あなたと花に酔いて

10

ぎこちなくても、花形を挟んでにこやかに話していた葉奈と長谷川だったが、急に鳴り響いたカウベルの音に驚いて飛び上がった。また店長が乗り込んできたんじゃないだろうな。だが、そうではなかった。航が出て行った音だった。カウンターでは怖い顔をした藤真が追いかけようとするのを、が止めていた。

「親父、航今日うちに泊まるのか?」
「いや、他にあてがあるらしい。明日の昼ごろには帰るらしいし、気にしなくていいよ」

朋恵はまた少し俯いてため息をついたが、薫さんは納得しているようだ。

「透くん、ごめん、やっぱりちょっとこじれちゃった」
「いいよ、どうせあいつもまともなことは言わないだろうし、出て行ったのは藤真のせいだろ」
「否定はしない。けどさ、なんか、あいつの方が根が深いな」

ふたりが戻ったので、若者組はまたテーブルを囲むようにして席についた。葉奈がずれてが座り、藤真は葉奈と長谷川の間に腰を下ろす。今度こそ懐かしい5人が全員揃った。航のことは事細かに報告しても仕方ないので、も藤真も何も言わなかった。

「それにしても、少し心配なのは、今日のように店長がキレやすくなってるってところだ」
「まさか葉奈ちゃんにはあんな風にしないと思うんだけど」
「葉奈ちゃんのことだけじゃないよ、もしそうなってもオレも花形もいないんだぞ」

最悪育太兄貴の出動だが、それも大変迷惑な話だ。

「薫さんみたいに夜はこうして帰ってこられればまだいいけど、花形、半年だっけ?」
「ほぼ半年。前半はともかく、後半は日本にいない」

藤真はまたハイネケンを飲みつつ、うーんと腕を組んだ。行きがかり上深く関わってしまったけれど、時が来れば自分は全て投げ出して去らねばならない。頼みの花形も、少なくとも半年ほど地元を留守にする。

……藤真、オレが休みの時は出来るだけここに来るよ」
「はあ? いやいや、一志お前な、お前だってそんなに簡単な仕事じゃないだろうが」
「そうだよ、もしバスケ部の顧問とかになっちゃったらどうするの」
「いや、そんな急にならないだろ」

藤真も花形も、長谷川にそれを求めるようなことを言ってしまったと気付いて慌てた。も遠慮するが、長谷川はゆっくりと首を振る。藤真と花形とはものすごく気まずい。気持ちを読まれている。

「あんまり変な気を遣わないでくれないか。葉奈ちゃんだって迷惑だよ」
「えっ、あ、アタシは大丈夫、平気平気! ほんと、気にしな――

一見、いつもの葉奈だった。だが、冗談めかして否定した葉奈の目から涙がこぼれ落ちた。

「葉奈ちゃん!」
「いやなんかもう、ストレス? いやだねこういうの、面倒くさくて。うちはこういうの、絶えなくて――

また雑でゲスな葉奈を作ろうとしたが、うまくいかなかった。ぼたぼたと涙がこぼれる。が葉奈の腕を引き、キッチンへ飛び込んだ。それを藤真たちは無言で見送るしかなかった。ストレスじゃない、の家のことじゃない、それはたぶん長谷川の言葉だから――

「おい透、葉奈ちゃん大丈夫か」
「気が緩んだみたいだから、大丈夫。に任せよう」

薫さんは心配な様子だが、普段なら大騒ぎするはずの朋恵と志津香も、花形の言葉に小さく頷いていた。彼女たちもわかっている。今、父親と亜寿美のことで葉奈は目一杯の状態にあるのだ。そこに亜寿美が現れる前の幸せと切なさの象徴である長谷川が現れてしまった。感情がコントロール出来ない。

「一志、大丈夫か」
「いや、ちょっと大丈夫じゃない」
「帰るか?」
「それはもっと傷つけるんじゃないか? オレも……どうすればいいのかわからないんだけど」

腕を組んでため息をついた長谷川に向かって、藤真が人差し指を突きつける。

「それ、違うぞ。どうすれば、じゃなくて、どうしたいか、だ」
「それもよくわからないよ」
「あれっ、そうなのか!?」

難しい顔をし合った藤真と長谷川だったが、間から花形が間の抜けた声を上げた。

「そんなに驚くことかよ。わからなくたっていいだろ、一志だって――
「いやそうじゃなくて。肯定がないとは思ってたけど、否定もないのかと思って」
…………花形くん、やり直し」
「お前は勘がいいくせに伝わりが悪いな」
「いや、今のはお前の言い方が悪いからだろ!」

