「三っちゃん!」
「またかよ!」
よっと片手を挙げて見せたに、三井は苦々しい顔をした。今回はナンパされていない上に私服なので、またかよというほどでもないのだが、の方が三井に対してフレンドリー過ぎるのが面白くないのだろう。三井の方も今日は私服だ。私服だとただの人相の悪いお兄さんである。
「今日はひとり? 徳男くんいないの」
「お前な、友達じゃねえだろよ」
「まあそうだけど。徳男くん面白いから。三っちゃんと違って」
がずけずけとそう言うので、三井は余計にしかめっ面になる。
「だから三っちゃんとか言うのやめろって言ってんだろ」
「じゃあなんて言えばいいのよ」
「言わなくていいだろよ! 何オトモダチみたいなことになってんだ」
「それもそうなんだけどね。三っちゃんとか徳男くんみたいな人、身近にいないから珍しくてつい」
「いい加減にしろ。ブッ殺されてえのか」
唸り出しそうな勢いの三井だが、怖くないのでは動じない。
「だから徳男くんの方が面白いっていうんだよ。三っちゃんはそうやってすぐカッとなる」
「……くっだらねえ」
淡々と言うにもう返す言葉がない三井は、くるりと振り返った。
「じゃまたねー」
気楽にそんなことを言っているに返事もせず歩き出す。だが、何歩も歩かないうちに三井の背後での声がした。それに被せて何やら男の声も聞こえてくる。三井は弾かれたように振り返った。が学生か社会人くらいの男に擦り寄られている。さわやかで清潔感があって、柔らかい笑顔だ。
「これからバイトだから無理」
「バイト先どこ? 終わるまで待ってるからさ」
「だめー。終わったら友達と会うから無――」
身なりもきちんとしていて無害そうだがはこの手のナンパが一番嫌いだ。冷めた目でいなしていたのだが、急に腕を引っ張られてはがくりと傾き、引かれた方へ歩き出す。顔を上げると、三井がの手を掴んで引っぱっている。歩く速度が早いので、髪がひらひらと翻っている。
ぐいぐいと手を引かれ、は元いた場所から随分離れたところまで引きずられてきた。駅とは反対方向で、大型店よりテナントの個人店が増えてくるあたりだ。狭い路地の角に少し入った三井はの手を乱暴に放り出した。
「お前は私服でもそれかよ!」
「あのくらい大丈夫だったのに。三っちゃん、見かけによらず優しいんだねえ」
「なっ――」
にこにこしているに、三井は言葉を失った。確かにピンチそうでもないナンパに過剰反応したのは三井の方だ。ナンパを撃退するのだとしても、横に立って一睨みすれば済む話だったたろうに。三井は髪をかきあげた手をまたバチンと顔に叩きつけた。
「ほんとになんなんだよお前は。それに、三っちゃんやめろって言ってんだろうが」
「だから、じゃあ何ならいいのよ。名前、なんていうの?」
「……お前、怖くないのかよ」
三井は凶悪な顔をして見せるが、てんで効き目はない。
「うん、怖い顔なら見慣れてるし。この間の鉄男とかいう人は怖かったけど、三っちゃんは怖くないよ」
また捨て置いて逃げてしまえばいいだけなのに、そう言ってまっすぐ自分を見上げているを前にして三井は動けなくなってしまった。が三井や徳男を「珍しい」から面白いというように、三井にとってもはこれまでに接したことのない変な女だった。妙な興味と共に、また記憶の奥底で何かが疼く。
「……ヒサシ」
「え?」
「名前! 寿!」
なんとかオじゃなかった、とはつい笑ってしまいそうになった。が、歯を食いしばって耐える。言ってから後悔している風な三井にまた吹き出しそうになるが、そこも堪えどころだ。笑いを堪えていると悟られてはならないので、なんとかして自然な笑顔を作る。
「寿くん、て呼べばいいってこと?」
「え」
三井はぎくりと肩を強張らせるが、名前は何だと問われてファーストネームを教えたのだから、理屈としてはそういうことになる。それもだめと言えばどちらにせよ代替案は自分が出さねばなるまい。それに、三井の方も少しずつに慣れてきて、呼び名などどうでもよくなってきた。ため息と共に三井は頷く。
「いいよもうそれで」
「おっけー。私、」
それを聞いた三井は、また何かを思い出そうとしているような表情で首を傾げた。
「お前中学は……当然アナソフィアだよな」
「うん、そうだけど」
「いや、そもそも学年が違う……」
「何よ」
「見覚えがある気がするし、名前もどこかで聞いたような……」
三井が腕を組んで悩んでいるので、は携帯を取り出して時間を確かめた。バイトは13時から、現在は11時30分。人出の多い日曜だし、そろそろどこかで昼を済ませておかないと食いっぱぐれてしまう。はまだ悩んでいる三井の服の裾をつんつんと引いた。
