あなたと花に酔いて

06

「悪かったな。置いてくるの面倒だったろ」
「いや、もうそこは正直に言った。葉奈ちゃんのところ行くって言ってた。そっちもどうしたよ」
「オレも正直に言ったっていうか書いた」

商店街近辺で飲むわけには行かないので、藤真と花形は南ゲート前の駅で待ち合わせて電車に乗った。2駅で乗り換えてまた2駅で長谷川の地元である。それほど大きくない駅だが、駅前の再開発で改札に直結した駅ビルが出来て、飲食店が増えた。確か居酒屋が入っていたはずだ。ふたりはそこを目指している。

「今日はは連れて行かない、オレと花形だけって」
「何だって?」
「一志だぞ、わかった、ってだけだよ」

藤真は気にしているようだが、花形にその話を聞かされたは駄々をこねたりせずにすぐに頷いた。藤真と違い、長谷川は実家に戻る。いつか会える機会もあるだろう。花形家にいたは、葉奈を呼べばいいじゃないかと言いたげな薫さんをあえて無視して葉奈のマンションに向かったという。

「別にそのことをほじくり返したいわけじゃないんだけど、めんどくさいよな」
「花束返しはほじくり返したくせに」
「そりゃ別。あれは数年に一度のスパンで流行るべきだ」
「ふざけんな」
「やがていつか全国に広まり、そんでお前が元祖としてテレビで取り上げられるってわけだ」
「お前の基準が年々わからなくなる」

薄暗くなり始めた空の下、ふたりは長谷川の地元駅の改札を出る。律儀に改札の前で立っていた長谷川にふたりは手を挙げて声をかけた。同じ東京の大学でバスケットをやっていても、会う機会はそれほどなかったので、藤真は8ヶ月、花形も半年ぶりだった。

とはいえ、学校でも学校の外でも一緒にいる時間が長かったこの3人は、久しぶりでも感傷的になるような距離感ではない。今も手を挙げてバチバチとハイタッチはしたけれど、すぐにだらだらと歩き出した。駅ビルの中の居酒屋は日曜なので既に賑わっていて、少々体の大きい3人は掘りごたつの4人席に小さく収まった。

「一志、ちょっと見ない間に、ツンツン短くなったな」
「まあ春から仕事だしな」
「てか赴任先の高校ってバスケどうなんだ」
「あんまり熱心じゃないみたいだな」
「お前が監督やればいいのに」
「あんまり向かない気がするけど」

8ヶ月ぶりの藤真は長谷川を質問攻めにしつつ、またビールを注文した。花形は少し心配になったが、どう考えても泥酔する予算はないという藤真と同じ結論に至ったので、何も言わなかった。それに、昨夜のことを話せば結局商店街の話になる。もし長谷川が話したくないようなら、触れないでおきたかった。

3人は乾杯を済ませると、翔陽時代の同期の近況だとか今の大学のチームメイトの進退だのでしばらく話し込んだ。彼らの世代は妙に目立つ選手が多かったので、その話題も多くて、1時間ばかりそんなことで盛り上がっていた。有能な選手でも、花形や長谷川のように大学まででバスケットをやめるケースも多いらしい。

だが、いくら商店街のことに触れずにおこうとしても、花形とが付き合っている以上はどうしても話に出てくる。それ以前には同じ翔陽出身の同級生だ。わざわざ避けて通そうとする方が白々しい。

「学生と社会人だからしょうがないけど、収入格差がつらい」
「つらいったって、何も養ってもらってるわけじゃないだろ」
「いやほら、たまに遊びに行くとかしても、予算に差がありすぎて」
「またのことだから食事代私が出すとか言ってるんじゃないのか」

適当に話を切り上げようと思っていた藤真と花形だが、長谷川はにこやかに口を挟んできた。旭さんや葉奈ではないとはいえ、いいんだろうか。思わず黙ってしまったふたりを見ながら、長谷川の笑顔が苦笑いに変わる。

