あなたと花に酔いて

17

3月末、一足先に地元を離れる藤真は、両親と共に駅のホームで大荷物に呻いていた。もちろん引っ越しは終わらせていたが、地元が名残惜しく、居残っている間に荷物が増えてしまった。藤真母の頭にまた角が生えるし、両親は今日は新幹線のホームまでなので、ひとりで運ばなければならないのも億劫だ。

冷たい風と太陽に暖められた生暖かい空気が入り混じってだるくなる。藤真はぼんやりと線路を見ていた。

思えば一旦実家に帰ってからというもの、ずっと商店街でドタバタしていた気がする。もちろん中学や高校時代の友人とも会ったし、地元が近い大学の同期なんかとも会ったりしていたけれど、基本的には商店街、葉奈のことで騒いでいた気がする。

数日前にはみんなで花見にも行った。夜桜にしたので、や葉奈たちだけでなく、あさひ屋ファミリーや亀屋夫婦、若先生も一緒に。春休みで時間のある葉奈と、葉奈とのことを親にカミングアウトしたらものすごく喜ばれたという長谷川が場所取りをしてくれたので、大所帯だったが満開の桜の下に宴席が設けられた。

こんなことはもうないだろうからこの日は特別、と花あかりも急遽閉店を早め、朋恵と志津香は料理をたくさん作ってくれた。あさひ屋はうどんを持ってくるわけにいかないので、藤真の好物である「樹林」のコロッケや、葉奈の好きな「もみじ屋」の唐揚げをいっぱい買ってきてくれた。

みんなで花見、と言ってはいるが、要するに藤真の送別会である。

「藤真、これプレゼント!」
「えっ、なんで!?」
「葉奈ちゃんのこととか色々のお礼と、あとバスケ頑張っての意味も込めて。私と透くんから」
「花形も?」
……ま、7:3でが出したけど」

驚く藤真には小さな紙袋を差し出した。ちょっと恥ずかしそうだ。

「なんだよ、そんなこと気にしなくていいのに……開けていい?」
「大したもんじゃないぞ」

紙袋の中身をガサガサと開いた藤真は、乾いた声を上げた。喉が詰まって声がうまく出なかった。

「なにこれ、すげえな。いいのかよ、こんなのもらっちゃって」
「いいんだってば。ほんとにありがとね、色々」
「お前なあ、もう二度と会えないみたいなこと言うなよ」
「何言ってんの、そんなの藤真次第でしょ。私たちはずっとここにいるんだから、ちゃんと帰ってきてよ」

プレゼントは腕時計だった。アディダスのスタン・スミス。白とグリーンの、翔陽カラーだ。

「GPS機能とか心拍数計測機能とかがついてるのがいいんじゃないかって言ったんだけどさ」
「だって、どこにいても私にとっては翔陽バスケ部のキャプテンなんだもん」
「いいよそれで。ありがとう、大事にするけどちゃんと使うよ」

藤真は腕時計を取り出すとさっそく右手に嵌めた。夜桜を照らす提灯の明かりが文字盤に反射してキラキラと輝く。その光が藤真の目の中に踊る。そうしていると、まるで少女漫画に出てくる美少年のようだ。

先日の「花あかり葉奈事件」の日のランチタイムも、藤真は大人気だった。その上この日はメガネとダンディおじさままで揃っていて、いつもの花あかりと思ってやってきた女性客は大変潤って帰った。その後しばらくは藤真たちがいるんじゃないかと期待してやってくる客で花あかりも潤った。

また大量の連絡先を押し付けられた藤真だったが、やはり彼はそれを全て捨てた。商店街は好きだし名残惜しいけれど、未練を残してはいけない。もう心残りはないのだ。

「お前らはもう何も心配してないけど、あいつらはまだちょっとアレだから……、頼むな」

少し前からふたりで席を離れて桜を見に行った葉奈と長谷川をちらりと見ながら、藤真はにやりと頬を歪めた。花形も研修が始まるので、当面はひとりになってしまう。もちろん志津香たちもいるけれど、この5人は少し特別だから。

「葉奈ちゃん、長谷川くんのご両親に気に入られちゃったみたいで」
「あいつ、小父さん小母さん得意だしな」
「まあ、一志も中高大バスケばっかりで、女の子の影なんかなかったからな」

明るく可愛く元気で愛想よし、国立に通う小学校教師を目指す3つ年下の女の子。しかも花形の彼女の親戚。家庭環境に若干の難があるが、ほぼ完璧な彼女だ。しかも長谷川にべた惚れときている。息子と違って陽気なたちの長谷川の両親はすっかり葉奈を気に入ってしまい、何かと言うと連れて来いと言っているらしい。

