エヴァーグリーン

「うっせババア! そんなのオレの勝手だろうが!!」
「偉大なる母に向かってババアとは何事だ! しかも未成年のくせに偉そうな口利きやがって!!」

とある土曜の午後、神奈川にある青田家では、ほぼ毎日繰り返されている母と息子の喧嘩が朝っぱらから勃発していた。息子は名を恭一郎といい、9歳、小学4年生だが口が達者で、昨今の児童にしては反抗的、特に母親の言うことはほとんど聞かないという、まるで昭和の子供であった。

対して、小生意気なダンスィにも一歩も引かない母・時枝は36歳、駆け出しの脚本家である。しかし自身は中学から大学までの10年間を演劇部で過ごし、174センチの長身で男を押しのけて色男役を散々演じてきた人である。まだ身長140センチ前後の息子など相手にならない。

恭一郎のこの性格は、時枝の弟、恭一郎にとっては叔父に当たる未知也に似たものらしく、未知也自身も成人するくらいまでは時枝に対抗心メラメラ、何もしてないのに冷徹な罵詈雑言などは日常茶飯事であった。

「口の悪いところばっかり未知也に似やがって!」
「人のこと言えるか! お前こそ脚本家で女のくせに口が汚いだろうが!」
「女のくせになんて言葉どこで覚えてきたんだ! そんな言葉二度と使うな!!!」

また幸か不幸か恭一郎は時枝と未知也の優秀な頭脳をしっかり引き継いでおり、小学生4年生だというのに語彙が豊富で、それがまた生意気に拍車をかける。

本日のバトルは、恭一郎が週に3日ほど習っている体操教室を辞めたいと言い出したことによる。恭一郎は成績も良いし、運動も決して不得手ではないが、飽きっぽい。体操教室の前に水泳と書道とテニスと音楽教室を辞めている。興味が湧くといてもたってもいられず、しかしいざ実際に始めてみると面白くなくなってしまうらしい。

体操教室に通いたいと言い出した時、両親は今度こそ本当に心からやりたいと考えてのことだろうな、と念を押した。恭一郎はそれはもうキラキラと輝く目で頷いたものだった。

「お前らみたいにやりたいことがずーっとひとつしかない方が珍しいんだ!」
「それとこれとは別だ! お前は飛びついちゃすぐ飽きて辞めるばっかりじゃないか!」
「合わないことがわかったんだからいいだろ!」
「自分探しの学生みたいなこと言ってんじゃねえ!!!」

元々ボーイッシュだった時枝だが、このクソ生意気な息子の相手をしている内にそれが加速してしまっている。

さて、そのバトルをチラチラと見つつ、のんびりした顔でテレビに向かっているのは青田家家長の父・龍彦と、その娘・律である。律は7歳、小学2年生である。律は父のあぐらの間にちょこんと座り、女の子のアイドルグループが歌って踊っているのをふらふら揺れながら見ている。

「おとーさんはちっちゃい頃から柔道だけ?」
「そう。始めたのは律よりもちっちゃい頃だしなー」
「そのくらいから練習しないと上手にならないの?」
「まあそんなこともないけど、いっぱい練習できた方が、そりゃ上手になるよ」
「律は何がいいんだろ」
「あーいうアイドルになるか?」
「えー、やだー。あんな気持ち悪いしゃべり方したくない」
「お前それ外で言うなよ」

律はおっとりしていて穏やか、時枝の実家である緒方家に似た恭一郎に対して、こちらは龍彦の実家である青田家に似た。しかし既に平均を上回る身長135センチを記録していて、背の高い両親の血もしっかり受け継いでいる。顔は父似で少し濃い目だが、その他は全体的に母似なので、父は将来モデルになれると確信しているらしい。母も街を歩けばモデルにスカウトされる少女だった。

