あなたと花に酔いて

15

「なんかドキドキするなあ、店長はともかく、に嘘ついたのなんて初めて」
「後でバレたら怒られないか? 大丈夫?」
「平気平気、アタシそんなヘマしないから」

横浜に向かう電車の中、壁ドン状態の葉奈はずっとにこにこしていた。だいぶ身長差のある葉奈と長谷川だが、今日の葉奈は12センチヒールのブーツを履いてきた。それでもまだ相当差があるが、最近やっと150センチに届くかという身長になった葉奈は、いつもより近い目線にご満悦だ。

葉奈は中学生最後なのでクラスの仲の良い子たち含む数十人で川崎大師に行くと嘘をついた。店長はそれを疑わなかったし、も楽しんできてね、と送り出してくれた。心は痛まなかったけれど、すごく緊張した。地元から少し離れた駅で長谷川と待ち合わせて、そのまま横浜に向かっている。

「んふふ、変なの、今頃透兄ちゃんとイケメンもあさひ屋に来てる頃だよね」
「オレも嘘ついちゃったけど、面白いくらい疑われなかったな」
「明日、餅つきが終わった頃に行こうっと」

12月31日の上り電車は大変な混雑で、電車が揺れるたびに葉奈は長谷川に押し潰された。長谷川はその度に腕を突っ張って葉奈を守ってくれるけれど、葉奈は押し潰されても上機嫌だ。去年の年越しと同じダウンを着ている長谷川にするりと抱きついてにこにこしている。

「ちょっと早く着きそうだね。葉奈ちゃんご飯は食べてきた?」
「うん。今年は店じまいした後にみんなで炊き出ししたの。去年は兄貴ばっかり働かせちゃったし」
「そっか、少し待つかもしれないけど、寒かったら無理するなよ」
「はーい」

葉奈はかつて経験したことのない幸せの中にいた。期間限定の仮初めの関係だったとしても、今この時の幸せに変わりはない。長谷川の心の大部分が旭さんにあるとしても、今ここに旭さんはいない。いるのは自分だけで、他には誰もいない。長谷川が見ているのは自分だけだ。

それはちょっと、なんて断られるかと思ったけれど、数日前のクリスマスにはキスもしてもらったし、今日はもうずっとくっついている。電車が混んでるせいだけじゃない。旭さんの件は本人もはっきり言わないし、もしかしたら自分の方へ少し気持ちが傾いているんじゃないか。葉奈はそう考えていた。だから余計に機嫌がいい。

カウントダウンを待つ横浜みなとみらいは人で埋め尽くされていた。葉奈はカウントダウンの花火があるから行きたいと簡単に言い出したことを少し後悔したが、長谷川はあまり気にしていないようだ。手を繋いだだけでは心もとないので、しっかりと抱き寄せてくれている。

「ちょっと駅の方へ戻ろうか。花火だし、離れてても見通しがいい方がいいかもしれない」
「そうですねー。あっ、じゃあコーヒーかなんか買って行こ」

桜木町駅まで戻ってきたはいいが、カフェなど当然満員、テイクアウトで買うのにも30分以上かかってしまった。迫るカウントダウンで駅前はまだ人が増える。人の波を避けるようにしてふたりは駅前を離れ、みなとみらいとは逆の方へと歩き出した。横断歩道を渡り、そのまま行けば野毛方面へ行く道だ。

「みんなすごいなあ、あの人の波の中に突撃できるんだもんな」
「長谷川さんは人が多いの苦手?」
「苦手じゃないけど、さすがにアレは。葉奈ちゃんは?」
「アタシもそんな感じ。あっ、でもテーマパークとかで並ぶのは全然平気!」
「あー、テーマパークね……藤真が並べない体質で……今年の遠足はひどかった」
「あはは、わかる!」

人の波に逆らって歩いたふたりは、市営地下鉄の地下道に降りる階段の近くで足を止めた。この辺りなら花火は見えるけれど、人は少ないだろう。買ったばかりで熱いコーヒーを手に、またふたりは寄り添った。何しろ寒い。

「コーヒー熱いけど、風冷たいし、寒くない?」
「ちょっと寒いけど平気。えへへ、くっついてれば平気」
「ほんとか? 足元寒そうなんだけど」

タイツは履いているけれど、今日の葉奈はミニスカートである。高いヒールのブーツに赤チェックのミニスカート、黒のショートコート。耳付きのカチューシャをつければそれこそテーマパーク仕様だ。チャイのカップを手にぺたりとくっつくと、長谷川も抱き返してくれる。