「葉奈ちゃん、避難先もうひとつゲットだぜ」
「つかもう嫁に行けば? 旭さんも学生で結婚したっつってたろ」
「藤真はほんとに短絡的だよね」
「合理的って言えよ」

3人がへらへら笑っていると、滅多にさせてもらえない夜更かしで興奮気味の初実が飛んできた。しかも今夜は若先生が彼女を連れてきたので、ブロークンハートなのである。少々荒れ気味だ。

「ふじま! お酒ばっかり飲んでたら声ががらがらになっちゃうぞ!」
「だからオレはけんじ兄ちゃんだって言ってんだろ、ほら言ってみろ」
「くさいよふじま!」

清三さんの声がガラガラなのは酒を飲むからだと刷り込まれた初実は、またビールを飲んでいる藤真の背中をドスドスと殴った。幼稚園児とはいえ、けっこう痛い。初実はまたぴょんぴょん飛び跳ねながら、今度は失恋したはずの若先生のところへ走って行く。

「しかしアレは驚いたな。この商店街って縁結びの神様でもいるんじゃないのか」
「しかも場所は花あかりだっていうしなあ」

若先生の彼女は、なんと駅前のレディースクリニックに勤める医師であった。花あかりには滅多に来ない若先生だが、岩間先生の月命日に予定が開いていると、バータイムに来ることがある。そこで知り合ったという。初実はブロークンハートなのだが、若先生の彼女が優しくてきれいなので、その誘惑に抗えずに懐いてしまった。

「ま、縁結びの神様もお前には興味ないみたいだけどな」
「逆じゃない? もしかしてその神様は女神様で、藤真に悪い虫がつかないようにしてるのかも」
「オレはいいんだってそれで! これから新天地に行くんだから」

にやにやしている花形を一睨みした藤真はビールをぐいっと煽り、同じようににやりと笑った。まだ冷たい3月の夜風に桜の花びらが舞って、藤真の髪にはらりと落ちる。そして藤真は、満開の桜を見上げて目を細め、嬉しそうにため息をついた。

「オレの中も今、花でいっぱいになってるよ。こんなのは久しぶりだ。いい夜だな」

そう言いつつも、そのまま河岸を変え場所を変え、朝まで延々飲み続けた藤真と花形と長谷川は、翌日丸一日屍のようになっていて、それぞれ母親から雷の直撃を食らった。それから数日、藤真は右手の翔陽カラーに少しだけ寂しさを感じながら駅のホームでぼんやりしていた。

そこへ背後から聞き慣れた声が聞こえてきて、彼は慌てて振り返った。

「一志、葉奈ちゃん。どうしたんだよ」
「どうって、そりゃ見送りだよ」
……なんかすごい荷物だな」

見送りに来たという割には、ふたりは呆れた顔をして藤真の荷物を見ている。

「しょうがないだろ、直前になって色々もらったりもしちゃってさ」
「そういや兄貴がなんか渡してたな」
「ここに入ってるよ。スニーカーもらった」
「じゃあほら、また荷物増やしてあげるよ。ひとりで寂しいだろうし」
「オレと葉奈ちゃんから」
「な、なんだよお前らまで」

若干うろたえている藤真に、葉奈もまた小さな紙袋を突き出した。藤真は紙袋を少し開いて中を覗き込み、今度は甲高い悲鳴を上げた。携帯ゲーム機とゲームソフトが入っていたからだ。

「おまっ、ちょ、こんなもの、花形とといい、なんなんだよほんとに!」
「言ったでしょ、これでも感謝してるんだって。どうせまたしばらく帰って来ないくせに!」
「いや、今度はちゃんと帰ってくるって、あーもう、泣くなよ!」

頭をぐりぐりと撫でられると、感極まった葉奈はぴょんと飛び上がって藤真に抱きついた。目の前に彼氏がいるので大いに慌てた藤真だったが、長谷川はにこにこしながら頷いている。

「ちゃんと帰ってきてよ、帰って来なかったら口聞いてあげないから!」
「わかったわかった、ちゃんと帰るし、商店街にも顔出すから」
「約束守れよ、健司兄ちゃん」
「はいは――ちょ、今なんつった!?」

妙な縁で知り合って5年、藤真は初めて葉奈に名前を呼ばれた。驚くあまり目をひん剥いている藤真をそのままに、葉奈はするりと離れて長谷川の腕に寄り添った。長谷川は彼氏なので名前を呼び捨てにしているが、そもそも花形が「透兄ちゃん」である。藤真が健司兄ちゃんというのはちょうどいい。

……葉奈ちゃん、まだ大変だと思うけど、一志の言うことちゃんと聞いて、元気でな」
「うん。捨てられないようにいい子にしてる」
「お前は捨てられたわけじゃないよ、むしろたくさんの人に愛されてる」
「健司兄ちゃんもね」
「くすぐったいなそれ。一志も大変だろうけど、無理しないで頑張れよ」
「了解、監督。葉奈ちゃんと、半年の間も、ちゃんと見てるから、心配するな」

