満月の夜に革命を

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ロダンで木暮と話してから一週間も経たない内に、今度は岡崎と緒方に感付かれた。新学期である。ふたりともクラスが分かれてしまったが、既に演劇部の看板女優である緒方の場合、広い部室が使いたい放題なので、よくと岡崎を招いてくれた。

ついでに言うと演劇部のスターである緒方のみならず、岡崎はダンス部のエースで次期部長確定部員であり、に至っては何もしてなくてもアナソフィアヒエラルキーの頂点への階段を駆け上がっているような人物である。他の演劇部の部員たちもあまりうるさいことを言わないばかりか、歓迎してくれる有様だった。

そんなだから、緒方にたきつけられるとと岡崎は昨年の文化祭でやったように踊ってみたり歌ってみたりして、またファンを増やすというわけだ。中等部の演劇部も出入りがあるので、この3人のファンは増える一方である。女の子が好きというセクシュアリティでないのが惜しまれる状況だっただろう。

姫はなんですか、喧嘩でもしたんですか」
「えっ、喧嘩なの? 私はてっきりデートDVかなんかかと」
「どっちも違うわ。ふたりは私を一体なんだと思ってんだ」

新学期が始まって一週間、部活がある緒方と岡崎、少し時間を潰してからロダンのは演劇部の部室でおやつを食べていた。そこで緒方がの顎を人差し指ですくうという芝居がかったことをしながらそう言うと、岡崎も乗ってきた。

「緒方はどうか知らんけど、私は年上の社会人かなんかでド変態なのかなとか思ってた」
「岡崎ちゃんそれ自分の願望が入ってんじゃないの」
「私はむしろ勉三さんとかのび太系の超モヤシみたいなのかなとか思ってて」
「緒方もさ、そう思う理由って一体何よ」

岡崎も緒方もそれなりにを心配してのことなのだろうが、には面白がっているだけに見えたりもする。しかし、いくら仲のいい友人でも、は三井のことを話す気にはなれなかった。きっとふたりは茶化したりせずに聞いてくれるだろうが、今はまだ話したくない。

「なんていうかさ、ってやっぱ姫っぽいところあったじゃん。わがままっていうか、フリーダムっていうか」
「う、なんかごめん」
「いや怒ってるんでなくて。別にそれで迷惑してるわけじゃないし、そこが好きって人もいるし」

岡崎はしばらくぶりに点と線で出来たような顔になっている。

「それがさあ、なんていうのかな、ちょっとダークになったというかドライになったというか」
「あー、わかる。大人っぽくなったといえば聞こえがいいけど、ちょっと荒んだ感じだ」

は言葉が出ない。ダークでドライで荒んでいる。どれも正解だ。

「だからさ、なんかつらい思いしてなきゃいいなと思って」
「モヤシなら私がブン殴ってやってもいいなと思ってたんだけど」
「ふたりともありがと。……でも、もう少し待って」

今はまだ、三井と過ごした短い日々は自分だけの大事な記憶にしておきたかった。今でも意識して記憶に蓋をしておかないと、ふいに溢れて襲いかかり、恋しさでを苛む。アナさんの歌と共に幸せな記憶がを苦しめる。それがいつか思い出に変わるまで、誰にも話したくなかった。

「それにド変態でもモヤシでもないから、安心して」
「えー違うのー。じゃあなんだろう、えっまさか小学生とかじゃないよね?」
「どうしてそう岡崎ちゃんは極端なんだよ」

ド変態やモヤシや小学生なんていう発想はあっても、ヤンキーは出て来ない、それがアナソフィア女子だ。アナソフィア女子からはもっとも遠い場所にいて、なおかつナンパなどの被害もあるため、そもそも親しくしようという気すら起こらない。排除されるべきとは思っても親しくなりたいとは思わない。

本当に、アナソフィア史上初かもしれない。グレた男が好きだなんて――

お互いの嗜好についてああだこうだと言い合っている岡崎と緒方を眺めながら、は自嘲気味に笑った。だけど、グレてたから好きだったわけじゃない、たまたま三井がそうだっただけだ。偶然が重なって、それが良い方向へ転がって、同じところに着地した。それだけだったのに。そう思ってたのに。

「へえ、そうなんだ〜」
、真面目に聞く気ないだろ」
「だってそれ去年も一昨年も言ってたじゃない」

にとっては春の恒例行事と化している木暮の「今年の湘北は強い」報告である。

「今年は本当なんだって。すごいのが入ったんだよ」
「はいはい」
「お前ほんと、最近ドライになったよな」

木暮家のソファでひっくり返っているに、木暮は恨みがましい目を向けている。ゴールデンウィークも部活である木暮に対して、アナさんが4月末から常連さんたちと海外に行ってしまっているせいでバイトがなく、は大変暇だった。

「今年はちゃんと勝ち試合見せてやれるはずだから、またおいでよ」
「うん、公ちゃんと赤木くん、最後だもんねえ」
「予選敗退決定みたいな言い方するなよな」

どうにもこの手の木暮の言うことが信用できないは、適当にあしらっていた。湘北がインターハイとか信じられない。どうせまた翔陽と海南なんじゃないの。はそうとしか思えず、しかも連休明けに木暮が傷だらけで帰ってきた時はそれを確信した。なんでインターハイ目指して喧嘩してくるんだ?

