満月の夜に革命を

10

クリスマス前はロダンでパーティの仕込みに奔走し、年末年始を家族と共に台湾で過ごし、年が明けたら明けたで家と木暮家にインフルエンザが蔓延して、は忙殺された。幸いだけはインフルエンザに罹らなかったのだが、その代わりにダウンした両親と木暮家の合わせて5人分の面倒を見る羽目になった。

台湾にいる間はともかく、三井が恋しいはちょくちょくメールを送っていた。インフルエンザ騒ぎの頃には会えないこともなかったのだが、万が一感染してしまったらと考えたは我慢し続けた。三井のメールはいつも素っ気無く、会えないことを咎めたりはしなかったので、は安心していた。

だが、1月末頃から返信が滞りがちになった。催促したくはなかったけれど、気になる。

2月に入り、アナソフィアは受験シーズンを迎える。当日は在校生がその手伝いをするのだが、6年間在学する彼女たちは1度はこれをやらなければならないことになっている。たまたまこの年にそのお鉢が回ってきたは、役目をこなしつつ、肩を落としていた。

「なによ、恋煩いか?」
「まあそんなところ」

待合いから保護者を面接会場まで案内するという役目だが、案内した保護者の面接が終わるまでは廊下で待たねばならない。今度は別の待合いに案内しなければならないからだ。案内係は二人一組で行うので、はペアになった緒方と廊下でひそひそと喋っていた。

でも男に泣かされるんだねえ」
「なんか、好きになったらいけない人だったかもしれない」
「え、不倫とかじゃないだろうな」
「それはないと思う。一応高校生だし」
「んじゃどーいう?」

身長が170センチに届きそうだと自虐気味に笑っていた緒方は、うっかりするとときめいてしまいそうなほどの真っ直ぐな目をに向けた。三井もそこそこかっこいいと思っていたけれど、緒方もかっこいいなあと余計なことを考えつつ、は少し微笑む。

「いわゆる『住む世界が違う』っていうやつだったのかも、って」
「相手が嫌になってきたの?」
「ううん、私は別に気にしてなかったんだけど」
「んじゃ、そいつが腰抜けなだけだな」

緒方は唇を歪めてにやりと笑う。それすらなんだかかっこいい。

「腰抜け?」
「住む世界が違うから何? それは好きな女より大事なもの? それくらいブチ壊してみせろっていう話」
「緒方が男前過ぎるんじゃなくて?」
「違うね。こんなの最低限レベルだよ」

は声を立てずに笑った。緒方を本気で好きになった男の子は大変だな。そんなことを考えていると、面接に使用している教室のドアががたりと音を立てた。と緒方はアナソフィア女子が得意な愛想笑いを一瞬で纏い、姿勢を正す。

愛想笑いを貼り付けたは、三井の笑顔を思い出していた。

だが、2月の末頃には三井からの返信は完全に途絶え、それでも我慢し続けたは3月、念のため春休みに入ってから電話をかけてみた。三井が電話を嫌がるので、これまで一度もかけたことはなかった。しかしもう丸2ヶ月以上も会っていないのだ。少なくともにとっては異常事態だった。

だが、の耳に聞こえてきたのは、この番号が現在使われていないという音声ガイドだった。

電話が通じなかった日の翌日、は日の沈み始めた街をとぼとぼと歩いてHeaven'sDoorへ向かった。開店前で薄暗い階段をのろのろと下りる。重いドアを押し開けると、にとってはおじいちゃんの匂いである埃とタバコの匂いが漂ってくる。

……ちゃん、来たな」
「マスター……

カウンターの中ではなくて、店の壁際にあるアップライトピアノの前に座っていたマスターがゆっくり立ち上がる。重い足取りでマスターに歩み寄ると、彼はを両手を広げて迎え入れてくれた。優しくを抱きとめて、頭やら背中やらを撫でている。

「マスター、寿くん、どこにいるか知りませんか」
ちゃん、やっぱりあいつのこと好きだったんだね」
「連絡、取れないんです。何があったのか、知りませんか」
「あいつも君のこと、好きだったんだろうね」
「マスター!」

問いには答えないマスターの腕を跳ね除けて、は彼を睨み付けた。マスターは怯まない。

「住む世界が違かったなんていう安っぽい理由じゃ、納得できないんだろ?」
「何か知ってるなら教えてください、お願いマスター」
「オレは三井のことなんて何も知らないよ」
「嘘!」

大声を上げたの肩を押して、マスターは特に明かりの届かない暗いソファ席に座らせる。

「嘘じゃない。あれはただのグレた高校生で、金払いの悪い客だよ」
「だけど……
ちゃん、それが全てだ。君と連絡が取れなくなったのも、あいつがそういう人間だったからだよ」
「寿くんはそんな人じゃ――
「それは君がそう思っていただけ。今ここにある音信不通という状況が現実」

