満月の夜に革命を

05

駅から続くメインストリートだが、テナント型の個人店が並ぶようになると、徐々に歩道の幅も狭くなり、細かい路地の奥には住宅が目立つようになってくる。Heaven'sDoorも駅からはだいぶ離れているが、ロダンはそれよりも更に奥に位置している。

シャッターが下りたままの理髪店の角を曲がって2軒目がロダンである。かつて白かったであろう壁には蔦が這い、木製のドアは塗装が剥げて柄物のようになっている。ドアの上にぶら下がる看板には古めかしいモダン書体で店名が記されている。その上店主があれではコッテコテのレトロ喫茶と言えるだろう。

しんと静まり返っているロダンの前で、は少し俯いてまた三井に謝った。

「今日はほんとにごめん。まさかここと繋がってるなんて思わなくて」

がロダンで何年アルバイトしようが、Heaven'sDoorに足を踏み入れることはなかっただろう。アナさんはなどまだまだ子供と言い張って譲らないので、飲酒や夜の街歩きには意外とうるさい。例えかつてのバイト君の店でも、が顔を出していると知ったら説教されるだけでは済まないかもしれない。

「夜も迎えになんて来なくていいから。いつもはちゃんとひとりで帰ってるんだし」
「夜はナンパされねえのか」
「私服だし、帽子被って眼鏡かけて、マスクもしたら完璧」

は頑張って笑顔を作る。Heaven'sDoorのマスターがロダンと関わりが深いとわかってから、三井がものすごく不機嫌になっていたのをは感づいていた。無理もない。好ましいわけでもない人間が、自分の居場所を侵略しているようなものなのだから。それがひどく申し訳なかった。

「マスターはああ言ってくれたけど、あの店にも行かないからね。安心して」

アナさんにも怒られるから、とは付け加えてイヒヒと笑って見せる。は何も三井のプライベートに土足で踏み込む気などなかった。ただちょっとにとっては珍しい人種なので、激しく好奇心を刺激された上に、三井や徳男の顔が浮世絵にならないので、嬉しかっただけなのだ。

そうやってが愛想笑いで取り繕っているのを三井は黙って見下ろしていた。そして、言葉が切れたの手を静かに取った。突然手を取られたは、目を落としてぎょっとした。一体何? だが、三井が何かをする前に、ふたりの真横で急にロダンのドアが勢いよく開いた。

その衝撃でと三井の手はパッと離れる。顔を出したのはアナさんだった。

、何やってんのあんた。誰この子」

きついオールウェーブの黒髪に薄い眉、美しいが鋭い目、真っ赤な唇と爪。生で見るアナさんの迫力はハンパない。小柄で細身だが、眼光だけで命を吸い取られそうな迫力がある。アナさんは三井を見上げると、ついっと片眉を吊り上げた。

、男できたの?」
「違うよ、ナンパに捕まってたところを助けてもらったの。しかも送ってくれて」

かなり端折っているが間違いではない。が、アナさんは興味なさそうだ。

「公ちゃんと同じ高校なんだっていうからさ」
「公ちゃん……ああ湘北ね。バカ学校じゃないのよ」
「アナさん!」

そりゃあアナソフィアに比べればバカかもしれないが、それにしてもえらい言われようだ。アナさんがアナソフィア女子だった当時の湘北は今よりも学力が低かったそうだ。本人いわく「卒業後の進路の半分が花嫁修業だった」頃のアナソフィア女子であるアナさんだが、近隣の高校への査定は厳しい。

「まーいいわそんなことは。〜コーヒー入れて〜、頭ガンガンするわ」
「また酒飲みながら麻雀してたんでしょ、もう」

アナさんが店内に入りドアが閉まると、または三井に謝った。

「重ね重ねごめん……
「なんかすげーなアナさん」
「だから迎えなんて来なくていいからね! 今日は本当にありがとう、楽しかった」

これ以上三井を引き止めてはならない。はそう考えてぺこりと頭を下げると、ロダンの中に飛び込んだ。

ロダンの客層は、基本的にリピーター100パーセントとなっており、流しの一見さんは滅多に入ってこない。年齢層は高く、正確な数字はわからないが、少なくともの両親よりの祖父母に近い世代と思われる。また、堅気の匂いが薄い人物も多く、年齢層が高い割に長髪とアクセサリーが多い。

