満月の夜に革命を

16

「昨日片付けたの?」
「いつもは汚いみたいな言い方するなよ」
「普段からきれいなの?」
「あーはいはい、昨日掃除しました」

緊張で落ち着かないはどんどん突っ込む。

「お母さんかっこいいね、背が高くて。ちょっと似てる」
「そうかあ? うるさいだけだろ」
「宿題手つけてないんでしょ」
「あのなあ!」

部屋に入ったはいいがそわそわして棒立ちになっているの肩を掴むと、三井は肩を押してベッドサイドに置かれたクッションに座らせる。は膝を立てて座り、もじもじしている。

「お前変なこと考えてるだろ」
「しょうがないでしょ、男の子の部屋なんて公ちゃんの部屋くらいしか入ったことないんだから」
「だからって、部屋に入った途端襲うわけないだろ、下に親いんのに」
「そりゃそうだけど」

グラスにお茶をどぼどぼと注いでトレイに置いた三井は、のすぐ隣に座ると、有無を言わさず両腕を引いて抱き寄せた。そわそわして揺れていたは頭を撫でられてぴたりと止まる。

「落ち着けよ。何もしてねえだろうが」
「そうなんだけど……
「話、聞きに来たんだろ」
「うん……ああでもやっぱりダメ、寿くんとりあえずチューして」
「はいはい」

抱擁とキスでなんとか一息ついたと三井は並んで座り、手を繋いで指を絡ませた。ただでさえお盆時期で静かな住宅街にあって、部屋の中はエアコンの立てる微かな音だけが響いていた。それを除けば、聞こえてくるのは階下で三井母がばたばたと旅支度をしているらしい音だけ。

「木暮から何も聞いてないんだよな」
「うん、本当に何も聞いてない」
「その、オレ、中学で神奈川ナンバーワンだったんだよ」
……え?」

三井は一枚の写真をに手渡した。ユニフォームを着た中学生が並んでいる。よく見ると真ん中あたりで賞状を持ってドヤ顔をしているのが三井だった。は写真と三井を交互に見比べる。こんな溌剌とした少年がこんなに目つき悪くなるの?

「それは県大会で優勝した時の。主将で4番でついでにMVP」
……あ! それ公ちゃんに聞いた! 翔陽とか海南行かないで湘北に来たバカがいるって」
「あの野郎そんなこと言ってたのかよ」
「ううん、バカって言ってたのは私」
「お前か!」

三井はの両頬をにゅーっと引っ張った。もだいぶ解れてきている。三井少年はそうして湘北に来たはいいが、怪我で入院。そこで1枚の写真を見ることになる。

「春休みにどこかに出かけた時とか言ってたような……
「ああ、そんなこともあったなあ」
「なんだこれすげえ可愛いって思った」
「そ、そうなの……
「だから、お前のいないところでオレは勝手に好きになってたんだよ」

しかし三井は焦るあまり治療を完遂せずに退院、そのせいでどころではなくなる。赤木のデビュー戦の話にも記憶が蘇った。三井の後ろ姿を見るたびに記憶のどこかで揺れていた影がある。

「松葉杖ついてた……? 赤木くんのデビュー戦? 確か粟戸工業の……
「そうそれ。左膝がほとんど動かなかったんだ」
「私、それ、見たよ」
「え!?」

このところ三井のこととなると涙腺の緩いはじわじわと目が赤くなる。無意識の中にしまいこんでいた記憶が堰を切って溢れだす。あの遅々として進まない歩みの松葉杖の後姿、ずっと記憶のどこかに眠っていたその景色が鮮やかに蘇る。

「負けていくばっかりで見ていられなくて、試合の途中でロビーに出たら、体育館の入り口に松葉杖ついた人がいて、そこまでして試合を見たいのかなって思って、あれ寿くんだったの――
「負けるところまで見てなかったけど、松葉杖はついてた。病院抜け出して行ったんだ」
「あの後姿、今でも覚えてる。あれ寿くんだったんだね、あんなの辛かったよね、可哀想――
……

