満月の夜に革命を

09

さすがに疲れてもいたので、はテスト休みに入ってすぐは部屋に篭って昏々と眠った。そして3日目にやっと起き出して、夕方からでいいというアナさんに従って家を出た。すっかり気温の下がった12月、帽子やマスクでガードを固めるのが楽な季節になってきた。

師走というだけあって、世の大人たちは何かと忙しい。そのせいでロダンは12月になると暇になることが多い。熱心なアナさんのファンでもさすがにクリスマス前までは足が遠のく。そんな状態なので、がテストで休んでもまったく影響はないが、アナさんが退屈する。

久々にロダンに顔を出しただったが、やはり客はひとりもおらず、アナさんがつまらなそうにキセルをふかしていた。しかし、19時を過ぎた頃になって常連客がちらほらと集まり始めた。これもある意味アナさんの取り巻きのようなものだ。

、今日はもういいよ。クリスマスの件はまた連絡するわ」
「はあーい」

しかも特に親しい取り巻きの皆さんだったようで、は20時前にはあがってよいと言われてしまった。今日も21時までと思っていたので、20時を過ぎてから三井にメールしようと思っていた。は三井にメールを送りつつ帰り支度をして、ロダンを出た。

ロダンの向かい、ビルのエントランスになっていて何もない壁際に立つと、アナさんが窓にロールスクリーンを下ろすのが見える。これはまた麻雀だなと思いつつ、は携帯を取り出してメールを確認する。内容に関わらず三井はあまり返信を寄越さないので、いつものことなのだが、やはり返信は来ていない。

壁に寄りかかり、は空を見上げた。少しだけ欠けた、今にもまん丸になりそうな、いびつな月が小さく夜空に浮かんでいる。さも当たり前のように三井にメールをしてここで待っているが、三井が来る保証はないのだ。の胸の辺りが少しだけ疼く。

三井は必ず毎回迎えに行くなど一度も言ったことはない。必ず来ていたわけでもない。メールの返信はない。それでもは壁に寄りかかって三井を待ちたかった。なぜだか彼は必ず来てくれるという確信があって、それが確実に間違いだったとわかるまではこの場を離れたくなかった。

岡崎ちゃんたちに言わせれば、どうやら私は寿くんに恋をしているらしいけど、寿くんはどうなんだろう――

ロダンから漏れる細い灯りと月をぼんやりと眺めつつ、は待った。

がロダンの前で三井を待ち始めて30分。冷たい空気に踵を上下させていたの視界に、黒い影がすっと飛び込んできた。それに気付いたが勢いよく顔を跳ね上げると、少し驚いたような表情の三井が佇んでいた。だいぶ寒くなっているというのに、モッズコートの前をはだけている。

「今日は早いんだな」
「寿くん……
「え!?」

いつものようにやや不機嫌そうな顔をしていた三井だが、の顔を見るなり足を止めて目を丸くした。が急に泣き出したからだ。何を思ったかは三井の顔を見た途端、ぽろぽろと涙を零した。何の理由もなく目の前で女の子に泣かれた三井は固まっている。その三井には飛びついた。

はだけたモッズコートの中に腕を差し入れて、三井の背中に手を滑らせ、ぴったりと体を寄せた。冷えた肌に涙が熱い。固まっていた三井だが、3秒ほどで元に戻るとゆっくりと手を上げての背中を撫でた。

「おい、どうした。大丈夫か」
「寿くんの顔見たら気が緩んじゃった」
「何かあったのかよ」

そっと撫でていた三井の手が離れ、両腕が背中に回されたのを感じて、は頬を擦り付ける。暖かい。

「ずっと忙しくて……ストレス」
「ストレス!?」

鸚鵡返した三井は、コートに包んだの体を抱き締めて、とうとう吹き出して笑った。声を立てて笑った。は小賢しくも手を変え品を変え、なんとかして笑わせてみたいと思っていたけれど、まさかこんなことで堰が切れるとは。笑って欲しかったけど、こういうことじゃない。

