あなたと花に酔いて

16

ランチタイムに入る直前になって、葉奈と長谷川はひとまず店を出て移動することになった。人生初のウェイターが恥ずかしくて仕方ない薫さんも帰りたがったが、藤真監督の許可が降りずにあえなく残留。花形と共にランチタイム中はご奉仕の刑である。

一旦と志津香のアパートに戻った葉奈は、長谷川と呈一さんと今後のことを話し合った。ひとまず春休みに入ったし、当座の間はこのアパートや花形家でいいだろう。しかし、学校など問題は残る。店長の改心も期待できそうにない。

「学費の件はまたみんな揃ったところで相談しましょう。葉奈ちゃん、やめることはないからね」
「でも、たぶんもう店長、いえ父は」
「そこもちゃんと考えましょう。葉奈ちゃんは自分がどうしたいのか、それをしっかり考えて下さい」

呈一さんは葉奈ににっこりと笑いかけると、今度は長谷川の方へ向き直った。

「長谷川くんでしたか。君は葉奈ちゃんがそれをちゃんと考えられるよう、支えてあげて下さい」
「はい、わかりました」
……少し、私の話をしてもいいですか」

葉奈が淹れたお茶の入った湯のみを両手で包み込んで、呈一さんは少しだけ俯いた。ちらりと顔を見合わせた葉奈と長谷川はすぐに頷いて、畏まった。呈一さんの話なんて、一体なんだろう。

「私ね、これでも昔は捜査三課にいたんですよ。いわゆるデカでした」

妙な迫力の正体が見えたふたりはますます畏まった。刑事さんだ。いや、元刑事か。

「ろくに家にも帰らず仕事に没頭してました。仕事にやりがいを感じてたし、天職と思っていたし、正直言って、楽しかったんです。30半ば頃、上司の勧めで警察とは全く関係のない人と結婚しました。大人しくて優しい人でした。だけど、社会人のいわば義務として結婚したようなもので、私は家庭を築こうなんて気はなかった」

呈一さんは葉奈と長谷川の間に視線を置いて、ゆっくりと静かに話す。

「感謝はしてました。だけどそれも洗濯や掃除をしてもらえるっていうくらいで、家に帰らないからろくに話もできないし、家に帰る時は疲れ果てていたので、子供も出来ません。だけど私はそんなこと何も気にしていなかった。そうして9年が過ぎました。私の妻は、重度の精神疾患を患っていたらしく、自ら命を絶ちました」

葉奈がヒュッと息を呑む。長谷川は葉奈の手を取り、強く握りしめた。

「知らなかったんです。だけど、改めて家の中を見ると、処方薬がたくさんありました。病気に関する本もあちこちに置いてありました。たまには帰っていた家だったのに、私はまったく気づかなかったんです。絶望しました。市民を守る仕事をしているのに、妻を見殺しにしたと思って。警察をやめようと思いました。それを止めてくれたのが、朋恵さんのお父さんです。厳しい方でした」

脳内お花畑の朋恵だが、その父親は警察で剣道を教えていた厳格そのものという御仁で、あの花形をして「ものすごく頭が固い」と言わしめる、昭和の遺物のような人だ。しかしその割には孫の彼女であるを気に入って、最近は何かというとお小遣いをあげたがっているらしい。

「おそらく私を労るつもりではなかったでしょう。だけど、警察に入って20年以上、お前の上司たちが手をかけ目をかけ、一角の警察官に育てたのに、それを捨てるというのかと怒られました。今にして思えば、人材は宝です。お叱りの意味もよくわかります。そんなわけで、三課は離れましたが、警察は辞めませんでした」

そして無事に定年まで勤めあげて退官した。その間、幾度となく再婚を勧められたが、全て断っていた。

「亡くした妻の菩提を弔う余生を送るつもりでした。ですが、花あかりで志津香さんと出会いました。都合のいい解釈と思われても仕方ないのですが、つらい過去を持つ彼女の支えになりたい、亡くした妻にしてやれなかったことを彼女にしてあげたいと思いました」