しかし本人はあまり芸事に興味がないようで、それよりは柔道家である父の道場で試合を見ている方が好き、だけど自分も柔道を習う気はない、というボンヤリした女の子である。ちなみにアイドルのしゃべり方が気持ち悪いというのは母親の刷り込みだ。母・時枝は脚本家の割に言葉遣いにうるさく、また所作礼儀にも大変厳しい。本人は県下有数の難関女子校出身で、6年間かけてその辺りを仕込まれた人なので、ほぼ完璧に身についており、一応説得力はある。

が、恭一郎との喧嘩だけは別だ。

「辞めたら月謝がなくなるんだからいいじゃないか!」
「そういう問題じゃない!」
「オレの人生なんだからオレの好きにさせろよ!」
「そういうことはハタチ過ぎてから言え!!!」

母と息子は毎度そんなことを言い合っている。

「おとーさんはお兄ちゃんに何やって欲しい?」
「お兄ちゃんが本当にやりたいと思ったものがいいんだけどなあ」
「でも見つからないんでしょ」
「それが困ったところだよなあ」

その横でこんな風に父と娘がぼけーっとしてるのも毎度のことだ。とかくこの青田家では母と息子が激しやすいので、勢い父と娘はその間で成り行きを見守ることが多い。

「とにかくもう体操はやらない! これから虎太郎んとこ行くから!」

恭一郎はそう言ってリビングを飛び出し、子供部屋に入ってしまった。ちなみに虎太郎は父・龍彦の弟。最近結婚したばかりの虎太郎の嫁が可愛くて優しいので、恭一郎は何かと言うと近所の青田家その3に駆け込む。

「あの野郎、母親をなんだと思ってんだ……!」

ギリギリと歯ぎしりをして悔しがる時枝を背後に、律と龍彦はまだアイドルの歌でふらふらと揺れていた。

「あっ、あの子かわいー」
「どの子?」
「えーと、あ、ほらナナナの後ろにいる子ー」
「隠れちゃったな」

ちなみにナナナは本名で那奈名さんというらしい。父と娘は気にしていないけれど、母・時枝はキラキラネームも大嫌いだ。脚本家として大成したいけれど、ふざけた名前のクソガキがキャスティングされるようなメディアでは書きたくないというのが目下の悩みである。

「律も可愛いんだから、こういうのやってみたらいいのに。慧ちゃんが教えてくれるよ」
「だからやだってー」

慧ちゃんは時枝の親友である岡崎慧登のことだ。彼女はテーマパークのダンサーや振付師などを経て、現在は専門学校でダンスを教えている。振付師として仕事を始めた頃に彼女は名を「ケイト・オズ」と改め、以来その名で通っている。律はモデルになれると確信する父はたまにこれを勧めるが、毎回断られる。

「んー、でも律はやっぱり桜子がいいなあ、1番きれい」
「だろうなあ、うちの道場でもみんな桜子推しみたいだしなあ」
「おとーさんは誰がいい?」
「えー、そうだなあ、桜子もきれいだけど、みゆりも可愛いな」
「ニーナは?」
「ニーナもいいけどココナも可愛くないか?」

テレビの画面を埋め尽くすアイドル十数人の品定めをしていた父と娘だったが、いつの間にか戻ってきた恭一郎に肩を叩かれて顔を上げた。すぐとなりにしゃがんでいる恭一郎は、出かけるつもりで身支度を整えてきたらしく、キャップを被っている。

「どうした」
「アレ」
「アレ?」
「律、支度してこい」
「は?」

恭一郎は呆れ返って、蔑んでいるようにも見える顔で父と妹の向こうを指さした。

「と、時枝さん!?」
「あー、やっちゃった。お兄ちゃん、玄関で待ってて。すぐに着替えてくるから」
「りょーかい」

恭一郎が指をさした先では、時枝が目に涙をいっぱい溜め、怒りと悲しみで真っ赤な顔をして睨んでいた。龍彦の方は真っ青である。

「仲がいいのはいいけど、アイドルくらいで騒ぐなよないい年して」
「お兄ちゃん、虎太郎のところ行くんだよな?」
「そう。泊まれなかったらじーちゃんとこ行くよ。明日までにクソババアなんとかしとけよな」
……恭一郎、何度も言わせるな。オレの嫁さんを侮辱したら許さないって言ってるだろう」
……わかったよ、悪かった。じゃーな」