「私そろそろお昼食べてバイト行かないと」
「え、ああ、そうか、バイトか」
「寿くんはお昼どうすんの」
「昼? いやべつにどうもこうも……」
の顔と名前にどうしても覚えがある気がして、頭を軋ませていた三井は、怖い顔を作るのも忘れてそう返した。はそれを聞くとまた裾を引っ張る。
「じゃあどっか食べに行こうよ」
「は!?」
唐突過ぎて三井は声が裏返る。なんでオレはアナソフィア女子なんかとこんな事態になってんだ。
「このあたりよく来るんでしょ。空いてる店とか知らない?」
色々飽和状態になってしまった三井はがくりと肩を落とした。
「……知り合いの店なら近いけど」
「へえ、私が入っても大丈夫?」
「いいんじゃねえの」
三井はを見もせずに歩き出す。はその後をちょこちょこと着いて行った。
5分も歩かないうちに三井は足を止めて地下へ通じる階段を指差した。暗い階段の最上段に小さな看板がかかっていて、「Cafe & Bar Heaven's Door」と書いてある。営業時間は19時から27時まで。「Cafe & Bar」とはしてあるが、バーがメインであることは間違いなさそうだ。
「営業時間外だけどいいの?」
「いいんじゃねえの、別に」
「よくここで酒飲んでんの?」
「いやそーいうわけじゃ」
説明が面倒くさい三井はさっさと地下へ降りていく。もまた後を追う。三井がドアを開けると、飲食店にしては埃っぽい香りがふわりと漂う。次に煙草の匂いがゆらゆらと漏れ出てくる。数年前まで祖父が喫煙者だったので、は少し懐かしくなる。この店はおじいちゃんの匂いがする。口が裂けても言えないけど。
つかつかと店内に入っていく三井にくっついてはカウンターの前に立つ。カウンターの奥はきらきら光るグラスとアルコールのボトルで埋まっている。その間に30代くらいのきれいに整えられた髭をたくわえた男が座っていた。少し癖のある黒髪を撫で付けてある。マスターだろうか。
「なんだ三井、こんな時間から――って珍しいな女連れかよ」
「飯、もらえませんか」
「いいけど……ほんとにどういう風の吹き回しだ」
「話すと長いんで勘弁して下さい」
カウンターに腰を下ろした三井に倣っても腰掛ける。三井は両手で顔を覆ってため息をついている。早くも後悔しているのかもしれない。きょろきょろと店内を眺めているに、マスターらしき男が声をかける。
「お嬢ちゃん、三井の女にしちゃお行儀がよさそうだね」
「彼女じゃないですマスター。勘弁して下さいよ」
「ふうん、まあいいけど。お嬢ちゃん、マスタード平気?」
はこくこくと何度か頷く。このマスターもあまり怖さを感じなかった。愛想はよくないのだが、物腰が静かでクレバーな印象がある。マスターは薄っすらと微笑むとキッチンへ行ってしまった。
「溜まり場、ってやつ?」
「……まあ、そんなもん」
三井は充分予想できたはずのマスターの反応にまた後悔しているようだ。
「こんなところもあるんだねえ。バイト先近いけど、全然知らなかった」
「つかバイトって何やってんだ」
「この先にある喫茶店というか、古い店なんだけど知ってる? ロダン、ていうんだけど」
知らなかったらしい三井は首を傾げたが、のその声にマスターがキッチンから飛び出してきた。
「お、お嬢ちゃん、アナさんとこの子か!?」
「ご存知なんですか〜」
「ご存知も何も、オレ、元従業員だから」
「は!?」
と三井はつい顔を見合わせた。
アルバイトをしてみたいというに、木暮を始めとする周囲の人間は口を揃えて接客はやめろと言った。が人を引き寄せる体質なので、トラブルしか呼ばないだろうと考えたからだ。だが、高校生が初めてやるアルバイトなど、職種にそれほど幅があるわけではない。
すると、木暮の母親が知人の喫茶店はどうかと薦めてくれたのだ。それが、「喫茶 ロダン」だった。の母親と木暮の母親もアナソフィア出身で、このロダンの店主もアナソフィア出身。さきほどマスターが「アナさん」と言ったが、それはアナソフィアから取ったあだ名で、この街では相当な古株だ。
アナさんはつまり、この界隈のドンとでも言うべき女性で、のような子を預けるには最適といえた。アナさんの方も現役のアナソフィア女子なら歓迎だと言ってくれたし、万事そつのないはすぐに気に入られた。くせのある常連さんたちにも可愛がられている。
「アナさんとこで修行して暖簾分けしてもらったようなもんなんだよ、この店は」
「あっ、だから『Heaven's Door』なんですね。ロダンが地獄の門からきてるから」
