタントのアタシが先生と向かい合う。距離は1メートルちょっと。

「さっき説明したように、飛沫は口を開けて息を吐くだけでも漏れるんだけど、喋るともっと勢いよく出ます。じゃちょっと見ててくださいね、普通の声で喋ってみますね」

加湿器から30センチくらいの位置に顔を置いた先生は、室内の近くにいる人に話しかける程度の声で「こんにちは」と言った。勢いよく立ち上っていた加湿器の霧が形を失い、アタシの方に向かって崩れてしまった。おじいちゃんたちが身を乗り出して「おお〜っ」と声を上げる。

先生は次にちょっと遠くにいる人に声をかけるくらいの大きさで「葉奈ちゃん」と言った。霧は一瞬で吹き飛ぶ。次に、咳き込む。また霧は風圧でかき消えていく。

「すごい速度だと思いませんか。これがくしゃみなら、葉奈ちゃんのもっと向こうまで届きます」
「ここに立ってみると分かるけど、顔に加湿器の霧が当たるよ。冷たい」
「つまり、僕の飛沫が葉奈ちゃんの顔に、直撃してるってことです」

おじいちゃんたち聴衆の後ろで腕組みしてた一志がちょっと顔をしかめてるけど、しょうがないでしょ。みんなそうやって毎日他人の飛沫を顔に食らって生きてるんだから。

でもおじいちゃんたちは先生の説明する予防の3原則、マスク・手洗い・換気の意味がしっかり理解できたみたいだった。先生はウィルスは変異する可能性があるから、これが絶対空気感染に変異しないとは言い切れないと言いたかったらしいけど、もしそうなったらいくら説明したところで対抗できないと思うし、早いうちに「甘く見ない・自己判断しない」ということを理解するのは無駄にはならないと思う。

おじいちゃんたちは飛沫の意味がわかったので、次々と質問をぶつけていく。それぞれの商売や生活の中での注意点、予防に有効的なこと、予想される症状など、先生は「まだ詳しいことはわかっていない」を何度も何度も繰り返しつつ、全部ちゃんと答えてくれた。無給だけど。

でもね、これはアタシ、正しかったと思ってるの。ここから1年間、この講座を受けた人たち、そしてその家族の中からは1人も感染者が出ていないし、実は商店会組合加盟者全体でもひとりしか感染者が出なかった。それも正月に親戚一同で集まって大宴会やって感染したそうなので、商店街は無関係。

けど、その3原則であるマスクは商店街でもあっという間に消滅、少し遅れてハンドソープと消毒用アルコールも消えた。商店街にはドラッグストアが3件あるけど、緊急事態宣言が出るまでの間にそれぞれキレたお客さんとのトラブルが発生、また駅前の交番のお巡りさんがすっ飛んできてた。

うちら――つまりアタシとと志津香ママの家、花形家、一志のとこの長谷川家、ついでにあさひ屋の大森家と呈一さん、これが現在の「うち」なんだけど、ここには花粉症が4人いて、それぞれがマスクをストックしてあったことで全部を合わせて再分配出来た。もちろん足りてないけど、みんなそれを大事に使ってた。

ついでに、掃除大好き朋恵ママと、はーちゃんが生まれて以来衛生管理にうるさい育太兄貴が除菌グッズやハンドソープを大量に買いだめていて、これも再分配された。なのでアタシたちはあるものを大事に使いながらも、徐々に感染者が増えていく報道を見守るしか出来なくなっていた。

「布は効果ない、て言うけど、ないよりマシだと思うのよ」
「マスクをつける習慣がない人を慣らすためにも、あった方がいいよね」
「咳エチケットなんて言い方しても全然伝わらないし」

そう言いながら布マスクをちくちく縫ってるのは朋恵ママと志津ママ、それから一志のママ。さっき言ってた「うち」は先生の講座を受けた後に集まって会議を開き、この範囲を「うち」と定め、これ以外の人間との接触を控え、感染対策のレベルを揃え、せめて自分たちの間では会って喋ったり出来るようにしようと取り決めた。