「何だよ、気を使ってるのか?」
「ま、まーな。オレ、詳しいことあんまり知らなかったしな」
「えっ、そうだっけ?」
「そうだっけ、ってオレ、最初に聞いたの1年の夏休みで、それっきりだったぞ」
「そうだったか? なんかお前らは全部知ってるつもりでいたな」

長谷川があっけらかんとしているので、藤真と花形は気が緩む。気を使って損した。それならばと昨日のことを話す藤真に、長谷川は何度も吹き出し、そして懐かしそうに頬を緩めた。ただし、一応店長と亜寿美の件は伏せ、葉奈のことも詳しく話さなかった。

「なんだかオレたちがいない間も色々あったんだな。志津香さん元気そうで何よりだ」
「ええとその、お前ももういいのか、色々」
「ああ、うん。旭さんのことはもう、全然」

それでも一応言葉を濁した藤真だが、長谷川はまるで気にしていない風に返してきた。

「今思うと、風邪を引いたみたいな感じだな。もしかして今、兄貴も子供もいない旭さんが抱きついてきたらやっぱり逆らえないと思うけど、そんなことはありえないし、自分からどうこうしたいとかはない」

例えが具体的過ぎて藤真と花形は返す言葉がない。

「まあその、ひとりであさひ屋に顔出す勇気はないんだけど、誰かと一緒なら行かれると思う」
「そうか……まあ、お前がそう言うならいいけど」
「お前も葉奈ちゃんも強いなー。オレはそういうのダメな気がする」

藤真が言うなり、長谷川の顔色がさっと変わった。元々あまり表情豊かな方ではないので、それが何を意味するかは判別しづらいが、商店街も旭さんももう過去のことになっているというのに、葉奈の話題はダメか? 言わなきゃよかった。藤真はまたスッと酔いが覚める。

「一志、嫌なら話さないから、遠慮せずに言ってくれよ」
「花形すまん、嫌とかそういうんじゃないんだ。藤真もごめん」
「いや別に謝ることないだろ……どうしてもその話しなきゃいけないわけじゃないんだし」
…………実はそっちの方がキツいんだ」

サワーグラスを手に、長谷川は少し首を傾げた。藤真と花形もつられて傾く。葉奈と長谷川と旭さんの間にあった片思いの矢印に関して、特に藤真と花形の場合は長谷川の目線でものを見ているので、何しろキツいのは年の離れた既婚者である旭さんへの想いの方であって、葉奈が寄せてくる恋心ではなかった。

だが、そもそも長谷川は冗談もほとんど言わないし、滅多なことでは自分の感情を露わにしたりしない。それが旭さんのことはちゃんと乗り越えられているというのに、葉奈のことはまだキツいという。藤真と花形は心配になってきた。ちょっと心に引っかかる程度ならキツいなんて口にしないはずだから。

「しつこいようだけど、話したくなかったら無理するなよ。野次馬したいわけじゃないんだ」
「いや、大丈夫。ただ、今でも後悔してるんだよ、あんなことOKしなきゃよかったって」

また気を遣った花形だったが、長谷川は手を挙げてひらひらと振った。

「あの子はまだ中学生だったのに、あんな風にしか出来なかったんだろうかって今でも思い出すんだ。オレだって18だったけど、もう少しうまく対処してやれなかったのかってさ。可哀想なことしたと思って」

藤真は大学1年の夏にこの話を一度聞いているのだが、あの頃も長谷川は後悔していた。それから3年以上、未だに長谷川の心の棘は抜けないらしい。どんな言葉で相槌を打てばいいのかもよくわからない藤真と花形は、小さく頷くばかりだ。

「地元を出る前の日、つまり期間限定の最後の日、言われたんだ。これで関係解消です、もう忘れましょうね、お互い新しいところでいい人見つかるといいですねって。そんなこと15の女の子に言わせたんだと思うとさ」

長谷川とは違う意味で、また藤真よりは多少多めに葉奈という人物を知る花形は、それはきっと彼女の強がりだったのではないかと思った。その上、言いたくないけど言わずにいられなかった負け惜しみの意地悪であり、つまり長谷川が考えているような15歳の女の子の心遣いではないと思った。

