満月の夜に革命を

02

「あ、公延、悪いんだけど迎えに行ってくれない?」
「またかよ〜」

部活から疲れて帰ってきた木暮は、母親にそう言われてがっくりと肩を落とした。

木暮は湘北高校の2年生になり、はアナソフィア高等部1年に進級した。何でもかんでもめんどくさいで適当に済ませていたは、制服が変わるなり怒涛のナンパ攻撃に翻弄され続けている。

かといって学校から真っ直ぐ帰宅するだけの毎日は面白くないので、はアルバイトを始めた。時間調節が難しく、はまためんどくさいと言って制服のままアルバイトに行く。暗くなってからそのまま帰ってくる。だいたい毎回ナンパに捕まる。

「母さん、いい加減に着替え持たせなよ。オレだって遊んでるわけじゃないんだよ」
「わかったから、とりあえず今日は行ってきてよ」

まだ4月の半ばだが、木暮の出動回数は既に2桁に及ぶ。木暮は疲れている上に腹も減っているというのに、また玄関を出て行った。今日は地元の駅前で身動きできなくなったらしい。自転車に跨るが、部活帰りの疲れた足で漕ぎ出すのが億劫だ。

「お兄ちゃ〜ん、ここ!」

母親に言われた通り、駅前のファストフード店に入ると、真新しいアナソフィア高等部の制服を着たが手を振っていた。兄に迎えに来てもらった体裁にしたいのだろう、は「お兄ちゃん」を連呼している。店内でも声をかけられていたようだ。

「お兄ちゃんは部活帰ってきてそのまま来たんですけど」
「お疲れ様です。このポテトおごり」
「いい加減着替え持てって言ってるだろ」
「うん、さっきお母さんにガッチリ怒られた」

木暮はこっそり周囲を確認する。学ランが1組とブレザーが2組、と木暮をちらちらと見ている。

「全部?」
「とりあえずここは学ランだけ。でもちゃんと断った。外にいたのがしつこくてさ」
「外? もういないみたいだったよ」
「ほんと? それならいいんだけど、あんまり素行もよろしくなさそうでさ。しつこいし」
「毎回同じグループなのか?」

木暮の顔がサッと青くなる。素行のよろしくないグループに目をつけられて付きまとわれるとなると、色々面倒だし、自分が迎えに来てやる程度では済まなくなるかもしれない。この辺りは年齢に関わらずまだまだ荒れた人間が多く、自分の通う湘北にもそういう生徒は少なくない。非常に面倒だ。

「っていうわけでもないけど、ああいうの、多いからねえ」
「かと言って、ただ普通に学校から帰るだけでも同じことだもんなあ」

木暮は今度は頭を抱えてテーブルに突っ伏す。真新しいアナソフィア高等部の制服は、春から夏にかけて外見の良し悪しに関わらずターゲットにされる。とりあえずアナソフィア女子と繋がりを持つことが大事なのだ。翔陽のように半強制的に接触することになるわけでなし、知り合うきっかけが欲しいので相手を選ばない。

ただし、そのナンパ攻勢が夏を過ぎると一気に鎮火するのは、アナソフィア女子の方がナンパに慣れるからだ。ナンパしてきた相手がお眼鏡に適うなら受けてやればいい。気に入らないなら上手にあしらうことが出来て初めて一人前のアナソフィア女子と言えよう。

騒ぎ立ててもダメ、ビビって逃げるだけでもダメ、そのあたりの匙加減が難しい。

しかもの場合、私服で歩いていれば安全かと言えば、そんなこともない。私服でも捕まる。むしろ私服の時の方が年齢層は幅広い。派手な装いでなくてもは人を惹きつける。

「とりあえず私服用意して、顔見えないようにして、チャリで帰るようにするよ」
「チャリは危ないんじゃないか。バスの方がいいだろ」
「この間バスん中で捕まったからダメ」

木暮はまたテーブルに頭を落とした。いつかが言っていたように、赤木のようなのが彼氏ならと思わずにはいられない。むしろが赤木のような女だったらこんな苦労はしないのにと思い、そしてその発想の不気味さにひとりで戦慄した。

「そういえば公ちゃ、お兄ちゃん、今年はどうなの湘北」
「まだ4月だから部員も多いし、そうそう、ひとりすごく上手いヤツが入ってさ」
「へえ、今年は予選勝ち進めるといいね」

