水際のウルヴァシー

06

IHが開催される頃というのは、日本が一番暑い時期でもある。そのIHは目前に迫っているし、伴走はまたすぐやってくる。先輩と話をし、決意を新たにしたは出発する前から毅然とした態度を取るのだと自分に言い聞かせ、帰ってくるまでは常に神経を尖らせていた。

幸い夏休みに入るまでの間には一度も遭遇しなかったけれど、なぜ三井があの浜にいたのかということに関しては、2件並んだ店に入っていくところを目撃したので、一応理由は判明した。早い時間にランニングに出た際に少しだけ近付いて確認してみたところ、どうやらバイクショップとレストランのようだった。

看板にはハンバーガーと書いてあるけれど、開店時間は17時。要するに夜の店だ。バイクショップだって、もう昼になるというのに、人がいない。ヤンキーのたまり場としてはこの上もない場所のようだ。

なのでランニングで浜に来るたび、は店の方を確認し、店内にそれらしき人がいる時は浜ダッシュをしている部員のすぐ近くに移動してみたり、防波堤の影に隠れてしゃがんだりして、出来る限りの自衛手段は取っていた。

だが、三井は店から出てきてまではに声をかけるつもりはないようだったし、海南の部員が表の通りを走っていても浜ダッシュをしていても、それを窓越しに眺めている、なんてこともなかった。彼らしき長髪が店内にちらりと過ることはあっても、仲間たちと何やら話しているだけで、気にもならない様子だった。

「どうした、何か気になるのか」
「ああいう店って怖そうな人多そうだし、出てきたら嫌だなと思って」
「出てきたってこれだけデカいのが何人もいたら近寄ってこないだろ」

水を貰いに来た牧が首を傾げるので、は努めて平然と答える。そして、今年の県予選でもベスト5に入り、このままの勢いだと来年はMVPだな、などと囃し立てられていた牧をぼんやりと見上げた。

「あのさ、バスケ、やめたくなったことってある?」
「なんだよいきなり。基本的にはないな」
「基本的にってどういうことよ」

水を勢いよく流しこむと、牧は口元を拭って視線を外した。

「やめたいと思ったことはないんだ。だけど、出来なかったことはある」
「具合悪いとかそういうこと?」
「いや……家族が死んだ時」

何も考えずに素朴な疑問をぶつけただけのは狼狽えて、返答に困った。

「ちょうどハワイにいる時に祖父さんが亡くなってさ。これがまたオレの最初の師匠で」
「帰れなかったの?」
「そう。やっと帰ってきた時はもう骨になってた。その頃は本当に出来なかった」

それは無理もない。は三井がヤンキー堕ちしてしまった理由がさっぱりわからなくて、あれだけバスケットが大好きだったのにやめたくなるのには一体どんな事情があったんだろうかと思ったので、つい聞いてみたわけだが、あまり参考になりそうにない。それはごく普通の感情という気がする。

「どうしてもバスケしてると思い出すからな」
「どうやって乗り越えたの、それ」
「乗り越えた、っていうか、祖父さんのこと思い出してもキツいけど、バスケできないのもつらすぎた」

苦笑いの牧は腰に手を当てて首を傾げる。そんな自分に呆れる、というような顔だ。

「バカだよな、泣きそうになりながらボール触ってたけど、3日くらいですぐ平気になった」
「バスケできる方が楽しかったから?」
「というより、それしかないんだよな、結局」

今度はが首を傾げたので、牧はまた苦笑い。

「なんとなくバスケできなくて、空いた時間を別のことに使おうとするんだけど、そういう時は何やっても気が乗らないし上手く出来ないし、普段バスケちゃんと出来てる時はそんなことないのに、バスケしたくてウズウズして来るし。だから最初はキツかったけど、思い切ってボール触ってみたら、どんどん落ち着いてきて」

ほとんど中毒じゃん、と思ったが突っ込まないでおく。だが、そうやって中毒レベルでバスケットのことが好きでなかったら、この海南の練習漬けになんて着いていかれないだろうとも思う。練習に飽きるようでは、この王者海南の選手はつとまらない。

確か三井はそういう中毒レベルでバスケットが好きだったはずなのだが――

「そういえば私の伯父さん、ずーっと草野球やってるなあ。よく飽きないなと思ってたんだけど」
「ははは、飽きないんだよ。ずーっとやってたいんだ。よくわかるよ」

バスケバカだった三井を180度ひっくり返してしまうようなことがあったのだろうか。どんな事情があろうと構わないけれど、それは少し不思議だった。ボールを触っていないと禁断症状が出るような、そういうプレイヤーがバスケットを断つほどの事情なんて、あるんだろうか?