肩を叩き合うふたりの横をかすめて、藤真が乗る予定の電車がホームに滑りこんで来た。まだ時間が早く混んでいるので大荷物の藤真は少々ご迷惑だが、なんとか隅っこの方に入らせてもらう。藤真のご両親にも軽く会釈をし、葉奈と長谷川は電車から離れた。

「じゃあ、またな!」
「元気でね!」

電車が走り出し、窓の隙間からちらほら見えていた藤真の姿も見えなくなると、葉奈は肩で大きくため息をつき、長谷川を見上げた。長谷川はその葉奈の頭を静かに撫でると、妙にキリッとした顔で頷いた。

「よし、じゃあ行こうか。22分だったよな」
「そう、間に合うかな?」
「まあ一応、ディープな鉄研に頼んだんだから、大丈夫だと思うんだけど」

一転して真剣な顔のふたりは、また頷き合うと、急いでホームを出て行った。

結構な混雑の電車の中で大荷物の藤真はなんとか網棚に退避させつつ、慣れないラッシュにげんなりしていた。両親も普段は車通勤なので、そっちもげんなりしている。そんな中、藤真のポケットの中で携帯が震えだした。慌てて取り出すと、長谷川からメッセージが届いていた。

「3つ目の駅を過ぎたら、進行方向向かって右の窓にくっつけ」

意味がわからない藤真は、そう返した。

「翔陽の生徒がいるらしい」

へえ、と思った藤真はサラリーマンの小父さんに押し潰されながら微笑んだ。3つ目の駅の先といえば川沿いに市営のグラウンドがある。そこで運動部が練習しているのかもしれない。川が浅いために船舶の通行がなく、鉄橋は低い。なので、近くに見えるかもしれない。

翔陽か――。藤真は今日も右手にあるスタン・スミスをちらりと見て、少し胸を痛めた。悲しいことつらいことは高校時代の方が多かった。だけど、楽しいことも高校時代の方が多かった。苦しみも幸せも後悔もあった翔陽の3年間はどうしてあんなに楽しかったんだろう。大学だって充実してて、それなりに楽しかったはずなのに。

ちょっとしんみりした藤真を乗せた電車は3つ目の駅に入る。一斉に客が降りて、また乗り込んでくる客が待機している。その隙を狙って、藤真は右側のドアにへばりついた。何事かと両親もくっついてきたので、翔陽の子がいるらしいと説明してやった。

「あんたも春休みだろうがなんだろうが、ずーっと部活だったもんねえ」
「家にいる時間の方が少なかったよなあ」
「たぶん川沿いの市営グラウンドかなんかにいるんじゃないかな、あ、ほら、もうすぐ――

電車が鉄橋に差し掛かり、ドアにへばりついていた藤真親子は息を呑んで言葉を失った。

あまり広くない川の土手に、緑地に白抜きのガタガタな字で「がんばれ ふじま」と書かれた横断幕がはためいていた。その横断幕を持っていたのは、に花形、葉奈に長谷川、志津香も呈一さんも薫さんも朋恵も。あさひ屋も亀屋も全員揃っている。それぞれポンポンやらタオルやらを振り回してジャンプしている。

他にもたくさん商店街の人たちが来ている。少し遠いけれど、藤真には誰が誰だか全て見分けがついた。横断幕の前でちょろちょろしているのは初実と双子だ。そして、横断幕が真正面に見えた瞬間、藤真はバチンと口元に手を当てて喉を鳴らした。両目からボタボタと涙が溢れる。

……こりゃあ、頑張らないとなあ」
「あんたがいない間は、お父さんとお母さんが商店街にご挨拶に行くから、あんたは頑張るのよ」

後ろから両親に肩を叩かれた藤真は、ボロボロ泣きながら何度も頷いた。

「あーあ、行っちゃったね」
「あいつ泣いたかな? 電車混んでたけど、これは泣くよね?」
「葉奈ちゃんは喉元が過ぎたらまたゲスに戻ったな」

葉奈は真剣な顔で藤真が泣いたかどうかを気にしてウロウロしている。せっつかれた長谷川が「見えたか?」とメッセージを送った。とりあえず、このイベントに参加してくれた旭さんや志津香、朋恵は泣いている。意外なところでは、清三さんも今日は男泣きだ。

最初にこんなことを思いついたのは、葉奈だった。藤真をガツンと泣かせたいというのだ。

葉奈なりの感謝と激励だったのだろう。この計画を長谷川とと花形に話すと、少々笑いつつも、すぐに乗ってくれた。そのうち計画は花あかりに漏れ、あさひ屋に漏れ、藤真の出発時間が早いというので、思い切ってみんなでやって来た。これからとんぼ返りでみんな仕事である。ちなみにと薫さんは届出済みの遅刻。

