水際のウルヴァシー

08

伴走の必要があるのは熱中症の心配がある高気温の日だけだが、先輩マネージャーが引退したのでひとりがその役目を担うことになり、負担が激増した。

先輩マネージャーがいる頃は伴走に出ていない方が残っている間に雑務をこなし、帰ってくれば伴走していた方を休ませて部員の面倒を見ることが出来た。なので効率がよかったけれど、2人体制のルーティーンをひとりで維持するのは不可能だ。

そんなわけで、夏休みから9月にかけて、また10月に入っても気温の高い日はあったけれど、平日の午後などの校外ランニングの頻度は低下した。特に9月は国体を控えた状態で台風などによる悪天候も重なって、伴走の出動回数はとても少なかった。

当然があの浜に近寄ることはなくなり、以降は三井と遭遇せずに済む日々が続いていた。

そんな中、国体では雑誌のランク付けでいうところの格下に負けるという、最近の海南では珍しい結果に終わったので、練習は以前にも増して厳しくハードになっていった。3年生の進路が続々と決まり、来る冬の選抜へ向けて海南バスケット部は一心不乱に練習に精を出す。

11月に入り、文化祭で練習が休みになった時も、半数近い部員が放課後の準備を投げ出して外に練習しに行ってしまったり、走りに行ったりしていた。これは後で各クラスの担任から監督に苦情が入ることになるが、何しろ校内一強い部なので、あまり問題視はされなかった。

「それ以来見てないし会ってないし、今はもう伴走もしないので」
「それならいいけど……来年気を付けなよ」

クラス展示が適当なので部室に顔を出した先輩マネージャーは、から簡単に話を聞くと、しょんぼりと眉を下げた。受験なのでに構ってはいられないが、なんとなく怖い。

「しかしほんとに困った子だね。お前の方がよっぽどに執着があるんじゃないのかって」
「あれは執着っていうより、嫌味というか皮肉というか、意地悪って感じがしますけど」
「それも執着のうちだよ。よくあるでしょ、いじめが好きなヤツってターゲットしたのだけを執拗に攻撃するじゃん」

先輩マネージャーは面白くなさそうな顔をしてペットボトルを傾けた。自身も最近野球部の彼氏と別れたんだそうで、余計に癇に障るらしい。ただしこちらはお互い飽きた自覚があるという、ある意味では円満な関係解消で、今でも普通に喋ったり連絡を取り合ったりしているとのこと。癇に障るのは単に幸せ低下中だからだそうだ。

過ぎたこととはいえ、三井が気に入らないらしい先輩マネージャーが相手に文句を言っていると、部室のドアが開いて牧が入ってきた。もう11月だというのに半袖のTシャツ一枚で、腕に脱いだ制服を抱えている。

「おー牧、お前元気だなあ。うわ鳥肌」
「おお、先輩いいところに! すみません助けてください」
「は?」

牧はふたりのところに駆け寄ると、テーブルの上に制服のブレザーとシャツをバサリと広げた。ブレザーの袖口とシャツの腹のあたりにペンキと思しき黄色い塗料がベッタリとくっついている。

「あーあ、これシャツは無理じゃないの」
「せめてブレザー応急処置出来ませんかね」
「とりあえずお湯に浸そうか。水性と油性どっちだろう」
「すみませんお願いします。水性か油性かは今聞いてみます」

クラス展示の準備をやっていたらペンキがはねてしまったのだと言って、牧はげんなりしている。シャツはまだ消耗品のようなものだけれど、ブレザーはそうはいかない。というかさすがに牧でも練習中でもないのに半袖はつらいらしい。ロッカーから替えのTシャツやジャージを引っ張りだして着込んで小さくなっている。

「思い出すな〜中3の直前にハワイから帰ってきたら日本寒すぎてすぐ風邪引いた」
「だろうねえ。ブランケットあるけど使う?」
「何でそんなもんがあるんだ」
「いや、これは私の私物」

にブランケットを借りてやっと落ち着いた牧のブレザーの袖口を先輩マネージャーはぬるま湯に浸す。牧が確認をとったところ、水性だったそうなので乾き切らないうちに少しでも落としておければ後が楽だ。幸い牧はすぐに部室へ飛んできたので、ぬるま湯の中で黄色いペンキが少しずつ溶けていく。