花形は咳払いをひとつ挟むと、長谷川に一言謝り、親たちに聞こえない程度の声で話しだした。

「例えば、もうぶっちゃけて言うけど、旭さんにも葉奈ちゃんにも関わりたくないとかっていう、明確な『どうしたい』があると思ってたんだ、オレは。それが否定的なものでも、あると思ってたんだよ。だけど、仮にだけど、『関わりたくない』もしくは『何らかの形で関わりたい』、それのどっちなのかもわからないってことなんだろ、一志」

藤真と一緒に首を傾げながら聞いていた長谷川は、やや間を置いてから、唸りつつ頷いた。

「なんか花形の説明よくわからないんだけど、たぶんそういうことだと思う」
「別にどっちかにしなきゃならんてこともないけど、それもなんか気持ち悪くないか」
「ええと――聞こえないよな」

長谷川はちらりと大人組を振り返って呟く。花形が頷いてやると、肩を落としてため息をつきながら言う。

「出来ることがあれば、力になりたいとは思うんだ。だけど、また悲しませるんじゃないかって――

そして、キッチンの方に目をやり、悲しそうな顔をした。

「笑ってて、欲しいんだけどな――

「だから、それは、お前次第じゃ、ないのかよ!」
「無理強いするようなことじゃないだろ」
「同情だけなんて、4年前の繰り返しになっちゃうよ」

花あかり会議が解散になったのは、21時半頃のことだった。薫さんがどうしてもと言うので、本日葉奈は花形家に泊まり。少し話をしたいといって、志津香は呈一さんと店を変えた。そんなわけでとりあえず藤真とと花形は、のアパートへ向かっている。その道すがら、藤真は長谷川の言葉に苛々していた。

「4年前のアレ、本当に同情だけだったのか? オレはどうもそれが引っかかるんだよ」
「私たちも葉奈ちゃんから話を聞いただけだから、なんとも言えないけど」

コンビニでまた酒を仕入れた3人はとぼとぼと夜道を歩く。

「旭さんの件はもう大丈夫なんだったら、何も遠慮することないだろ」
「そっちか? この間言ってたみたいに、自信がないだけじゃなくてか」
「わからないのはそこだよ。なあ、お前らってどっちが告白したんだ」

と花形は揃って咳き込むが、藤真は真剣だ。

「ええっと……それは……
「オレだよ。のアパートが悲惨でショックでつい言っちゃった」
「その時さ、、私は自信ないので結構です、とか思ったか?」
「ちょっとだけなら」
「でもそんなの吹き飛んだんだろ? 自信なくても、別にいいやって思わなかったか?」
「うん、思った」
「って普通、ならないか? って、普通ってなんなんだよもう!」

普通と言ったところで先ほどの呈一さんの話を思い出した藤真は髪を掻き毟った。

「葉奈ちゃんはさ、やっぱり今でも好きなんだよな?」
「うん……目の前にいるとどうしてもダメって言ってた」
「葉奈ちゃん、なんで一志のこと好きになったとか、話したことあるか?」
「あんまり詳しくは。だけど、たぶん、静かだからだと思う」

えっ、それって惚れるところ? と考えていることが正直に顔に出た藤真と花形には苦笑い。

「父親がああだし、商店街はいつも騒がしいし、あの子もあんな性格だから、友達はいつも元気な子ばかりで。だけど、きっと本当の、葉奈ちゃんの一番深いところにある自分ていうのは、もっと繊細なんじゃないのかな、って最近思えてきたんだよね。だから長谷川くんといるとホッとするんじゃないのかな」

半分くらいは惰性になっている部分もあるだろうが、もしの読みが正しければ、恐怖の陶酔中学生もすぐ茶化してふざける癖も、彼女の処世術だったことになる。

「そうだな。も志津ママも、うるさいタイプじゃないもんな」
は葉奈ちゃんの母親って知ってるのか?」
「正直、あんまり記憶ないの。離婚は私が幼稚園の頃だし、葉奈ちゃんとはその後から親しくなったから」

まだ物心もろくについていない頃に母親を失い、もしその頃から店長がゲスな傾向にあったとしたら、葉奈は同じゲスになることで自分の精神を守ってきたとも言える。幸い彼女のそばにはと志津香がいたから、雑でも可愛がられる女の子に育ったのだろう。

「いや、志津香さんが言ってたな。葉奈ちゃんの母親も亜寿美さんみたいな人だったって」
「店長……
「でも、考えようによっちゃ、そんなのに育てられなくてよかったかもしれないな」

藤真はもう言葉は選ばない。3人はアパートに帰り着くと、葉奈のことやら長谷川のことやらでだらだら喋りつつ、志津香が帰るまで飲んでいた。志津香が戻ると、呈一さんがタクシーで帰るというので、藤真が便乗させてもらうことになった。そんなわけで、花形は今日は家に泊まり。

