満月の夜に革命を

08

確かに凶悪な表情をした三井を怖いと思ったのだが、追いかけてきた時にはもうのよく知る顔になっていた。しかも、まだ気まずいようで、ベンチに並んで腰掛けると、にもらったシリアルバーをかじりつつ、しきりと髪をかきあげている。こうなるともうまったく怖くない。

自分のためにも三井のためにもそのことはほじくり返したくなくて、は関係ない話を始める。

「あれ? 湘北って明日からテスト、だよね」
「ああ、まあな。だから徳男ん家追い出された」
「へえ! 徳男くん勉強頑張るのか、意外」
「いや、あいつの親が騒いで」
……ああ、なるほどね」

だからこんな時間に住宅街をうろついていたということか。は自分でもシリアルバーをかじりながら、ちらりちらりと三井の方を見る。少し顔を背けていて、表情はあまり見えない。

「寿くんは……
「まあ適当にな。お前はどうなんだよ」
「私もう終わったもん。二学期はイベント続きだから忙しいんだよね」

テストのことには触れられたくないようなので、は自分の話題にスライドする。アナソフィアはこれからスポーツ交流会と文化祭と生徒会選挙を控えていて、期末テストが終わるまで慌しい。そのため、期末明けの休みになるとアナソフィア女子は本当にテスト疲れでダウンしがちだ。

「それでこれか」
「あ、うん、球技大会の時に駆り出されて、また今回もね。別にうまくないんだけどさ」

三井は直視せずにの抱えているボールを指差した。

「ちょっとは練習しとかないと、と思って。なかなかうまくいかないけど」
「1日練習したくらいじゃなあ」
「だよねえ。いくら私でもそう簡単には」
「ふん、よく言うわ」

三井は軽く鼻を鳴らして口元を歪めた。はそれを見て少しホッとする。

「ねえ、見ててくれない? 自分じゃちゃんとできてるかどうかわからなくて」
「え」

ボールを抱えたは、ゴールポストの手前で立ち止まると素早く振り返り、にやりと笑う。そしてひょいとボールを放り投げた。もちろん落ちる。リングにはかすりもせず、バックボードの端にぶつかって跳ね返ってきた。それを見ていた三井は、無表情のまま吹き出した。

「しょうがないでしょー。普段授業でもやらないんだから」
「す、すまん、悪い、つい、お前フォーム汚すぎ」
「なによう、じゃあやってみてよ」

は口を尖らせてボールを投げた。三井は手にしていたシリアルバーを取り落としてボールを受け取った。

……オレは、運動神経、いいんだぞ」
「って前も言ってたけど、私見たことないし」

なぜだか三井は複雑な表情でボールを見つめている。しかし手が大きいとボールが小さく見えるとは思う。三井はその手でボールを持ち上げると、のろのろと立ち上がる。本当は運動苦手で、見栄張っていただけだったらどうしようとは今更冷や汗をかく思いだが、三井は投げるらしい。

「ん? そんなところから投げるの?」
……3点シュート」
「入るの〜?」
「入るよ」

今から茶化しておいて、失敗しても笑って済ませられるようにしようとしただったが、三井はすっとボールを構えると、軽く飛び上がり、静かにボールを手放した。ボールは高く舞い上がり、リングの真ん中へと吸い込まれて行った。シュッと乾いたネットの音だけを残して、ボールは地面に落ちる。は言葉が出ない。

「ほれみろ。入っただろうが」
「す、すごいね、なんか、吸い込まれていったよ? どうやってやるのこれ」
「どうやって、ってお前な」

ボールを拾ってきたはボールとリングと三井を順番に見ては首を傾げている。そして、三井に並んでボールを掲げ、ちらりと見上げる。三井はそれに気付くと少し顔をしかめた。

「これでいいのかな」
……投げてみれば」

見よう見まねで放り投げてみただが、やっぱり入らない。リングにすら届かず、そのまま落下した。

「3点で稼ごうとしないで近くで投げればいいじゃねーか」
「そういうつもりじゃないんだけどな……

はゴールから少し離れただけの場所でまたボールを構え、投げる。今度はリングに当たった。

「膝を使って、軽く手放すように、って教わったんだけど、出来てる?」
「出来てたら入るだろ。膝も手も出来てない」
「えー」

三井がベンチに戻らずにいるので、はそのまま投げる。入らない。

「肘」
「えっ、ひじ?」

腕組みの三井がそう言いながら、の方へ歩み寄る。ボールを拾って掲げたの後ろに回ると、ボールを持ち上げたままのの両肘を押して内側に寄せる。いつかが錯覚したように、腕に三井の長い指が触れる。