「おま、ストレスって!」
「わ、笑うことないじゃない、私は――

が顔を離して見上げると、目の前に三井の笑顔があった。目が少し細くなって、険しさが取れている。

「どうせテスト忙しかったからとかそんなことだろうが」
……そうだけどさ」
「ストレス溜まって泣くほど勉強とか信じらんねえな」

三井はの頬の涙を親指で払いつつ、ゆるりと微笑んでいる。優しい笑顔だった。不機嫌の奥底に隠れている本当の三井を見た気がして、はつい口を滑らせた。

「寿くん、会いたかった」

三井の手が止まる。はまっすぐに見上げている。頬にあった指が徐々にの髪の中に潜り込み、顔がゆっくりと近付く。鼻が触れそうな距離にまで来て、は静かに目を閉じた。そして、音もなく唇が重なり合う。三井の髪がはらりと落ちかかって、静かなキスを覆い隠している。

ほんの少しだけの上唇を吸い上げて、三井は離れた。はまたぴたりと体を寄せて抱きつく。三井はそのの体をしっかりと抱き締める。12月の冷たい空気の中で、は目を閉じて深呼吸する。

……寿くんの匂いがする」
「な、なんだよ、それ……
「嬉しいなあと思って。今、なんだかすごい嬉しくて」

の言葉に、三井は俯き、の頭を抱え込むと、小さな小さな声で呟いた。

……

その声には目がじわりと熱くなるのを感じた。初めて名前を呼んでくれた。嬉しくて幸せで胸が詰まる。

「いいのかよ、オレで」
「いやだったらしないよ、こんなこと」
……変な女」

照れながら吐き捨てた三井の唇に、またはチュッと音を立てて唇を押し付けた。

どれくらいそうしていただろうか、ロダンから漏れてくるアナさんのけたたましい笑い声にふたりは我に返った。まさかそんなことはないだろうが、誰か出てきたら面倒だ。

……行くか」
「えっ、帰るの?」
「帰るの、って、帰るんだろ。なんか用でもあるのか」

は三井の腕に絡みつき手を繋ぐ。まだ一緒にいたい。

「やっと会えたのにもう帰るの?」
「そんなこと言ったってお前、どこ行くってんだよ」
「もう、お茶くらいならいいでしょ!」

やっと三井は納得したらしい。は三井は気が利かないのではなくて、こういう状況に慣れていないのではないだろうかと勘繰る。グレているからといって女遊びが激しいとは限らないのだ。ただでさえナンパが腹立つという彼の場合、もしかしたらこういったことが苦手なのかも、とも考える。

は三井を引っ張って人の少なそうなカフェに入った。ちょうど壁際のカウンター席が空いている。あれなら誰にも顔を見られずに済む。遠慮する三井を押し返し、シュート練習のお礼と言ってはココアをふたつ買う。カウンターに並んで座っただが、すぐに立ち上がると椅子を寄せて、すぐ隣に座り直した。

「何をそんなにニヤニヤしてんだよ」
「ニヤニヤって。ニコニコって言ってよ。まだ嬉しいので機嫌がいいのです」
「安い女だなほんとに。まあオレ金ねーからいいけど」

以前に比べると三井の言葉がずいぶん軽くなった気がして、はまたにんまりする。

「そうなんだよねー。なんと今年はクリスマスも年末年始も一緒にいられない安い女なんだよ」
「へえ、なんかあんのか」
「クリスマスっていうか冬休み入ったら今年は海外なの」
「すげえな、お前の家そんなに……あれ?」

そう言いつつ三井は夏祭りの帰りに送って帰った時のことを思い出す。の自宅は平均的な一戸建てで、別段裕福そうには見えなかった。それに気付いたはまたにんまりしつつ、三井の肩に寄りかかる。

「お金持ちとかじゃないよ。親戚がね、たまたま海外赴任中でこんな機会ないからって招待してくれたの」
「海外ってどこ」
「台湾」
「近所じゃねーか」
「でしょ。だからまあ海外と言っても、というところで。行くだけだから友達にも内緒。お土産買わないから」

だから、岡崎のダンス大会はそもそも行きようがなかった。

「私だけ行かないって言えばよかったなあ」
「なんでだよ、もったいねーな」
……あのね、そしたらね、ずっと寿くんと一緒にいられたのになあとね? 親もいないんだし」

言われて初めて気付いたらしい三井はウッと息を飲んで照れた。色々鈍感ではあるようだが、やはり根は少々シャイなのだろう。親のいないクリスマスと年末年始を一緒に過ごしたかったと言われた意味が大きく膨らんで、彼を圧迫しているに違いない。

