満月の夜に革命を

07

Heaven'sDoorの花火鑑賞パーティはなかなかに豪勢だった。軽食がふんだんに用意され、アルコールも地下の店がそっくり移動してきたのかと思うほど並べられている。パラソルにソファ席、布張りのビーチチェアまで用意され、しかもその設えの真ん中あたりにステージピアノが置かれていた。

夏の日はなかなか沈まないものだが、19時頃になってようやく暗くなりだした。隅の方で静かにしていたと三井だが、三井はともかくは次から次へと声をかけられる。案の定三井は特に口を挟まない。マスターがその度にフォローしてくれるが、はただ愛想笑いをするしかなかった。

すっかり日が沈むと、来客たちは酒と音楽を楽しみ始めた。花火にはまだ少し時間があるので、と三井は大人しくしている。その中心でピアノを弾いたのはなんとマスターだった。好きに寛いでいる客たちの邪魔にならない程度に鳴らしている。

「マスター、ピアノ上手なんだね」
「オレも初めて見たぜあんなの」

三井も驚いて目を丸くしている。しかも爪弾いているのが「A whole new world」とは。マスターはなかなかにロマンチストであるらしい。客層にはまったく合っていないが、は嬉しい。つい合わせて口ずさむ。中3の時の合唱祭で歌い、ソリストまで務めた曲なのですらすらと歌える。

……なんだよ、お前歌うめえな」
「え、ちょっと何よ、急に褒めるとかやめてよ」

真面目な顔をしてそんなことを言うので、はつい照れて三井の膝をパチンと叩いた。

ちゃん、ちょっとおいで」
「え?」

そのやり取りを聞いていたのか、マスターがちょいちょいと手招きした。三井も一緒にマスターのステージピアノまで駆け寄る。まだ「A whole new world」を弾いているマスターは、弾きながらにやりと笑った。

ちゃん、歌おうか」
「はい!?」
「ロダンのバイトは歌でもピアノでも仕込まれるからねえ」

つまりそういうことだ。マスターがピアノを弾けるのもの歌が上手いのも、アナさんが仕込むからだ。もっとも、クラス発表でソリストに抜擢されるの場合は、器用貧乏も手伝って元から上手ではあったのだが。うろたえるを他所に、マスターは手を止めない。

「う、うるさくて皆さんのご迷惑ですよ」
「平気平気、三井も聞きたいだろ。ちゃんの歌」

三井は何も言わなかったが、困りきって見上げるの背中をそっと押した。背中に伝わる三井の手の温度が「聞きたい」と言っているような気がして、は一歩前に進み出た。

Let it go、歌えるよね?」
……はい」

マスターが曲を変える。短いイントロの間には息を整える。

マスターのピアノに乗せて、は静かに歌い出す。IdinaMenzelの「Let it go」である。季節感がない上に序盤は暗いのであまり気の効いたセレクトではないが、の声にはよく合う。マスターはそれを見越して選んだのかもしれない。音量を上げろと手で煽っている。

の声に来客の話し声が吸い取られていく。可愛らしい女の子がマスターのピアノに合わせて歌わされている光景は微笑ましく、手にグラスを持ってやって来たり、写真を撮ってくれたりしている。

月の浮かぶ夜空を頭上に戴き、は朗々と歌い上げる。

風が吹き、の髪を、スカートをはためかせる。弾きながらマスターがまだ煽るので、はどんどん声を上げていく。そうして終盤のクライマックスに突入したところで、の背後に最初の花火が弾けた。拍手喝采がを包む。マスターはこれを狙っていたのかもしれない。

三井はその景色を、怖い顔を作るのも忘れて見入っていた。

「アルコール、飲んでないのになあ」
「子供だから疲れたんだろ」
「もう反論するのも疲れるわ」

自転車で来られなかったは、とうとう自宅まで送ってもらうことになった。自宅を知られるのは構わないのだが、すぐ隣には兄にも等しい心配性の木暮がいるために、なんとなく避けてきたのだ。駅からの道を三井と歩いているは、人前で大声で歌ってしまったのと花火で少し目が回っている。

だが、今夜は既に22時を回っていて、人通りもほとんどない。木暮も夏祭りに行くようなことを言っていた気がするが、明日も部活なので遅くなれないはずだ。見つかってしまう心配はないだろうとは考える。

見つかったとしてもの友人関係に口を出すような木暮ではないのだが、相手の人相が少々悪い上に、同じ高校の同学年である。もし顔見知りなら、余計な心配をさせてしまうのは申し訳なかった。

