満月の夜に革命を

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窓の外に浮かぶ満月を見上げながら、「花迎え、って知ってる?」とが呟いたのはもう1年以上前のことだ。三井はひとりアナソフィアの正門の前で桜を見上げていた。冷たい空気の中に生暖かい風の混じる3月、まだ桜の季節には早いが、アナソフィアには大寒桜の古木があり、花をたくさんつけている。

アナソフィアには「花迎え」という伝統がある。

まだ女性の社会進出がないに等しく、アナソフィア出身者が「良い嫁」として人気を博した頃。卒業を迎えたアナソフィア女子を嫁ぎ先の迎えが待ち構えているという光景がよく見られた。これは早く嫁を手元に迎えたい先方の強引なやり方で、けれどなぜかこれは流行し、正門前は迎えの車で渋滞を起こすほどだった。

とはいえこれはまだアナソフィアが1学年数十人という、学校というより花嫁修業所みたいなものだった頃の話である。戦後、中高一貫の聖アナソフィア女子学院として再建される頃には嫁ぎ先が迎えに来るなどということはなくなっていた。

だが、それから数十年の後に、違う形で「花迎え」が復活する。

当時まだ新設校だった翔陽にカリスマ性の高い生徒がいた。これがアナソフィアでも突出して美しく賢いと評判の生徒と恋に落ちた。まだ正式な交流制度はなく、生徒会同士が何度か交流らしきものを始めたばかりの頃だ。それにしては両校とも生徒の交友環境を厳しく制限しており、交際をするのは困難を極めた。

大っぴらに恋愛できないままだったふたりだが、アナソフィアの卒業式にて事件は起こる。

やはり卒業式である翔陽の少年が、正門の前で立ちはだかっていたのだ。両親と共に卒業証書を手にして正門を出た少女は、密かに想い合っていた翔陽の少年が仁王立ちになっているのを見つけ、驚いて声を上げた。

少年は、もう卒業したのだから、門を出た君は自由、自分と一緒に行こうと手を差し伸べた。

そして衆人環視の中、制止する両親すら振り切って少女は少年の手を取った。そのままふたりは逐電、なんと駆け落ちしてしまったのだ。親は当然パニックを起こしたし警察沙汰にもなったが、ふたりは戻らなかった。

それが古き悪習になぞらえて「花迎え」と呼ばれ、翔陽に限らず卒業式に彼氏が迎えに来るという形でアナソフィアに残ることになった。現在高等部の生徒は校舎と駅の位置の関係上、第三正門と呼ばれる通用門を通って帰るのが通常である。そのため、正門での「花迎え」は事前に打ち合わせが要る様式美といえる。

アナソフィアの花迎えと言えば、地元の人間ならどこかで聞いたことがあるという程度には有名な習慣なのであるが、ただでさえ成立しにくいアナソフィア女子とのカップル、しかも友人が見物に来たりするのは避けられないので、近年ではあまり人気がない。そんなことをしなくても卒業式の後に普通に会えばいいからだ。

は寝物語に花迎えの話をしてくれただけだったのだが、三井はその時、花迎えをしに行こうと決めた。がアナソフィアを卒業する時には正門まで迎えに行こうと決めた。夏の満月の光を浴びながらうとうとしているの肌に触れ、唇を寄せながら、桜の下のを想っていた。

それから1年半余り、は無事にアナソフィアを卒業する。

卒業式の後に会おうという話は事前にしてあった。けれど、前日の夜になって突然「正門で待ってる」とだけメールをした。から即着信があったが、三井は取り合わなかった。メールも全て無視。大学に進学してひとり暮らしをしていた三井は、翌朝早くに部屋を出てアナソフィアまでやってきた。

正門前には誰もいない。今時花迎えをしようなんていうカップルはいないのか、人が来る気配すらない。

三井はガードレールに寄りかかって、桜を見上げていた。

「ふおお、ドキドキする」
……岡崎ちゃんが緊張してどうするの」
も顔青いよ」
「緒方、そのニヤニヤ顔やめてくんない」

式次第が終了し、教室に帰ってきたたちだが、このクラスは涙も少なく妙にピリピリしていた。なぜかと言えば、に「花迎え」が来るという話が広まってしまったからだ。こっそり話したのに吹聴したのはもちろん岡崎と緒方。とこのふたりは高等部3年でまた同じクラスになった。