葉奈がどれだけ減らず口を叩く恐怖の陶酔中学生でも、それはと志津香の件を含めた家の異常な環境が生んだ歪みだ。母親に捨てられもせず、日がな父親の営む生花店で手伝いばかりしている日々でなかったら、葉奈はあんな女の子ではなかったかもしれない。

気が強くて思考が邪になりやすくても、歳相応の女の子の感情が葉奈の中にもあって、それが溢れ出た。花形はそう考えていた。本人は何も言わないし、翔陽に通った3年の間に彼氏がいたこともある。けれど、葉奈もこの時のことは忘れられなかっただろうと思う。

「あんまり思い出さないようにしてるんだけど、花屋とか見ちゃうと思い出すんだよな。今は学生か? あの頃のことなんて忘れて楽しく過ごしててくれればいいなと思うんだけど」

花形は迷った。余計なことは言わずに流すべきか否か。だが、迷っている間に藤真の温度が上昇してしまった。

「いや、そんなの無理だろ」
……藤真」
「余計なこと言いやがってって顔してんな。お前はから色々聞いてるだろうけど、オレは知らん」

藤真の温度が上がってしまうと手が付けられないことをよくわかっている長谷川と花形は黙る。

「さっきは余計なことだから言わなくていいと思ってたんだけど、今フローリスト、ちょっとおかしいんだ」
「おかしい?」
「彼女が出来て、店長浮かれてるんだ。彼女の方もちょっとおかしい。そのせいで葉奈ちゃんが――
「藤真、そんなこと一志に聞かせてどうするんだ。の家のことだろ」

だが、そんな中途半端なところで止められても長谷川も困る。藤真も少しテンションが上がっているし、長谷川は花形に向かって手を挙げて目配せをする。大丈夫だから藤真に言わせてやってくれ。

藤真は清三さんの話や志津香の意見も混ぜながら、葉奈が今あまりいい状態にないことを一気にブチ撒けた。昨日店の中をすっからかんにしてやったとはいえ、藤真の中の店長への憤りはまだかなり残っていて、それも吐き出してしまいたかったのだ。

「藤真、お前あすみんに会ったことないだろ、全部又聞きじゃないか。店長にムカついてるだけだろ」
「それの何が悪いんだよ。てか、あすみんて何だよ、気持ち悪いな」
「亜寿美さんのあだ名だよ。お前が気持ち悪くたって、そんなこと関係ないだろ」
「お前こそなんでそんなに他人事なんだよ」
「他人だからだ。それに、このことをあまり大きな騒ぎにしたくないのは葉奈ちゃんがそう望んでるからだよ!」

熱くなりやすい藤真に、花形はきっぱりと言い放った。藤真はたじろいだが、長谷川は黙って聞いている。

「確かに店長と亜寿美さんは年の割に妙に盛り上がってるけど、お前はそれをどうこう言う立場にないだろうが。葉奈ちゃんがとりあえずは今のままでいい、店長やあすみんの感情を逆なでしたくないって言うから何もしないんだよ。志津ママやウチの親が何も考えてないわけないだろ。あんなに可愛がってるのに」

と花形、志津香、朋恵に薫さん。そしてもちろん亀屋夫婦を始めとした葉奈をよく知る人々は当然この状況を憂いている。けれど、当の葉奈が事を荒立てないでくれと言っているのに、何をしてやれるというのか。

「いやそれおかしいだろ、葉奈ちゃんだって亜寿美さんと合わないって言ってたじゃないか」
「それはかなり最初から言ってたことだ。だけど何をどうしたいなんて言わなかったはずだぞ」

確かに葉奈は店長と亜寿美のお花畑に巻き込まれているこの現状をどうしたいなどとは言わなかった。藤真はそれを思い出すと、首を捻った。亜寿美とは合わない、店長と仲良くしてくれてるのは有難い、悪い人じゃないけどや朋恵が苦手なのであれば、自分もうまく付き合えそうにない――そういえばそんな程度だ。