「まだ時間があるとはいえ、お前ら中々ふたりきりになれないな」
「先週は主におまえのせいなんだがな」
「だ、大丈夫だって、平気平気」
「オレは平気じゃないんだけど」
「ファッ!? ご、ごめん」
「そーいうのはオレが帰ってからやれ」

ちょっとプルプルし始めた藤真を見送り、志津香が先にシャワーを使うというので、花形は飲み散らかしたあとを片付けているの体を引き寄せてゆるりと抱き締めた。藤真に言われるまでもなく、なかなかふたりの時間が作れない。場所もない。

「透くん、私も平気じゃないよ」
「ほんとか?」
「ほんと。葉奈ちゃんのこととか慌ただしいけど、時間、作ろうね」
「ずっと待たせたまんまでごめん、もう少しだから」

バスルームの方から聞こえてきたシャワーの音を合図に、ふたりは唇を重ねた。少し、酒臭かった。

翌土曜日、疲れてはいるようだが、体調に問題のない店長はひとりで店に出ていた。あまりいい顔をしない亀屋夫婦に対してもつっけんどんな挨拶しかせず、店長はどんどん自分の首を絞めている。事件が起こったのは、そんな土曜日の昼前のことだった。

その時、清三さんは「ちゃんはなんなの」と苦い顔をしている雑貨屋のおじいちゃんをなんとか宥めていた。その横を、この商店街では滅多に見かけないような、全身高級品で揃えましたというのがありありとわかる人物ふたりが通りすぎた。

ふたりは落ち着いた色のスーツに身を包み、香水の匂いを漂わせ、アーケードの下だというのにサングラス、そして手にはハイブランドのバッグ、テカテカしすぎていて逆にプラスチックに見えてくるような靴という出立ちであった。生息地が違いますよ、という雰囲気だ。

だが、ふたりのうちひとりにものすごく見覚えがあった清三さんは、腕を組み首を傾げて考え込んだ。

「なーんか今の人見覚えあるんだよなあ」
「あんな金持ちそうなのに縁があったんかい」
「いやあ、オレじゃねえよ。直接の知り合いとかじゃなくて――
「鶴ちゃんも年だねえ」

雑貨屋のおじいちゃんがイヒヒと笑ったその瞬間、亀屋の鶴橋さんこと清三さんは思い出した。慌てて振り返ると、そのふたりがフローリストの店先で並んで立っている。清三さんは真っ青。

「おいおい、どうしたんだよ、え、またちゃんとこかい」
「じいさん大変だ、やばいぞ、大変だ」
「だから何だってんだよ、落ち着きな、誰なんだよ、知ってんのか」
「じいさんもいい加減思い出せよ、あれ、葉奈の母親だ!」

うろたえる清三さんから少し離れたフローリストの店の前で、葉奈の母親だという女性はスッとサングラスを取り払い、静かに微笑んだ。シワ・シミひとつない真っ白な顔の彼女は、テント看板を見上げて呟いた。

「懐かしいわ、ほとんど変わってないじゃないの、アタシの店」

土曜の昼のこととはいえ、誰に連絡をしていいかわからなくなった清三さんは、とにかく花あかりへ走った。一応志津香は血縁者だし、昨夜のことを知らない清三さんは、葉奈も花あかりにいると考えたのだ。朋恵監修の華やかでおしゃれな店内に、藍染めの帆布前掛けの清三さんが飛び込む。

「まあ清三さん、ここに来てくださったの初めてじゃありませんか、嬉しいわ」
「朋恵さん、それどころじゃないんだ、志津香ちゃんいるか」
「ま、また何かあったんですか」

朋恵は慌ててキッチンにいた志津香を呼んだ。志津香は既に青い顔をしている。

「志津香ちゃん、今、ちゃんとこに、葉奈の母親が来た」
「えっ、晃代さんが!? なんで急に……どうして今頃」

志津香は軽い眩暈を感じて朋恵にすがった。このところ自分の身内の問題で慌ててばかりで、これ以上悪くなることなんてないと思っていたのに、とんでもない、もっと大変な事態になってしまった。数年間とはいえ、店長と夫婦だった葉奈の母親、晃代を知る志津香はその厄介さがよくわかる。

「どうしよう、朋恵ちゃん、どうしたらいいんだろう」
「落ち着いて。まだ騒ぎになったわけじゃないわ。清三さん、とりあえず戻って下さいませんか」

近くに来たので寄っただけ、葉奈に会いたい、いないならまた今度――というくらいで済むならそれでいい。葉奈は今商店街にはいないのだし、今日がとりあえず済めば、後は葉奈に報告して本人の気持ちを確かめてからでいい。朋恵はそう判断して、とにかく様子を見に清三さんに戻ってもらうことにした。

