水際のウルヴァシー

18

真冬の海は風が強いと本当に寒い。さらに、砂が巻き上げられたりしようものならそれが肌に当たって痛い。

突然会いたいと言ったところで、が三井に連絡をしたのは海南ではテスト休み中にあたる頃である。県立の湘北にテスト休みはない。まだ授業終わってないと返って来た。出鼻をくじかれただったが、気持ちが折れない内に約束を取り付けた。お互いの都合で、終業式の日になった。どちらも同じ日だった。

あんな風にドラマチックに送り出してもらった手前、は牧に合わせる顔がなくてコソコソと過ごし、終業式が終わるとまた急いで学校を飛び出した。普段伴走の時は自転車で40分ほどの道のりだが、今日は電車とバスを乗り継いでいかなければならない。

時間は指定していなかったけれど、遅刻も嫌だ。は急いで浜に向かい、冷たい風に頬を真っ赤にしながら三井を待っていた。この浜は、そして2件並んだかつての三井のたまり場の店は笑えるほどに何も変わらない。が動揺して泣いて怒って笑って過ごした場所は、ずっと同じ顔をしていた。

1年の時を経て、長髪の三井と再会した時はまるで空間が歪んだのかと思ったほど衝撃を受けたものだった。

髪が長かった頃の三井は遠い記憶の彼方にそっと佇んでいて、静かに、鮮明な色を失ってぼんやりとの方を見つめている。けれど、あれは大事な記憶なのだと思うようになっていた。自分の知らないところで怪我に見舞われケアもしてもらえなかった、三井の心の傷そのものという気がしたから。

私、何も知らなかったからさ。あの時本当のことを全部話してくれたら、どうなってたんだろう。

しかし三井の方も話す気などさらさらなかったに違いない。高校に入ってからの挫折は中学時代の栄光がセットになって出てくる。そこには必ずがいる。ひとり約束を守り通すために海南に入り、順調に日本一へと近付いていくになど、自分の苦悩を打ち明けようとは思わなかっただろう。

今ならその気持ちがわかる。それはいつか正直に伝えようと思う。だがとりあえず後回しだ。

背後で「おーい」という声が聞こえたので、ちらりと振り返る。制服姿の三井だった。海南はブレザーにネクタイなので、学ランを見るのはものすごく久し振りという感じがする。しかし中学は学ランだったので、15歳の三井が重なる。背が伸びたので気を付けないと制服のズボンが危険だと言ってよく笑っていた。

「悪ィ、遅くなった……
「時間通りじゃない? 私早く着いたから」
「もう引退……したんだよな?」
「この間連絡した日にね。そっちはどうなの」
「予選で負けた次の日」

ちらりと顔を見合わせたふたりは防波堤に並んで寄りかかり、ぼそぼそと喋る。

しかし話が続かない。学校も違うし、この3年は数えられるほどしか顔を合わせていないので共通の話題もないのだから仕方ないけれど、どちらも本題に入るきっかけを探している状態で、肝心なことが言い出せない。

……惜しかったな、海南」
「結果的に夏と同じことになっちゃったからね。そっちも大変だったんじゃないの、いっぱい負けちゃって」
「まあな。でもあれでよかったって気もする。世代交代はするんだし、役割も変わるから」

赤木を始め3年生はいなくなる、主将の宮城はまだ仙道ほどの存在感が出ていない――そういうことだろうなとは考え、しかし他校の自分が、しかもマネージャーが偉そうに口を出すことではないだろうから、頷いただけで余計なことは言わない。どんなチームにも事情がある。

「そういえば進路とかどうしたの。赤木くん受験て聞いたけど」
「あいつはスカウト来てたんだよ。だけど、話がなくなってな。元から行きたいところがあったらしくて」
「そういうこともあるのか……。夏まで運動部やってていきなり受験じゃ大変だ」
「ま、あのふたりはそういうところちゃんとやってたからな。今はなんだかやつれてる」