「肘が開いてる」

ちょうど頭の真後ろに三井の声が降りてきて、背中にさざなみのような痺れが走った。そして、少しの隙間を置いているだけで、背中に沿うように立っている三井の体温が空気を伝ってくるような気がする。ボールを掲げたままのは、急にドキドキしてきて、そして肩から徐々に震えが走る。

「ん? おい一回下ろせ、ボール重いんだろ。てかこれ、男子用じゃないのか」
「ご、ごめん」

は三井に気取られないように、しかしさりげなく呼吸を整える。頬が熱い。その上、なんだか恥ずかしいのに心が浮いてきて、楽しいような気がする。はぐるぐると渦巻く感情を飲み込み、何でもないように装う。このままこうして教えてもらいたい。このまま近くにいて欲しい。

「じゃ、もう一回、ね」
「おう」

は雑念を振り払ってボールを掲げなおす。肘も内側に入れる。の手を離れたボールはぶれることなく飛び、今度はリング中央の位置ながら、またバックボードに当たって跳ね返ってきた。惜しい。

「位置は悪くないじゃねーか」
「だ、だよね? そうだよね? すごい! 私すごい!」
「自画自賛かよ」

三井はふんと鼻を鳴らす。ああもう少しで笑いそうなのに! は自分のシュートよりもそれが惜しくて、代わりに三井に笑いかける。ちらりと眉を上げたけれど、やっぱり笑ってはくれない。しかし焦っても仕方がない。は手首に付けていたヘアゴムを外して差し出した。三井は黙って受け取り、髪をまとめて縛り上げる。

「おっ、似合うよ」
「あーそうかよ。さっさと投げろ」

また笑いかけたに三井は追い払うように手を払った。それでもこの日三井は、昼過ぎまでのシュート練習に付き合ってくれた。だけでなく、の自転車に乗ってを後ろに乗せ、自宅まで送り届けてくれた。歩いて帰っていく三井の後姿が見えなくなるまでは見送っていた。

スポーツ交流会は10競技中6競技で勝利を収め、バスケットも何とか勝っては役目を終えた。だが、春の球技大会の時より上手くなっているのはどういうわけだ、観念して入部しろと本職に脅された。を欲しがっているのは運動部だけではないので、最終的には部長同士の争いになっていった。

アナソフィアは文化部が強く、特に演劇部と吹奏楽部は県大会はもはや当たり前。他には書道部とダンス部も華々しい活躍がある。中でも演劇部は高校に進学してきて以来を虎視眈々と狙っている。こういう器用貧乏は演劇部では重宝するからだ。見栄えもするのでなんとかして手に入れたい。

だが、はひとつのことにずっと構いきりになるのが苦手だった。飽きやすいというわけでもないのだが、他のことに興味を持てない気がしてやる気が出ない。そんな気持ちで軽々しく参加したくないは部の勧誘を断り続けた。

さらに今度は文化祭が待っている。翔陽男子が全校をあげて押し寄せてくるし、翔陽の文化祭の方も何かの担当になってしまうと逃げようがないので、はできるだけ目立たず過ごして、翔陽の文化祭には行かなくてもいいように立ち回った。

アナソフィアの文化祭でもクラス展示にはきちんと参加したが、基本的に当日は逃げ回っていた。クラス展示はちゃんと担当時間を守るが、それさえ終わったら講堂に逃げる。手ぐすね引いてを狙う演劇部がいるが、翔陽男子に囲まれるよりはましだった。

今年はダンス部が後夜祭の講堂で何か余興をやるというので、それを見るつもりだった。だが、そのダンス部の余興が終わったところでは岡崎と演劇部のスーパールーキー緒方に捕獲されてしまった。楽屋代わりの搬入路に引きずり込まれ、ダンス部の衣装を着させられてステージに放り出された。

気付くとは金髪のウィッグを頭に、ワイヤレスヘッドセットを耳にひっかけてステージの上に岡崎とふたりきり。呆然としているの足元のモニターから聞こえてきたのは「Bad Romance」であった。岡崎に教わってよく教室でふざけて踊っていた。岡崎ちゃん、それを先輩たちにチクったな。

ヤケクソのは岡崎と「Bad Romance」を歌って踊った。客席を埋め尽くすアナソフィア女子と翔陽男子諸君にバカウケした。調子に乗ったダンス部の先輩方は「InToTheGroove」を流す。今年の1年生の練習曲だ。は乱入してきた1年生ダンス部員と一緒にまた踊り、この日最高の喝采を浴びた。

ヤケクソだったとはいえ、にとってこれは黒歴史として記憶されることになる。

この間はバイトも出たり出なかったりで、ほとんど三井とも会えないままになっていた。特にシュート練習の時のお礼をしたいと考えていたのだが、どうしても時間が取れない。しかもそんな風に慌しく過ごしている間に期末前になってしまう。今度こそバイトにも行かない日々が始まる。