浜に降りていった牧の背中を見ていたは、またついちらりと振り返って、2件並んだ店の方を見た。ひと気もないし、しんと静まり返っているように見える。あいつはもう、ウズウズしたりしないんだろうか。バスケット出来なくても、平気なんだろうか――

IHが終わり、夏真っ盛りの頃。今年は3位という順位に終わった海南バスケット部は、朝っぱらから例の浜に集合していた。外部受験を目指す3年生数人が引退し、お盆休みを控えて少しのんびりしている時期の彼らは、地域交流の一環としてボランティアでゴミ拾いをすることになった。

受験のために夏で引退と宣言していた先輩マネージャーもいなくなってしまって、とうとう紅一点のはサングラス、首にタオル、軍手、というスタイルで部員たちの前に立ちはだかる。既に充分部員たちを尻に敷いているけれど、ナメられてはいかんという気持ちの方が先に立つ。

「可燃ごみと不燃ごみは分けること。ペットボトル、缶類も分別、判断付かなかったら必ず聞いて下さい」

やはり首にタオルの部員たちから「ウェーイ」とだるそうな声が上がり、浜に散らばっていった。

それほど汚れた浜ではないけれど、ペットボトルや吸い殻などがあちこちに散らばっている。今日はそれらを拾い集めてまとめ、後からやって来る予定の監督が軽トラで学校まで運ぶ予定になっている。部員たちはもちろん走って帰る。は自転車。

それでもバスケット部はえこ贔屓されて浜に来ている。暇な部は最寄り駅の駅前だったり、大きな市民公園の外周全てだったり、この浜に比べるとかなり時間がかかる場所に行かされている。広さはあるが、元々ごみの少ない浜なので、バスケット部はさっさと拾ってさっさと帰れるというわけだ。

は部員たちが作業し始めたのを確かめると、ちらりと背後を振り返り、2つ並んだレストランとバイクショップを確認する。何しろ朝なのでバイクショップにはシャッターが降りているし、レストランの方も窓の向こうは真っ暗で静まり返っている。今日は問題なさそうだ。

集合場所に分別用のゴミ袋をペットボトルで固定したは、自分でもゴミ袋とトングを手に浜に降りた。

今日も真夏の日差しが砂に照りつけ、波打ち際の泡立ちを白く輝かせている。あの飛沫につま先を浸してみたい欲求に駆られるが、遊んでないでさっさとゴミを拾ってしまわねば――そう考えたところで、は突然、強烈な空虚に襲われて足を止めた。

私、バスケ部にいる以上は彼氏と海デートとか、できないのか。

現在既に2年生の夏休み。今すぐに彼氏ができない限り、今年の夏は海デートなど不可能である。何しろお盆休み直前、海南のバスケット部にお盆休み以上の休みがあるわけがなし、あとはまた来年までチャンスはない。

復讐が目的で入部した割にはバスケット部のマネージャーにやり甲斐を感じていたし、日本トップクラスのチームに関われていることは誇りに思っている。この海南バスケット部は自慢のチームだ。強いし、仲がよくて嫌なやつなんかいないし、みんなバスケットに一生懸命で、本当にサポートし甲斐がある。

けれど、好きな人と手を繋いで波打ち際を歩いてみたい、という、言わば「欲求」はの胸を強い力で突いた。それ出来ないんじゃないの、という憶測はさらにの胸をドスドスと殴りつけてくる。

部活で青春もいいけど、高校生は3年間しかなくて、もう二度と戻ってこないんだよ?

はそんな自分の声を振り払い、海に背を向けて吸い殻やら木の枝やらを拾ってはゴミ袋に放り込んでいく。そうして無意識に顔を上げたの目に、潮風に吹かれて飛んでいくゴミ袋が目に入った。ペットボトルで固定していたはずなのに、大きく膨らんだゴミ袋はふわふわと舞い上がって、道路の方へ飛んで行く。

マズい、車が来たら大変だ!