はマスターの言葉を認めたくない。首を振って食い下がる。

「マスター、鉄男って人は? 寿くんの友達。その人にここを教えてもらったって」
「鉄男? あいつならもう半年以上も来てないよ」
「そんな……

俯いたの目から、ぽたりと涙が零れた。マスターは音も立てずに立ち上がると、カウンターに入り、なにやらカップを持って戻ってきた。真っ白なカップは濃い金色の液体で満たされている。の目の前に差し出すが、は受け取らない。

「アナさん仕込みのホット梅酒。薄いけどね。甘いよ」
「私、嫌われたのかな」
「そんなことオレが知るわけないだろ」

マスターはカップをテーブルに置くと、ふっと鼻で笑った。

「まあでも、あいつには荷が重かったんだろうよ。何しろアナソフィアだからな」

顔を跳ね上げたは、柔和な笑顔のマスターを睨みつけた。

「オレにそんな顔したってしょうがないだろう。君らはこそこそと勝手に付き合ってた。オレはそんなこと知らない。だけど、月に1度くらいは必ず顔を出してた三井は1月からぱったりと来なくなった。てことはそのうち君が来るだろうな、とは思ってた。それだけだよ」

マスターの言わんとしていることがわからないほどは馬鹿じゃない。だが、大人の理屈には心がどうしてもついていかれない。どうして助けてくれないのと言いたいのを堪えれば堪えるほど、涙が溢れる。

「そんなにあいつのこと好きだったのか、可哀想に」

冷たい理屈でを黙らせたくせに、優しく背中を擦ってくれるマスターが憎らしい。けれど、マスターは何も意地悪でこんなことを言っているわけではないこともよくわかる。

「今日はここにいたら。オレがアナさんに連絡しておいてやるから」

また席を外したマスターはブランケットを貸してくれた。の肩にそれをふわりと乗せると、それきり声もかけなかった。やがて19時になり、Heaven'sDoorは開店する。開店後からすぐに客が入り始め、20時が過ぎる頃には店内はほぼ埋まりつつあった。

店の中でも一番暗い席に沈んでいたが、ふわりと漂うよく知っている匂いに顔を上げると、目の前にアナさんがしゃがんでいた。アナさんお気に入りのコートの下から臙脂のスカートが覗いている。そしていつもの網タイツに、黒いエナメルのピンヒール。

「アナさん……
「こんなに泣いて……あんたをこんなに夢中にさせたのは、いつかの悪ぶったあの子ね?」

アナさんは困りきった顔で笑って、の頬を撫でた。指に嵌るいくつもの宝石が暗がりにきらめく。

「10年に一度くらい、アナソフィアにもこうやって悪い男に泣かされる子がいるのよね」
「悪い、男なんかじゃ、ないよ」
「バカ言うんじゃないよ、こんな可愛い女の子泣かしておいて、悪いに決まってるだろう」

隣に腰を下ろしたアナさんには抱きついた。また涙が溢れてくる。

「アナさん、ご無沙汰してます」
「悪いわね、面倒かけちゃって」
「いえ、いいんです。ゆっくりしていって下さい」

挨拶に顔を出したマスターはテーブルにウィスキーの水割りを置いて、すぐ戻る。アナさんはグラスを取って一口飲むと、の頭にキスをする。

、あんたもこんな風に恋をする女になったのね」
「アナさん、私もう寿くんに会えないのかな」
「そんなこと、私がわかるわけないでしょ」
「マスターと同じこと言わないでよ」

アナさんはまたグラスを傾けると、の髪を撫でた。

「きっと会える、なんていい加減で甘ったれた慰めをしない私やマスターに感謝することね」
「アナさん、だけど、私、つらい」
……よくわかるわ。体の一部を失ったのかと思うほど、つらいのよね」

三井にもう二度と会えないのではないかという考えに囚われたを、アナさんはずっと抱き締めてくれていた。しばらくして、が少し落ち着いてきたのを確認したアナさんは指を鳴らしてマスターを呼びつけた。マスターがすっ飛んでくる。

、特別よ」

アナさんはマスターに何やらこそこそと囁くと、アップライトピアノの前に立つ。丸いペンダントライトの緩い光がアナさんを包む。途端に店内がざわめいた。Heaven'sDoorの常連客にはアナさんを知る者も多い。タイトな臙脂のワンピースに身を包んだアナさんがスタンドマイクに両手を添えると、マスターはピアノを弾き出す。

「♪Poets often use many words to say a simple thing. It takes thought and time and rhyme to make a poem sing.

が宇多田ヒカルだと言ったら、フランク・シナトラだと怒られた「Fly me to the moon」である。アナさんが請われもせず金も貰わないのに歌うなんて滅多にないことだ。アナさんはのために歌ってくれたのだろうが、店内の客の方が仰天している。

満月のようなペンダントライトに照らされたアナさんはきれいだった。真っ赤な爪と宝石がきらきらと光る。はそれを空虚な心で見つめていた。アナさんの声が空っぽな心にじわりと広がる。

「♪In other words, hold my hand. In other words, darling kiss me.

