満月の夜に革命を

01

ただ天井を見つめていると悪い考えばかりが纏わりつく。けれど、足が動かないのはどうにもならない。病院の乾燥したベッドの上で、三井はもう何度も繰り返し読んだ雑誌を取り上げて開き、すぐに投げ出した。退屈で死にそうだ。寝てばかりいるのがこんなに苦しいものだったとは。

激しく動かさなければ、もう膝は痛まないような気がする。しかし医者や看護師や家族は彼が立ち上がることを許さない。言うことを聞かない子供のように扱われて苛々する。自分には時間がないのに、早く足を戻さなければ、間に合わないかもしれないのに。

個室でひとり天井を見上げていると、そうやって自分を苦しめるようなことばかり考えてしまう。

そこにノックの音がして、ドアがゆっくりと開いた。

「三井、起きてるか」
「おー、暇すぎて死にそうになってた」

ひょいと顔を出したのは木暮だった。彼が来たからといって膝の回復が早まるわけではないのだが、少なくとも退屈は紛れる。この律儀な友人も一応忙しく部活に励む身なので、用がなければ来てくれないのが惜しいところだ。おそらく今日は届け物だと三井は推理する。

「どうよ、具合は」
「もう全然痛くないんだけどな。退屈で退屈で、頭おかしくなりそうだぜ」
「まだリハビリ始まらないのか」

三井は手を突っ張って起き上がると、両腕と背を伸ばす。ベッドサイドの椅子に腰掛けた木暮は、膝の上に置いた学生鞄の中からガサガサと紙を取り出している。

「プリントだとか色々預かってきた。たぶん10組の担任だと思うんだけど、体育館まで来てさ」
「まだあんまり仲いいやつとかわかんないだろうしな。お前、利用されてんだよ」
「まあいいけどね、遠回りでもないし」

木暮はプリントの束をまとめると、腰を浮かせて足元のテーブルにばさりと置いた。すると、開けっ放しになっていた学生鞄の中身が床に滑り落ちてしまった。まだ真新しいノートや教科書が散らばる。その中に何枚もの写真が混ざっていた。

「なんだその写真」
「ああ、春休みに家族で出かけた時の写真。プリントして来いって言われてさ」

木暮はノートやら写真やらをひょいひょいと拾っては三井の足の上に置いていく。それを覗き込んだ三井は1枚のスナップに目を留めて取り上げた。私服の木暮とおそらく彼の父親、そしてそう年の変わらないくらいの女の子が写っていた。木暮の家族のように見えるが、女の子だけまるで似ていない。

「これ、親父さんと妹?」
「え? ああ、それは妹、みたいなもの」
「みたいなものってなんだよ」

まだ写真を拾っている木暮がベッドの脇からひょっこりと顔を覗かせて、また写真を置いていく。三井は別の写真を取り上げてみた。その「妹みたいなもの」だという女の子がピースサインで木暮と並んでいる。

「幼馴染なんだけど、家が隣で生まれた時から一緒でさ。殆ど家族。1コ下だから妹みたいなもん」
……可愛いじゃん」

全部拾い終わったらしい木暮は、手にしたバラバラの写真をまとめると、三井に差し出した。一番上に乗っている写真の中で、その女の子はきれいな顔をして微笑んでいた。1歳年下ということはこの時点で中3になる前ということだが、妙な色気があって、わけもなく惹きつけられる気がする。

「気に入った?」
「えっ、あ、いや、そういうわけじゃ」
「アナソフィアだよ」
「嘘、マジで!? オレ一度も見たことないぜアナソフィアなんて」

聖アナソフィア女子学院は近隣地域でブランド化を起こしている中高一貫の名門女子校である。偏差値が高い上に志願者の家族まで厳しい面接をさせられる厳格な校風で有名であるが、制服が可愛らしいのと、ある種のステイタスを求めて人気がある。

また、学力のみならず家庭環境の質まで求められる狭き門を突破したアナソフィア女子は「良質な女」と考えられており、女性の社会進出が少なかった時代には「良質な嫁」として人気を博した。それから数十年経過した今でもアナソフィア女子がブランド化を起こしているのには、そういった時代の名残という背景もある。

ただし、時節に合わない教育方針は取っていないため、門は狭くとも、実際にアナソフィアに通う少女たちは、少し学力が高いだけの普通の女の子である。むしろ少々閉鎖的であることも手伝って、個性的な生徒も多い。部活動は文化部が盛んで、特に吹奏楽と演劇部が強い。

「まあ、アナソフィアだってだけで、他は普通だけどね」
「こんな可愛い顔して普通ってお前な」
「気に入ったんなら、1枚あげようか」
「は!? いや別にオレはそんな、お前、妹みたいなもんなんだろ、いいのかよそんなに簡単に」

つき返された写真の束を受け取ると、木暮は邪気のない顔で笑った。

「別に三井なら心配ないよ。これから湘北のエースとして活躍していくんだろ」
「いやまあな、ってオレをおだててどうするよ」
「それに、確かに顔は可愛いんだけど、この子中身がちょっとね」