「助かります。あーよかった」
「うちらがいる時でよかったね」
「てかふたりとも何してたんですか」
「私はサボり、は普通に日課の点検」

部活がないときでもマネージャーは部室にやって来て換気や掃除をしている。牧は頷いてに淹れてもらったコーヒーを啜っている。若干暑苦しい外見をしている割に、彼は寒がりのようだ。

「それでお喋りしてたんですか」
「お喋りとか人聞きの悪いこと言わないでくれる。乙女の繊細なお話ですのよ」
「繊細……乙女……
「牧、ブン殴るよ」

先輩マネージャーは豪快なタイプだし、は厳しくて部員を尻に敷いているしで、乙女や繊細というワードが連想しづらいのは残念ながら事実だ。牧は先輩に凄まれても、肩をすくめて鼻で笑うだけだ。

…………牧、今年の春に、私海で変なのに絡まれたでしょ」
「ああ、ありましたね。汚い外車の」
「もうしばらく伴走はないけど、これからはひとり、みんなも気を付けててね」

は突然先輩がそんなことを言い出すものだから、サッと青くなって、慌てて顔を逸らした。

「まあそうですよね、確か夏休みの間に卓球部かなんかが海でやっぱり絡まれたとか」
「女の子が?」
「多分そうだと思います。酒臭いオッサンに絡まれて休憩できずに帰ってきた、って話だったと思います」

いい迷惑ですよね、などと言いながらコーヒーを飲む牧に頷いた先輩は、の方を見ると、真面目な顔で少し首を傾げた。話すよ、と言っているように見えた。一瞬迷っただったが、先輩からの話だし、話す相手も牧ならいいか、と頷いた。

「実はさ〜、夏に伴奏してる頃にさ、もちょっと面倒なことになってさ」
「え? そんなことあったか? 何で言わなかったんだ」
「あー牧ちょっと待って、ナンパとかじゃないんだ」

牧がすぐにの方に向き直って厳しい顔をしたので、先輩は朗らかな声でそれを押しとどめ、彼の注意を引いてからまた話し出した。はそれを他人ごとのように聞いている。

「中学ん時の元カレがね、ヤンキーになっちゃってて、絡まれるとかじゃないんだけど」
「あの浜でですか」
「何かレストランと倉庫みたいなところあるじゃん。あそこがたまり場らしいんだよね」

当然牧もコースを変えたらどうだと言い出した。だが、と先輩が論じ尽くしたように、あのコースを使っているのはバスケット部だけではないし、ひとりだけの事情だし、お盆休み前のボランティアのように、海南生にとってあの浜はとても馴染みのあるもので、それを変更してしまうのは現実的ではない。

「でもほら、営業時間遅いみたいだから、昼間は人なんかいないじゃない?」
「確かに、車は多いけど人は滅多に見かけないですからね」
「これからはもう出来るだけ一緒に浜に降りたりしようって話してたんだ」
「そうですね。その方がいい。、危ないなと思ったらすぐに言えよ」
「う、うん……ごめん」

実力から考えて次期主将確定である牧は、何を謝ってんだ当たり前だと真面目くさった顔で言っていたが、はどうにもむず痒い。あのバカのせいでこんな恥ずかしい話を海南の主将にしなきゃいけないなんて……

あの時ちゃんと海南を選んでいたら、主将だったのはあいつだったかもしれないのに――

夏に断りもなくキスされて以来、はこの感情を振りきれないでいた。あの時、湘北の監督に感化されて夢中になってしまわなければ、きっと海南に入っていただろうと思う。あの頃の三井は誤差が殆どないシュートマシンのようなもので、歓迎されたに決まっている。

海南ではめったにない話だが、1年生からスタメンになれたかもしれない。この牧と並んで海南のルーキーコンビとか言われて、そしたら海南はもっともっと強かったかもしれない。IHはともかく、国体は最近の海南にしてはボロ負け状態だった。そんなこともなかったかもしれない。

中学の頃と変わらず毎日一緒に過ごして共に高みを目指していられたかもしれなかった。

今でもそれが自分と三井には最善の道だったとしか考えられない。

それなのにわざわざ苦しい道を歩む羽目になった。それは三井のせいだ。少なくともが今もこうして苦しむのは三井のせいだ。彼はもうバスケットには未練がないのかもしれない。何もかも過去のことと割り切って自堕落な生活を満喫しているのかもしれない。