浜を駈け出したは、ゴミ袋を追いかけて走る。固定していたペットボトルは全て倒れていて、自分のゴミ袋とトングを放り出して追いかける。幸い朝のピークを過ぎた海沿いの通りは車が少なくて、は車道を横切ってゴミ袋に向かって走る。腰のヒップバッグがガチャガチャと音を立てる。

ゴミ袋は高度を下げつつ、レストランの駐車場らしき場所に落下しようとしていた。それに追いついたは、空気を受けてぷっくりと膨らんだゴミ袋を両手でキャッチしてギュッと抱き締めた。ああ間に合ってよかった、しかも朝で人がいない時でよかった。店の中に誰かいる時間帯だったら、私がゴミ袋追いかけてたのが丸見えだ。

ちらりとレストランの方を見てみると、薄暗い窓ガラスに自分の姿が写っていた。走ったせいで髪はボサボサ、首に引っ掛けていたタオルは片側が外れて背中にへばり付いている。汚れてもいいように着古したTシャツ、垂れ下がったヒップバッグ、ゴミ袋を抱き締めている腕の下には薄っすらと下着の線が浮いている。

ま、これじゃ男なんか出来ないか。

遡ること4年前、三井と付き合いだした頃、は急に可愛らしくなった。人の顔も年齢によって変わっていくので、子供の頃に整いすぎると成長による変形で崩れていくことも多い。一番恋愛に適した時期に全てのパーツのバランスが整うことがつまり、美しい成長とされるわけだ。のピークはちょうどその頃だった。

というわけで高校2年生の今はあの頃よりはこざっぱりした顔になっているだろうか。福笑いのように崩れてしまったわけではないけれど、大人らしい顔になりつつあるは以前に比べると「普通」な感じになっていた。

胸を突く欲求は否定出来ない、しかし急ぎ彼氏が欲しいと言っても、例えば部員とは誰とも付き合いたとは思わない。彼らはそう、まるで家族のようで、兄や弟や場合よってはお父さんみたいなもので、恋愛したい男の子ではなかった。彼らとの絆は強いと思っているけれど、あまりに特殊で、時に非日常で、心はときめかない。

こんなヨレヨレだし、近くには部員しかいないし、まあ、自分で選んだ道だしね。

窓に映る自分から目を逸らし、はゴミ袋を抱いたまま片手で髪を梳き撫でつける。そういえば中学の時はお小遣いの殆どをトリートメントやグロスなんかの学校で叱られない範囲で使える美容グッズにつぎ込んでいたな。今はそこまでしてない。それよりは日焼け止めとか傷跡が残らない塗り薬とか、そんなのばかりが増える。

もう、私を欲しいなんて言い出す人は現れないかもなあ。日焼け止めを塗っても塗っても薄っすら焼けてしまう腕を見ながら、はとぼとぼと歩き出す。ゴミは少ないけれど何しろ浜は広いので部員たちは方々に散らばっていて、ゴマ粒のようだ。みんな白ゴマだけど牧だけ黒ゴマだななどと考えてはニヤつく。

この海南バスケット部を選んだことは後悔していない。チームもそうだし、学校自体にも不満はないし、そろそろ半分を折り返す高校生活がこのまま続いていけば、海南大附属はいい思い出がたくさん詰まった大好きな母校になるはずだ。それはとても幸運なことで、この高校を選んでよかったと心から思える。

だから一時の欲求の囁きなんかに負けるなよ、私。そんなことを考えながら車道の方へ歩き出したその時だった。レストラン入り口のポーチからぬっと人影が現れて、は足を止めた。背は高いが姿勢と目つきが悪くて咥え煙草の男がじろりと睨んでいる。金と黒の斑の髪がまるで猛獣に見える。

……営業してないんだけど」
「えっ、あの、私ここにこれが入ってしまってその」
「勝手に入られると困るんだけど」

は何とかゴミ袋を拾いに来ただけだと言いたいのだが、喉がカラカラに乾いてしまっていて、囁くような声しか出ない。斑髪の男はいっそうしかめっ面をしてに近寄ってくる。怖い顔した背の高い部員はたくさんいるけれど、今はだだっ広い浜にみんな散らばっていてには気付かないだろう。は血の気が引く。

「てかそのゴミ袋何? 何してんのここで」

浜の方見てよ! ただゴミ拾いしてる真面目な高校生なだけだから! そう言いたいけれど、声が出ない。首を振るばかりのの視界は斑髪の男で埋めつくされていく。ちょっともう誰か気付いてよ、特に190突破してるの、今すぐ助けてよ……