呈一さんの気持ちはいつしか志津香に伝わり、今では志津香だけでなく、花あかり関係者全員に頼りにされている。

「人に心で寄り添うのは難しいことです。家族なのに上手くいかないことも多い」
「店長みたいに、ですか」
「そうです。ちゃんのお父さんもそうだったでしょう」

店長も晃代も、の父も、航も。血が繋がっていても心はまったく別々のもので、簡単に交わることもない。

「だけど、ちゃんと透くんのように、何かといえば皆のために奔走する藤真くんのように、決して不可能なことではない。人は脆い。心など一瞬で壊れます。人には人の支えが必要なんです。葉奈ちゃん、長谷川くん、頼るだけではいけない、支え合うのですよ」

丁寧に言葉を選んで話す呈一さんに、ふたりはしっかりと頷いた。

気を利かせたのか、呈一さんは話し終えると帰っていった。またバータイムになったら花あかりに行くと言っていたので、ということは今夜も閉店後は集まるのだろうなとふたりは考えていた。まだ問題は何も解決していないし、葉奈は藤真に礼を言いたかった。

「葉奈ちゃん、疲れたんじゃないか。少し休んだら? オレ、一旦帰ろうか」
「えっ、この状況でひとりにしないで」

葉奈は思わず吹き出した。気持ちは嬉しいが、なんで彼女置いて帰るんだ。

「長谷川さん、ほんとにアタシのこと彼女と思ってます?」
「思ってるって。ていうか葉奈ちゃんこそ、苗字にさんづけなんて、ほんとに彼氏と思ってる?」

珍しく上手く切り返された葉奈はウッと言葉に詰まり、頬を赤くした。何しろ知り合って5年が経つが、長谷川のことを名前で呼んだことはない。言ってみたいけど気恥ずかしいし、慣れないので口がむずむずする。

「えーっと、一志さん?」
「さんなんか付けなくてもいいよ。敬語もやめよ」
「えええそんないきなり恥ずかしいい!」
「大丈夫大丈夫、花形に飛び蹴りした時のことを思い出すんだ」
「あれはむしろノリノリだったから全然平気」

それが葉奈と長谷川が初めて出会った時でもある。長谷川が緩く微笑むので、葉奈もつられた。

「えへへ、一志」

さらりと言った葉奈だったが、言えと言った長谷川の方が恥ずかしくなって俯き、それでは余計に恥ずかしい葉奈も変な声を上げて身を捩った。取り繕いようがない葉奈は意を決して長谷川に抱きつき、ごろりと床に倒れ込んだ。そのままそっとキスをして、ふたりは額を合わせる。

「カウントダウンの時、こうしたいって思ってたんだ」
「バレンタインの時、そうなるもんだと思ってた」
「だから逃げたんだ。ごめん」
「ううん、時間かかったけど、今こうしていられるから、いい」

あの時長谷川が素直になっていたら、どうなっていただろう。たちのように、長続きしていだろうか。それはわからない。けれど、空白の4年間はもう過去のもの。今こうして触れ合ってキスをして言葉を交わしていられる、それだけでいい。

……一志、アタシ、初めてだからね」
「え!? しないよ!?」
「なんで!?」
「だってここと志津香さんの家じゃないか! だめだよそんなの!」
「平気だって!」
「だめだめ、葉奈ちゃんも疲れてるんだし、また花あかり行くんだから、少し休まなきゃ!」
「何言ってんの! それでも男か!」
「男でも女でもだめなものはだめ!」

人はそう簡単に変わらない。だが、葉奈は長谷川を解放しなかったし、延々ごね続けて、休む間に添い寝をしてもらった。本人が意地を張っているのが悪いので、眠るまではずっとキスをさせ続けた。長谷川の方は若干後悔しているようだが、自分で言い出したのだ。我慢せい。

それでも葉奈は少し眠れたし、添い寝をしていた長谷川も気が緩んで一緒に眠った。すっかり日が暮れてお腹も減ったふたりは、手を繋いでと志津香のアパートを出た。道々藤真やに連絡を入れて商店街を目指す。何も解決していないけれど、気持ちだけはきれいに落ち着いている。