三井はの頬に伝った涙に唇を寄せると、静かに触れて掬い取り、そっと寄り掛かる。

「あの時、声かけてたらよかったのかな、そうしたら――
「いやオレのことだ。木暮の妹みたいなものってわかってたからな、拒絶したろうよ」
「だけど――
「いいんだ……ありがとう、覚えててくれて、ありがとう」

三井の声が少し涙声になる。もまた涙を抑えられなかった。

その後の三井寿は転落まっしぐらである。に出会うまでにすっかりやさぐれてしまっていた。

「どこかで見たことがあると思ってたんだよな」
「だからずっと考えてたんだね」
「すっかり忘れていたとはいえ、写真の時点で既に可愛いと思ってたんだから気にならないわけがなかったんだ。だからその、アナソフィアの制服がナンパされてると無性に腹が立ったのはお前の記憶だったわけだ」

は大きく頷いて納得する。怪我を治して試合に出られれば木暮に可愛い女の子を紹介してもらえる。バスケットではエースで可愛い彼女がいて――そんな期待はとっくに崩れていた。けれど、その記憶だけが心の底に残っていて、つい足が出たわけだ。

切なげな三井の横顔をが見上げていると、階下から三井母の張りのある声が聞こえてきた。どうやら三井父が帰宅したらしい。時間は15時、17時の新幹線に乗ると言ってもそこまでは電車移動なので、ふたりはそろそろお出かけというところだ。

しかしその直後、ドドドドと忙しない足音が階段を駆け上がってきた。足音に反してドアが控えめに叩かれる。

「悪ィ、今度は親父だ。ちょっと付き合ってくれ」

三井がドアを開けるのに合わせても立ち上がる。

「寿、お、お前彼女って、本当か」
「落ち着けよ親父、みっともねえな」
「ああもうお前はいいからどけ」
「お父さん、怖がらせないでよ」

三井母も来ているようだ。三井父は息子を押しのけて部屋に踏み入った。その父を見たは頭が爆発するかと思った。三井母も美人だが、三井父がハンパないイケメンだったからだ。息子より顔は若干甘め、背が高くすらりとした体がよく似ている。岡崎が見たら大変だ。こうして並ぶと三井がずいぶん幼く見える。

「は、はは、はじめまして」
「はじ、はじめまして寿の父です」

ふたりはぺこぺこと頭を下げあった。が、が顔を上げると三井母が息子の頭を平手でひっぱたいた。

「な、いってえな! なにすんだよ!」
「あんた何ちゃん泣かしてんのよ!」

しまった、という顔の三井と、若干冷静さを欠くご両親の間には飛び込む。

「あの、違うんですちょっと昔の話をしていて私が感極まってしまって、寿くんは何も!」
「昔の話?」
「ええとその、足を怪我して入院していた頃の……可哀想で」

この時点で三井父母はガッチリとハートを掴まれてしまった。は正直に思ったことを話しているだけなのだが、人の数倍は感化させる。とんでもなく慈愛に満ちた行為であるかのように錯覚する。が人たらしたる所以である。

ふたりは満足したのか、仏の様相で部屋を出て行った。そしてまたばたばたと騒いで出かけて行く。と三井は今度こそ静かな部屋に取り残された。僅かに傾いた陽が窓を掠めて入り込む。

「お、お父さんかっこいいねえ」
「ちょ、お前なにウットリしてんだ!」
「寿くんも将来ああなるのかなあって」
「あれと同じにはならねーよ、一緒にすんな!」

父親でもうっとりされれば腹が立つ。三井はを膝の間に座らせると両腕で絞め上げた。

「痛いってば! もう、話の続きは? 今年に入ってから会えなくなっちゃったじゃない」
「それはほら、あれだ、その、去年ロダンの前で、キスしたろ」
「あれは……いまいち想われてる実感てなかったから、嬉しかったなあ」
「え、そうなのか、いやそうじゃなくて、それがトドメで」
「トドメ?」