「ていうか着いてこないでよ、恥ずかしいから」
「無理を仰る」
「うちらは少し遅れていってあげるけど、他はどうだかね」

みんなの花迎えが見たくてそわそわしている。それには2年生の夏休み明けにダンス部が言いふらした「の彼氏かっこいい」という噂が一役買っている。さらにおそらく岡崎経由で漏れた「かっこいいという話だけど元ヤンで湘北」というオプションが拍車をかける。

アナソフィアの頂点にいるの彼氏がかっこいいのはいいとして、それが元ヤンで湘北とは。

式次第の最中はともかく、移動の間などはこの話でもちきり、卒業式ということでやってきている保護者たちを着いて来させないようにするにはどうしたらいいか延々話していた。もそうだが、母親もアナソフィア出身という生徒は多いので、バレずに花迎えは難しいはずなのだ。用もない正門方面に行くと言えば必ずバレる。

しかしそんなことでそわそわしている間にも最後のホームルームが終わる。やけにあっさり終わってしまって担任はきょとんとしていたが、生徒たちはそれどころではない。担任が出て行き、廊下で待っていた保護者たちがなだれ込んでくる。も両親になんと言おうかと困っていた。その時である。

「ねえみんなあ、チャペルで一緒に写真撮りたいな、私!」

そう声を上げたのは緒方である。だが、卒業生一同はその緒方の声が「お芝居してます」というものであることにすぐ気付いた。そして、緒方がそんな芝居がかったことをするのはの件以外に考えられない。全員ピンと来る。保護者たちを置いてとりあえずチャペルに行こうというわけだ。

中には先に帰るという保護者もいたりして、緒方の思いつきは上手くいった。出来るだけ急いで戻るからと全員で教室を出た。幸いの両親も帰るというので、は岡崎に手を引かれて走り出した。

「出来るだけ足止めしといてやるけど、あんまりのんびりしてないでふたりでしたいことは済ませておけよ!」
「岡崎ちゃん、私――
「いいから早く行け!」

岡崎が手を離し、緒方が背を押した。チャペルへ向かって全力疾走する卒業生の塊からは弾かれて、正門方面に向かう。チャペルへ走っていく集団の方に注目が集まり、は単独で脱出することが出来た。

そう遠くない正門までの道のりの間、は高等部3年間のことを思い出していた。初めて三井に助けてもらったのは高等部に進学して間もない頃だった。それから今の今まで、なんだかんだと三井と共にあったのだ。今は進学で家を離れてしまっているが、何かというと帰ってきてくれる。

3月の風がの髪を攫い、花をつけた大寒桜の枝を揺らす。

正門にたどり着いたは、ゆっくりと速度を落として呼吸を整える。正門の外のガードレールに黒っぽい人影が座っているように見える。上がってしまった息を整えて、一歩一歩、歩いていく。人影は三井で間違いない。はその姿に顔が熱くなる。三井はスーツ姿だった。彼も気付いて歩いてくる。

3メートルを越すレンガ造りの正門を挟んでと三井は向かい合った。

「卒業、おめでとう」
「寿くん……なんで」
「花迎えしたのかって?」

三井は伸びた前髪を風にそよがせながら微笑む。ワンレンだった頃の凶悪な面影はすっかりなくなっている。

「こだわるつもりはないけど、これでやっとアナソフィアと湘北じゃあなくなるからな」

ポケットに突っ込んでいた手を引っ張り出し、三井は両腕を広げる。

「オレはまたスターに返り咲き、お前と付き合ってるって言ったって誰も不思議に思わない。湘北に入って入院してた頃に思い描いてたことが、とうとう現実になったんだよ」

神奈川選抜で出場した国体にて頑張って目立った三井は、まんまと推薦を手に入れた。現在はどう考えても受験では入れない大学に通っている。が、バスケット部では大活躍中で、中学3年生以来となるスター気分を満喫中である。急にモテ始めたらしいが、浮気心は抱いていない模様。なぜなら――