いつか朋恵が言ったように、葉奈の心にも長谷川の心にも今、花が咲き乱れていた。

「なんだかそのベッタリ加減がウゼえな」
「これでも感謝してるんだよ、イケメンにも早くまともな彼女が出来ればいいのにって」
「腹立つなお前〜好きなだけイチャコラして幸せになれバーカ」
「健司くんて、いい人が損する典型的なパターンみたいね」

花あかりもバータイムに突入しているけれど、ランチタイムを頑張った藤真と花形にが食事をおごるのだと言って聞かないので、葉奈と長谷川が合流した5人はあさひ屋に来た。この5人がまとめてあさひ屋に揃うのは、実に5年振り。また育太兄貴のテンションが上がる。

長谷川も旭さんのことはまったく気にならないどころか、藤真が苦々しい顔をするほどに葉奈とベッタリだ。その旭さんも少し客が減ったのと、懐かしい顔触れが全員揃っているので顔を出している。カップルが二組になってしまったので、かつて葉奈の指定席だったお誕生日席は藤真に譲られた。というか押し付けられた。

全員マイスペシャルで満腹になったところに、今度は期間限定で出している桜ゼリーが出てきた。

「それにしても、驚いたなあ。葉奈ちゃんと一志くん、私ちっとも知らなかった」
「えへへ、内緒にしてたからねー」
「旭さん、オレだって知らなかったんだよ」
「えっ、健司くんが仲間はずれにされてただけじゃなくて?」
「旭さんまでそういうこと言うの!?」

あさひ屋夫婦も、現実的な問題はさておき、葉奈がどうしたいかをちゃんと考えて言えるようにすること、そのためなら力になると考えているらしく、またテンションの上がった育太兄貴はうどんタダにしてやると鼻息が荒い。

「健司くんはともかく、一志くん4月から社会人よね? 同棲しちゃえばいいのに〜」
「あっ、旭さん!?」
「オレもそれは考えないでもなかった」

なんでそうしないの? とでも言いたげな旭さんに、うろたえる長谷川、そして花形は真面目くさった顔で腕を組んで頷いた。葉奈とは苦笑いだ。

「花形、お前そんなこと考えてたのかよ」
「珍しいな、石頭のお前が」
「どういう意味だよ……てか葉奈ちゃんが部屋を借りるのが一番安牌なんじゃないかと思ってたんだ」

石頭にはそれなりに理屈があったらしい。小さな小鉢の桜ゼリーを平らげると、花形は頬杖をついた。

「だいたい、もう店長のところには帰りたくないだろ。当面は志津香さんのアパートでいいんだろうけど、現実問題として葉奈ちゃんが越してくるにはあのアパートは狭い。もし葉奈ちゃんが入るならが出るか、新しく部屋を借りるようになる。それはそれで大変だろ。葉奈ちゃんも気兼ねしそうだし」

と志津香のアパートは、不動産屋の表記上では2DKだ。だが、DKはほとんどひとまとめで、2部屋あると言っても2間を襖仕切りで、独立した部屋が2つあるわけじゃない。葉奈がそこに入るとなれば、おそらく全員プライベート空間を確保できない生活になる。最悪それも止むを得ないが、出来れば回避したい。

「おそらくウチの親父が『だったらうちにおいで』とか言い出すだろうけど、そんなのはもってのほかだし」
「いやそれいいんじゃないのか。が花形家入っちゃえばいいじゃん」
「藤真……透くんいないんだよ」
「だからいいんじゃん。どうせ航は帰って来ないんだし、薫さんと朋恵さんも喜ぶ」
「あのさあ、イケメン、アタシは残り少ない母子ふたりの時間を奪いたくはないんだけど」
「お前はまたそーいう揚げ足取りばっかりして、じゃあどうしたいんだよ」
「アタシだってひとり暮らしならサイコー! と思うよ。だけどそれがなんで同棲と直結するんだ」

葉奈の言葉にと長谷川がうんうんと頷く。同棲に反対というよりは、話が突飛すぎて現実的ではないと思っている。しかもと長谷川といえばこの5人の中では常に慎重派であり、そのせいで色々後手に回ることが多いタイプだ。