はそう言いつつ、ふと去年のことを思い出す。確か去年はなんだとかいうすごいのが翔陽やら海南やらを蹴って入部したと言っていた気がする。赤木とそいつがデビュー戦だから、試合を見に来ないかと誘われたのではなかったか。あの負け試合以降、木暮はそのことを一切口にしなくなってしまった。

わがままだがコミュニケーション能力の高いは、この温和な木暮が急に仲間のことを口にしなくなるということに、不穏な理由があるのだと見抜いていた。元気な体育会系男子でも部活外ではただの高校生である。なにが原因でも揉めたりすることもあるだろう。

は木暮の自転車の後ろに座って家路を辿る。疲れているのにを後に乗せて自転車を漕いでいる木暮の背中は年々大きくなっていく。初めて見た時から既に巨大だった赤木もまだ大きくなっているらしい。はぼんやりと考える。

私、夢中になれるものどころか、好きな人もいないんだな――

誰かを好きだと思う前にわらわらと男性に囲まれるにとって、恋はとてつもなくハードルが高いのだ。アナソフィア高等部1年はまだ翔陽デビューもしていないのだが、のように外で懲りているような生徒にとって、そんなものには期待など抱けなかった。

アナソフィアと公式に交流をしていて過去に問題行動があった例はなく、部活動が盛んで、偏差値も決して低くはない。そんな翔陽であるから、真面目で人のよい生徒が圧倒的に多い。閉鎖的なのが災いして少々個性が強い個体が発生しやすいアナソフィア女子の中には、翔陽男子が面白くないと感じる向きも多い。

それでも基本的には他の高校と変わらない。成績がいい、スポーツに秀でている、そして何より顔が整っている。そういう生徒は人気が出る。ただそれだけのことだ。はまず間違いなく人気が出る。だからといって、本人は翔陽の中でのように人気のある男の子と付き合いたいとは露ほども考えていない。

私に声をかけてくる男の子は、だいたいみんな話しながら目尻が緩くなってきて、浮世絵みたいな顔になる。

がそう言うと、木暮は大笑いしたものだった。笑い事ではないとは思うが、好きになれないものは仕方がない。それにあまり恋愛を重視するタイプでもない。必死に求めなくても向こうから寄ってくるので、積極的になりようがないとも言える。

私、人を好きになることなんて、あるのかな――

は懸命に自転車を漕ぐ木暮の後ろで、ぼんやりと三日月の浮かぶ夜空を見上げた。

自分の母親だけでなく、木暮と木暮の母親にも叱られたはバイト先に着替えを何組か置かせてもらうことにした。制服のまま出勤するのは仕方ないとしても、暗くなってから帰宅する時はとりあえず私服になることにした。そのため、バイト帰りのナンパはほぼなくなった。ただし、制服を着ている時は変化ない。

また、アナソフィア高等部の球技大会にては鮮烈な翔陽デビューを飾ってしまった。球技大会では、エキシビションマッチとして翔陽1年選抜チームとアナソフィア代表が対戦するというイベントがある。基本的にはアナソフィア3年対翔陽1年なのだが、今年は手が足りず、も駆り出された。

種目はバスケット、バレー、テニスの3種目。原則として翔陽1年はそれぞれの部員と身長170cm以上は出場禁止というハンデを負う。対するアナソフィアの方は制限がないので、最近は勝ってしまうケースも少なくない。そんなわけで、だいたい身長をクリアした3種部員以外のエース級が送り込まれてくる。

スピードや筋力は平均的なだが、器用貧乏としてはトップクラスなので、バスケットの助っ人にさせられてしまった。その話をすると、また木暮と赤木が教えてくれるというので、はシュート練習をして挑み、先輩の指示に従ってちょこまかと走り回ると、さくさくとシュートを決めてしまった。

当然そこからマークされてしまうので早々に出番は終わったのだが、翔陽男子諸君へは必要以上にアピールが出来てしまったことになる。この球技大会をきっかけに、早ければ夏前にアナソフィア1年と翔陽のカップルが出来上がる。部活をしていなければ次は文化祭までチャンスがないので、球技大会は大事な出会いの場でもある。

だが、を始め、翔陽男子にこだわりがない、そもそも興味がないというようなアナソフィア女子は少し面倒くさくもある。連絡先を交換しようという申し出をどうやわらかく断るか、それが大変難しい。は同じクラスのダンス部の友人と校内を逃げ回っていた。