すると、怖いのとどうしたらいいのかわからないの目の前で、斑髪の男は急に体を翻して離れた。つい斑髪の男の視線の方を目で追ったは、とっくにカラカラに乾いていた喉をヒュッと鳴らして竦み上がった。三井だった。彼もまたしかめっ面で斑髪の男の手を掴んでいる。

「何だよ」
「浜掃除してる連中だろ、面倒なことになるからやめとけ」
「掃除?」

三井に手首を掴まれたままの斑髪の男は浜の方を振り返り、「あー」という間の抜けた声を上げた。

「だったらそう言えってんだよクソガキが」
「竜の原付引き上げてくるんだろ、さっさと行けよ。そっちも面倒なんだよ」
「うるせえな、あいつまだ寝てっから間に合うっつってんだろ」

三井に小言を言われた斑髪は掴まれていた手を振り解くと、煙草をその場に投げ捨てて裏手の通りに消えていった。彼の姿が見えなくなるまではゴミ袋を抱き締めて縮み上がったまま固まっていた。

「何もされなかったか」

そしてそんな三井の声が聞こえてきて初めては浮いていた踵を下ろして大きく息を吸った。一気に全身に血が巡り、こめかみに汗が伝う。鼓動が耳にうるさい。しかし、はグッと腹に力を入れて何度も暗唱してきた言葉を頭の中で繰り返す。今日は使えないけれど、その言葉に込めた気持ちを思い出せ。

「平気、ありがとう。勝手に入り込んでごめんなさい。じゃ」
「ああいうのがいるところだから、気を付けろよ。近寄らない方が身のためだぞ」

用意していた言葉は言わないで済むはずだったのに。は腹の底から沸き上がる怒りに肩を震わせた。

「ゴミ袋が飛んできちゃっただけなんだけど。わざわざこんなところ来ないから」
……誰か呼んで一緒に来るとか、出来ただろ」
「か、関係ないでしょ、もう何も、関係ないでしょ」

ゆったりと落ち着いた三井の声が無性に癇に障って、は顔を上げて睨みつけた。だが、あの頃よりずいぶん背が高くなってしまった三井はそんなを無表情で見下ろしながら、潮風に髪をそよがせている。

「声も出せなかっただろうが。それとも助けない方がよかったのか?」

助けがなかったら厄介なことになっていたかもしれない。怒りで頭がいっぱいになっていても、それはわかる。だからといってにっこり笑って話ができるわけはない。助けてもらっておいて失礼な話かもしれないが、

「たの、頼んでないから、そんなこと。キャーって言えば、みんな来てくれたから」
……まだ気付いてねえようだけど」
「だからそんなことあんたに関係ないでしょ!? もう他人だから、関係ないんだから、話しかけないで!!!」

声が裏返る。はそう言うなり駆け出して三井の横をすり抜けて行った。背中に彼の視線を感じたけれど、それが余計にの怒りに火をつけた。なんなの、どうしてこんなことになるの、あいつ何がしたいの、もう遠い話だからにこやかに思い出話でもしましょうっていうの!? 出来るわけないじゃんそんなの!

車道を横切り、浜に転がり落ちたはペットボトルをかき集めて今度は風で飛ばないように砂に埋め込んでゴミ袋を固定する。潮風が舞い上がり、砂が頬に降りかかる。浜に膝をつき、ペットボトルをぎゅうぎゅうと押し込んでいるの手に、涙がぽたりと落ちる。砂浜にもひとつふたつ、雫が滴り落ちる。

先輩の声が耳に蘇る。そうやって断言できるところが心配――

私何でこんなに腹が立つの、もう関係ないじゃん、私が正しかったことはとっくに証明されたし、あいつは転落したんだし、関係ないんだから何も感じなくていいでしょ。好きとかはもちろん、イラッと来たり腹が立ったりするのも、いらない感情でしょ。もうあの時の復讐は終わったはずでしょ。

なのにどうして泣いてるの私。

潮風に晒されながら砂をかき集めるは軍手の手で目元を擦り上げた。痛い。頬にもべたつく潮風と砂が吹き付けて、軍手を嵌めた手の甲は砂で汚れていく。勢いよく擦ってしまった瞼がヒリヒリする。どうしても、怒りが消えない。中学の頃のことは全て終わったはずなのに、どうしても消えてくれない。

もっともっと風が強くなればいい。砂が目に入って超涙出るって言えるから、もっと強く吹いて。

風に髪を弄ばれながら、止まらない涙にはまた目元を擦り上げた。