とはいえ、妙な友人関係になって2ヶ月以上が過ぎているが、今のところ誰が見ても安心安全な男の子より三井は無害である。接触といえば手を繋いだくらいであり、グレてはいても何かに誘い込むわけでなし。怖い顔をしてに近付く不埒な輩から守っているだけの、ただそれだけの存在である。

それが不満というわけではないのだが、はもう少し砕けて話をしてみたかった。

「私は今日すごい楽しかったんだけど、寿くんつまんなそうだったね」
「そんなこともねーけど」
「寿くん笑わないからなあ。いつもここんとこにギューっと皺寄せててさ」

は眉間を人差し指で突く。に近寄る不埒な輩というものは、何がそんなに楽しいんだと言わんばかりの笑顔を纏っているのが普通である。もしくはそれの崩れたニヤニヤ笑いであることがほとんど。三井のように退屈そうな、面白くなさそうな顔をしている男の子はの周りにはいなかった。

「別に笑うようなこともねえからな」
「まーそりゃそうなんだろうけど」

こうしていつも話が発展しない。はまたしくじったかと内心舌を打ち、次の手を考えるが、そう簡単に三井の不機嫌顔を解除出来るなら苦労はしない。考えている間にもう自宅前に到着である。家も木暮家も玄関灯が点っているだけで、家の前は薄暗い。

さてお礼を言って、今日はここでバイバイだなと考えていたの向かいから、声が聞こえてきたのはその時である。どうも大人数の若い男の声だ。個々の声など聞き取れないが、は直感で確信する。マズい、公ちゃんだ! なんで今日は遅いの! は三井の腕を引っ張って自宅の敷地内に入る。

「寿くん、ちょ、ちょっと、隠れて!」
「は?」
「早く早く、やばい隣の幼馴染が――

とにかく木暮家の門付近から死角に入り込めればいい。幸い両家の間は高い壁で仕切られている。はともかく三井が大きいのでなんとかして隠さなければ。そう考えて焦っただったが、急に体がぐるりと回転して息を呑む。気付くと、三井にゆるりと抱き締められていた。

木暮を含むであろう集団はがやがやと近付いてきて、木暮家の前で速度を落とした。だが、長話をするでもなく、木暮も「じゃあな」とだけ言って家の中に入ってしまった。木暮と別れた彼の友人たちも、またがやがやと喋りながら家の前を通り過ぎていく。

はその音が聞こえなかった。今自分に起こっていることがよくわからない。花火と歌で火照っていた頬が三井の腕にぺたりとくっついている。そしてドクドクと耳に響く鼓動は、自分の心臓の音だ。夏の重い空気に混じる三井の匂いが漂い、思考が止まる。

「行ったな」

木暮はさっさと家の中に入ってしまったので、彼の友人たちの声が遠ざかると、三井はを解放した。は両手をギュッと握り締めると、三井を見上げた。

「ごめん、別に寿くんが恥ずかしいとかそういうことじゃなくて、幼馴染、心配性で――
「別にそんなこと思ってねーよ」

だけど、と言いかけたの頬に、三井の手のひらがすっと伸びる。

「寿くん……?」

はまた思考が止まる。この手はどうしたというの?

だが、三井は手を離すと「じゃあな」とだけ言っての横をすり抜けて行く。思わず頬に手をやり、遠ざかる後姿を見送るしか出来ないを振り返ることもなく、三井は帰っていった。

夏休みが終わり、はまた学校とバイトの繰り返しの生活に戻った。三井もまたロダン帰りのの迎えにやって来る。それ以上に何も変わることはなく、も三井も夏祭りの時のことは忘れてしまったかのように過ごしていた。もっとも、三井はまだ多くを語らないので何を考えていてもには知りようがなかった。

2学期のアナソフィアはイベントシーズンである。9月の合唱祭、11月の文化祭はもちろんだが、10月の下旬には市内の女子校とスポーツ交流会というイベントが控えている。これがアナソフィアでは異様に盛り上がる。女子校同士の因縁の対決というわけだ。

これも翔陽を招いての球技大会同様、本職と呼ばれる各運動部員は部の競技には出場禁止。なおかつ丸一日かけて行われるため、競技の種目が多く、必然的に運動部員でなくとも出場しなければならない。

はまたバスケットである。球技大会の時の活躍を買われたらしいのだが、出場時間はおよそ7分、5得点というところだ。戦力になるかどうかは疑わしいが、の場合は人望があるので団体競技の方が都合がいいのだそうだ。しかも3年生から直々に指名されたので断れない。