「今何分だろ。お、もう少しもう少し! 今年も終わりかあー色んなことがあったなあ」
……ほんとに」
「あ、ごめんなさい」
「そういうことじゃないよ、本当に色々あったなあって、思ったから」
「まだつらいですか」
「ううん、大丈夫。後悔はしてないし、今は3年間すごく楽しかったと思ってるから」

その言葉に嘘はなさそうだった。長谷川は葉奈が心配するよりは晴れ晴れとした表情をしていた。葉奈が手にしている携帯は、年が変わるまで残り1分を示している。

「あっ、そろそろですよ。わー、向こう暗くなってきた!」
「葉奈ちゃん、カップ貸して」
「えっ、はい」

長谷川は葉奈の手からチャイのカップを取り上げると、自分のラテのカップと一緒に地面に置いた。そしてそのまま、きょとんとしている葉奈を抱き上げた。短い悲鳴を上げて、葉奈は長谷川の首にしがみついた。いわゆるお子様抱っこだけれど、一気に顔の距離が近くなる。

カウントダウンの花火を察して、ふたりのいる歩道の上にも人が集まり始めていた。カップルも大勢いて、葉奈と長谷川はその中に埋もれている。誰かが時報を聞きながらカウントダウンを始めたので、葉奈もその声に合わせて声を上げた。

「7、6、5、4、3、2、1、ハッピーニューイヤー!」

海の方で無数の花火が駆け上がり、真っ黒な夜空に爆発した。ふたりの周りでも歓声が沸き上がる。葉奈がちらりと長谷川を見ると、彼は花火を見上げて少しだけ遠い目をしていた。冬の風に晒された白っぽい肌に花火の光が踊る。葉奈は、そっと手を伸ばして長谷川の首にあるマフラーを引っ張った。

長谷川が振り返ると、葉奈の顔がすぐ目の前にあった。

「あけまして、おめでとうございます」
……あけましておめでとう」
「あのっ、カウントダウンの後の、キ――

キスを下さいと言い終わらないうちに、葉奈は唇を塞がれた。クリスマスの時にもしてもらったけれど、今度はなんだかずいぶんちゃんとしたキスだ――葉奈はそう思いながら、両腕をしっかり絡ませた。やがて唇が離れると、葉奈はそのままぎゅっと抱きつき、花火の爆発する音に隠れて囁いた。

「大好き」

それから4年が過ぎた春間近の花あかり。突然乱入した長谷川はカウンターから出ていびつな笑顔を浮かべていた葉奈の名を呼んだ。ただでさえおかしな笑顔の葉奈に戦いて静まり返っていたフロアに、声が響き渡る。さすがに長谷川までは調査の手が及んでいないので、晃代たちはぽかんとしている。

焦って追いかけてきた藤真が長谷川の肩に手をかけたその時、いびつな笑顔を浮かべていた葉奈の表情が、まるでくしゃくしゃと紙を握り潰したかのように崩れた。そのまま目が赤く染まり、ぽたりと涙がこぼれた。

「葉奈ちゃん」
「長谷川、さん」

藤真の手から離れた長谷川がまた一歩踏み出し、片手を少し伸ばした。葉奈が駆け出し、薫さんと朋恵、父親、母親、全て振り切って長谷川の腕の中に飛び込んだ。長谷川は4年前のカウントダウンの時のように葉奈を抱き上げ、その体を守るように反転すると強く抱き締めた。

一瞬の間を置いて、葉奈は声を上げて泣き出した。

「葉奈ちゃん、遅くなってごめん。怖かったよな、ごめん」

長谷川の言葉に、葉奈は泣きながら首を振った。葉奈と長谷川の間に何があったのかを知っているのは、この場で言えばに花形、藤真、志津香に朋恵の5人だけ。誰もが一体なぜ葉奈が長谷川に飛びついて泣きじゃくっているのかわからなくて、言葉を失った。