一志のパパとママは以前はそれほど商店街と親しくなかったけど、エヘ、自分たちの交友関係よりも息子の彼女であるアタシを選んでくれたってわけ。なのでたまにこうして朋恵ママと志津ママと一緒に過ごしてる。ついでに商店街で買い物して帰れば一石二鳥。

この日は土曜だったんだけど、と透兄ちゃんがテレワークのための準備で出かけてて留守。そしてアタシたちの背後では呈一さんと航くんが花あかりのテーブルやカウンターに飛沫ガードを設置中。他人との飲食で感染するケースが多いらしいけど、アタシたちは「うち」の人間以外とそういうことしない、という取り決めがあるのでそこそこ自由にやってる。

てかありがたいよね、「うち」のパパママたちってのは、つまりアタシと一志、と透兄ちゃんがいつでも一緒に過ごせるように、という基準でこの「うち」を守ってくれてる。あとははーちゃんたちが感染しないように。自分たちは我慢できる。若い子たちを守らないと、って。

……まあ、その誠実な心がけの裏は「こんなことで円満なふたつのカップルにヒビが入って孫が遠のくくらいなら我慢する」だったりするんだけどね、特に花形家と長谷川家。

残念ながら商店街の人たちとはそこまで密接になれないけど、でも元々アタシたちの付き合いってのは商店街でそれぞれが商売してる時だけで、お互いの家を行き来するような付き合いをしている人は多くなかった。いつも仲良くしてきた亀屋の清三さんと芳子さんだって、家を行き来したことはない。それが集まって飲んだりするのは年末年始くらいだったから、それをやらなければ、まあ言うほど変化はない。

そういうわけでママ3人が黙々と布マスク縫ってるんだけど、実はこれ、雑貨屋のおじいちゃんの依頼で、材料は支給の上、手間賃として一枚250円も出してくれてる。というか雑貨屋のおじいちゃん、時間のある奥様方に声をかけて布マスクを縫ってもらっては店頭で販売してて、これが飛ぶように売れる。

朋恵ママが張り切ってレースとかコサージュくっつけたマスクなんか試しに1000円の値札を付けたけど、一瞬で売れた上に、もっと欲しいと頼まれる始末。おじいちゃんウハウハ。

その頃のアタシたちは若先生の講座を受けたせいもあって、しっかり対策を取っていると思っていたし、みーんな「日本人はちゃんとやるから大丈夫」なんて思ってた。甘かった。

感染予防ガイドラインを共有していた「うち」は基本的に先生の指導のもとで生活してたんだけど、どうにも世間的には「そこまでやらなくてもいい」みたいな感じの人も多くて、3月下旬、桜が満開になると、街は人で溢れた。マスクもせずに喋っている人も多かった。当然、感染者は一気に増えた。

日本にも「緊急事態宣言」なるものがあるのだと初めて知ったアタシたちは、新たな問題に直面してた。このままいくと花あかりとあさひ屋が休業になるからだ。

ただ、そもそも花あかり……というか朋恵ママに関しては、薫さんの稼ぎで充分生活できてたし、花あかりでも収入は志津ママの方が多く取ることになってた。これは開店資金にのお祖父ちゃんの遺産を使ったのと、志津ママがひとりで生活出来ないとが花形家に嫁に入れないので、朋恵ママはこの「差」には積極的だったくらい。なのでそこに関しては――

「私の退職金が火を吹く時ですよ!!!」

呈一さんの鼻息は荒い。志津ママと付き合い始めた頃から金銭的にも援助をしたいと言っていた呈一さんだったけど、志津ママがずっと断ってきてた。なので呈一さんは慎ましく暮らし、退職金も年金も極力残す努力を続けてた。それをいつか志津ママに残そうと思ってたんだろうけど、思わぬ事態に呈一さんはテンション爆上がり、だから安心して休業なさいと息巻いた。

「それに、いくら検診で異常がないとは言っても、志津香さんは働きすぎです。いい機会だからのんびり休んだらいいんですよ。休暇と思って。何かやってみたいこととかないんですか。何でも言ってください、お手伝いしますから」

