あなたと花に酔いて

05

花あかりで23時頃まで飲み続けた藤真は、花形と薫さんに抱えられて帰っていった。かなり酔っ払っていたので花形ひとりでは手に余ったからだ。そのふたりが戻るのを待ってから花あかりは全ての灯りを落とし、この日は花形家に、葉奈は志津香の家に泊まることになった。

5年前、と葉奈を招きたがる朋恵に対して、薫さんはかなり厳しい態度を取っていた。仮にも中高生の息子ふたりの母親が、その同級生の女の子を家に招くような真似をしてはいかんというわけだ。まあ、これは薫さんが正しいだろう。だが、息子ふたりがいなくなってしまった途端、薫さんの方がこれを守っていられなくなった。

まだ志津香がリハビリを続けていた頃、数ヶ月に一度、入院して検査、ということにでもなると、なぜか関係ない葉奈まで一緒に呼ばれて泊まっていけと勧められた。嫁大好き薫さんであるが、子供はどちらも男なので、と葉奈がいると娘が出来た気になってしまい、目尻が下がりきって甘やかしに拍車がかかる。

そんなわけで、と葉奈は花形家に寝泊まりするのはもはや慣れっこで、言いはしないけれど、薫さんも朋恵も、が嫁に来てくれたら同居してくれないかなと密かに願っているらしい。だが、航がいる以上、これは実現しないだろう。実際のところ、花形家も二世帯が入るほど大きくない。

「酔っ払ってたから聞けなかったけど、藤真のスケジュールとか聞いたか?」
「んーん。向こうに発つのは月末ってことくらいで、他には何も」
「私有給残ってるよ!」

は鼻息荒く言うが、まあそこまでしなくても、というところだ。葉奈とと花形は、タクシーで帰った親たちとは別れて歩きで帰っている。ルート的には現在と志津香の住むアパートを通って花形家に向うコースだ。まだまだ寒い3月の夜だが、酔った体に冷気が心地いい。

「オレもそうだから、何をするんでも今月の間だな」
「研修長いんだよねー。、ちょっと寂しいねえ」
「まあしょうがないよ、今だって近いわけじゃないんだし」

と花形が付き合いだしてから、かれこれ5年が経つ。葉奈が藤真に愚痴ったように、高校3年生から短大1年目の2年間、は妙なモテ期が到来してしまい、特に高校を出てしまって距離が出来た花形はずいぶん気を揉んだものだった。だが、それでもふたりの関係は良好で、大きなトラブルはない。

春から新社会人である花形だが、初っ端から研修で3ヶ月国内を転々とすることになっており、なおかつそれが終わったら今度は2ヶ月の海外研修が決まっている。はもちろん薫さんと朋恵も寂しいが、それさえ終われば勤務地は遠くない予定だ。

「ねえねえ、もし志津ママと呈一さんが結婚したらどうするの」
「たぶん今の状況じゃ結婚しないんじゃないかな」
「あー、はいはい、オレ待ちね、もーちょいお待ちください」
「そんなこと言ってないだろー!」

花形は、自分がを嫁に貰える状態にならなければ志津香と呈一さんも一緒になれない、と言われていると思ったらしい。だが、葉奈が聞きたかったのはそういうことじゃない。仮に今すぐが花形と結婚し、志津香も結婚してしまったとしよう。そうしたら、今日のような時、自分はどこへ行けばいいと言うんだろう。

こんなことを言えば、即座に薫さんと朋恵がうちに来いと言うだろう。けれど、あくまで花形家はが嫁ぐ予定の家であって、本来なら葉奈は関係ない。そんな垣根を超えてしまっている風だが、薫さんも朋恵も今は家に子供がいない状態だから、いつでも両手を広げているというだけだ。

それに、もしが同居、そうでなくともに子供が生まれたら。育った環境は隣合わせでも、ははとこという遠い縁戚、葉奈はその垣根の根っこまで引き抜くようなことはしたくなかった。どれだけ親しくても守らねばならない一線というものがある。

それなのに父親は彼女が出来て脳内お花畑、自分はまだ大学が3年間残っている。無事に卒業して職を得たならすぐにでも独立してしまえばいいけれど、それまで3年間、トチ狂っている父親とその彼女と、うまくやっていく自信がない。今も本当なら自宅にはあまり帰りたくないのだ。

先に志津香が帰宅しているアパートに着き、ふたりと別れた葉奈は玄関ドアのところで振り返ると、と花形の後ろ姿を少し眺めていた。かなり身長差のあるカップルだが、そのせいで花形はいつも少し傾いていて、それを見ると長谷川を思い出す。何しろ最大で50センチの開きがあった。

ポケットにある合鍵を探る手を止めて、葉奈は冷たい風に髪をそよがせる。

自身の置かれた環境を拒んで、航は家を飛び出した。その後、どんな風にして過ごしているかは殆ど知らない。葉奈が知る限りでは、家を出てからの4年間、この地元に帰ってきたのはたった3回。1度は薫さんの母親、透と航の祖母が亡くなった時、後の2度は大学進学のことで話をしにきただけ。もちろん葉奈は会っていない。