三井はへらへら笑ってチームメイトの話をしているが、が聞きたいのは彼らの話じゃない。

「あんたはそういうのちゃんとやってこなかったんでしょ。どうしたの結局」
……何しろ実績に乏しいからな。しかも途中とんでもないことになってたし」

またの記憶の向こうで長い黒髪の三井がじっとこっちを見ている。本人がとんでもないことと言うからには、などが聞いたら逃げ出してしまうようなことだったのかもしれない。けれど、それもちゃんと受け止めたいと思った。それを一番悔いているのは三井本人だろうし、痛みに耐えかねて上げた悲鳴のようなものだったのだろうから。覚悟というほどではないけれど、受け止める自信はある。

「でも、国体の時に監督の知り合いが見に来てて、あんな子いましたかって聞きに来てくれたらしくてな」
「ああそっか、高校での試合って今年になってからだったもんね」
「それで、えーと、監督がな、薦めてくれて」
「いいチームだよ、って?」
「いやその、そうじゃなくて、いい選手ですよって、言ってくれたらしくて……

がちらりと顔を上げると、三井は顔が赤くなっていた。自分の教え子を薦めてるに過ぎないのに何でこんなにこの人は照れて喜んでるんだろう、と思ったらいつかの怒りが蘇ってきた。

「ちょっと待ってそんなの当たり前じゃないの? ちゃんとフォローしてあげなかったんだから、そのくらい」
「監督の話になるとお前必ず怒るよな〜」
「私が近くにいたら絶対グレたりなんかさせなかったからだよ!」

勢いでつい言ってしまった。自分でも驚いて固まったの手を取り、三井はぎゅっと握り締める。

……それで、推薦で行かれることになったんだ。話がまとまったのは予選が終わった後で、予選であれだけ負けたから無理だと思ってたんだけどな。そしたら親に土下座して浪人するしかないと思ってたから、助かったよ」

そして三井はぼそりと東京にある大学の名を挙げた。の顔も跳ね上がる。

「は!? 嘘でしょ!?」
「ま、今の学力じゃ到底無理だけどな。あ、だけど今度はちゃんと……何だよその顔」
……私も、そこ、行くんだけど」
「ハァ!?」

手を繋いだまま三井は飛び上がった。冷たい潮風が吹き抜ける砂浜、の髪は縦横無尽に舞い上がり、目を細めて三井を見上げている。いい選手が獲得できたから、今年はどうしても海南の選手が欲しいというわけではないらしい。そういう話だった。それ、あんたのことだったの……

牧や高砂とはいかなくても、海南の3年間を耐え抜いた選手より、三井寿を選んだの?

はバスケットの弱い大学には行きたくなかった。毎年各大会の優勝を競っているようなチームでなくとも構わないが、それでも生半可なところではフラストレーションが溜まるから、そんなところは嫌だと言って選んだ志望校だった。つまり、そういうチームに選ばれたのだ。

3年前、もし海南や翔陽や陵南を選んでいたら、もっともっと強くていつでもトップ争いをしているようなチームに入ることになっていたかもしれない。道をそれてそんな領域には踏み込めないのだとしても、それでも彼はまだ必要とされる選手だった。そういうものを完全に失くしていなかった。そこにはあの頃の、15歳の彼も一緒に混ざっている。あの頃の彼がいなかったら、今の三井寿はなかったに違いない。

が何より愛した15歳の三井寿は死んでなんかいなかったわけだ。

三井を見上げたまま、はまたボタボタと涙を零した。この1年、三井のことで泣いてばかりだ。

「な、何で泣くんだよ、同じ所じゃ嫌だった――
「あの時約束を破って私をひとりにしたのは自分だって言って!」

涙の溢れる目元に手を添え、繋いだままの手は力の限りに締め上げる。三井はそれを黙って耐えている。

「本当は別れたくなかったのに、監督の方を選んだのは自分で、だから離れることになったって言って!」
……ああ、そうだよ。お前は何も変わらなかったのに、オレが壊したんだ」
「私事情なんか何も知らないのに、もうバスケなんかどうでもいいって、しかも勝手にキスして!」
「言いたくなかったんだ。みっともねえと思ってたから。どうでもいいなんて嘘だよ。ずっと嘘、ついてた」
「どうしてもあの時の悔しさとか悲しさが消えない! 私より監督を選んだんだって、私は一番じゃなかったって」
「そう思われても仕方ないことしたのは、わかってるよ」