だけどには「最善の道」への未練がある。

大好きな人をすぐそばで支えてIHの優勝を目指す、それはの夢だった。その夢を諦められなかった。変えられない過去にいつまでもグズグズ言いたくはないけれど、それは今も心のどこかでをちくちくと突っつく後悔であり、もう絶対に100パーセント叶わない夢としてを苛む。

あんな甘い夢、見させやがって――

「本戦は見に行こうと思ってるんだよね〜!」
……先輩確か受験生ですよね」
……1日くらいいいじゃん親みたいなこと言うなよ」
「そういやは内部か?」

急に話を振られたは「ファッ」と変な声を出して背筋を伸ばした。

「いやまだちょっとそれは」
「えっ、そうなの? 外部興味出てきたとか?」
「だってうちの部って外部の人多いから……牧もそうでしょ」
「いやまあそうだろうけど」

全員が全員外部進学をするわけじゃないが、バスケット部の場合はそもそもが越境入学者だったりと競技のために学校を選んで進学しているようなのばかりだ。今年の主力選手の先輩たちもそれぞれ有名大学のチームに声をかけられて進路を決めている。ちょっと羨ましくなってしまうのは仕方あるまい。

「そりゃあんまり偏差値高いところは無理だけど……またバスケ強いところ行きたいな〜とか思ったりして」
「またマネージャーやりたいのか?」
「ううん、そういうんじゃないけど、弱いところに行ったらイライラしそうで」

先輩と牧は揃って吹き出し、確かにと言って笑った。

はまだ夢を見ている。だからバスケットの弱い学校には行く気がしないのだ。そこにそばで支えられる大好きな人がいなかったのだとしても、もうバスケットは卒業と言えない。それはあの時の三井と同じなのではないかという気がしてならないからだ。

本人は自分のバスケットをするために湘北に行くのだと言っていたけれど、結果、バスケットすらなくして、歪んだ笑顔でに無作法なキスをするような人になってしまった。

そこにどんな理由があったのかは知る由もないが、ああして本人から聞く限りでは、バスケットだけでなく全てのことがどうでもいいように聞こえた。何かに夢中になって一生懸命頑張るのは子供のやること、もうそんなものいらないだろ、子供じゃないんだから。そう言っているように聞こえた。

つまりそれは現在の全てを否定されたのと同じだった。三井が投げ捨てたIH優勝という目標に向かって邁進するは、中学の頃を引きずっているだけと言われているような気がした。

そんなの個人の自由でしょ、あんたは夢を放棄したのかもしれないけど、私は違う。

外部進学に惹かれるのは、そんな気持ちがあるからなのかもしれない。強豪校に進学するべきだった、ひとりで弱小チームを強くするなんて無理な話だった、それは証明された。だから今度はかつての目標を放棄しない、その方が正しいのだと証明したくなったのかもしれない。

それに何の意味があるのかなんてことは、全く考えていない。

ただあの長い髪のヤンキーの言うことが正しいのだなどとは、絶対に認められない。あいつは夢を、目標を、自分自身を捨てたんだ。あんなに大事にしていたものを、ふたりで大事にしていたものを簡単に捨てたのが正しかっただなんて、私は認めない。

「スポーツ系の学科だったら推薦とか有利なんじゃないのか」
「マネージャーでも?」
「プレイヤーじゃなくてサポートする方ならぴったりじゃないですか」
「あーそっか。あとは医療系とか、福祉とか?」

現在先輩は県内の私大の文系の学部を目指しているらしい。本人は頑として言わないけれど、スポーツライターになりたいんじゃないか、という噂がある。その割には文章がヘタクソだと言うのが定番のオチだが、さてどうなることやら。は先輩と牧を眺めながら、小さくため息をついた。

夢を手放せないのも、中学時代に囚われたままと同じなんじゃないだろうか。そんな疑念はいつでも隣にある。それでもは夢に向かって歩いて行きたいのだ。歩みを止めた三井を振り返ることはしたくない。

この年、国体で惨敗してしまった海南は冬の選抜にて4位に浮上、これでもまあ海南としては平均的な結果であったが、神奈川の絶対王者としての地位は保たれたまま、新たに主将の座に就いた牧をトップに置いて新体制がスタートした。いよいよ3年生は全員引退、も最上級生マネージャーとなった。