まあまた公ちゃんや赤木くんに教えてもらえばいいかと考えていただったが、湘北は中間真っ最中にあたり、真面目な木暮と赤木はに構う暇がなかった。さて困った。自分で練習するしかない。一応春の球技大会の時にふたりに教えてもらったことは覚えている。それで練習するしかない。

「どこか練習できるところないかな」
「学校は?」
「練習日はあるけど普段はバスケ部が使ってるからねえ」
「そっか。じゃあ公園とかかな〜ふあ〜」

再び日曜の朝、木暮家である。いい練習場所はないかと木暮に聞きに来ただけなのだが、は朝食を食べて行けと勧められている。明日から中間が始まるという木暮は既に眠そうだ。部活がないのでじっくり勉強出来るが、動かないので眠くなりやすいと愚痴っている。

は木暮に教えてもらった公園にひとりで出かけていった。ジャージにキャップ、サングラスもして、ボールは木暮のものを借りる。バスケットゴールがあるという公園は自転車で20分程度の場所だった。

先客もおらず、住宅街の中の公園は長閑で静かで明るく、がひとりで練習をしていても危険はなさそうだった。犬の散歩をしている人がひとりふたり、通り過ぎていくだけ。はストレッチをしてからシュート練習を始めた。木暮と赤木に教わったことを思い出しながら、何度もシュートを打つ。

とはいえ、ちゃんと出来てるかどうか、自分じゃわからないもんなあ。

いくら器用でもシュート成功率は今のところ1割といったところ。これでは使い物にならない。は両手に持ったボールをじっと見下ろす。ふたりのアドバイスは記憶にあるが、それだけで入るようになるなら苦労はしない。20分ほど投げ続けたところでは手を止めた。普段やりなれないので疲れるのも早い。

ベンチに座って水でも飲もうと、ボールを抱えてゴールポストから離れた。その時である。はボールをベンチに放り投げてダッシュする。ゴールポストがあるので公園の周囲は2メートルほどのフェンスで覆われているのだが、はそのフェンスに飛びついた。

「寿くん! おはよー!」
「え、なんでだよ!?」

それはも同じだ。フェンスに指をかけてにこにこしているの前で、三井は渋い顔をしている。

「どうしたの、こんなところで」
「いや徳男ん家がこの先で……ってそんなことはどうでもいいだろ。お前こそこんなところで」
「それがねー、学校のイベントで仕方なくバスケやることになっちゃって」

真面目ちゃんでお恥ずかしい、とでも言ったニュアンスを含めて笑いながら言っただったが、三井はが知る限りでも一番凶悪な顔になった。さすがのも怯み、フェンスにかけていた手を思わず放した。

……あ、悪ィ」
「ううん、ごめん、ごめんなさい」

すぐに気付いて顔を戻した三井だったが、は一歩一歩後ずさる。調子に乗って仲良くなったつもりでいたけれど、やっぱりこんな風にグレた人の気持ちなんてわからない。何が地雷だったのかはともかく、あんな風に睨まれたら、怖い。三井を怖いと思ってしまったこともショックだった。

「じゃ、じゃあまたね、徳男くんによろしくね」
「あ、おい!」

はベンチまで走って戻ると、ベンチに座らずにしゃがみこんだ。寿くん、怖かった。ものすごく怖かった。は膝を抱えて俯く。グレててもヤンキーでも同じ高校生なのだし、偏見もないつもりだった。違う世界を見ている人だから、話をしてみたかった。だけど、それがあんなに怖いなんて。

あまり考えていることはわからないけれど、悪い人じゃないのはわかっていた。アナさんが言うからには、元々は普通の子だったのが、どこかで折れ曲がってしまったので間違いないのだろうと思っていた。けれど、それでも三井の中の闇が溢れ出したのを目の当たりにすると、近寄ってはいけないのではないかと思えた。

本人は否定するが、ナンパから助けてもらったのだし、その後もずっと送っていってくれる、優しくて責任感が強い人なのだと、勝手に思っていた。それは間違いではないのかもしれないが、それだけではなかった。それだけであるはずがなかった。三井は未だ暗い闇の中にいて、そこに踏み込んだのはの方だ。

しかし、膝を抱えてどん底で反省するの頭上から三井の声が落ちてきた。

「おい、大丈夫かよ」

がばりと顔を上げたは勢いよく立ち上がって、何かを言おうとした。が、言葉にならない。

「わ、悪かった。ちょっと……腹立つことが、あったから、つい」

気まずい表情でそうぼそぼそと言う三井を見上げながら、は小さく頷く。もう怖くなかった。