聞けば兄である花形もその父方の祖母の葬式の日以外では、電話で話すことすらなかったという。最初は朋恵も少々ヒステリックに悲しんでいたが、薫さんが休みとあらば航の元へ通い、長い時間をかけて話し合ってきた。それを経て、花形夫婦は次男に関しては本人の意志のままにさせることとして、納得したらしい。

葉奈はそんな勇気が持てないことを、少しだけ恥じている。本当に父親とその彼女が嫌だったら、進学を諦める、または働きながら通うくらいのことをすればいいのだろうということはわかる。けれど、父親とその彼女はともかく、それ以外に不満はないのだ。と志津香、花形家、商店街とも離れたくない。

何しろ子供の頃からずっと一緒、と離れるなど考えられない。のことは大好きだ。本音を言えば、あんまり急がずに、できるだけゆっくり時間をかけて結婚して欲しい。相手が花形だから許したようなもので、これが就職した先にいた新顔だったりしたら、おそらくいびり倒していた気がする。

だいたい、その花形にしても初対面で「に何かしたら刺す」、2度目には暗闇からの襲撃で飛び蹴りである。よく花形も葉奈のことを嫌いにならなかったものだ。

藤真は新天地へ、花形も新しい世界へ、はそれについて行く。志津香にも呈一さんが、店長にも亜寿美がいる。もしかして、アタシ、居場所がない? 葉奈は生まれて初めてそんなことを思った。

きっと商店街を出ることになった時の若先生って、こんな気持ちだったんだろうな――

だが、若先生の場合はかなりの割合で自業自得で、葉奈は思わず笑った。そういえば、あんまりはっきり言わないけれど、若先生も彼女いるっぽいしな。はーちゃんブロークンハートだわ、なんて考えつつ、葉奈は合鍵でアパートのドアを開けた。ふわりと優しい志津香との香りがする。ああ、ここにいたい。

前日は色々あった上に遅くまで飲み倒した藤真は、久しぶりに二日酔いで目が覚めた。頭が割れるように痛い。というか家に帰って自分のベッドに入った記憶がない。着替えているが、それも自分でやった気がしない。日曜で両親が階下にいるだろうけれど、起きていくのが怖い。

だが、ここは寮ではない。自分の部屋にいては水も飲めない。意を決した藤真はなんとなく着替えてそろりそろりと階段を降りる。リビングに母が、庭に父がいるようだ。藤真はビビりながらリビングのドアを開け――

「お、おはようございます……

藤真が目覚めたのは13時頃だった。そして、昨日来たばかりの商店街にまたやってきたのだが、現在15時。リビングに恐る恐る足を踏み入れた藤真の上には母の雷が直撃し、1時間近くも怒られた。花形ひとりならまだしも、薫さんがいたので藤真母は顔から火が出るほど恥ずかしかったらしい。

いい年してお母さんに説教された藤真は打ちひしがれながら商店街までやってきた。そして、あさひ屋にもフローリストにも寄らず、まっすぐに花あかりにやってきた。ティータイムでゆったりとした店内が藤真の心をほぐす。

「あら、また来たの? 昨日ずいぶん酔っ払ってたわね、大丈夫?」

今日もカウンターの中から志津香がはんなりと出迎えてくれた。ああ、志津香さん癒される。

「すみません、ちょっと居場所なくて。お邪魔してもいいですか」
「当たり前でしょ。今日はこっちのカウンターにいらっしゃい。先生とコーヒーでもどう?」
「はい、頂きます。先生、こんにちは」

昨日も遅かっただろうに、変わらずしっとりした志津香に物言わぬ先生の文鎮が藤真の耳に残る母親の怒鳴り声を中和してくれる。店内は藤真以外全て女性客だが、先生の文鎮と一緒に隅っこにいるのも悪くない。キッチンから朋恵も顔を出し、ランチの残りの賄いを食べるかというので有難く頂戴することにした。

「今日はたちと出かけないの?」
「はい、ちょっと一志に連絡を取ろうかと思ってて」
「ああ、そうよね、まずはひとりの方がいいわよね。あんなことがあったから――
「え、志津香さんも知ってたんですか」
「私と朋恵ちゃんは一応知ってるわよ。と3人で葉奈を励ましたりしたんだもの」

葉奈のことだから、当時も今も、学校の友達になど長谷川のことは喋らなかったに違いない。そうすると相談相手がどうしてもたちになるのは仕方ない。しかも長谷川の件であれば、旭さんにも話せない。

「私はあんまり話した記憶がないんだけど、それでも優しい子なんだなって思ったな」
「優しいのはいいんですけど、ちょっと控えめというか、自己主張が弱くて」
「葉奈と正反対ね」

藤真は朋恵の出してくれた賄いプレートを食べながら長谷川にメールをした。オレは今ちょっと実家戻ってるけど、お前どうしてる? 春からは実家から仕事だろ? 花形も帰ってるし、時間があったら飲もうぜ。

