満月の夜に革命を

12

三井といっても、それはまるでの知っている彼ではなかった。髪は短く切られて、学ランでもだらけた私服でもなく、ジャケットなど羽織っている。だが、はその姿をそれ以上見られなかった。溢れ出る涙で視界がぼやけて、何も見えない。ぼたぼたと零れてもまだ止まらない。

、ひさしぶり、だな」

そんなとぼけたことを言う三井の声がの胸に刃物のように刺さる。

「携帯、壊れて、連絡できなくて――

ぎゅっと目を閉じると、溜まっていた涙が全部流れ落ちる。は少し見えるようになった視界の中にいる三井に向かって駆け出し、手にぶら下げていたバッグも放り出して飛びついた。三井も両腕でを受け止めてきつく抱き締める。

、ごめん。ごめん――

泣くことしかできないの体を支えながら、三井はそう繰り返した。その度には嗚咽を漏らし、三井の首に回した腕を何度もかき合わせた。抱き締めても抱き締めても足りなかった。

足元が震えてまともに立っていられないを支えて、三井はガードレールに寄りかかった。ちょうどその辺りにバッグが落下しているし、街路樹の陰になっているので万が一人が通りかかっても目立たない。

、大丈夫か、そんなに泣かないでくれよ」
「なに、言ってんのよ、誰のせいで、こんなことに、私がどれだけ」
「ああ、悪いのはオレだ。全部オレが悪い。オレが悪かったよ」

泣き過ぎて唇が上手く動かないの頭を、頬を、肩を、三井はゆっくりと撫でる。

「マスター、寿くんのこと知らないって、言うし、湘北行こうかなとか、公ちゃんに聞こうかな、とか」
……誰にも連絡しなかったからな」
「だけどもし嫌われてたんだったらどうしようって、だから怖くて、だけど忘れられなくて」
……お前」

子供のように泣きじゃくりながらたどたどしく話すをまた三井はぎゅっと抱き締める。それほど想われているとは考えていなかった。たまたまいい感じになった少々毛色の違うアナソフィア女子なんだろう程度に思っていたのに。きっと自分の方がを好きなのだろうと思っていたのに――

「会いたかった、寿くん会いたかったよ、ずっと考えてたんだよ」
……オレも会いたかったよ」

そう言うと、涙でぐちゃぐちゃになっているに三井は唇を押し付けた。

人通りもなく、たまに車が通過していくだけの通りに沿う歩道で、ふたりは抱き合っていた。月明かりを背に何度も唇を合わせて、なかなか泣き止まないを三井はずっと撫でていた。

……、お前に話さなきゃいけないことが、たくさんあるんだ」

長い髪に表情を隠して常に何かを憎悪していた頃の三井の声とは、少し違っていた。曇りが取れて焦りが消え、落ち着いた声になっていた。の髪に頬を摺り寄せながら、三井は目を閉じる。

「話してないこと、会えなかった間にあったこと、初めて会った時よりも前のことも」

は微かに頷きつつ、まだ鼻をぐずぐず言わせている。

「マスターやアナさんにも謝らないとな。ブン殴られそうだけど」

が顔を上げると、三井はごくごく自然に微笑んでいた。あの頃がどうしても見たくて、けれど一度しか見たことがなかった笑顔だった。三井の唇に目を落とせば、すぐそばに深い傷跡がある。その傷跡をが指先でなぞり、その指を三井はそっと包み込む。

「寿くん、もう、大丈夫なの?」
……ああ。もういいんだ」
「またいなくなったりしない?」
「しないよ」

はその言葉にやっと笑み崩れた。三井はの指を引いて唇を寄せる。

……やっぱりお前、可愛いな」
「ふぁ!? ちょ、寿くんそういうこと言う人だったっけ」
「言わなかっただけだ。ずっとそう思ってたよ」
「なんかもう違う人みたい、変だよ!」

そう言いつつも、はいつかのように三井の匂いに全身が緩む気がしていた。髪は短いし表情はあるしちゃんと喋るし笑うし――あの頃の三井とはずいぶんと違う。だけど確かに三井なのだ。の鼻をくすぐる匂いも、肩も、手も、目も、唇も。

「違う人みたいだけど、でもやっぱり寿くんだね」
「どっちかっていうとこっちの方が元というか……
「そうなの? うわ、アナさんが言った通りだわ」
「あれだけしか顔合わせてないのに言い当てられてたのかよ」