三井が優しく返してくれる間には大きく息を吸い、波音と潮風の中で叫んだ。

「だから、それを忘れられるくらい私を好きだって言って!!!」

打ち寄せる波が白い飛沫を上げて砂浜に弾ける。三井は少し体を屈めて、を真正面から覗き込む。

、好きだ。3年前も今も、ずっとが欲しいと思ってる。にキスしたい、抱き締めたいっていつも思ってる、離れてる間、誰とも付き合わなかった。誰も好きになれなかった、より好きになれるのなんて、いなかった。だから、ここで見かけるとつい、話したくて――

またの記憶の中で長い黒髪の三井の姿が揺れる。走り去るの背中をいつもじっと見つめていた。

……、好きだよ、好きです、、愛して、います」

その言葉とともには声を上げて泣き出し、繋いだ手を振り払って三井に抱きつき、また強く締め上げた。三井もまた強く抱き締め、の頭を抱え込んで目を閉じた。

「今度は同じ道、行けるよな。一緒に、いてくれるか」

は何度も頷いて、懐かしい匂いの中で体中に痺れを感じた。

「一緒にいる。また寿がグレそうになったら止めるし、今度こそ本当に、私をあげるから――

キスなどもう何百回目なのだろう。けれど、は今落ちてきた三井の唇を一生忘れないと思った。そして、あの長い髪の彼が歪んだ顔で無理矢理してきたキスも覚えておこうと思った。大事に心の中に仕舞いこんで、なくさないようにしようと固く誓った。それは、

「寿、私も好き。私も寿が欲しい。3年前も今も、そう思ってる」

県大会で優勝した三井を見つめながら思った、あの時の気持ちと同じだったから。

バイクショップとレストランは、その真後ろにあるやたらとでっかい家の主人の持ち物で、元々はこの辺り一帯の地主の家系であり、その本家であり、要するに金持ちだ。そして数年前からその主人の息子が主に使用していて、まともな営業はしていない。だいぶ横道に逸れている息子はその店ふたつを、仲間との溜まり場にした。

自分の使いやすいように改造し、仲間が遊べるように設備を増やし、ガレージでバイクを弄ったりレストランの方で好きに飲み食いしたり出来るように作り変えていた。だから三井もしょっちゅうここへ出入りしていたというわけだ。不貞腐れて行くあてがなくても、ここにくれば気が紛れる。

「本当に勝手に入っちゃっていいの?」
「親父さんに許可はもらってる。寒いし、ここで話した方がいいかと思ってたから」
「親父さん……本人は?」
「ええとその、塀の向こう。覚えてないか、虎縞みたいな頭したの」

言いづらそうに苦笑いをしている三井に、も苦笑いで返す。まったくとんでもないこととはよく言ったものだ。潮風をモロに受ける砂浜に比べるとガレージの中は暖かくて、の頬は柔らかいピンク色に染まっている。油と金属の匂いが漂うガレージの中は、まるでドラマか何かに出てきそうな設えだった。

ガレージの一番奥、昼間だというのに明かりを灯さないと暗い壁際で、ふたりはぴったり寄り添って大きなソファーに身を沈めていた。さすがに溜まり場、ソファーがいくつもあって、三井はよくここで深夜まで騒いでは、昼頃までだらだらと寝ていたと懐かしそうに目を細めた。

「本当に、誰も来ないの」
……主が塀の向こうに行っちゃったからな。親父さんもルーズだし」

ルーズというか、主がいなければただの倉庫と大差ない。興味がないんだろう。三井に使っていいと言ったそうだが、鍵は元から置きっぱなしになっている隠し鍵だった。不用心極まりないが、まあたちが困るわけでなし。隣のレストランも誰もいないし、ガレージの中は石油ストーブの微かな音が響いている。

「寒くないか」
「平気。暖かいよここ」
「手、冷たくないか」
「ちょっと冷たい。でも平気。すぐに暖かくなるよ」

の体を引き寄せて、三井はゆっくりとキスを繰り返す。まだ温みの戻りきらない手はの首筋を撫で下ろし、襟元に滑りこむ。海南のネクタイに指がかかるけれど、中高と学ランだった三井はネクタイの解き方がわからない。が素早く解くと、また冷たい手が伸びてきて、ボタンを外していく。