「まあそんなところ。アナさん彫刻の方も神曲の方も好きだよなー」
にこやかに話している元従業員と現従業員を三井はぽかんとした顔で眺めている。
「アナさんとこの子か、そうか。おい三井、この子に変なことしたらただじゃおかねえからな」
「ちょ、何もしてねえっすよ」
「何かしたら、つってんだろ。肝に銘じとけよ。アナさん超怖いんだからなマジで地獄の門開くからな」
はきゃっきゃと笑っている。キッチンへマスターが戻ると、三井はをまじまじと見つめる。
「世の中狭いね」
「マスターがビビるとか、そのアナさんてどんなんだよ」
「年はちょっと知らないんだけど、かっこいいよ。今時キセルで煙草吸ってるからね」
写真あるかな、とは携帯を弄り始める。三井はちょっとばかりビビらせてやろうというつもりもあって、この店へを連れてきた。お前は軽々しく馴れ馴れしくしてくるけど、アナソフィア女子なんていうお嬢様とは住む世界が違うんだ。そう思っていたのに、三井の方がマスターにビビらされる羽目になった。
「あったあった。ほらこれ、アナさん。かっこいいでしょ」
三井は言葉が出ない。アナさんは確かに自分たちのようなグレた人間や、それをもう少し狡猾にしたようなマスターなどよりも遥かに迫力のある女性だった。美人だが、一睨みで何でも石に変えてしまいそうな鋭い目、真っ赤な爪、その手に挟まるキセル、組んだ足には目の細かい網タイツ。靴は刺さりそうな細いハイヒールだ。
「お、お前こんなとこでバイトしてんのかよ……」
「別に怪しいところじゃないけど。寿くんみたいなのは来ないしね。みんなアナさんのファンというか」
「ファンて。このオバサンのかよ」
「あっ、しーっ! アナさんのことオバサンなんて言うと大変なことになるよ」
ここでも声を立てるなと言うということは、マスターに聞かれても大変なことになるというわけだ。17歳の三井にはアナさんの魅力がわからない。ただの派手で怖そうなオバサンとしか思えなかった。しかし、の言うことに従うのは癪でもマスターの機嫌は損ねたくない。三井は黙った。
「ほいよ、お待たせ。うちの看板メニュー」
マスターが持ってきてくれたオープンサンドには齧りついた。
「おいしー! マスターこれ、アナさんのマスタードですよね」
「ちゃんと同じ味になってるだろ。10年かかったんだぜ」
マスターとはカウンター越しに笑顔ではしゃいでいる。三井は妙な疎外感を感じながらHeaven'sDoor特製マスタードサンドをもぐもぐやっていた。自分の溜まり場に変な女を連れて来たと思ったら、自分より繋がりが深かったとは。自分の居場所にずかずか入ってこられたようで面白くない。
「お嬢ちゃん、店は21時までだろ」
「はい。たぶんまだ開けてないと思うんで、13時から」
「おい三井、どうせお前暇なんだろ。21時になったら迎えにいってやれよ」
「は!? なんでオレが……」
自分で招いてしまったとは言え、非常によろしくない展開だ。だが、三井にとってマスターは逆らえるような相手ではないし、ここで突っぱねてしまうと居心地のいい場所を失う羽目になる。正当な拒否の理由が見つからなくて三井は言葉に詰まった。
「いいですよマスター、そんなこと」
「お嬢ちゃん名前は」
「え、、です」
「ちゃん、オレもアナさんとこで10年使われた人間だからね。君がどんな子か、わかるよ」
マスターはカウンターの中で腕を組んでにやりと笑った。
「グレた大人のいうことは素直に聞いておくもんだよ」
三井のみならずもこう言われてしまっては、すぐに理路整然とした反論が出来ない。しかも、マスターは食事代はいらないと言ってを慌てさせた。さらに、からは取らないけれど、三井からは取るという。
「アナさんとこの子から取れるわけないだろ。アナさんにブッ殺されるわ」
これもマスターの目が真剣なので三井もも逆らえなかった。さらにマスターはロダンまでを送れと三井に命じた。さすがのも固辞したのだが、マスターは言い出したら聞かない。三井ももう逆らう気がないようだった。
「ちゃん、またいつでもおいで。ひとりでも気にしないで来るんだよ」
「はい、ごちそうさまでした」
マスターに頭を下げたを振り返ることなく、三井はさっさと地上に出て行く。はその後を追い、階段を上がりきったところで三井の服の裾をまた引いた。
「送らなくて平気。ロダン、本当にすぐそこだから。あと、お昼代半分出すから」
だが、三井は無表情で首を振り、の背を押した。
「……いいよ別に。本当に暇だし、ロダン、見てみたいし」
三井がもう険しい顔をしていなかったので、は小さく頷くと、並んで歩き出した。