、オレは世界で一番お前が好きだ」

スターに返り咲いた今、こんな台詞も恥ずかしくない。それが三井寿だ。

……お前も同じだよな?」

は破顔一笑、正門を駆け抜け、地面を蹴って三井に飛びついた。を抱きとめた三井は、勢いのままにくるりと一回転する。アナソフィア高等部の制服のスカートがひらりと翻り、そしてまた風にそよぐ。

大寒桜が揺れる正門の前にはふたりきり。爪先立つの背を引き寄せて、三井は静かにキスした。

「寿くん……スーツかっこいいね」
「惚れ直したか?」
「うん。今ちょっとメロメロ」
「えっ、なんだよ素直だな、クソ、連れて帰りてえ」
「連れて帰って」
「バカ言え、最初の花迎えと同じってわけにはいかねえだろうが」

ぺったりと三井にくっついているはにやりと口元を歪めると、顔を上げた。

「寿くんいいこと教えてあげようか。最初の花迎え、駆け落ちしたのって、アナさんだよ」
「は!?」

三井は目をひん剥いて固まった。はその三井の顔を引き寄せ、囁く。

「寿くん、私と駆け落ちする?」
……いや、しない。もう二度と後ろ指差されるようなことはしねえ」
「えー」
「貰うなら正面から貰いに行く。……楽しみに待ってろ」

また優しく微笑む三井に、も微笑み返す。そして、もう一度唇を重ね合わせた――その時である。

「あーっ! 動くなあ! ブレる!」
「ちょ、押すなー!」

と三井は黄色い歓声に飛び上がった。正門の影からカメラや携帯を構えた卒業生が雪崩を起こして現れたのである。当然先頭にいるのは岡崎に緒方だが、それにしても人数が多い。のクラスだけではない様子だ。というか、後方からどんどん人がやってくる。

「お、岡崎ちゃんこれどういうこと……!」
「いやあごめーん、バレちゃってえ!」
「三井さんご無沙汰ー!」
「お、緒方……久し振り……

バレちゃって、という人数ではない。聞かれればほいほい答えていたのだろう。花迎えはそれだけ伝説のイベントなのだ。は珍しく青い顔をしたまま言葉が出てこない。だが、この1年でスターに返り咲いた三井はすぐに衝撃から立ち直ると、にこやかに対応し始めた。

「元ヤンてマジですか」
「しかも湘北だよ。アナソフィア始まって以来の不祥事だろうな」
「社会人なんですか」
「いや、学生。バスケットやってる」

三井が大学の名前を言うと、場がどよめく。三井の通う大学はそれほど高偏差値ではないけれど、湘北の元ヤンの進路としては破格だ。しかしなにより、スターに返り咲いたことで華が出た三井は数年前とは比べ物にならないほどルックスがいい。今この光景を見ている卒業生たちは色々な意味で後悔がよぎる。

岡崎と緒方の後ろから顔を出している卒業生が口を尖らせた。

「いいなあ、〜」
「バスケ嫌いじゃなかったら、紹介できるよ。ここに比べたらバカだけど」
「ほんと!? いやもうバカとかどうでもいいわ。よろしくお願いします」
「ははは、みんなバカな上にさらにバスケバカもついてくるからな、それでもいいなら」

もようやく笑った。三井の現在のチームメイトは確かにバスケバカばっかりだ。

わいわいと騒ぐ人だかりの中を風が吹き抜け、大寒桜がざわめいて花びらが舞う。この時卒業生たちに撮られたと三井のキス画像は、顔が判別できない状態だったため、半年ほどアナソフィア女子の間でチェーンメールのように蔓延し、桜が写っていたことで「奇跡の花迎え画像」となった。

そして語り継がれる革命は何度も姿を変えたけれど、最後は必ず花迎えで終わったという。

は一度自宅に帰り、着替えるとまた家を出た。後でわかったことだが、三井のことについては木暮がの両親に取り成してくれていたらしく、は卒業式の当日だというのに、引き止められもしなかった。駅で待っている三井と合流すると、ふたりはロダンへ向かった。