即席の翔陽色横断幕を片付け、ポンポンから外れてしまったビニール紐などのゴミを拾っていると、長谷川の携帯に藤真からメッセージが届いた。そこには「バーカバーカバーカ!」というメッセージと共に、真っ赤な目と鼻をした藤真の自撮り画像がくっついていた。長谷川の携帯を覗きこんでいた葉奈たちは大爆笑。

「なんだよ、号泣じゃないか」
「泣かせたいとは思ってたけど、これほどとは……
「藤真ってさ、泣いててもこんなきれいな顔してるけどさ、中身けっこう地味で、しかも熱いよね」

がしかめっ面でそんなことを言うので、花形と長谷川はまた吹き出した。すると、今度は葉奈の携帯にメッセージが届いた。藤真からだ。今度はみんなで葉奈の携帯を覗きこむ。

「これで満足したかよ、この悪魔!」

「バレテター!」
「そりゃバレるわ。こんなこと思いつくの葉奈ちゃんしかいないだろ」
「そりゃ満足したよ、みんなで見送りできたんだから。ほんとにちゃんと帰って来いよ、健司兄ちゃん!」

また鼻をグズグズ言わせ始めた葉奈は、電車が遠く過ぎ去っていった鉄橋を見上げて微笑んだ。

その後の人々のことを少し。

結局、葉奈のひとり暮らしは実現しなかった。たくさんの人が金銭的なことも含めて援助を申し出たけれど、の時と同様、逆に葉奈の負担になるとして志津香が全て断った。なので、やはり志津香とと暮らすことになったのだが、花形の言うように、何しろ狭い。3人まとめて引っ越すことになった。

が一時暮らしていたアパートを紹介してくれた商店街の不動産屋が頑張って探してきてくれた戸建ての賃貸である。見事なボロ屋だったが、汚くはないし、場所も普通の住宅街で、駅や商店街からもそれほど遠くなかった。しかも、さらに花形家に近くなった。

予算も乏しいので、そこは素直に商店街の人々に手伝ってもらって、業者を頼まずに時間をかけて引っ越しをした。全て片付いたのは、葉奈の授業が始まる2日前だった。慌ただしいが、葉奈はむしろ嬉しいようで、引っ越しが決まってからはずっと機嫌がよかった。

店長の方は、藤真の言う「葉奈に捨てられた」という言葉が思いのほか堪えたようで、しかし亜寿美と離れる気はなく、黙って葉奈を送り出したけれど、しばらく悩んでいた。気付けば商店街の中での自分の立場もガタガタに崩れていたし、亜寿美は変わらずにドリーミンだ。

延々悩み続けた店長だが、2ヶ月ほど経った頃に突然覚醒、亜寿美との結婚を進め始めた。やがてふたりは入籍、亜寿美が夢見ていたようなウェディングが出来たかどうかは誰も知らないが、とにかくふたりは一緒になり、周囲の予想に反して一生懸命フローリストで働き始めた。

甘いたちの清三さんがたまに覗くところによると、店長は人が変わったようにキビキビと働いていて、その上亜寿美が徐々に普通になってきたという。清三さんが目にした様子で判断するに、店長が亜寿美を教育しなおしているらしい。いつかの若先生より評判の下がっていたフローリストだが、徐々に回復傾向にあるという。

そうこうしている間に、無事に葉奈が成人。度々晃代からの攻撃はあったけれど、避難所の多い葉奈は余計な傷を負うこともなくやり過ごせた。学費だけは店長が負担すると取り決めてあるし、たちとの生活に関しては呈一さんも支援してくれているし、なんとか回っている。

また、新年度以後の最大のトピックといえば、航が実家に帰ってきたことだろう。だが、大学自体は依然京都なのだし、これは突然の和解などではなく、病気だった。病気というか、胃に穴が開いていた。薫さんと朋恵はその報せにパニックを起こし、退院すると無理矢理連れて帰ってきた。

だが、自分で勝手に捻れて捻くれて自滅した航は、両親やや葉奈に目一杯心配され大事に看病され、体だけでなく気持ちまで弱っていたことで、なし崩し的にデレた。兄がいなかったのも幸いだったろう。にちょっかいを出すようなこともなかったし、大学も1年休めという両親の懇願には大人しく頷いた。

そんなわけで結果的には全方向丸めに収まったというところだが、若先生にブロークンハートだった初実が「こんどはふじまにする」と言い出して育太兄貴が苦悩の日々を送っている点を除けば、商店街は以前の落ち着きを取り戻した。

いつもの街でいつものように生活をしながら、彼らはまた藤真が戻ってくるのを待っている。