「直結なんかしてないわよう。葉奈ちゃんがひとり暮らししたら結局そうなるんだから」
「旭さんあのねえ」
「私たちだってそうだったのよー。あの人、気付いたら1ヶ月くらい帰ってなくて」

旭さんはにこにこそう言いながら厨房の方を振り返った。

「さすがにいい加減帰れ、いるなら家賃くらい払えって言ったら、払うから置いてくれって言い出して」
「うえー、旭さんそれって」
「プロポーズだったんだろうけど、私全然気付かなくて。もう2ヶ月くらい経ってようやく気付いて」
「それってどのくらい付き合ってからの話だったの?」

黙って聞いている男子たちを押しのけ、女子ふたりは興味津々である。

「1年くらいかなあ。私が二十歳の時。私、学生の間に結婚したから」
「えっ、そうなの!?」
「だけど結婚しただけで、ほら、子供出来なかったし、卒業して就職して、って他の子と変わらなかったよ」

旭さんは事も無げに話しているが、これはこれでなかなかにアバンギャルドな夫婦ではないだろうか。そもそも育太兄貴は誰でも知ってる企業務めだったし、旭さんも不妊治療を始めるまでは会社員だった。それが今、急に子供が3人増えて商店街でうどん屋をやっているのだから、人生油断ならない。

「実家大好き、親大好き、って人ならともかく、実家住まいで彼女がひとり暮らしならどうせ入り浸るって」
「そ、そういうものかなあ……
「けど、そっか、確かに葉奈ちゃんがひとり暮らしするのが一番丸く収まるけど、防犯面では不安があるよね」

同棲という言葉の響きの面倒臭さを除けば、利点は多い。長谷川も慣れない環境で仕事を始めるのだから、いきなり同棲と銘打って暮らし始めることはないとしても、本人たち含め、方向としては悪くないような気がしてきた。

「私賛成に回るー」
「そうだな、オレも花形に賛成しとこう」

「おとーさんは、反、対、です!」
「誰がおとーさんだ。いい加減落ち着けよ親父」

葉奈のひとり暮らしという点については、やはり皆方向としては悪くないと思った。そこに長谷川が入り浸っても、それは当人同士の問題だし、が言うように、長谷川がいれば主に安全面で心強い。が、最近葉奈の件で揉めてるせいもあって若干暴走気味の薫さんだけが難色を示した。

「部屋ならうちに2部屋も余ってるし、僕が警察官なんだから危なくないし、家賃もタダだよ!」
「オレは半年くらいで帰ってくるだろうが」
「アレだな花形、お前のところ女の子いなくてよかったな」
「これ航くんに見られないようにしないと、ますます帰って来なくなっちゃうよ」

ひとり暮らし反対という意見はともかく、薫さんの「うちにおいで」という主張はもちろん却下である。

20時であさひ屋が閉店になると、5人は花あかりに移動して、先に飲んでいた薫さんと呈一さんと合流した。このところ週末になると花あかりで飲んでばかりだが、それも近くタイムリミットになる。葉奈はまだ学生のままだが、藤真と花形はまた地元を離れるし、長谷川も新生活が始まる。

昼間に慣れないことをしたのと、酒が入ったせいでごねる薫さんを朋恵や呈一さんが宥めている。それをぼんやり眺めながら、またビールを飲んでいる藤真はぽつりと呟いた。

「葉奈ちゃんには悪いんだけどさ、なんか楽しかったなあ。夏草や兵どもが夢の跡って感じ」
「春だけどな」
「んじゃあ、夜桜」

店内は夜の桜を模した薄紅色の灯りがちらちらと揺れている。花あかりでは季節を問わずこの桜が揺れているが、もうすぐ本物の桜が満開になる頃である。即ち、別れの時でもある。

……みんなでお花見、行こうか」
「そーだな。お惣菜買ってさ、また酒持って行くか」

ぽつりと呟いたに、藤真もぼそぼそと呟いた。別れの宴となりそうだ。