木暮の笑顔が顔にぺったりと貼り付いている作り物のようになってきた。

「全方向にハイスペックではあるんだけど、気が強くてわがままでさ……
「そんな風には見えねえな」
「だから困るんだよな。でもたぶん三井なら相手に不足はないよ!」
……お前、押し付けようとしてないか」
「えっまさかそんなことはないよいやだなあ」
「棒読みやめろ!」

若干邪気の出てきた笑顔で言う木暮に三井がツッコミを入れ、ふたりは大声で笑った。

「にしても、中身がアレだからって、気になったりしないもんか、幼馴染って」
「三井、母親を抱き締めてキスしたいって思う?」
「いや思わねえだろそんなこと普通!」
「それと同じだよ」

母親とは対象の内容が違うと三井は思うが、何せこんなに可愛い幼馴染を持ったことはないのでよくわからない。木暮はトランプのように広げた写真の中から1枚取り出すと、三井の膝の上に置いた。満開の桜を背に女の子が微笑んでいる。

「これとかどうよ」
……どうよ、って、確かにきれいだけどさ」
「三井、早く足治せよ。そしたら試合に呼ぶから」

木暮はすっと立ち上がると、三井の肩をぽんと叩いて一歩下がった。

「その子、っていうんだ」

木暮はじゃあまたなと言って病室を出て行った。三井は思うように動かない膝の上に乗る写真を取り上げて、目の高さまで持ち上げてみる。木暮の幼馴染は、満開の美しい桜を背負っていても、まったく負けていない。それどころか、桜に彩られて輝いているように錯覚するほど美しい。

……

そっと口に出して呼んでみる。途端に頬が熱を持ったような気がしたが、不思議な幸福感に満たされた。もちろん母親にはそんなこと思わないけれど、この子なら、このという女の子なら、抱き締めてキスしてみたい、そう思った。

頑張って足を治して県予選に間に合えば、この子に会えるかもしれない。

三井は胸に鬱積した退屈と不安を、少しだけ忘れた。

「おかえりー。公ちゃん、写真出来た?」
「ああ、今日プリントしてきたよ。ほら」

帰宅した木暮は、自宅のリビングで制服のままごろりと転がっている幼馴染のに、写真の入った封筒を手渡した。漫画のような話だが、この幼馴染とは家が隣で記憶もない頃から一緒に育った。親同士が親しく、家族の垣根が曖昧なので、三井に言ったように「妹のようなもの」以上でも以下でもない。

は成績優秀で容姿端麗、コミュニケーション能力も高いという恵まれた人物であるが、本質的には気が強く頑固で、家族の中に入ると非常にわがままである。木暮がいなければひとりっ子であるし、その兄代わりの木暮も温厚で優しい性格なので、はのびのびとわがままを言える環境に育った。

「公ちゃん私もお茶ちょうだい。あーこれ私赤目になっちゃってるー」
「オレお茶飲まないけど」
「飲めばいいじゃん。うわー桜きれいに写ってるねー」
「自分で取りに来いよ」
「えー、めんどくさい」

万事この調子である。

「ていうか毎回小母さんに言われてるだろ、制服、シワシワになるぞ」
「めんどくさーい。どうせ来年新しくするんだし、いいよもう」
「来年ったって、まだほぼ1年残ってるじゃないか」

アナソフィアでは中等部と高等部で若干制服が変わる。それでなくとも6年間同じものというのは無理があるので、高等部に進む際に制服を新しく作り直す。セーラーブレザーが基本となっているが、エンブレムの色や襟の意匠が異なる。また、近隣の男子高校生にとってはそれらは大事な目安だ。

「でも制服変わるの嫌だな〜。毎年先輩がげっそりしてるもん」
「今頃は特にな。あんまり出歩かないようにするしかないんじゃないのか」

結局にお茶を淹れている木暮は眉をひそめている。春に高等部に進級したアナソフィア女子は、夏までの間に苛烈なナンパ攻勢と戦わねばならない運命にある。限りあるアナソフィア女子をゲットせんがため、男子高校生からいい年した中年男性まで声をかけてくるからだ。

「その加減が難しいね。アナソフィアだって彼氏欲しいんだし」
「翔陽じゃダメなのか」
「全部が翔陽で片付くわけじゃないからねえ」

アナソフィアと学校同士の交流がある翔陽高校は男子校なので、確かにカップル成立はしやすいのだが、全員がきちんとおさまるわけではもちろんない。アナソフィア女子はナンパを慎重に吟味し、時にはそれを足がかりにして狩り場を広げていく。そこでうまく彼氏ゲットとなるかどうかは運次第といえる。

木暮は言いはしないが、三井が可愛いと思ったようには顔の造作がよいので、おそらく大変な目に合うことが予想される。ただでさえ希少種のアナソフィア女子な上に、顔が可愛いとなると最悪犯罪に巻き込まれる場合もある。簡単な対策としては早々に固定の彼氏を作ってしまうことだが、彼氏の方も少々覚悟がいる。