午後のロダンは客もおらず、アナさんのキセルの煙だけが揺らいでいる。

……来たわね、ふたりとも」
「アナさん、私――
「花迎え、したんでしょう?」

浮き足立ってアナさんに駆け寄っただが、アナさんはにやりと笑って煙を吐く。

「悪ィ、オレが花迎えのこと聞きたくて、この間来たんだ」
「突然顔出すから何事かと思ったわよ」
「一応マスターに取り次いでもらったんだけど」

は自分だけ知らなかったことに少し臍を曲げたが、アナさんに頬を撫でられるとふにゃりと笑み崩れた。

「アナさん、最初の花迎えだって寿くんに話さなかったの」
「私のはあんたたちのとは種類が違うわよ。そこから落ちたんだもの」
「あの、駆け落ちした後って……

遠慮がちに尋ねた三井に、アナさんはふーっと煙を吐きかけた。

「海外に飛んだのよ。すごいでしょ、彼、渡航費と当座の生活費を貯めてたの」

あまりにアバンギャルドな初代花迎えカップルの展開にも三井も言葉が出ない。

「映画の中のことみたいで、そりゃもう酔っ払ってたわよ。目的なんかなくて、お互いのことしか目に入らなかった」
「あ、アナさん、じゃあ今なんでここにいるの……?」

が恐る恐る口を開く。アナさんはまたにやり。

「あの人、頭が良くて顔もかっこよくて私にはすごく優しかった。だけど、カーッとなりやすかったのよね」

花迎えから数年後、世界を放浪していたふたりはとある国で革命運動に巻き込まれた。アナさんの言うようにカーッとなりやすかった彼氏は革命運動に加わってしまい、アナさんを日本に返した後に投獄された。後にその国は独立民主化したが、暴力的な手段に出た危険分子として釈放は認められなかった。

「私去年海外行ってたでしょう。面会しに行ってたのよ」
「まだ出られないの……?」
「ふふん、来月帰ってくるわよ。それもあって会いに行ったんだもの」
「あの、まさかアナさんその人のことずっと待ってたんですか」
「あら、いけないかしら? ぼうや、女っていうのはそういうことも出来るのよ、覚えておきなさいね」

三井が困った顔をしたので、アナさんは嬉しそうだ。そして急に立ち上がると、カウンターの中にかけてあるお気に入りのコートを取ると、ばさりと肩にかけた。

「ふたりとも、Heaven'sDoor行かない? お祝いにおごるわ」

アナさんの気分次第で突然閉店する。それがロダンだ。なんだか物語の中に入り込んでしまったような錯覚を覚えながら、と三井は大人しくアナさんに着いてHeaven'sDoorへ向かった。マスターはスーツ姿の三井を見て大笑いしたが、ふたりを歓迎してくれた。

適度に酒など入りながら、と三井はアナさんの話をずっと聞いていた。数十年前のアナソフィア女子と翔陽男子の恋物語だ。たっぷり酒の入ったアナさんはまた指を鳴らしてマスターを呼び、静かに立ち上がるとと三井の方へ屈み込んでにっこりと微笑んだ。

「ねえ、恋はまるで革命に似てるわね。私の恋も、あんたたちの恋も」

そしていつかが三井を失ったと思って泣いた夜と同じ、「Fly me to the moon」を歌った。アナさんの歌声を聞きながら、三井はの手をそっと握り締める。は三井の肩に寄りかかり、繋いだ手にもう片方の手を重ねた。

アップライトピアノの上から釣り下がるライトは、アナさんを照らす満月のようだ。

「寿くん、私も待てるからね」
「バカ言うなよ。もうどこにも行かないって言ったろ」
「そのくらい好きってことだよ――

ピアノの音と歌声に包まれて、暗闇の中に憩うふたりは音もなく唇を重ねた。

♪You are all I long for... All I worship and adore In other words, please be true. In other words, I love you

私にはあなただけなの、だからもうどこにもいかないで、つまりそれはね、愛してるっていうことよ――

END