満月の夜に革命を

06

駅までずっと手を繋いだまま来たと三井だったが、改札を通る際に離れた。は何も言わないが、三井はまだついてきてくれるらしい。電車を待ち、方向で言うと上りにあたるために下りよりは空いている車両に乗り込む。日曜の夜だが、電車の中はほぼ男性客で占められている。

ナンパにあれだけ引っかかるということは、もちろん電車の中は痴漢である。慣れることもないし、なんとかして回避したいがひとりではどうにもならない。それは当然三井にも予想できる状況で、はドアと三井の隙間に押し込まれた。密着するほどの混雑ではないが、充分近い。

「どこまで送ってってくれるの」
……どこでもいいけど」

の正面にいる三井は、顔を背けていて表情が見えない。どこでもいいというが、にしても、どこまで付き合わせればいいのかわからない。一応最寄り駅までは自転車で来ているので、駐輪場までというのが正しいのだろう。だが、それなら改札を出ないでいいのじゃないだろうか。定期の範囲を外れていたら申し訳ない。

「私、自転車で来てるから改札出なくていいよ。もったいないし」

はへらへらと笑いながら言ったのだが、三井は返事をしなかった。は笑顔を崩しながら俯く。ロダンを出てから、ほとんど口をきいていない。機嫌が悪いようにも見えないのだが、かといって楽しげに話してもくれない。送っていってくれるのは有難いのだが、なんとなく気まずい。

の地元駅に到着すると、何も言わないまま三井も下車する。声をかけづらいはそのまま改札を出てしまったが、三井もまた改札を出てしまう。駐輪場までは少し歩くが、駅前はまだ賑わっている。酒が入っている人も多い。どうしたものかと見上げたの手を三井が取る。

「寿くん、駐輪場まででいいからね」
……チャリなら絡まれないんだな?」
「うん、もうこの時間になればね。家も住宅街だし」

駐輪場から自転車を引っ張り出し、は人目のなさそうなところでサドルに跨る。

「帽子と眼鏡、しろよ」
「うん、今出す」

バッグの中にしまっていた帽子と眼鏡を取り出す。帽子だけでも大丈夫なのだが、三井はどちらもつけろという。三井と別れてから取ってしまえばいいかと思いつつ、は畳まれていた帽子を広げた。その時、側頭部に暖かい温度を感じては顔を上げた。三井が髪に触れていたのだ。

「どう……したの?」

驚きはしたが、動揺はしなかった。三井は表情もなくて、真意が読めない。

……早く被れよ」
「えっ? あ、帽子ね。うん」

三井は手を引っ込めた。は帽子を被り、眼鏡もかける。あとはもう自転車を漕ぎ出せば全て終わる。偶然の出会いもHeaven'sDoorも手を繋いで歩いたことも、全て終わる。そう思うと、は何だか急に寂しくなってきた。また街で再会出来るとは限らない。

「もう、会えないんだよね?」
……会いたいのか?」
「会いたいっていうか、話、したいなとは思う。あ、メールとかでもいいんだけど、どうかな」

携帯を取り出そうとしたのだが、ポケットにない。がバッグの中をかき回している横で、三井は髪をかきあげながらぼそぼそと言う。

「バイト、次は?」
「へっ? あ、火曜日、だけど」
「また21時終わりか?」
……うん」
「じゃあその時にな」

ぽかんとしているの背に手をかけ、三井は押し出すようにして力を入れた。体が揺れたので、ついペダルに足をかけてバランスを取ったは、頷くのが精一杯だった。三井の手が離れ、は静かにゆっくりと漕ぎ出す。そして、振り返らずにその場を離れた。

駅から離れるほどに人の少なくなる家路をは急ぐ。頭の中は、三井のことでいっぱいだった。

以来、と三井はロダンの帰りに会うようになった。21時前後にが店を出ると、三井が待っている。また理由もなく手を繋ぐわけではないが、寄り添って歩いているのでナンパも絶対に寄って来ない。電車に乗ってもそれは同じ。が自転車を出して走り出すまで三井はその場を離れない。

Heaven'sDoorのマスターはを連れて来いと言っているらしいが、三井は誘わなかったし、も行く用がない。三井もロダンの前までは何度も行くが、中には入らないし、アナさんと顔を合わせることもない。

三井は自分のことをあまり話したがらないが、は少しずつ会話が出来るようになってきた。

出身は武石中だということ、Heaven'sDoorは鉄男に教えられた店だということ、徳男は湘北で知り合ったこと、勉強は面白くない、体を動かすのは好き、煙草は吸わない、金がもったいないから――