花あかりもこれから土曜のランチで忙しい。事前にわかっているならともかく、急に志津香を欠くと営業できない。一応花形家には関係がない人物のことなので、朋恵は冷静だった。清三さんには何かあれば連絡してもらうことにして、朋恵はまず葉奈の所在を確かめるべく、長男に連絡を入れた。

「志津香さん、とりあえずちゃんと藤真くんが来てくれるから、少し休んで」
「だけど、葉奈は」
「葉奈ちゃんは薫さんと透ちゃんが一緒にいてくれるっていうから平気よ」

花形家の人間が多いとまたこじれるかもしれないと考えた長男は藤真に連絡をして花あかりの助っ人に行ってもらうことにした。朋恵同様、今日のところは清三さんの報告次第で何もしない方がいいと考えた薫さんが葉奈への報告を引き受けてくれるというし、絶対に家から出さないと言ってくれた。

それから30分ほどでと藤真がやってきた。

、とりあえずオレが店に出るから、志津香さんの話聞いてやれよ」
「ご、ごめん藤真、ほんとにごめん」
「もういいって言ってるだろ。ほらさっさと行け」

花あかりのランチメニューは不動の4種と季節の1種、それにドリンクとデザートしかない。藤真は朋恵に説明を受けると、志津香のエプロンを借りて巻きつけた。またこの日藤真はベージュのリブニットを着ており、なおかつ実家にいる間に済ませておこうと数日前に美容室に行ったばかり。今日の花あかりは波乱の予感だ。

そうして朋恵が藤真を手伝わせて開店準備をしている間、は3畳ほどしかないバックヤードで母親を落ち着かせながら晃代の話を聞いていた。

「晃代さんていって、孝幸より6歳歳上でね」
「そういえば、店長って葉奈ちゃんが生まれた時けっこう若かったんだよね」
「孝幸は小さな会社の営業をしてたんだけど、晃代さんとはキャバクラで知り合って」
「きゃ、キャバクラ……
「晃代さんは生花店を開くのが夢で、その資金を貯めるためにバリバリホステスやってたような人で」

はドン引きしているが、当時の晃代は夜はキャバクラ、昼は生花店、朝は工場で働きながら夢のための貯金に勤しむアグレッシヴな女性だった。そうして想定していた資金がほぼ貯まりつつあった頃に知り合ったのが店長である。当時、店長は20歳、晃代は26歳。店長は気が強くおねだり上手な晃代にコロリと落ちた。

晃代の方も、いちから商売を始めるという時に孝幸のような正社員で働くパートナーがいると心強いとは思っていたが、店長ほど真剣な恋愛と考えていなかった。それでも、言うことをよく聞いてくれる年下の彼氏は便利で、ふたりは深い関係になっていった。

そうして晃代がこの商店街に生花店を開店して1年、店長が22歳の時に晃代は葉奈を妊娠。

「これも大変だったのよ。晃代さんは堕ろすって譲らなくて」
「そんな……
「まだ店を始めて1年だったから、出産で離れたくなかったらしいの」

だが、結果的には晃代は葉奈を産むことを決め、店長と結婚した。もちろん結婚式などする余裕はない。そして晃代は自身とお腹の子のことなど顧みずに予定日間近まで働き、その間、店長は晃代に生花店のいろはを叩きこまれた。陣痛が来た時も晃代は店にいた。

出産後3ヶ月ほどで晃代は店に復帰、なんとか商売をしていた店長に葉奈の面倒を見させて自分はまたバリバリ働き始めた。しかし、それから1年ほどで夫婦の仲はこじれ始める。店長はその頃まだ24歳で、晃代は30歳。店長が頼りないので晃代は苛々するようになっていた。

その間、晃代が何をどう考えていたのか、それは今となっては誰もわからない。だが、とにかく晃代は2歳の誕生日を目前に控えた葉奈と、命がけで守ってきた店を放り出してどこかへ消えた。それまでとにかく晃代に従うだけだった店長は、気づけば勝手に離婚届を出されていて、彼の手元には幼い葉奈と花屋だけが残った。

「晃代さんも周到な人でね、結婚したからって色んな物の名義を孝幸に変えてて、家族はみんな店を潰せって言ったんだけど、そうすると借金だけが残るような感じになっちゃってて。フローリストをやるしかなかったの」

話をしているうちに、志津香はやっと落ち着いてきた。

「それがどうして今頃……
「それがわからないから怖いのよ」

既に開店している花あかりのフロアから、甲高い声が響いてきている。きっと藤真が騒がれているんだろう。それを聞きながら、と志津香は手を取り合って俯いた。