つまりね、手を繋いで欲しいっていうことよ、ねえあなた、キスして欲しいっていうことよ――

三井と音信不通になってしまって以来、はずいぶんと人が変わってしまった。

だが、元々要領はいい方だし、殊更に落ち込んで見せて同情を引いたりはしないし、どれだけ絶望に苛まれても顔には人当たりのいい笑顔を作って見せられる。それがである。そんなだから、が三井を失って泣き続けたことなど、アナさんとマスターの他には知る者はいない。

つまり、が変わってしまったといっても、それはごくごく近しい人間にしかわからないような変化であった。両親ですら気付かない変化に感づいたのは、木暮と岡崎と緒方であった。ということは、近しい関係であり年齢が近いから変化に感づいたということでもある。

最初にの変化に気付いたのは木暮だった。春休みに入ってなお部活漬けの彼は、二組の両親が花見に行こうだのピクニックに行こうだとのしつこいので、朝家を出ると夜まで帰らない日が続いていた。その間に時間が余ると行き場がない上に財布の中身が心許ない彼はロダンに顔を出すようになった。

親しいという程ではないけれど、元々アナさんと面識があったのは木暮母である。その関係で息子もアナさんとは顔見知りで、なおかつがいるので都合がよかった。アナさんは三井のことなど一切口に出さないので、も安心して幼馴染を迎えていられる。

「コーヒー一杯で2時間てロダンじゃ公ちゃんくらいなものだろうね」
「それはほんとごめんなさい」
「まあまだ午後の人がいない時間帯だからいいけど、ねえアナさん」

アナさんはまた徹マンでくたばっている。目におしぼりを乗せ、ソファ席のコーナーにだらりと寄りかかっている。反応はないが、おそらく話は聞いているだろう。アナさんはそういう人だ。

「それにしてもうちの親たちはほんとに……
「可哀想な気もするんだけど、小学生じゃないんだしなあ」
「私と公ちゃんがいい子にしすぎたかな」
「それは少し思ってる。オレもも、このままずっとあの家にいるんだと錯覚してる気がする」

の親と木暮の親はふたりが生まれる前から親しい間柄である。無論そのおかげでと木暮は二組の親に大事に育てられたわけだが、この仲良し親子×2が永遠に続くわけではない。それを二組の両親たちはまだあまり実感していないようだ。

また、と木暮が、どこに出しても恥ずかしくない「いい子」だったせいで、今年18歳と17歳になる高校生を捕まえて「ピクニックに行こう」と誘って断られては、怒って拗ねる。

……、オレはまだ部活があるからいいけど、お前は窮屈なんじゃないのか」
「え、窮屈ってどういう……

いつしか木暮もに「お前」などと呼びかけるようになっていた。は静かにそんなことを言う木暮の眼鏡の奥の目をじっと覗き込む。何か知っているのだろうかと少し不安になる反面、全て話してしまいたい気もする。同じ湘北なのだし、学年も同じなのだし。

「しかもオレはまだ男だからいいけどさ、あの人たちにとっては可愛いお姫様だからな」
……それが?」
「違ってたらごめん、誰か好きな人でもいたんじゃないの?」

コーヒーを啜りながら言う木暮の隣で、はテーブルを拭いていた手を止めた。

「去年台湾行く前とか、うちがパンデミック起こした時とか、なんかすごく嬉しそうにメールとかしてたし、もしかしてって思ってたんだけど、最近そうでもないみたいだから。この家じゃなあって思ってたんだ」

は細く息を吐いて、心を静める。記憶を掘り起こさないようにして、出来るだけゆったりと微笑む。

……そりゃまあ、好きな人くらいはいたけど、別にうちとか公ちゃんちが悪いわけじゃないよ」
「それならいいんだけど。オレたちはお前に過保護にしすぎたかなとも思ってて」
「大丈夫、自分であれこれ首突っ込んでみたから」

そして見事に失ったとは言えないが、木暮の気持ちは嬉しかった。

「もし誰かと付き合ったりして、それで困ったらすぐに言えよ。協力するから」
「ありがと。公ちゃん、なんか前よりお兄ちゃんぽくなったよね」
……お兄ちゃんでいられる時間はそんなに長くないからな」

はゆっくり大きく頷いて木暮の手を取った。父や母と手を繋ぐのと同じくらい違和感を感じない、当たり前の手だった。悪夢に目覚めた時に公園からの帰り道に、何度も繋いだ手は大きさが変わっても本質は何も変わらない。例え時間があまり残されていないのだとしても、にとっては唯一無二の兄の手だった。

「私たち、本当の兄妹だったらよかったのにね」
「ほんとにな」