だが、なかなか「なぜグレたのか」というところには話を持ち込めない。未だに三井はあまり表情がなくて、嘲笑したり唇を歪めて見せたりはするものの、楽しそうには笑わなかった。はそのあたりを計りかねていて、世間話程度なら何の問題もないのに、次の一歩が踏み込めない。

元々のロダン勤めは基本週3日と少なめ。アナさんの都合で突然休みになったりもするので必ず3日とは行かないのだが、三井はそんな中でも最低でも週に1回程度はを送って帰る。衣替えが過ぎ、梅雨の雨の中でも、蒸し暑い夜になっても。

そんな風にして会うようになって早2ヶ月。と三井は夏休みに入った。

「夏休み、何か予定あるの?」
「別に何も」
「夏祭りは? 徳男くんたちと行ったりしないの」

このあたりの地域で一番大きな祭りが8月にある。河原を埋め尽くす露店と1万発の花火が名物である。近隣の中高生にとっても夏休み中のメインイベントであり、夏休みカップルの半数近くがここで出来上がる。それに伴って素行のよろしくない若者も大挙して押し寄せるのだが、近年は警備も厳しくトラブルは少ない。

「あいつと夏祭り行ってどうするよ。お前はどうなんだ」
「行きたいんだけどねえ、絡まれるから」

は自嘲して苦笑する。中学1年生の時に岡崎や友人たちと祭りに行き、何度も絡まれて大変な思いをしたのでそれ以来行っていない。木暮が友人と行くと言うので、土産を買ってきてもらうだけだった。アナさんを誘ったこともあったが、当然断られた。ガキばっかりでうるさい所は嫌いよ、というわけだ。

「むしろみんな祭りに行っちゃうぶん、この辺は人が減るかもしれないね」
……Heaven'sDoor、行くか?」
「えっ、いいの?」

三井の許可などいらないからひとりでも来いとマスターは言うだろうが、にとってはあくまでも三井のテリトリーなのである。三井が一緒でないなら行きたくない。だが、マスターとはアナさんの子分同士なのだし、浮世絵にもならないし、正直なところ、また会いたいとは思っていた。はぴょんと飛び上がる。

「祭りの時だけ、屋上を借りるんだ。花火、見えるぞ」
「そうなの!?」

子供の頃は木暮と一緒に人混みに揉まれながら空を見上げたものだ。地下にHeaven'sDoorが入っているビルは少なくとも10階以上はありそうだった。駅からは距離もあるので、花火は何にも遮られずに見えることだろう。は自分でも目が輝いているんじゃないかと思う。

「すごい、私が行っちゃってもいいのかな」
「マスターがダメって言うわけねえだろが」
「いやまあそうなんだけど。浴衣、出しておかなきゃ」

足元が少し浮いている気がする。夏祭りなどもう行かれないと思っていたのに、ビルの屋上で花火が見られるなんて。他に誰が来るのかわからないが、少なくともマスターと三井がいれば危険はないように思える。

「浴衣!? やめとけバカ」
「え、なんで!? 夏祭りなのに!」
「お前は夏祭りにアナソフィアの制服着ていくのか? 行かねえだろうが」

例えが雑すぎて可笑しいが、言いたいことはわかった。しかし夏祭りなのに浴衣が着られないとは。

「寿くんとマスターがいるのにダメなの?」
「オレは客であってそうでないようなもんだからな」

友人が来るから溜まり場になっているだけで、Heaven'sDoorは本来なら高校生が行くような店ではない。三井が幅を利かせているわけではないのだ。マスターが止めなければ他の客にが声をかけられたとしても、三井は守りきれない。

「つまんないのー」
「じゃあやめれば?」
「意地悪だな、もう。いいよ浴衣がダメならアナさんのスパンコールのドレス着ていくから」
「それならいいんじゃねえか」
「基準がわかんないよ!」

はへへへと笑ったのだが、やはり三井は笑ってくれなかった。

夏祭りの前日になって、はまた姿見の前で唸っていた。浴衣がダメとなると、余計に迷う。おそらく肌面積が大きいと三井は怒るだろうし、マスターにも叱られてしまうかもしれない。かといっても高校生の女の子だ、おしゃれはしたい。しかも夏休み、少し背伸びしたファッションをしたい。