もうお母さんに説教されるなどというこっ恥ずかしいことはご免だが、女の子ではないので、カフェでお茶飲もう! とはいかない。それに、昨日は薫さんと呈一さんという強力なスポンサーがいたから際限なく飲んでしまっただけだ。自腹であんなに酔うほど飲む予算はない。だから大丈夫。たぶん。

今度は花形に昨夜の礼と長谷川に連絡したことと、都合が合えば3人で会えないかという旨を連絡する。も会いたがるだろうが、それは長谷川と話してみてからでないと勝手には決められない。長谷川がこれっぽっちも気にしていないなら、その場で呼び出したっていいのだから。

この時藤真にはが社会人であるという意識はないが、それはそれ。内容は雑多だったが美味い賄いプレートが半分ほどなくなったところで、藤真は志津香を捕まえて声をかけた。

「葉奈ちゃん大丈夫でした? 今日は店長が店出てるんですよね」
「そう。だから帰ってる。に手伝ってくれってヘルプ寄越したらしいけど、透くんが断ったって」

藤真はコーヒーを吹き出しかけた。花形め、やるな。

「ねえ志津香さん、亜寿美さんとかいう人、本当に大丈夫なんですか」
「葉奈に聞いたの?」
「清三さんにも聞きました。――ちゃんと花形にも少し。なんかちょっと心配で」

ありがとね、と言いながら志津香は眉を下げて微笑み、細くため息をついた。

「孝幸にも本当に困ってるのよ。どうもあの子は自分を振り回す女の子が好みみたいで」
「振り回す、ですか」
「葉奈の母親もそうだったの。わがままというか……おねだりが多いと言えばいいかな」

店長こと孝幸は甘えてくる女の子に「しょうがないな」と折れてやるのが好きなのだと志津香は言う。努めて顔に出さないように努力したが、藤真は背中がぞわりと怖気立った。なんだそれ、気持ち悪い。

「亜寿美さん、旭さんより少し年下なんだけど、夢いっぱい憧れいっぱいで、話が通じにくいのよね。例えば、困ることがあって、それを言うと、なんでそんなことが困るのか、なんでそんなことを言うのかわからないという感じで」
「あの、その人バカなんですか?」
「透くんと同じこと言ってる」

志津香は口元を押さえてくつくつと笑った。亜寿美に関しては、藤真と花形の意見は完全に一致しているようだ。

「ご両親に大事に愛されて育てられて、大きな成功もないけど失敗もないという感じかな」
「それがそんな風になっちゃうんですか……
「世界が狭いんじゃないかしら。孝幸の境遇がドラマみたいで可哀想と言ったくらいだから」

藤真もや葉奈を取り巻いていた環境はずいぶん特殊なのだと思っているが、店長はの一件を除けばそれほど特別には感じない。自分の家は取り立ててトラブルはなかったけれど、父のいとこが嫁子供を置いて水商売の女性と逐電している。そういうことは紙一枚隔てたすぐそばに潜んでいるものである。

というかそれを30代になっても知らずに過ごしてきたという方が特殊だろと思うが、一応言わない。

「私が葉奈を引き取ってやれればと思うんだけど……
「葉奈ちゃんがうんて言わないんですね」
「ほんとに藤真くんて勘がいいわね。そういうのって、自分で自分の首を絞めない?」

絞める。藤真は図星過ぎて顔を歪めて笑った。志津香も退院した直後はこんな風にじっくり話が出来る感じではなかった。これは呈一さん効果なんだろうか。それともあの不穏な日々が志津香をこんな風に変えたんだろうか。明瞭だが優しい声の志津香は、確かに相談事をしたくなる雰囲気を持っている。

「でもなんか、この商店街にいると色んな人が色んなことでいつも何かを抱えてて、勉強になるというか」
「この商店街だけじゃなくて、世の中にはもっと色んなことがあるわよ」
「オレも世界が狭いなあ」
「いいじゃない、今はまだ狭くたって。亜寿美さんと違って藤真くんは知らないことを知ろうという意欲があるもの」

志津香はそんな風に言ってくれるが、そんな動機で商店街に入り浸っていたわけじゃない。褒められた藤真はちょっと申し訳ない気がしつつ、大学に入って出来た友人たちがトラブルに見舞われていると「そのくらいのことで大騒ぎして」と思ってしまったことを思い出していた。や志津香に比べたら、誰も彼も些細なことで騒いでいた。

自分のように亜寿美のように、トラブルのない家庭でトラブルもなく過ごしてこられれば、それが一番幸せなのかもしれない。だけど、そのせいで葉奈は今困っている。藤真は何が良くて何が悪いのか、わからなくなってきた。誰かが何かを望めば誰かがそのせいで苦しむ。

おでこからモジャモジャした黒いものが出てきそうな気分になっていた藤真の手のひらの中で、携帯が震えた。

「連絡ついたの?」
「はい。やっぱりあいつも帰ってたみたいです。会ってきます」
「そう、よろしく伝えてね。難しいこといっぱいあるけど、いつも想ってるからねって」

そう言って志津香は柔らかく微笑んだ。藤真は呈一さんの気持ちがわかるような気がした。