「色々あったんだってば……いてて」
「色々で纏めるにはことが乱暴すぎるんじゃないの」
「でも、おかげでまたすごいのが戻ってきたんだよ」

に絆創膏を取り替えてもらっている木暮はにこにこ顔だ。

「もう本当に負ける気がしないくらいなんだよ。絶対全国に行くんだ」
「そんなにすごいのばっかりいて公ちゃん、ちゃんと試合出られるの?」
「まあフル出場はないな。スタメンからもたぶん外れるよ」
「え!? いいのそれで」
「不思議とそんなに悔しくないんだ。それより全国に行かれる方がいい」

はため息をつく。よくわからない。試合にも出られないのにこんなに高揚しているなんて。それにしても、4番から始まる背番号で5を付けているというのに、スタメンでないとは。年功序列だけでナンバリングされるものなのか? は首を傾げる。番号で言えば2番手なのに4人も割り込まれるって。

「確かに一昨年も去年も、すごいの入った詐欺みたいだったかもしれないけど、今年は本当だから」
「わかったわかった。土日に試合があったら見に行くから」
「あ、でも制服はだめだぞ。大変なことになるからな」

真面目な顔で釘を刺す木暮に、はまた記憶の蓋が開きそうになって慌てて思考を締め出す。そういえばちゃんと進級していれば三井も湘北の3年生になっているはずだ。しかしもう、木暮にそれを聞いてみようとは思わなかった。どんな結末が待っているか、想像も出来なくて怖い。

最初は湘北に押しかけてみようかと考えてもみた。だが、そこで女連れの三井を見てしまうとか、もういないと聞かされてしまうとか、そんな事態になったら耐えられない気がしたし、アナソフィアの制服で湘北の周辺をうろつくなどできっこない。それこそ木暮にバレたら怒られるだけではすまない。

三井は自らの意思での前から姿を消した。はそう考えていたから、湘北という未知の世界に踏み込むのは怖かった。マスターはもし三井が顔を出したら必ず連絡してくれると言っていたが、音沙汰がない。まるでこの世から存在ごと消え失せてしまったみたいだった。

本当は三井なんて人間は存在しなかったんじゃないだろうか。全部、私の幻覚だったのかもしれない。は次第に三井の記憶をそんな風に誤魔化し始めていた。

それからしばらくして、インターハイ県予選を順調に勝ち進んでいると木暮に聞かされた時も、うまく笑顔が作れなくて木暮を不安がらせた。三井に会えなくなって約半年、音信不通になってから3ヶ月が経つが、未だにの恋心は三井のものだった。

「週末、とうとう翔陽と当たるよ」
「え、そうなの!?」

とはいえ、これだけは本当に驚いた。ブロック予選を全て勝ち抜いたと嬉しそうな木暮はまた家で朝食を食べている。朝練だという木暮に対して、はほぼ寝起きである。

「日曜だし、見においでよ。の知ってるやつがいたりするかもしれないよ」
「いや私翔陽のバスケ部に知り合いなんていないよ」
「そうなのか? 今の主将、すごいかっこよくて人気あるんだぞ」
「んじゃ私服でコソコソ見に行く子が大量にいるだろうな」

はもし観戦するのであれば木暮や赤木を応援したいのであって、翔陽に興味はない。だが、翔陽のバスケット部が強いというのは耳にたこが出来るくらい聞かされている。また負け試合になってしまうのではないかと思うと、素直に見に行くと言えなかった。

「そういえばアナさん帰ってきたのか?」
「まだ〜。2ヶ月近く海外ってほんとあの人の経済状況がよくわからない」
「んじゃ暇だなあ」
「んーん、今日はちょっと遅い。友達んち行かないといけなくて」

アルバイトがないので、はあくまでも臨時ということで演劇部を手伝っている。こちらも春の地区大会が終わったばかりなのだが、この地区は毎年アナソフィアが勝ち抜けていて、次は県大会になる。ここまでは資金力も物を言うのだが、県になるとそうもいかない。

「はあ、台本の直し」
「公ちゃんも相当興味なさそうに聞くよね」

県内地区大会が全て終わったので、各代表校の県大会での演目が確定した。それを踏まえて若干台本を直すのに付き合って欲しいと頼まれたのである。女子だけで演じるのは相当なハンデになるのだが、そこは台本でカバーするしかない。アナソフィアはそうやって毎年戦っている。