熱くなっていた藤真は突然鎮火し、ぽかんとした顔で首を傾げた。

……なんでだ?」
「それは知らん。オレもそんな突っ込んで話してないからな」

と、そこで長谷川を置いてきぼりにしていたことに気付いて、ふたりは我に返った。

「ま、まあ、ちょっとそういう面倒な状況なわけだよ」
……可哀想にな」
「一志、本当はどう思ってるんだ。たぶん、葉奈ちゃん今でも――

また余計なことを言いやがってと思った花形はがくりと頭を落とした。それもお前の憶測だろ。

「本当は? それは、旭さんを好きだった頃から今でも変わってないよ。例えそれが葉奈ちゃんじゃなかったとしても、オレを好きだなんて、信じられない。それだけだよ。信じてない」

そう言った長谷川は静かにサワーを飲み、藤真と花形はしばらく何も言えなかった。

22時過ぎに長谷川と別れた藤真と花形は、また商店街に戻ってきた。日曜の夜、商店街はごく僅かな飲食店を残して静まり返っている。花形は商店街から歩いて帰れる距離だが、藤真は4駅離れた所が自宅最寄り駅だ。まだ終電までは時間があるので、なんとなく戻ってきてしまった。

「昨日さ、葉奈ちゃんが一志に告白した時のこと聞いたんだよな」
「ええと、こっちからお願いしたいってやつだっけ」
「そう。一志はそんなことできるやつじゃないと思ってたんだけど、社交辞令だったんだな」

藤真は自分の中にあった長谷川という人物像とのずれで少し落ち込んでいる。

「うーん、社交辞令っていうのか、それ。そういうものだと信じこんでたんじゃなくてか」
「そういうもの、って?」
「言動はアレだけど、葉奈ちゃんも可愛い女の子だったし、自分じゃ不釣り合いなんじゃないかって」

藤真は女の子に対してそんなことを思ったことがないので、いまいち理解が追いつかない。好きならそれでいいじゃないか、釣り合うとか釣り合わないとか、関係あるのかそんなこと。首を捻りつつ、相手が花形なので少し正直に話してみることにした。

「オレ、そういう感情ってあんまりないんだけど、お前、わかるか?」
「多少な。一志と同じではないんだけど、と付き合う前に少し思ったよ。オレじゃダメだろうか、小父さんたちは認めてくれるだろうか、を守る商店街の仲間に入れてくれるだろうか、って」

花形の場合、自分よりはるかに長い時間をかけてを見守ってきた商店街のおじさんたちには、とてもかなわないと思っていたからだ。果たせる役割が違うのだから、同列に考えることなどないのだと気付いたのは、かなり後になってからだ。

「よくわかんねえな、そういうの」
「それはお前だからだろ。普通の人間は花屋すっからかんに出来ないよ」
「そういう問題かな。相手と一対一で向き合えばいいだけの話じゃないか」

相手の方が自分ひとりを見てくれるとは限らないし、相手の方に外野が大量にくっついているかもしれない。花形がをちょっといいなと思っていた頃、店長はともかく、人数のバランスで言えば完全なアウェーだった。花形の方も、は気になるが商店街の距離感は苦手だった。

「なんかさ、別にオレもどうかしたいっていうわけじゃないんだけど、あの葉奈ちゃんのいつもの悪態が、急に寂しいって泣いてる子供に見えてきたんだ。他人のオレには店長なんかほったらかして志津香さんと一緒にいればいいのにって思うし、だけども志津香さんも店長も、誰も彼も好きな人が近くにいて、葉奈ちゃん、実は孤独なんじゃないかって思っちゃってさ。一志にはちょっと悪いことしたな」

素直に非を認めつつ藤真がしょんぼりしているので、花形は「お前も彼女いないけど孤独感に苛まれてるか?」とは突っ込まないでおいてやった。藤真が人より感じにくいだけかもしれないから。