そのほとんどがアナさんの友人も同然で、ご新規さんの場合はリピーターに連れてこられて顔を出すようになる。いわばここはアナさんを中心とした、ちょっとグレた大人の溜まり場なのだった。

それでも業務形態は喫茶店で間違いなく、営業中にアルコールは出さないし、アナさんは料理の腕もいい。は目下その辺りを厳しく仕込まれている最中である。アナさんはグレていても「女は家事が出来て当たり前」という古風な思想の持ち主なので、おそらく近いうちにあのマスタードも習い始めることになるのだろう。

が入れたコーヒーを啜りながら、アナさんは店内に4組あるソファ席に体を沈めた。

「いやあ、にもとうとう男が出来たのかと思ったわあ」
「残念でしたー。私、そんなに惚れっぽくないもん」
「でもわりかしいい男だったじゃないの、あれなら。あんたにはあのくらいが合うわよ」

頭が痛むのか、こめかみをぐりぐりと指で押しながらアナさんは言う。

「悪ぶってる風だったけど、あんなのはかっこつけてるだけだし」
「へえ、そんな風に見えるの」

Heaven'sDoorのマスターはともかく、アナさんが言うと説得力がある。はカウンターに腰掛けてコーヒーのご相伴に預かる。13時から勤務ということになっているが、客が来なければ仕事はない。

「たまにいるのよね、あんな風な、グレてる風に装ってるけど染まりきれてなくて匂いの薄いのが。グレてるのが性に合ってるってのもいるけど、あの子は違うわね。ちょっと前まではまっとうな子だったんじゃないかしら」

はアナさんの話に聞き入る。の数倍は人生経験のあるアナさんには、三井がそのように見えているというのか。そうするとが三井に恐怖感を感じないのにも説明がつく。鉄男のように芯からグレていないから怖くないということになる。

Heaven'sDoorのマスターも同じだ。グレた大人でも、アナさんにこき使われてたということは、そこそこ厳しく躾けられてきたはずだ。地下でグレた商売をしていても、アナさんに怒られるような真似は絶対にしない分別を持っているだろう。だから怖くないし、と普通に会話が出来る。

「面白くないことでもあってグレてるんでしょうけど、臍曲げて拗ねてるってことよ。可愛いわね」
「ふうん、グレるんでも色々あるんだね」
「自分でもっと深みにハマろうとしなきゃいいけどね」

意味がわからなくて首を傾げたに、アナさんはふんと鼻を鳴らして笑う。

「そういう中途半端なやつほど、もっと完全なワルになろうって思っちゃうのよ」

には三井などすっかりグレてしまっているように見えるのだが、アナさんの目には子供の駄々に見えるらしい。しきりに頭が痛いと呻くアナさんを無視して、は三井の不機嫌そうな横顔を思い浮かべていた。何が面白くなくて寿くんはグレてるんだろう、グレる前はどんな人だったんだろう――

ロダンは一応21時閉店であるが、アナさんの気分次第で早くも遅くもなる。今日も日曜だというのにグレた大人が集まり、何やらにはよくわからない話題で盛り上がっていて、アナさんが表の灯りは落とすが閉店しないと言うので、は21時前に上がれることになった。

私服で帽子、伊達眼鏡にマスクをすれば帰宅準備は完了だ。眼鏡にマスクをすると曇ってしまうが、地元の駅に帰り着いて自転車に乗るまでの辛抱だ。常連さんたちとアナさんに挨拶をしたはロダンのドアを開けて外に出る。ドアを閉め、振り返ったところでは驚いて飛び上がった。

「寿くん! 来なくていいって言ったじゃん」
「不審者みてえだな」

ロダンの向かいは雑居ビルのエントランス部分になっていて、ただの壁だ。そこに三井が寄りかかっていた。

「ふ、不審者って、しょうがないでしょ。夜は面倒なんだから」

帽子に眼鏡にマスクでは不審者でもおかしくないなと思いつつは反論したのだが、三井はその不審者3点セットをからひょいひょいと外してしまった。間近で見た三井の手が思った以上に大きくて、は少し怯む。同じ大きくても木暮の手は優しいのに、三井の手は少し緊張する。