「あんまり遅くなるなよ」
「うん、その子ん家のあたりは繁華街もないし、あんまり遅くなるようなら服借りるから」
「19時過ぎくらいになれば迎えに行ってやれるかもしれないよ」
「いいよ疲れてるんだし」

3年生に進級し、また例の喧嘩以来、木暮は殊更にに兄のように接している。その点については何も言わないが、なんとなく想像はしている。公ちゃん、進学で家を出るつもりなんだな。部活に夢中になってはいるが、木暮のことだから進路についても少しずつは考えているのだろう。

そうなれば4年、もし進学した先の土地で仕事に就けばそのままずっと家に戻らないことになる。

だから、と兄妹でいられる間に、兄としてできることはやっておきたい――おそらくそんな風に考えているのだろうとは踏んでいる。眠そうな目のまま木暮を送り出したは部屋に戻ると、少しだけ寂しさを感じながら制服に袖を通した。

寿くんも公ちゃんもいなくなっちゃって、私大丈夫かな。

放課後、台本の直しを手伝ったは19時頃になって緒方家を出た。緒方の母親が車で送ろうかと言ってくれたが、は遠慮してひとりで歩いている。

県大会に向けてラブシーンを強化することになったとかで、その直しを手伝ったはまた記憶の蓋が開きかけて熱が出そうだった。湯気が立ち上りそうな頭を冷やしながら帰りたかったのだ。しかも緒方の演じる役は恋する没落貴族。それが三井に見えてしまっては呻いていた。

先だっての球技大会では、またエキシビションマッチ・バスケットに参加させられただが、昨年中に誰ともアドレス交換をしていないという付加価値がついて大変なことになった。そんな渦中にあると余計に三井が恋しかった。自分を取り囲む浮世絵顔を全部三井が蹴り飛ばしてくれればいいのにと思った。

いい加減諦めなければならないことはよくわかっていたが、この心を捻じ曲げてまで忘れたくはなかった。いつかそれすら風化して、別の人をするりと好きになれるまでは触らないでおきたかった。未練がましいといってしまえばそれまでだが、未だに好きなので、どうしようもない。

だいぶ暖かくなったとはいえ、足元から吹き上がる風は時にひやりと冷たく、制服のスカートを翻したは体に冷気を感じて肩をすくめた。俯いた目に歩道が白々と照っている。風に髪を攫われながら見上げると、切れ切れの雲間に目が痛むほど輝く満月が浮かんでいた。

煌々と夜空を照らす月には夏の花火を思い出す。風になびく三井の髪、沈み行く夕日、マスターのピアノの音色。あの日、夜空で爆発する花火を三井と並んで眺めた。今年も夏が近付いてくる。今年は花火を見られるだろうか。マスターはまたパーティをやるかもしれないが、ひとりでは行きたくない。寿くんと一緒がいい。

どうしても回りまわって三井に戻ってくる。は涙が滲みそうになって目を擦った。

ダメだなあ、私――

夜道を歩いているというのにこんなに余計なことばかり考えていてはいけない。は背筋を伸ばして両手で頬を擦る。少し顔を上げると、歩道の向こうから人が歩いてくる。あまりはっきり目を向けたくないが、背格好からして若い男のようだ。顔を上げない方がいい。俯いたままやり過ごしてしまいたい。

特に今日は制服なので、気を抜いてはいけないのだ。時間はまだ19時30分になるかならないかといったところで、おそらく木暮も下校途中だろうし、人通りは少ないけれど、そのぶん助けも期待できない。は頭の中から三井のことを振り払い、顔だけ下に向けてすたすたと歩く。

そして、何事もなくすれ違う。やはり男は歩く速度を落としてすれ違った。アナソフィアの制服はこれだから、と考えていたは、突然肩を掴まれて飛び上がった。やばい、こんなところで捕まりたくないのに!

「おい――
「ごめんなさい!」

は相手の顔も見ずに手を跳ね除けると走り出した。相手がここで諦めてくれることを祈りながら、は走った。駅まではまだ距離があるし、飛び込めそうな店もない。走って追いかけられたらもう逃げられない。

だが、の祈り空しく手をかけてきた男は追いかけてくる。ふたつの靴音が乱れて響く。

なんなのよもう、怖い、嫌だ、怖い、寿くん――

!」

は壁に阻まれたかのようにぴたりと足を止める。その少し後ろで、追いかけてきた男も足を止める。

、だろ」

その声には体をがくがくと震わせながら、ゆっくりと振り返った。風が吹き抜けて、髪が翻る。

…………寿くん」

追いかけてきたのは、三井だった。