「アタシどこにも行きたくない、ここにいる、父親も母親もいらない、花形家にも行かない、家にも帰りたくない、ここにいる、ここにいたいよ、ここにいさせてよ……!」

一気に言う葉奈の背中を長谷川がゆっくりと擦っている。みんなそれを見ながら黙っていたが、そこへ藤真が進み出てきて、葉奈たちと晃代の間に割って入った。

「聞きましたね、本人が拒否していますよ。後は家裁でどうにかしたらどうですか。店長、ほら、とうとう捨てられちゃったじゃないですか。亜寿美さん連れて帰って。みなさんもそんなに騒いだらダメですよ、葉奈ちゃんが自分の言いたいことを言えなくなるでしょ。助けは求められた時に応じてやるだけでいいじゃないですか」

店長や晃代も両手でしっしっと追い払うようにして、追い出した。店の外にいた野次馬も全員追い払われる。

「葉奈ちゃんが大切に思ってる商店街なんですよ、ほったらかして何やってるんですか。ほら帰った帰った。兄貴、旭さん、あとでちゃんと話すからね。ほらほら、ここどこだと思ってるんですか。岩間医院があったところでしょ。こんな風に葉奈ちゃんを追い詰めて……先生に叱られますよ!!」

晃代はともかく、商店街の人々は最後の言葉に打ちのめされて、素直に花あかりを後にした。藤真は岩間先生を思い出しながら、心の中で語りかけた。先生、先生はまだここにいるんだね。先生、助けてくれてありがとう。

「あんたたちも帰って下さい。まだ仕込み終わってないんだから、これ以上邪魔すると威力業務妨害になりますよ。店長、ほらちゃんと立って。フローリスト、エライことになってるけど、亜寿美さんいれば平気でしょ。今度は大事にして下さいね。もう葉奈ちゃんは助けてくれないんだから」

藤真に追い出された晃代と店長も、花あかりのドアが勢いよく閉められてしまうと、すごすごと立ち去っていった。

「花形、小父さん、呈一さん、3人揃って何やってんですか!」

今度は花あかりにいた男性陣に雷が落ちた。腕を組み、少し上目遣いの藤真はかつて翔陽で監督をしていた頃と同じで、叱られつつも花形は懐かしくなった。同学年の友達でチームメイトでも、監督という立場の藤真なら、叱られても平気だった。いつも正しいことを言っていたから。

「すまん藤真、頭に血が上っちゃって」
「藤真、だけどみんな必死だったの、店長も晃代さんも、あんまりひどいから」
「わかってるよ。ここにいる全員あんなのとは違うし、本当に葉奈ちゃんのこと思ってるのはわかってる」

しかし、長谷川にしがみついてしゃくりあげている葉奈を見ていると激しい後悔が襲う。

「志津香さん朋恵さん、まだ開店まで時間あるし、ちょっとバックヤード貸してもらえませんか」
「もちろん。狭いけど使って」

すぐに察した志津香が大きく頷く。藤真はそれを確かめると、葉奈と長谷川を促してバックヤードに押し込めた。

「さて、じゃあ今日は日曜だし忙しいし、みんな疲れてるのは同じだから、協力して頑張ろう」

完全に監督の顔に戻った藤真は、てきぱきと指示を出した。まずはと呈一さんに、清三さん御用達の久保洋品店で白いシャツを3枚買って来させた。藤真と花形と薫さんの分である。その間藤真と花形父子は店内を掃除し、開店に備える。

シャツが届くと着替え、カフェエプロンを装備。にはまたキッチンへ入ってもらい、呈一さんには近所に挨拶に行ってもらった。作れば怖い顔の呈一さんだが、同時に人当たりのいい柔らかな顔も作れる。騒いでしまったことを詫びて、花あかりのドリンク無料券を配ってもらってきた。

「透、透、お父さんすごい恥ずかしいんだけど」
「安心しろよ、オレもだから。てか藤真、結局何も片付いてない気がするんだけど」
「大丈夫だって。一志がいれば葉奈ちゃんもちゃんとどうしたいか言うはずだ。それから決めればいいよ」

キッチンではスイッチを切り替えた志津香と朋恵がに手伝わせて忙しく働いている。藤真はそれをちらりと見ながら、きれいに整った顔でにっこりと笑った。

「よし、じゃあ接客の練習するか!」

花あかりのバックヤードは3畳に満たない程度の小さな部屋だが、志津香が休めるように、と朋恵がソファを持ち込んでいた。ちなみに、かつて花形家のリビングにあったもので、息子ふたりが家を出たので不要になってしまったものでもある。長谷川はそのソファに座って葉奈を抱きかかえていた。