「よく母さんたちが言ってる……あれは翔陽だったのか?」
「どうだったかな、翔陽じゃなかったかもしれない。どっちも可哀想だよね」

アナソフィア女子と付き合っていた男子高校生が地元の不良少年に絡まれ、不幸な事故が起きたのはもう14年前のことだ。正義感の強い少年は体を張って彼女を守ったが、殴られたせいで意識を失い、やむなくその場を走って逃げようとした彼女は車道に飛び出してしまい、帰らぬ人となった。

この件以降、特に見栄えのするアナソフィア女子は制服でひとり歩きをしないことが求められ、それと付き合う男の子の方にもある程度の覚悟が必要とされてきた。特に制服同士で歩いていたりすると、絡まれやすい。

「赤木くんとか龍っちゃんみたいなのが彼氏だったら安全そうだね」
「笑い事かよ」

はへらへら笑っているが、木暮は心配性なので真面目にツッコむ。

「どうせ部活とかやらないんだろ。あんまり外をうろうろするなよ」
「でもバイトしたいんだよねえ」
「着替え用意していくとか」
「めんどくさーい。公ちゃん毎日迎えに来てよ」
「オレは部活です」

木暮の頭にちらりと三井の顔がをよぎる。もちろん彼も部活なのでそんな時間はないのだけれど、三井のように明るくタフな彼氏でもいればも少しは安全なのではないか。もわがままだが、三井も自尊心は強い方だ。案外いいカップルになれるのではないかと木暮は思う。

「そうだ、今度のインターハイ予選、見に来ないか?」
「おおっ、赤木くんデビューだ」
「赤木だけじゃないぞ。今年は中学の神奈川MVPがいるんだ」
「なんでそんなのが湘北にいんの? 翔陽とか行きそうなもんだけど」
「うちの監督を慕って来たらしい。翔陽や海南、陵南を蹴ってまで湘北を選んだって話だよ」
「えーなにそれバカじゃないの!」

木暮は苦笑いだが、監督という存在さえなければ三井は翔陽男子としてと知り合っていたかもしれない。両校の交流において最大のイベントである文化祭では、目立つ生徒はちやほやされて大変なのだと聞く。三井ならそんな立場になるのはむしろ歓迎だったかもしれない。

「一応中等部はアナソフィア関係ない催しに行っちゃいけないことになってるんだけど、わかんないか」
「へえ、そうなのか。それなら無理することないよ」
「でも赤木くん見てみたいしなあ」

木暮はの言葉に、三井と赤木が共にプレイしている姿を想像した。ふたりともこのままいけばスタメン確実な気がする。それは考えるだけでワクワクした。なぜかお互いに張り合っているところさえ直ればいうことはないのに。そうしたら湘北はとても強いチームになると思う。木暮は口元が緩んだ。

「私服で、公ちゃんの従姉妹とか言っとけばいいよねー」
が平気ならいいけど、バレて困らないようにしろよ」

は観戦しに行くつもりになっているようだ。また三井の病室に行くことがあったら、教えてやろう。三井、早く足を治せよ。予選、が見に来てくれるって言ってたよ。だから早く、治せよ――

だが、がインターハイ県予選において、三井を見ることはなかった。

また、木暮が大袈裟に言うものだからは期待していたのだが、湘北はダブルスコアで敗退。赤木も頑張っていたが、途中からは見るのが辛くなってきてしまった。は女子校なので、試合自体は迫力があって面白いのだが、幼馴染やその友人が負かされていくだけの試合は見るに耐えない。

バスケットのことはよくわからないけれど、は自分を基準に考えて首を傾げる。昨年の球技大会の時にバスケット組になってしまい、木暮と赤木に教えてもらったことがあった。ふたりともとても上手だった。それが1回戦でこんなに簡単に負けてしまうなんて、どういう世界なのよ。

は試合が終了する前にロビーへ出た。自動販売機でお茶を買い、その場で開けて一口流し込む。ペットボトルを口にしながら何気なく市営体育館の入り口を見ていると、松葉杖をついた男がよろよろと歩いていた。左足がほとんど動いていない。

そんな状態の足を引き摺ってまで観戦したいものなのだろうか――

後姿だけではわからないが、大人ではないような気がする。はその不安定な歩みをつい目で追いながら、自分にはそれほど夢中になれるものがないなと考えていた。もしあれが自分なら、あんなに引き摺るほど怪我をしていたら、これ幸いとゴロゴロしているのにと考えて、またお茶を飲んだ。

中等部と高等部があまり区別されず、中高一貫というよりは6年制のようなアナソフィアにおいて、中等部3年は真ん中あたりの一番影が薄い頃である。将来を考えつつ高校受験をするという必要もなく、来年はナンパが増えるぞ大変だと思うくらいが関の山だ。のように具体的な夢がない生徒も多い。

は遠ざかっていく松葉杖の後姿をいつまでも見つめていた。