「あーもう、なんでダメなの!」
……そりゃまあ、先生だからね」

職員用トイレの洗面台の前で、ダンス部の友人岡崎は髪を乱暴にかき回した。同世代に一切興味がないという彼女は、翔陽男子の引率でやってきた教師に連絡先を聞いて怒られた。大人の男性である教師に憧れるといえば、よくある中高生女子の風景であるかもしれないが、岡崎が突撃したのは50代のベテラン先生だった。

「父親より年上なんじゃないのあれ」
「年なんて関係ないの。ていうか年ならなおさら早くしないと残り時間少ないんだから」

確かに髪が灰色に見える素敵なおじ様のようではあったが、無茶にも程がある。

は興味ないの? 女の子好き? 彼氏いるんだっけ」
「んー、いないけど、なんかああいうノリ、苦手で。女の子もイマイチ違うみたいだし」
「女子好みは今日はほんとにつらいよね。緒方の取り巻きがカリカリしてた」

緒方も同じクラスの友人だが、彼女はいわゆる宝塚の男役のような女の子で、上下からラブレターが絶えないイケメン女子である。ただし、黙っていればきりっとした印象の背の高い美人なので翔陽男子くんたちは連絡先を聞きたがる。緒方の取り巻き女子たちはそれが面白くない。

がそのつもりになれば選びたい放題だろうにね」
「それは岡崎ちゃんも同じでしょうが」

岡崎もきれいな女の子である。だからこうして揃って職員トイレに逃げ込んでるというわけだ。

「難しいよね、彼氏欲しくないってわけじゃないけど、あれじゃないんだよっていう」
「好みがはっきりしてるだけマシだよ」
「あれじゃないの、なんか好かれてばっかりだから、冷たい人が好きだったりして」
「そうなのかなあ」

岡崎の言うように、何も絶対に彼氏なんか欲しくないというほどではない。ただは常に品定めをしているようなコミュニケーションが苦手だった。そういう意味では恋愛に夢を見ているとも言えるかもしれない。都合のいい相手を選び出してとにかく付き合ってみたらいいんじゃないかという意欲もない。

そこは共に育った木暮と同じ。好きになったら始めればいいというスタンスだ。ただ木暮と違ってはその気がないのに引きずり込まれそうになるから、余計に身を引いて忌避してしまうのだ。

「まあ、が男に夢中になってるところなんて想像つかないけどね」
「私もそう思う」

ふたりはトイレの窓から渡り廊下を見上げ、アドレス交換やらで沸いているアナソフィア女子と翔陽男子を眺めながら力なく笑った。

5月頃になると、アナソフィア女子たちは徐々にナンパのあしらい方を覚えてくる。無視型、いなし型、説教型、そして通報型がスタンダードである。何しろ抵抗のあまり騒いでしまうのが一番よくない。中でも一番技術がいるのは説教型だろうか。相手がバカでないと成功しないが、上手く嵌れば逃げていくのも早い。

は相手によってどれも使うのだが、いなして無視して引き下がらないようなら最悪通報する。

そうして高校生や社会人ならだいぶ上手に回避できるようになってきたが、木暮が心配したような「素行のよろしくない」若者が一番厄介だった。しかし、この手の連中はの生活圏に溢れかえっていたのである。この日もは、課題用に翻訳物の小説を求めて大きな駅を降りたところでその手のグループに捕まってしまった。

囲まれたのは3人と少なめであるが、なかなかにしつこい。あまり相手にしないように通り過ぎ、本屋にも無事に入ったのだが、まだ諦めてくれなかった。しかもそれを見越して裏の出入り口から出たも読まれていて、待ち伏せされてしまった。

ビル5階建ての大型書店だが、1階の裏出口付近は常に人通りが少ない。久々にピンチだった。こうなるとアナソフィア伝統のナンパあしらいの中でも危険を伴う最終奥義、「着いていく振りをする」しか手段がないようにには思えてきた。

ただしこの方法は遺恨を残すので、よっぽどうまくやらなければ危険が増す。この時のように素行がよろしくないタイプに使用するのは賢い選択とは言えない。だが、他に手段もない。既には片腕を掴まれていた。

「痛いから離してよ。乱暴する気?」
「乱暴なんかしねえけど、そういうのも悪くないんじゃね」

ニヤニヤしながら近付いてくる顔をグーで殴りたい。はそれをぐっと我慢する。こいつらの神経を逆なでしないように、だけどなんとかして逃げ出す方法はないだろうか。そんなことを考えながら、は無性に泣きたくなってきた。めんどくさい。全てめんどくさい。

その時である。は腕を掴んでいた男に体当たりされてよろめき、腕を解放された勢いで書店ビルの壁に激突した。一瞬視界が暗転し、足に力を入れてなんとか体を立て直す。一体何が起こった?