三井はの肩に顔をうずめる。

「こんなの誰も認めない、オレが悪いって言われる、いつか……引き離されると思った」

体を抱く腕が軋む。痛いがこれは三井の心の痛みだ。は黙って耐える。

「女ひとりで情けねえ、オレはこんなヤワじゃない、こんなのは本当の自分じゃない、だから暴れてやろうって」

アナさんの言った通りだった。は背筋が震える思いがする。三井は、といることで憎悪も嫉妬も悲観も忘れていた。けれどそれはが中和していただけで、消えたわけではなかった。三井の中にどす黒く渦巻く闇は溢れ出るのをずっと待っていた。

「ロダンからの帰り道、花火、シュート練習、そういう時は腹が立つことも何もかも忘れてた。好きだって言いたかったけど、お前はアナソフィアでオレは湘北でヤンキーで絶対無理だと思ったし、だけど一緒にいたいし、そんな状況に腹が立つし、そんなことの繰り返しで」

溢れ出した闇に飲まれて暴発した、その時のことを三井は出来るだけ正確に話した。が悪いのではなくて、自分が捻くれていただけだということも。

「意識、なかったの……
「気付いたら病院のベッドの上で、携帯は壊れて解約されてた」

を想う心が眩しすぎて、三井は目を逸らした。眩しさに目がくらんで逃げた先で傷つき、気付いた時には何もかも失っていた。を想う気持ちが巡り巡って自分を追い込んだ。けれど、そんな空虚な心を暖かいもので満たしてくれるはいない。残り火のように燻る闇がまた燃え上がる。

「なぜか、もう会えないと思ったんだ。そう思ったら余計に腹が立って」

そうやって自分で負の感情を増幅させていた。増えていくばかりの憎悪の中で三井はをも憎んだ。あんな女に構うんじゃなかった、好きだなんてきっと思い込みだ、気のせいだ。が黙って聞いてくれるので、三井は襲撃事件のことも包み隠さずに話した。

「他にも理由はあったんだけど、木暮と赤木の居場所を壊したかったのもひとつだ。まあそれで戻ることになったんだからおかしな話だけどな。木暮は何も言わないし、お前のことは全部終わったら話そうって考えてた」

三井はあまり使われていない様子の学習机に立てかけてあった紙袋を引き寄せて、中身を漁る。

「バスケに関わる物は全部捨てたはずだった。でも木暮が見舞いに持ってきてくれた雑誌だけなぜか残ってたんだ。なにか使える物が残ってないかと思ってクローゼット漁ってたらこの紙袋が出てきて、つい懐かしくて全部見ちゃったんだよな。
――その中からこれが出て来た時は心臓が止まるかと思ったよ」

三井は雑誌をぱらりと開くと、1枚の写真を取り出してに手渡した。

「私――

そこには14歳のが満開の桜を背にして微笑んでいた。

「みっともねえ話だけど、泣いたよ。お前こんなところにいたのかと思って」
「これ、さっきの……春休みに出かけた時の」
「怒るなよ、木暮がくれたんだ。オレが可愛いって言ったから」

三井は写真に手を伸ばして指でなぞる。遠い日に恋をした写真の中の女の子が、今ここにいる。

「こ、こんな写真だけで、こんな時から……
……悪かったな、好きになって」

その言葉には思わず三井の頬をパチンと叩いた。

「バカ! 何言ってんのよ!」
「いや、ほらお前はオレじゃなくたって、他に誰でも――
「ふざけないでよ、誰でもいいわけないでしょ!」

は三井の頬を両手で挟み、鼻がくっつきそうな距離に顔を寄せる。

「寿くんがいいの! わかってるでしょ!」

そして、何も言えないままの三井の唇に食いついた。

「他の誰でもいいんだったら、グレまくってた寿くんに会いたいなんて思わないよ!」

火がついてしまったのか、はまだ怒っている。三井はそんなをぽかんとしながら見つめている。

「じゃあ私も全部話してあげるよ。最初から寿くんのこといいなんて思ってなかったよ。浮世絵にならないし、初めて見る人種だから珍しくて野次馬的な好奇心しかなかったよ! なんでグレるんだろう、グレるってどんな気持ちなんだろう、グレるとどうなるの――