ただでさえ普段は着飾って街を歩けないのだ。こんな時くらい好きな格好をしたいと思うのだが、食指が動くものはどうしても肌を露出してしまう。それに夏祭りとはいえ、行く先はHeaven'sDoorの屋上である。客層を考えると、あまりはしゃいだ装いはかえってみっともないことになるだろう。

散々妥協した結果、は体の線を出さない緩いエスニックスタイルでまとめた。ボトムも大人しくロングスカートである。ただし、その中に高いヒールのサンダルを隠す。普段は三井を見上げているだが、少しは目線が近くなるかもしれない。

その日の夜遅くなって、三井からメールが届いた。明日の時間を記してある。の地元の駅まで迎えに来てくれるという。しかしさすがに明日は自転車じゃ行かれないなと考えつつ、は簡単に返信をすると、眠りに落ちた。

翌日の午後17時。地元の駅でサングラスとマスクのは、装いがきれいに纏まっているだけに潔癖症のマダムのようだ。ぶっちゃけ恥ずかしい。時間に少し遅れた三井も頬がひくついている。可笑しかったら笑えばいいのに、とは思うが、まあいい。やっとサングラスとマスクを取れる。

「スパンコールじゃねえのか」
「浴衣じゃないんだからいいでしょ! 露出だってしてないし」

言いつつ歩き出したの手を三井が取る。も気にしないし、三井も何も言わないのだが、その様はどう考えてもカップルにしか見えない。人の波はその殆どが夏祭りの方向へと向かっていて、それに逆らうようにふたりはHeaven'sDoorに向かう。

Heaven'sDoorへ降りる階段にはクローズの看板が立てられている。それをちらりと見つつ、は三井に手を引かれてエレベーターに乗り込む。エレベーターが最上階までの半分を過ぎたあたりで、三井は繋いでいた手を解いてポケットに突っ込んでしまった。だが、はその判断は正しいと思う。

「お前誰だって言われたら、なんて言えばいい?」
「ロダンのバイトだって言えばいいんじゃねえの」
「なんで寿くんと来たんだ、って言われたら?」
……適当に言っとけば」
「投げたな。友達だって言っちゃうよ。後悔しても知らないからねー」

三井は返事をしない。はそれは了解のしるしだと受け取る。エレベーターが最上階に到着し、最上階から階段を昇って屋上に出る。夏の風が吹きつけ、の髪を攫う。三井は鬱陶しそうにかきあげているが、は気持ちがよかった。

ちゃん、来たのか!」
「マスター!」

今日はラフなTシャツ姿のマスターがふたりを見つけて歩み寄り、をぎゅっと抱き締めた。三井ほどではないにせよ、背の高いマスターはの頭をくりくりと撫でる。アナさんの子分同士なので可愛いのかもしれない。マスターは身を引くと、の全身をサッと確認する。

「これも可愛いけど、花火なのに浴衣着てこなかったのか」
「うん、寿くんがダメだって言うので」
「三井、お前なあ」
「大変なことになりますよ。後でアナさんに怒られたいんですか」

吐き捨てるように言った三井は、くるりと向きを変えると、設えられた椅子にどかりと腰を下ろしてしまった。

「アナさんに怒られるんじゃしょうがない。楽しんで行けよ」
「ありがとうございます」
……ところであいつあんな顔してるけど、上手く行ってんの」
……付き合ってませんけど」

にやりと口元を歪めて声を潜めたマスターが聞くが、はさらりと返す。それが事実なので仕方ない。

……何やってんの君ら」
「おかしいですか?」
「ああおかしいね。お互いのこと、好きなんだろ?」
「うーん、そう言われるとなんか違う気がするんですけど……。たぶんそれは寿くんも同じだと思いますよ」

呆れていたマスターだが、の顔をじっと見下ろし、そしてふっと相好を崩すと、ジュースの入ったプラカップを2つ取って手渡した。やはりアナさんに仕込まれた人間だ。さも当然という顔でアルコールを渡したりはしない。

「まあいいや。あいつに泣かされるようなことがあったらちゃんと言うんだぞ」

はにっこりと笑って見せて、カップを手に三井の隣に座った。

「すごいね、景色。実はこのあたり坂になってるんだね、隣の駅まで見える」
「マスターに何言われたんだよ」
「んーと、余計なこと」
「やっぱりな」

カップを傾けて、三井はふんと鼻を鳴らした。はそんな三井に取り合わず、遮るもののない夏の暮れ行く空を見上げていた。青が暗く濃くなる西の空に、上弦の月が薄っすらと浮かんでいた。