呈一さんはこれまでもちょこまかと色んなことを助けてくれてるけど、ダイレクトに志津ママの役に立てるかもしれないとあって大はしゃぎ。一応アタシとはこれを受けるように勧めてる。何もずっと世話になれと言ってるわけじゃないし、ひとまず宣言中は心置きなくお休み出来るようになればいいかなって。呈一さん異様に楽しそうだし。

だから、問題はあさひ屋だけだった。けど、一番の難題だった。

何しろ家族5人、子供は3人、康太と壮太なんかまだよちよち歩き。というか大森家はそもそも長い不妊治療で貯蓄も少なく、うどん屋は地域では愛されていたけれど、子供3人を余裕を持って育てられるほどの売上は出ていなかった。そこに休業要請。兄貴は頭を抱えた。

それでも大森家はもう「うち」だった。初実、康太壮太はみんなの孫にも等しく、全員が旭さんたちを助けたいと思っていた。それに、兄貴にも旭さんにも親があり、彼らも孫の生活の安全のために出来ることなら協力したいと申し出てくれたそうだし、ひとまずは要請に従い休業することになった。

というわけで宣言期間を迎えたわけなんだけど、そもそも商店街は「食料品と生活必需品の店」が実に半数以上。休業している店の方が少なかった。しかも、普段平日の午前中ならのんびりおじいちゃんおばあちゃんが買い物してるくらいのアーケードの下は、週末の夕方みたいに混雑するようになった。

「不要不急の外出自粛って、なんなんだろうね……
「そろそろ畳むかもって言ってたタピオカ屋が息を吹き返してるな」
「ねえこれ、やっぱり弁当とかなんか作ったら売れるんじゃないの?」

休業中のあさひ屋は宣言明けのために店内をプチ改装中(自力)で、アタシたちは口元をストールでぐるぐる巻きにした状態で店の外を眺めていた。みんな楽しそうにマスク外して食べ歩きをしている。そして宣言以後、商店街を駆け抜けていくランナーが激増。衝突事故は既に2桁に上り、高齢者が多いので若先生がまた難しい顔をし始めてた。

というかその「あさひ屋はうどんにこだわらずにテイクアウトの商品を出した方がいいんじゃないか」は既に検討されている。そもそも兄貴は凝り性な性格で、うどん屋なのにいつも季節のスイーツがメニューに上ってきた。そしてあさひ屋の常連のおじいちゃんおばあちゃんたちは食事を全部自分たちで用意しなきゃいけないのでしんどいという。

「てかうどんもおいしいけど、兄貴の天ぷらのファンて多いじゃん。天丼とかどうなの」
「オレは地味に兄貴のおにぎりが好きなんだよな。塩梅と握り方が絶妙」
「私はスイーツも好きだけど、季節の小鉢がいつも楽しみなんだよね」

アタシと同じように口元がぐるぐる巻きの航くん、一志、もうんうんと頷きながらイチオシメニューを挙げていく。アタシは正直なところかき氷が一番好きなんだけど、それを除けば実は自家製である梅干しが大好き、あれだけ売って欲しいとずっと頼んでるくらい好き。

……というアタシたちの声に背後の兄貴は盛大に鼻を啜ってる。ただでさえ涙もろい兄貴はこのところ泣きっぱなしだ。とうとう先日はーちゃんにしっかりしろと怒られてた。

というかこの自力改装もアタシと一志、と透兄ちゃん、航くん、都合が付けば呈一さんや薫さんも手伝ってる。そこにおやつのコロッケ買ってきた透兄ちゃんが戻ってくる。

「コロッケ異常に売れてる。樹林のおばあちゃんフル回転だった」
「飲食店がみんな休んでるから惣菜に集中するよね……
「この間えどやなんか夕方に店閉めてたもんね」

特にこの商店街の飲食店で生活していた層が一気に惣菜店に流れて、それはそれで目の回りそうな日々を送ってる。そもそもこの商店街は志津ママの入院していた大きな病院の最寄り駅の目の前でもあり、帰りに立ち寄って食事をしていく人は多かった。それが惣菜やら弁当やらに群がっているので、あさひ屋にもそれを勧めてるってわけ。