あの頃も今も、旭さんに対して想っていたようには、葉奈を好きだと感じていない。けれど、その前提がおかしかったのだと長谷川は考えていた。旭さんへの恋だけが、熱病のように狂おしいものだっただけ。それは葉奈と過ごすことで薬が効くように過ぎ去っていったものでもある。

最初に告白されたのは高校2年生の時。インターハイに発つ前夜、商店街で餞別という名の粗品を大量に貰ったりしてはしゃいでいた日のことだ。たまたま自転車で来ていた長谷川は葉奈を送って帰った。店長が飲みに行っていて不在だというマンションのエントランスで告白された。

なぜ自分なんかが好きなんだろう、もっと葉奈ちゃんに相応しい人がいるだろう、だってどう考えてもオレより藤真の方がかっこいいだろ。そうじゃなかったら、航の方が。だから信じられるわけがなかった。たぶん葉奈ちゃんも、自分が旭さんという熱に浮かされているの同じで、熱が引けば何かの勘違いだったと気付くはずだ。

だから「好きな人がいる」ので断った。そしてもし好きな人がいなかったらと聞くので、そりゃあ自分なんか「こっちからお願いしたいくらい」だと答えた。社交辞令や心からの気持ちではなく、それはただの理屈だった。

それでも葉奈が諦めず、卒業するまででいいからというのにも、実際に付き合ってみて現実がわかれば気持ちが冷めるだろうと思っていた。なのに、葉奈は、可愛い葉奈はカウントダウンの夜、ぎゅっと抱きついて「大好き」と囁いた。耳が痺れて気が遠くなったのをよく覚えている。

ふたりきりになりたい、この子と朝まで一緒にいたい、もっともっとキスして、ずっとぴったりくっついていたい。瞬間的にそう思った。と同時にと店長の顔が浮かんできて血の気が引くわけだが、確かにあの時、葉奈のことを誰より愛しいと思ったのだ。

その葉奈が、だいぶオカシイ父親と母親の間に挟まれて、大好きな商店街から引き離されそうになっていた。本人がいるというのに、誰も彼もギャーギャー騒いでいて、葉奈の気持ちなんかまるで考えていないように見えた。だったら、こんな連中よりはまだ自分の方がマシなんじゃないか。

そのくらいしか考えていなかった長谷川だが、葉奈の名を呼び、飛んできた彼女を両腕に抱き上げた瞬間、カウントダウンの夜のことを鮮明に思い出した。あの頃よりずいぶん大きくなってしまった葉奈だけれど、感じたことは同じだ。この子が愛しい、こうして両腕に抱いていたい。それはつまり――

「葉奈ちゃん、4年前のことも全部、ごめん。葉奈ちゃん、遅くなったけど、オレも好きだよ」

葉奈は静かに顔を上げると、真っ赤な目と鼻で情けない顔をしていた。髪が頬に張り付き、唇が震えている。

……アタシが可哀想だから? こんな騒ぎの中でテンパッてたから?」
「違うよ。それも本当だけど、そうじゃないよ。あの時、カウントダウンの時に、そう思ってたんだ」
「えっ、だってその頃って」
「あれは、ひどい風邪をひいたような感じだったんだ。それを葉奈ちゃんが治してくれたから」

それなのに4年間も離れてしまうことになったのは、ひとえに長谷川が臆病だったからだ。

「葉奈ちゃんと一緒にいたい、近くにいたいって思ったけど、まだ葉奈ちゃんは中学生だったし、の家族だし、そんなこと考えてる自分が嫌でしょうがなくて……

頬に張り付いた髪を一筋一筋指で払っていく。

「だから今度はオレが。葉奈ちゃん、好きです、付き合って下さい、お願いします」

涙に洗われた葉奈の頬に、またしずくが伝う。ふたりは引き寄せられるようにして唇を重ね合わせた。ドア一枚隔てた向こうのフロアでは、藤真が花形と薫さんをビシバシ指導している声が響いている。壁の向こうのキッチンでは食器や鍋のぶつかり合う音が響いている。そんな音の中で、葉奈はもう一度囁いた。

「大好き」