バッグを胸に抱えつつが顔を上げると、ナンパ3人組が地面に転がっている。そしての正面辺りに背の高い学ランがポケットに手を突っ込んで立っていた。木暮周辺に学ランの知り合いがいないわけではないが、の顔見知りでないことは確かだった。肩まで届きそうな長髪だったからだ。

「誰だてめえ、いきなり蹴るとか」
「うるせえ、オレの前でナンパなんかしてんじゃねえ! 汚ねぇ面しやがって」

長髪の学ランはそう言いながらナンパ3人組の脱げてしまった靴を蹴り上げた。からは垂れた髪で顔が見えないのだが、どうやら怖い顔でもしていたようで、ナンパ3人組は倒けつ転びつ逃げていった。はやっと大きく息を吸うことが出来た。誰だか知らないが助かった。有難い。

「あの、ありがとうございまし――
「てめえもアナソフィアの制服なんかでウロウロしてんじゃねえ!」

お礼を言いかけたに長髪学ランが怒鳴る。長髪がふわりと翻って顔が露になったが、人相が悪い。

「は!?」
「は、じゃねえだろそんな制服着てるからバカが寄ってくるんだろうが!」
「趣味で着てるわけじゃないんですけど」

人相も言葉も悪いのだが、なぜかはこの長髪学ランには嫌悪も恐怖も感じなかった。しかも言っていることがおかしいので、つい反論してしまった。気持ちはわからないでもないが、一応下校途中である。制服で何が悪い。悪いのは絡んでくる男の方で、自分に非は一切ない。

「そっちだって制服……あっ、湘北だ」
「湘北で悪いかよ」
「そんなこと一言も言ってないでしょ! 助けてくれてありがとうって言おうとしただけじゃない!」
「助けた覚えはねえよ! ナンパがムカつくから片付けただけだ!」

襟元の校章が木暮の制服に付いている物と同じだった。湘北はいわゆる「不良」がなかなか減らないと木暮がこぼしていたことがある。それに反して真面目な生徒も多いので軋轢を生みやすいのだとか。

は少しでもこの長髪学ランに感謝したことを後悔した。

「だけど私は助かったの! どうもありがと!」

は上背のある相手を見上げながら、精一杯睨んでそう言った。すると、長髪学ランはの顔をじっと見下ろしながら首を傾げた。人相は果てしなく悪いし、目一杯不貞腐れている顔だが、目鼻のバランスは整っているし、髪も肌もきれいだった。

「お前、どこかで――
「三井、こんなところにいたのかよ」

きょとんとしているに長髪学ランが手を伸ばしかけた時、の背後から掠れた低い声が響いた。

「何やってんだ、ナンパか? 珍しいな……
「違えよ」
「へえ、アナソフィアか。こういうのが好みだったのかお前」
「違うっつってんだろ、行こうぜ」

三井と呼ばれた長髪学ランはの横をすり抜けていく。ついそれを目で追ったは掠れた低い声の主を見て少し怯んだ。ぼさぼさの長髪で無精ヒゲ、口に煙草を添えている手の甲は硬く盛り上がった傷跡で一杯だった。三井も充分ガラが悪いが、こっちはそんなレベルではないらしい。

去っていく三井の後姿をぼんやりと見つめていたは、妙な既視感を覚えた。そのの視線を感じたのか、三井が静かに振り返る。髪が揺れて広がり、思い出せないものを手繰り寄せているような表情がちらりと横切った。の視線とぶつかり、ほんの1秒ほどの間、ふたりは見詰め合った。

やがてまた三井は振り返り、駅の方へ消えていった。はその妙な既視感を抱えて、とぼとぼと歩き出す。あんな風な「不良」に知り合いなどいない。自身は女子校だし、兄にも等しい木暮の友人たちは例外なく真面目で優しい。あんな風に怒鳴ったりは絶対にしない。

今頃になってまた腹が立ってきたは、書店のビニール袋を電柱に叩き付けた。

なんなのよアイツ、ムカつく!