父は家ではぼんやりしているが、普段は格闘技の先生である。子供、特に生意気な性格の息子が行き過ぎたことを言い出すと、豹変して怖い顔になる。さすがの恭一郎もこの父には逆らえないので、つい身を引いて首をすくめた。

父と母は結婚12年目だが、未だにお互いのことが大好きで、基本的には干渉らしい干渉をしない時枝だが、龍彦が他の女を褒めるのだけは嫌がる。これは学生の頃にすれ違いで破局の危機があって以来のことで、その時うっかり他の女と仲良くしてしまった父は逆らえないことになっている。ちなみにバレンタインのチョコレートだけは例外。例え生徒の女児からのものでも、全て時枝の腹に収まる。

「ととととと時枝さん」
「そりゃ私は36のババアですよ」
「そんなこと言ってないでしょ、落ち着いて」
「何がナナナよニーナよココナよ、ナばっかりじゃない」
「だからそれは律の話に付き合ってただけで、何もああいう子がいいとかそういうことじゃ」

律がさっさと支度を終えてきたらしく、玄関でドタバタと音がする。時枝がこうして爆発してしまった時は、こちらも近所の祖父母がいる青田家その1にするか、虎太郎のところにするか、その時の都合で恭一郎が判断して律を連れて行く。このことは祖父母も虎太郎もよくわかっているので慣れっこだ。

祖父母、特におじいちゃんなどは有名女子校出身の時枝をお嬢様か何かのように扱っており、その嫁が息子を愛するあまりに暴れていると聞くと、喜んで孫を預かる。祖母の方も、趣味のケーキ作りを唯一理解してくれるのが嫁であり、なおかつどれだけケーキを与えても太らないので大事にしている。

祖父母の家はバスで30分ほど、虎太郎の家は自転車で行けるので、恭一郎と律は軽装で出かけていく。

「時枝さん、36がババアだったら、37のオレはどうしたらいいんですか」
「ケイトならまだお兄ちゃんレベル」
「慧ちゃんを基準にしないで! あんなの子供でしょ、律みたいなものじゃないか」
「だけど最近『して』くれないじゃない!」
「とととととととと時枝さん子供いるから!!!!!!」

だが、玄関はそろそろ出発のようで、ガチャガチャと鍵を取る音がしたかと思うと、バタンとドアが閉まり、施錠の音も聞こえてきた。龍彦は肩でため息を付き、時枝の肩をゆっくりと撫で下ろす。

「時枝さん、それは時枝さんが締め切り前で忙しかったからでしょ」
「そうだけど〜!」
「しかもこの間レス夫婦の話書かされたから余計にそう思うんでしょ」
「だって、その時取材で、1ヶ月でもレスだって言うんだもん」
「だから、それは時枝さんが3本も締めきり抱えてたからでしょ」

まだまだ大きな仕事は舞い込んでこない時枝は小さい仕事を同時進行でやっていることが多く、しかも駆け出し故にゼロから自分で話を書ける機会はそう簡単に巡ってこない。

「てか時枝さん一昨日締め切り明けたばっかりであんまり寝てないでしょう」
「そうだけど……
「そんな疲れてる時枝さん捕まえて何かしようと思わないですよ。時枝さんだって嫌でしょ」
「じゃあ疲れてなかったらいいんですね」
「まあそうだけど」
「龍彦さん、私だけですか?」
「はいはい、そりゃもちろん。高校生の頃からずーっと時枝さんだけですよ」
「ちょっと空白がありますけどね」
「そ、それはもう勘弁して下さいよ! てかその時も何もしてないですからね!?」