あまりの剣幕に三井はの背中を擦ってやるが、まだ落ち着かない。

「それに、手を繋いでも一緒に帰っても隠れて抱き締められても、何も思わなかったよ」
「じゃあ、なんで」
「えっ、そっ、それは、シュート練習の時……

は急に照れた。言葉に詰まって口元がむずむずしている。

「の、時?」
「肘が、開いてるって、後ろから閉じてくれたでしょ」
……そうだったっけか」
「それが最初」
「いや意味わかんねえから」
「もー! 初めてドキドキしたの!!」

意味が解った三井の口元もむずむずする。記憶にないのが悔やまれるところだ。

「ロダンの前で会った時も、顔見ただけで全身ふわーって柔らかくなって暖かくなって、つい泣いちゃったけど、それは好きだなあって思ったからで、誰でもいいわけじゃないんだよ!」
「わかったわかった、わかったよ」

言いたいことを全て言い終わったらしいは、両腕を高く上げて抱きついた。三井もの体に腕を絡ませる。やがて唇が重なり合い、三井はそれを押し開いて舌をゆるりと滑り込ませた。そしてふたりは抱き合ったまま床に倒れこんだ。

……悪い」
「え?」

にのし掛かって少々荒っぽくキスしていた三井は、急に顔を逸らして起き上がった。

「勢いで、つい。ごめん。……ちょっと早いけど飯食いに行くか」

を見もせずに三井は膝を立て、そっぽを向く。は肘を突いて体を起こすと、腕を伸ばして三井の手首を掴み、ありったけの力で引いた。ふいうちによろけた三井はまたの上に倒れ掛かり、かろうじて手を付くと突っ張って耐えた。は肩だけ起こした状態で三井を睨んでいる。

「なん――
「意気地なし!」
……そんな風に言うなよ」

三井はの頬に指を添えて俯いた。額と鼻がもう少しで触れそうな距離だ。

「意気地とかそういうことじゃなくて……クソ、なんて言えばいいんだよ」

は、聖域なのだ。

気の置けない可愛い彼女である一方で、泥のような闇の底にいたにも関わらず飛び込んできて手を差し伸べてくれた救いでもある。それが耐えられなくて闇雲に逃げ回り、足を取られて崩れたのは確かに三井に意気地がなかったからだ。けれど、湧き上がる欲望をぶつけられないのは意気地の問題ではない。

どこかにまだ不貞腐れた自分が残っていて、に不埒なことをしてはいけないのだと縛っている。

「あの時、ロダンの前で抱きついた時、寿くんの匂いがした。キスしてもらって嬉しかった。再会できた時、見た目も喋り方も違うから寿くんじゃないような気がした。――だけど、声とか腕とか匂いとか、そういうのはそのままで、本物の寿くんだって思った」

見た目が変わろうと、心が変わろうと、それがあなたであれば。の声が掠れて、上ずる。

「寿くん、私に、触ってよ――

つまりね、手を繋いで欲しいっていうことよ、ねえあなた、キスして欲しいっていうことよ――

誰も好きになれないと思っていた。誰も彼もが浮世絵みたいな顔になって、自分を征服したがっている。下着姿の自分はひどく厭らしく見えた。この体に誰かが触れることがあるとは思えなかった。その時は脳裏に三井の顔が浮かび、腕に触れられたような気がして怖気立ったけれど、今は違う。

ひどくゆっくりと灰色になっていく部屋の中で、三井はもう一度を押し倒し、静かに唇を押し付けた。