というかアタシたちも出来るだけ休業中のお店のテイクアウトで食事をするようにしてる。だから兄貴が弁当を始めてくれたらそこで買うようになるんだと思う。特に一志のパパママは仕事が宣言無関係なので、買い食いで済ませられるのは都合がいいみたい。

いや、最初は学校が休校になってしまう一志に休みなんだからお前が家事をやれと言ってて、本人が必死で商店街のためと説得してた。料理とか家事とか苦手なんだよねえ、一志。そんなとこもカワイイんだけど。

というかー! 休校と休校でー! アタシたち毎日一緒なのー! ていうかアタシ実は成人してからは生活費は自分のアルバイトとの稼ぎと志津ママの収入に頼ってる状態で、それを心配した一志のパパママがね、うちにおいでよって、言ってくれてて、今、ほぼ長谷川家住みなの!!! 嫁だよねこれ!!!

なので長谷川家ん中の家事はアタシと一志がふたりで協力してやってる状態。ウフフ、新婚さんみたいで毎日楽しい。小学校の先生って子供の頃からの夢だったけど、それを放り投げてお嫁さんになりたいと思っちゃうくらい楽しい。アタシが一緒だと一志も無理なく家事が出来てるし。

ということは、と透兄ちゃんもそういう状態なわけですよ。ふたりはテレワークになったのでやっぱり毎日一緒。薫さんウハウハ。花あかりが休業になってからは朋恵ママもいるし、透兄ちゃんに航くんもいるし、どうせならみんなで過ごそうと言ってや呈一さんまでやってくることも多い。なんだけど――

と一志兄ちゃん、薫と朋恵、透と姉ちゃん、志津ママと呈一さん、兄貴と旭さん、ていう5組のカップルがベタベタしてんのをひとりで長時間眺めてるオレの身にもなれ」

航くんひとりが地獄だ。そう、「うち」の中で、大森家の子供たちを除くと、パートナーなしってのが航くんしかいなかった。しかも可哀想なことに強烈な愛妻家がふたり、一緒にいる時間が増えて楽しくイチャイチャしているカップルが2組、呈一さんも志津ママにメロメロなので、航くんの地獄はみんなの想像以上に地獄だ。

でもその航くん、元々大学は休学中。なので軽配送のアルバイトをしてたんだけど、このご時世軽配送は常に人手不足。あさひ屋への支援のためもあって、バイトの時間が増えてた。なので学生のアルバイトとしてはけっこうな金額を稼ぐようになっていた航くんは、家族に断りもなく猫を連れてきた。

誰にも相談がなかったから、最初は薫さんがすごく怒ったらしいんだけど、蓋を開けてみたらそのにゃんこは商店街の外れにある猫カフェに最近やって来たばかりの保護猫だった。というかそこの猫カフェはこのパンデミックのせいで飼育が出来なくなった地域の猫を一気に16匹も引き取った上に、休業。

ていうか聞いてくれます? だから休業してるから、いくら航くんが孤独に苛まれてたからって、猫カフェに入り浸ってたとかじゃなくて、その猫カフェの店長がどうやら航くんに恋をしているのだそうな。そういう噂は前からあったんだけど、その子の頼みで猫引き取ってくるとか、航くんも満更でもないんじゃないの――とみんな邪推してるけど、本人は一応否定的。

しかも、ペットの飼育を家族に相談もなく! と怒ってた薫さんは3日めにはにゃんこに陥落。保護の過程で元の名前がわからなくなってしまったにゃんこは「トトワ」という名前を付けられた。はい、ともえ、とおる、わたる、の頭文字です。でもみんなにトトって呼ばれてる。

というわけでせっかく引き取ってきたにゃんこまで薫さんに取られ、名前の中からも省略された航くんがストレスでまた胃に穴が開くとマズいので、最近では透兄ちゃんが家に来てることが多く、その分志津ママが呈一さんちに行くことが増えた。