三井はちょっと青くなる。やっぱり謝りに行くのはやめたい。

「アナさんもマスターも大人だからねえ。私がまだ自覚ない頃から寿くんのこと好きなんだろうって」
「それはオレも言われてたな」
「まあその通りだったんだからしょうがないんだけど」

三井は月明かりに照らされて白いの頬をそっと親指で撫でる。

「というか、お前よくあんな荒れてたのに……
「そりゃ寿くんだって同じでしょ。なんかアナソフィアの制服に恨みでもあるのかと」
「いやだからそれは……ああクソ、話すと長えんだよ」

一言で説明できない三井は勢いでの頬をにゅっと引っ張った。

「本当に、話さないといけないことがたくさんあるんだよ」
「最初から全部話して。全部聞きたい」
「時間、足んねえから。今度な」
「まだいいでしょ」
「ここどこだと思ってんだ。てか何でこんなところ歩いてたんだ。今から帰っても21時半過ぎるだろ」

三井は腕を伸ばしてのバッグを拾い、差し出す。が、は受け取らない。

「まだ帰りたくない」
「わがまま言うんじゃねえよ。オレだって帰したくないって」

そう言った三井をはまた強く締め上げた。止まったはずの涙が零れる。

「だったら、連れて行ってよ……ここがだめならどこでもいいから、一緒にいられるところ連れてって!」
、おい……
「お願い……

最後に会ったのは去年のクリスマスよりも前だ。今はもう5月も末。ほぼ半年が過ぎていたことになる。はその間、三井のことを頭から締め出す毎日だった。家族も木暮も友人も大好きだし優しいけれど、の心に巣食う恋心を満たしてやれるのは三井しかいなかったのだから。

、聞いてくれ。いきさつはまた話すけど、オレ今、バスケ部にいるんだ」

はその言葉にがばと身を離す。言葉の意味がすぐに飲み込めない。

「というか、元々バスケ部なんだ」
……公ちゃんと一緒なの?」
「公ちゃんて木暮のことだよな。そう、一緒」

ぽかんとしているは力なく頷く。三井と木暮とバスケット部が混ざり合わない。

「木暮から聞いてるか? 今年、頑張ってるって」
「今度、翔陽」
「そう、名門強豪翔陽」
「負けるんじゃないかと思ってて」
「いや、絶対に負けない」
……寿くんがいるから?」

まだぽかんとしているがそう言うと、三井は嬉しそうに頬を緩ませた。やけに整った前歯が覗く。

「本当は、もうとにかく頑張ってインターハイ行って、それが全部終わったら木暮に話そうと思ってた。話してお前に会わせてもらおうと思ってた。まさかこんなところで会うとは思ってなかったからな」

木暮の言うように本当に色々色々あったのだろうが、はさっぱり話が見えない。

「今も昔怪我した所を診てもらってきた帰りだったんだ。さっき鉄男にも会ったし、今日はなんなんだろうな、こんなでっかい満月だしよ。だけど、、オレもお前と一緒にいたいけど、今日は帰ろう。送るから」
「寿くん」
「ちゃんと時間作るし、メールもいつでも送ってくれて構わないし、練習出来ない時はどこでも好きなところ行くよ」

三井はの手を取って立ち上がる。立って並ぶとは三井を見上げてしまう。三井は両手での手を取り直し、真正面から見下ろす。また月の明かりが差しての頬が白く輝く。


「は、はい」
「ずっと好きだった」
…………今は?」
……今も」

そして、両手を引き寄せての手にキスした。

「もうどこにもいかない。約束する」
「寿くん」
「ん?」
「私は、好きじゃないの」
「へ?」
「大好きなの」

三井はくしゃりと顔を歪めて笑うと、の肩にバッグをかけてやり、もう一度抱き締めてキスすると手を引いて歩き出した。はその腕を絡ませて、ぴったりと体を寄せる。

そのふたりの背中を、金色に輝く真円の満月が照らしていた。

とりあえず三井と連絡先を交換して大人しく帰宅したは翌日、パンパンに腫れた目と全開の笑顔で登校し、気遣うクラスメイトにはへらへらと笑って受け応え、昼休みになって顔を合わせた岡崎と緒方には複雑な顔をさせた。岡崎は既に顔が点と線である。