「でもさ、2月になるとちょっと暇になるから!」
「ああ、うん、そうか」
「バイトの帰りだけじゃなくてさ、どこか遊びに行こ」
「ああ……

膝に置いてあった三井の手には自分の手を重ねる。その手を返した三井は指を絡めて頷く。

「そうだな……

繋いだ手に目を落として幸せに浸っていたは、そのすぐ上で三井が険しい顔をしているのに気付かなかった。出会ってから約半年、ふたりが少しずつ距離を縮めていったことを知る者はいない。も三井もお互いのことは親しい友人にも話したことがない。ただふたりだけの世界だった。

人を想う気持ちに間違いなどないし、と三井さえ何も気にしないというならそれでいい。だが、にはの、三井には三井のプライベートがあって、どちらもそれについては殆ど知らないという少々危なっかしい関係ではあった。特に三井は抱えているものが重く暗く、容易に手放せなくなっていた。

今こうしてと手を繋いで寄り添っていることも、半分は三井自身が望み得た結果と言えるだろう。しかし、自分が持っている世界の全てを投げ捨てて、だけに夢中になるには、三井という人間は自分の中の闇に深入りし過ぎた。と想い合っていても、このグレた生活から抜け出るつもりもなかった。

当然はそんなところまで考えが及んでいない。自分と付き合ってくれるのだから更生してくれるとも考えていない。ただ目の前の三井しか知らないには、彼の向こうには荒んだ世界が今もあるのだと、そこまで考えてみようともしていなかった。

無邪気に甘えてくるに戸惑ったのは、三井の方だ。

アナソフィアというブランドは、少々世間体のよろしくない立場にある彼にとってはあまりに重い。がアナソフィア始まって以来の珍事だと思った以上に重く伸し掛かる。アナソフィア女子と湘北ヤンキー。安直だが確実な第三者の反応は間違いなく三井を悪者にするだろう。

プライドの高い三井にとって、それは許しがたい状況だ。だが、そんなことを誰が言うのだ、そんな事態が起こるとは限らないじゃないか、という冷静な感情はない。どうせ誰も彼もオレが悪いっていうんだろう――

を想う気持ちがある一方で、何もかもに恵まれているように見えるに対して嫉妬と羨望を感じる。は何も言わないのに、のせいで自分を蔑む。のような、甘ったれた子供のような女、自分とは住む世界が違うはずなのに――

けれど、に惹かれている。それだけはどうしても否定できなかった。

21時半が過ぎ、帰りたがらないを引っ張って店を出た三井は、もやもやする心を慎重に隠しながら家まで送っていった。聞き分けが悪いわけではないのでは素直に歩いている。が、家まで送り届けたところではまた三井にへばりついた。

「どうした」
「離れたくないなあと思って」
「誰かに見られたらマズいんじゃないのか」

隣の幼馴染や家族や。だがは離れない。

「おい、いい加減に――
「寿くん、オトナだね」
「そんなんじゃねーよ」

の拗ねた声に三井は身を引き、額を合わせる。

……お前が考えてるほど簡単じゃねえんだよ」
「どういう、意味?」
「オレにもよくわかんねえ」

そして、怪訝そうな顔をしているに唇を押し付けた。

「またな」

それだけ言うと、混乱気味のを残して、三井は走って行ってしまった。はわけがわからず、自宅の前で去りゆく三井の後姿をぼんやりと眺めていた。少し欠けたいびつな月が雲間から姿を現して三井の背中を照らす。その後姿にの記憶の奥底にある何かがゆらりと揺れた。

どこかで見たことがある気がする、これは一体、何の記憶?

は唇に触れる。キスの感触が蘇る。三井の後姿とその感触が交じり合って、の胸が軋む。なんだろう、これは。幸せしかないはずなのに、どうしてこんなに切ない気がするんだろう?

三井の姿が見えなくなると、月はまた雲に隠れてしまい、闇が辺りを覆い尽くした。

これが、湘北のロン毛ヤンキー三井との別れとなった。