「ちょ、何するの、返してよ」
「今日はいらねえだろ」
「はい?」

マスクと眼鏡を帽子の中に突っ込んだ三井は、それをに押し付けた。

「帰り、絡まれないんだからいらねえだろ」
……なんで絡まれないってわかるのよ」
「バカかお前。オレがいるからに決まってんだろうが」

要するに送っていってくれるということだ。アナさんではないが言い方とやり方が可愛いではないか。は途端に笑ってしまいそうになってぐっと堪える。ただし、にはこの三井はグレるグレない以前に、とてもプライドの高い人間に見える。このタイプは可愛らしいと思っても、決して笑ってはならない。

……そっか、暇、なんだもんね」
……ああそうだよ、暇だからな。それだけだ」

プライドが高い上に素直じゃない。だから先回りしては言い訳を作ってやる。暇だから何の得にもならないの送りをしているということでいい。をどこかで見たような気がするだの、急に手を取ってみたりだのと、突飛で不安定な行動が多いが、アナさんの言うように本質的には悪い人間ではないようだ。

またを気にせずに歩き出した三井の肩の辺りを見ながら、は考える。なんでグレたの、なにがあったの、グレるって、どういう気持ちになるものなの――

もちろんそんなことは聞けない。けれど、はいつかその答えを知りたいと思った。私、蔑んだり馬鹿にしたりしないから、教えてくれないかな。自分じゃ絶対にわからない世界のこと、知りたいんだよ。寿くんの見ている世界って、寿くんの気持ちってどんなものなの――

ちらちらと三井の髪に隠れた横顔を見上げつつ、そんなことを考えていたは少し離れた前方を歩いているグループを目にして足を止めた。不審者スタイルで帰るようになってからは無事続きだが、それ以前にはよく絡まれた。木暮には隠していたが、その中でも一番頻繁に絡まれていたグループが歩いていたのだ。

しかも今、は私服だというだけで首から上は何も隠していない状態だ。は慌てて三井の袖を引いた。七部袖のカットソーがにゅっと伸びる。それに気付いてを見下ろした三井に、は早口でまくし立てる。

「お願い、2分! 2分だけ何も言わずに引っ張って!」
「は? 引っ張る?」

は、意味がわからなくてしかめっ面をした三井の手を取って恋人繋ぎにすると腕にぴったりと寄り添い、反対の手も繋いだ手の上に重ね、俯いた。ぽかんとしている三井は腕に絡みつくを見下ろしつつ、そのまま歩き続けた。何やってんだこの女は、と思うのだが、あまりに唐突なので言葉が出てこない。

引っ張れと言うし、三井はつい繋がれた手をきゅっと握り返し、俯いているの頭をちらちらと見つつ止まらずに歩く。その真横を素行のよろしくない集団がすれ違っていくが、三井はそれに気付かない。

そうして面倒なグループが行き過ぎてしまうと、はバッと顔を上げて振り返った。無事にやり過ごせたようで、安堵の息を吐く。顔を戻すと、三井も後ろを振り返っていた。だけでなく、状況がよくわかっていない顔をしている。は柔らかく笑って、繋いだ手を揺らした。

「急にごめんね。今のグループ、前に何度も絡まれててさ」

納得したように三井は小さく頷いたが、直後にまた眉間に皺を寄せた。

「別にもう絡まれねえだろうが」
「あ、そうだよね。ごめん、反射的にマズいと思っちゃって」

はまたマズいと思っている。もしかしたらこの程度でも三井のプライドに触ってしまっただろうか。だが、三井は眉間に皺を寄せたまま、静かに言った。

……本当にめんどくせえ女だなお前は」
「ははは、ほんとにねえ。直ればいいんだけどねえ」

笑って済ませてしまおうとしたは、手を解こうとした。だが、指を緩めたの手を三井は握りなおす。

「寿くん?」
「めんどくせえからこのままでいいよ」
……そっか、わかった」

もうそれ以上三井は何も言わなかったし、の方を見ることもなかった。面倒くさいという建前のふたりはそうやって手を繋いだまま、駅に向かっていった。さて、三井はをどこまで送るというのだろう。