……結果的にはオッケーなんだよ、ね?」
「そう」
「ド変態でもモヤシでもないのに泣かされたわけじゃないんだよね?」
「まあ原因ではあるけど」

まだ瞼の腫れが引かないは薄目でニヤニヤしている。

「そろそろお話し頂けませんでしょうかね」
「いや〜申し訳ない、私もよくわからないんだわ」
「どういうことよ?」

があんまり緩んだ顔をしているので、岡崎だけでなく緒方まで点と線顔になっている。しかし確かに、全て話そうにもまだ三井から詳細を聞かされていないのでことの顛末は話しようがない。スタート地点がよくわからなくなっているし、追加情報のせいでまだ完全に着地出来ていない気がしてきた。

「けどまあ岡崎ちゃんと緒方には特別にスペックだけでもお伝えしようかな」
「おお、そういうのでいいんだって」

岡崎が身を乗り出す。はまだニヤニヤしながら指を折りつつ、列挙していく。

「1コ上で、背が高くて、顔もけっこうよくて、バスケ上手で、ちょっと荒いけど優しくて」
「おいおい、なんだよつまんない相手だな」
「と思うでしょー、緒方! ところが、高校は湘北で、ついこの間までヤンキーだったんだな、これが!」

岡崎と緒方は汚いものでも見るような顔になった。アナソフィアでは仕方ない。

「あははは、ふたりともいい顔してるわー」
「あんたそういうのが好きだったの」
「っていうわけじゃないんだけど。たまたまよ、たまたま」
「ん? でもこの間までってことは更生でもしたん?」
「それがちょっとまだよくわからなくて。ただですね、今度翔陽とブロック勝ち抜けをかけて対戦するらしい」
「え? 湘北ってそんなにバスケ強かったっけ?」

現時点で木暮と赤木と三井の3年生3人しか知らないは、またニヤニヤする。三井寿がいるからね!

「それにしても……湘北のヤンキーごときがアナソフィア女子落としたのなんて……
「史上初だろうねえ。まあ、ちょっと事情があって捻くれてただけみたいだけど」
「翔陽プリンスくんたちが聞いたら立ち直れないだろうな」

やっと岡崎と緒方は楽しくなってきたようだ。アナソフィア女子にとって湘北程度では候補の候補にもならないのだろうが、それに翔陽プリンスが負けるという展開は面白いことこの上ない。

「でもそうなあ、学力同等が最低条件ていうんじゃ、アナソフィアはまだまだ修行が足りんよな」
「お、緒方も悟るか?」
「いやだってさ、必死で群がってる翔陽だってアナソフィアよりは湘北に近いじゃん」

もそれは考えないでもなかったのだ。そもそも木暮は湘北だが何もストレスなく過ごせるし、学力に差があっても三井と話が通じないことはなかった。アナソフィア女子自身、ブランド化されていることで世界を狭くしてしまっているのだ。それはもったいないし、彼氏が欲しいならなおさらだ。

「私も超好みなゴリマッチョだったら湘北でもいいような気がして」
「マジで緒方。ゴリマッチョかどうか見たことないけど、柔道でよければ紹介できるよ」
「うおお、マジか。まずは画像頼む」
「ちょ、お前らずるいぞおおお!」

湘北ではダメなのだろうという前提で、赤木も青田も紹介しなかったは緒方の言葉に食いつき、ひとり高校生が対象外である岡崎は歯軋りでもしそうな勢いだ。しかし緒方の好みはあくまでもゴリマッチョである。赤木は確実に太さが足りない。果たして青田が合格ラインに入るかどうかは難しいところだ。

「しかし見てみてたいね、そんな変なスペックでの瞼をここまで腫れあがらせた男」
「試合見に行く?」
「いやボール投げてるところ見たってわからんでしょうよ」

また点と線顔になっている岡崎に笑い返しながら、はまたニヤニヤと頬を緩めた。ふたりとも、いつか見せてあげる。私の愛しのバカ、寿くんをね! そしてもっともっとアナソフィア女子は色んな男の子との可能性を考えるべき! 翔陽だけが男じゃないぞ!

翔陽くんたちにはいい迷惑だが、つまりはアナソフィア女子が偏差値で付き合う人間を選ぶという習慣から脱却するきっかけとなったのである。がどんな恋をしたのかということが何年もかけて後輩たちに伝わっていき、数年の後のアナソフィア女子たちはもっと広い世界で恋愛をするようになった。

それはやがて「革命」と呼ばれたとか呼ばれなかったとか。