「触って、いいか」
「うん。えっと、痛いこともあるから、あんまり強くしないでね」
「わ、わかった」

制服のシャツの間から覗くの素肌に三井の指が伸びていって、するりと触れた。その瞬間は「ひゃっ」と乾いた声を上げた。大丈夫だと思っていたけれど、本当に三井の手が冷たかったからだ。

「やっぱ冷たいよなこれ。お湯かなんか……

隣のレストランのキッチンならすぐに湯を沸かせるけれど、そっちは火が使えるから入るなと釘を差されているらしい。ガレージの方には確か電気ポットがあったはずだが見当たらない、と三井はきょろきょろしている。その三井の手を掴むと、はそのまま襟元に押し込んだ。

「お、おい……
「これで暖かくならないかな」
「なると思うけど、平気か?」
「大丈夫。どんどん緊張してくるから、ぼんやりしてるの、やだ」

ゆっくり首を振ったは、残りのシャツのボタンを全て外して、三井を見上げた。三井はそのままするりと手を差し入れ、仄温かい胸元に触れた。冷たい指先が少しずつ暖かくなって、柔らかくなっていく。

「中3の時……あの頃は何で待たなきゃいけないんだろうと思ってて」
「待つ?」
「胸くらいなら今すぐ触ったっていいじゃん減るもんじゃなしとか、そんなこと考えてた」

それでも何しろ学校一のスター選手、それはちょっとかっこ悪いような気がして、友達にもそんなことは言えなかった。彼女がいない友達ばかりを相手に、自分は待ってやってるのだ、だけどそう遠くないうちに一線を超えるつもりでいると自慢気に言ったものだった。

一線どころか何百回というキスだけを残して破局したわけだが、その時もこんなことになるならさっさとヤッとけばよかったと思った。それを三井は少しだけ後悔している。

「今になってみると、ずいぶん身勝手だなと思うよ。出来ないまま別れてよかったのかもしれない」
「どうして?」
……たぶん、あの頃のオレなら、自分がしたいことだけしたいとしか、思わなかった」

やっと温まった手はが頼んだ通り、ゆっくりと優しく肌を滑る。

「でも、こうやって触りたいとかキスしたいって思うのは、同じだな」
「時間、かかっちゃったね」

は目の前にある三井の前髪をかき分け、3年前には丸出しだった額にチュッとキスする。

「同じ高校行って、IHで優勝して、また同じ大学行ってそこでも日本一になって」
「オレは日本代表かNBA、学生でも20歳を過ぎたら結婚」
「中学生らしい夢だよね。すごく恥ずかしい黒歴史だけど、あの頃は本気だったよね」

何でも出来る、何でも可能だと思っていた。道は同じ幅のまままっすぐに続いているのだと思っていた。

、高校とIHはもう無理だけど、その他はまだどうにでもなるぞ」
「大学で日本一になって日本代表とNBAで20歳で結婚? 慌ただしいなあ」
「もう少しマトモな段取りにしないとな」

くすくすと笑うに唇を押し付けると、三井は制服のシャツを大きく開いて、3年前に夢見ていた胸に顔をうずめ、音を立ててキスをした。の肌が微かに震え、漏れた吐息が三井のまつげを掠めていく。

あの頃は時間経過とともに自分たちは勝手に変わっていくものだと思っていた。高校に行けば、大学に行けば、練習をすれば、それに見合った自分に変わっていくのだと思っていた。けれど道幅は狭くなるわ曲がるわ折れるわ、1本だと思っていた道は幾つもの分岐が現れてすっかり迷ってしまった。

しかしどうやら目的地は同じのようだから、今度はしっかり手を繋いで歩くことにしよう。繋がる体が求めるまま、ただ歩いていればたどり着けると思っていた場所へ行こう。

……もう離れないでね」
「後悔するなよ、嫌だって言っても離れないからな」

今また新たに結ばれた約束、それを誓いとして。