毎度龍彦はそう言うが、時枝はあまり信用していない。

ついでに、こうしてふたりでイチャコラ喧嘩していると、特に龍彦は敬語になる。元々お互い敬語でしゃべっていたふたりは、時枝の「息子がいる以上、父の威厳が損なわれるのはよくない」という判断により、子供の前では努めて敬語を使わないようにしてきた。だが、こうして敬語で話し、アグレッシヴな時枝を龍彦が宥める、という図式はそれこそ高校時代から変わっていない。

さておき、時枝は例え疲れていても自宅でじっとしていると余計ストレスが溜まるタイプなので、龍彦は頭を高速回転させる。時枝はこうして激しやすく頭も固いが、自身の夢と一緒にふたりの子供を抱えて毎日フル稼働でも愚痴ひとつ言わない前向きな人で、龍彦はそれを本当に尊敬している。

なのでこんな時はお姫様扱いをしてやらねば。

「子供たちは泊まりだろうし、どこか行きますか? どこ行きたいですか、何か食べたいものありますか」
……タイ料理」
「いいですね、ドライブがてら行きましょうか。他には?」
「ラブホ」
「時枝さん!!!!!!!!!」

そして高校時代から常にあからさまなのが時枝である。そのたびに龍彦が狼狽えるので、それに味を占めてしまったともいう。まだふたりが付き合い出す前に、龍彦はどうかと聞かれて「可愛い」と答えただけのことはある。他の女への嫉妬を除けば、基本的には時枝の方が龍彦を手のひらの上で転がしている状態だ。

今も時枝は慌てる龍彦の胸を指で突付いてニヤニヤしている。落ち着いてきたようだ。

「ダメですかあ?」
「家じゃダメなんですか。お金かかるでしょ」
「この間の原稿料ちょっといい値段だったんです。たまにはいいじゃないですか」
「ディズニーランド資金にしたいって言ってたじゃないですか」
「ああ、恭一郎から絶対行かないって断られましたので」
「マジですか……
「ほんとに未知也に似ちゃって」
「未知也くんの方が優しいですよ……

まだ小学4年生だというのに、恭一郎が思春期の少年のようなことばかり言うので、龍彦もがっくりと肩を落とす。父は柔道を教えたいと思っていたけれど、それなど幼稚園児の頃に拒否されている。しょんぼりした龍彦の首に手をかけた時枝は優しくキスをして、その頬を撫でた。

「だけど、このご時世、独立心が旺盛なのは良いことだと思いませんか」
「それはそうなんですけどね」
「龍彦さんには私がいるからいいじゃないですか」
「それは本当に感謝してます」
「じゃあ態度で示して下さい」
「時枝さんあのねえ」

しかし龍彦は苦笑いで時枝を抱き寄せ、ゆっくりと唇を重ねる。息子にババアと言われたせいで落ち込んでいるかもしれないが、今でも時枝はファッションモデルにでもなれそうなほど美しい。脚本なんか書いてないで出演しませんかと言われることも珍しくない。

一方龍彦の方は時枝の好みである「ゴリマッチョ」に徐々に改造されつつあり、道場に通う子供たちからは慕われているものの、年々体が膨れ上がっていくので、その保護者からは若干怖がられている。

「それじゃ、今日はデートですね! いつ以来だろ、何着ようかな」
……時枝さん、まだ早いですよ」
「まあそうなんですけど」
「時枝さん、なんかスイッチ入っちゃったんですが」
「えっ、今ですか!?」

まだ昼にもなっていないけれど、まあ龍彦のスイッチが入ってしまったのは時枝のせいだ。それがわかるので、時枝も苦笑いだ。ヤキモチで騒いでしまったけれど、ちょっとやり過ぎたか。

「もー、しょうがない人ですね龍彦さんは」
「なんかおかしくないですか、それ」
「私がいないとダメなんだから」
「それは間違ってませんけどね。時枝さんだってそうでしょ」
……もー!」

自分が龍彦をからかうのは構わないけれど、同じようなことを返されると時枝も弱い。日毎ゴリマッチョに育っていく龍彦に抱き上げられた時枝は、脚をばたつかせて照れた。

これも、高校生の頃から、そしてこれからも変わらないであろう、ふたりの風景である。

END