あと、どうせ休業なんだし、と朋恵ママと志津ママが大森家の子供たちを預かると言い出したので、店のことを兄貴に任せた旭さんは思い切ってバイトを始めた。商店街としては仇敵である駅の向こうの超大型スーパー。だけどあさひ屋の現状を考えると、好きなだけシフトを入れていいという求人はありがたい。

最初こそ清三さんとかは「あんなスーパーなんかで」って文句言ってたけど、久々に家から出て働き始めた旭さんは楽しそうだったし、スーパーの付き合いから商店街に興味を持ってくれた人もいて、大森家は当座のところは改装のちにテイクアウト、そして旭さんはスーパーという日々が続いてた。

だから「うち」はみんなで協力しながら努力出来てるはずだったんだけど、宣言明けた頃だったかな、旭さんの実家が「実家差し置いて他人が密接になってるのはどうだろう」って言い出しちゃった。まあ確かにそうなんだけど。

「なんつーか、そもそもどっちも『大卒で会社勤め』っていう家だったからなあ」

板挟みの兄貴は弁当の仕込みをしながら肩を落とした。確かに兄貴も旭さんも「大卒で会社勤め」な夫婦だった。それは双方の実家も同じみたいで、商店街で飲食店を営むようなのが親戚筋にもひとりもいないのだとか。兄貴のため息は止まらない。

「うちはそういうの、脱サラする時に済ませてるから今更なんだけど」
「そういうの、って?」
「親子喧嘩」
「ああ、そういう」

言われてみると、あさひ屋のピンチに駆けつけてくるのはだいたい旭さんの実家だ。兄貴んとこは距離があるらしい。一応どっちも孫の生活に関しては支援を申し出ているらしいけど、いや、だからこそ他人との距離について口を出したくなったのかもしれない。

「だけど、みんながいなかったらうちはとっくに店を畳んでた。それをいきなり『もういいです、今後は距離を置きましょう』って言えると思わないだろ、普通。みんな子供たちを可愛がってくれてるし、子供たちもみんなが好きだし、いきなり引き離してどう説明しろって言うんだ」

まあ孫もどんどん成長してるし、蓋を開けてみたら実家なのに「うち」から外されてたもんだから、小言を言いたくなる気持ちはわかるんだけど。ただどうしてもふたりの実家よりアタシたちの方が物理的な距離が近いから、細かな生活の助けになるなら他人の方が早い。特に今はそんなことにこだわっていられない、というのも兄貴にはあると思うんだ。

「それに……これはオレの個人的な意見だけど、葉奈ちゃんやちゃんを見てると、子供たちはこの商店街で成長していってほしいと思っちゃうんだよな」

一緒に仕込みを手伝ってた航くんがカウンターの向こうで「それわかる」と声を上げた。

「商店街で育てば誰でもふたりみたいな人になるとは限らないけど、少なくとも亜寿美さんみたいな人間にはならないと思う。知らない人でも挨拶が出来て、お礼が言えて、おじいちゃんおばあちゃんに親切に出来る人になると思う。自分に子供がいたらと考えると、オレも同意見」

当然アタシやにそんな自覚はない。だってそれが普通の毎日だったから。それがいいことなのか悪いことなのかってのもわからない。けど、兄貴と航くんはうんうんと頷き合ってる。

「だから兄貴は現状がベストって思ってるんじゃないの?」
「ま、オレはね。でも旭の実家のことだから口は出さないけど」
「商店街と距離なんか置いたら、はーちゃんに恨まれるのにな」

アタシたちは一斉に吹き出す。「今度はふじまにする」と言い出したはーちゃんだけど、やっぱり若先生のことは大好きなので、確かにそんなことをされたら怒り狂うに違いない。そんなのは幼児の戯言と一蹴するかもしれないけど、ああ見えてはーちゃんは根に持つタイプだ。そして大人への鉄拳制裁には容赦がない。

けど、兄貴の言う「みんながいなかったら店を畳んでた」は事実で、旭さんもその「恩」を実家の一言でポイと捨てられなかった。十数年越しの大喧嘩は実に一週間以上も続き、夜になると電話で言い合いを始めるので、はーちゃんたちも別の家に避難し始めるほどだった。