中高一貫校のアナソフィア高等部1年生が一番疲れる時期だ。やや隔離されている中学生と違って、学内のイベントには何かしらの参加が義務付けられるし、もちろん普段の学校生活がなくなるわけではないからだ。

それでも毎年ほぼ3倍という倍率の狭き門を突破してきたアナソフィア女子は、ぶうぶう文句を言いながらもきちんと乗り越える。長いアナソフィアの歴史の中で、学校生活に着いて行けなくなって退学した生徒はただのひとりもいない。あのアナさんもそのひとりだ。というかアナさんは首席卒業である。人は見かけによらない。

「はー疲れたー。これでやっと3時間以上まとめて寝られるわ」
「岡崎ちゃん少し肌ケアした方がいいよ」
「あれっ、やばい? ちょっとカサカサしてるなとは思ってたんだけど」

岡崎は目の下に青いクマができているだけでなく、肌も髪も全体的に乾燥している。

「マズいな、ちゃんと休んで体も戻しておかないと」
「また大会? クリスマスだっけ」
「そう、横浜だよ。見においでよ」

ダンス部はアナソフィア内では発表の場がない疎外され気味の部である。なので彼女たちは許可が下りる限り校外の大会に赴いていく。クリスマスに横浜で行われる大会は3年生引退後の初の大会となるため、期末を乗り越えたダンス部はこれからまた練習漬けの日々が始まる。

「行けたらね〜」
そう言って来た試しないよねえ。ほんとは彼氏でも隠してんじゃないの?」
「まっさかあ」

だが、岡崎は納得できないという顔をしている。それも仕方あるまい、は岡崎の言葉に三井を思い出して目が泳いだからだ。彼氏ということにはなっていないが、幼馴染の木暮たちを除けば、今一番親しい男の子ということになる。三井のことを一言で表すのにちょうどいい言葉がない。

不審そうな顔をしてを見上げている岡崎の顔に重なって、春からのことが思い出される。助けてもらったこと、Heaven'sDoor、手を繋いで帰って、ピアノに歌、夏の花火、抱き締められて、シュートを教えてもらった。

寿くん、会いたいな――

「ふふん、彼氏はいないけど、好きな人はいるってとこかな?」

優しく微笑んだ岡崎はぼんやりと突っ立っているの手をそっと取った。

「アナソフィアでも高嶺の花のの心を奪った罪深い男は誰よ?」
「罪深い?」
「そりゃそうでしょ。翔陽プリンスくんたちが名前も覚えてもらえないお姫様よ」

芝居がかった岡崎の言葉には苦笑い。そりゃあ仕方ないよ、プリンスくんたちは浮世絵なんだもん。だけど、寿くんは浮世絵にならないんだもの。髪型なんか今時珍しいセンター分けのワンレンなんだから。しかも湘北でグレてるんだよ。アナソフィア始まって以来の珍事じゃないかな。

……そうかもしれない」
「うん?」
「罪深いかもしれない。懺悔してこなきゃだめかもしれない」

にやりと笑ったの後ろから緒方が近付いてきて、するりと腕を絡ませて抱き締める。

「これはこれはお姫様方、なにをそんな乙女な顔してんの」
「王子様、どうも姫は恋をしているようでございます」
「なんだと、私と共に城に来てくれると言ったではないか。とんだ浮気者の姫よ」

背が高く手足の長い緒方はスカートさえ履いていなければ、翔陽プリンスたちに並ぶほどのイケメンになる。は緒方の腕を抱き返してゆらゆらと揺らした。少し照れくさい。この気持ちは本当に恋なのだろうか、正直自信はなかったが、三井に会いたいと思っているのは本当だった。

「緒方王子は取り巻き全部片付けてきたらお供いたしますわ」
「もうそれほんと私のせいじゃないからね」

緒方の取り巻きは中々に怖いお嬢さんたちの集まりだが、緒方当人は男性の筋肉をこよなく愛する乙女でもある。幸い翔陽や同年代に彼女のお眼鏡にかなう筋肉の持ち主はそういないので、取り巻きのお嬢さんたちはしばらく安泰のはずだ。

「しかし気になるわ〜。を落としたんでしょ〜。色々想像しちゃうけどなんかどれも違う気がするしな〜」

岡崎はニヤニヤしているが、きっと彼女の想像の中になど三井は絶対に浮かんでこないと思うと可笑しい。は吹き出しそうになるのを堪えて緒方の腕にくるまれていた。

次のバイト、いつだったっけ。テスト終わったよ、ってメールしないと。会いたいなあ――