この頃の神奈川の勢力図としては、とにかくいつも海南がトップにいるのが20年近く続いている他は、入れ替わりが多い激戦区であった。だが、3年ほど前から海南と肩を並べて強豪校とされてきたのが名門翔陽高校であった。次いで陵南、その3校の下にベスト8常連校がひしめいている、といったような状況だった。

もちろんその中に三井が選んだ湘北など入っていない。遡れるだけの資料を全てひっくり返しても、湘北はいつも1回戦負けだった。昨年も同じ。もし三井がいたなら、これはあり得ないだろう。本当に三井はバスケットに関わっていないのだ。

は3年生のいなくなった部室でひとり、大きく深呼吸をした。

1年生の頃から怪物扱いされてきた牧は、いつの間にか「帝王」とあだ名されるまでになった。県内では負けなし、全国でも彼の技量を上回るようなプレイヤーは本当に稀だ。後輩にもいいプレイヤーが育ってきているし、来年はいい新人が入ると監督が自慢していた。海南は強い。どこよりも強い。

これまでも国内トップレベルのチームであったけれど、今が一番強いはずだ。即ち、IH優勝に一番近いと言っても過言ではないはずだ。はそれに感謝し、海南を選んでよかったと再確認していた。

主将は牧で彼氏ではないけれど、まあそれはもういいだろう。牧だって大事なチームメイトで、兄弟のようなものだ。部内に女子は自分だけだけれど、妹のように姉のように、または母のように部員たちとはいい関係を築けている。家族も同然の仲間たちと一丸となって頂点を目指すのだ。

春になり、新たに新入生を迎えた海南大附属バスケット部は、厳しい練習・クレバーな監督・頼れる主将とともに、部員を完全に尻に敷いてビシバシとマネジメントをしてくれるという紅一点を置いて、また1年をスタートさせた。今年は何としてでもIH優勝を勝ち取りたい。

「おーい、すまんが部員名簿直してくれ」
「はーい。また退部出ちゃったんですか。5月に入ったから落ち着くと思ったのに」
「今年は多いな。もう少しメンタルサポートもしていった方がいいかもしれんな」
「そうだね。1学年ひとりしか残りませんでした、じゃシャレにならないもんねえ」

はもはや監督や主将に肩を並べるほど部員を尻に敷き、しかしそのマネジメントは抜かりがなく、かつ先代を送り出してからは精神面での成長が著しく、バスケットのことは主将に、その他のことは全てに相談する、という認識を持たれ始めた。

監督も牧もを頼るし、プレイ以外のことでは海南バスケット部はなしでは回らないんじゃないかというほどになってきた。しかも今年の海南はが確信を持ったように、とにかく強かった。

まだ新入生が入って1ヶ月だというのに練習では既にIH対策が始まっていたし、県内強豪校のリサーチなどは新入生情報を集めてざっとまとめた程度に過ぎなかった。それもどうやら当時の牧のような、調べなくても噂になるようなプレイヤーは少ないという話だったし、昨年の中学MVPは東京に行ってしまったそうだ。

「だいぶ減っちゃったな〜。予選の頃にはだいたい一段落するもんだけど……今年はどうだろうね」
「そうだな。練習はキツいし監督も怖いしマネージャーはもっと怖いし……痛って!!!」

牧との間から顔を出して余計なことを言った高砂はに脇腹をつねられて飛び退いた。身長が高いので胴体しか届かないから、脇腹。しかし女子の細い指で目一杯つねられると、相当痛い。現3年生はそれをよくわかっているのだが、つい余計なことを言ってはこうして制裁を食らう。

「今年のシードはうちと、翔陽と陵南と武里か。まあこのままだろうね」
「相変わらず痛てぇなお前のペンチ」
「食らいたくなかったら余計なこと言わないの。予選のスタメンてもう決まったのかな」

はちらりと1年生の方を見てから、牧と高砂の方に顔を向けた。

「どうだろうな。なんとなくそんな感じはするけど」
「1年スタメンは牧以来だな。去年はいなかったから」
「毎年そういうのが大量に入ってくればいいのに」
「牧はいいだろうけどオレは困る」
「練習しなさい」

まずは神奈川県予選、海南は前年ベスト4のため、シードである。4つに分かれたブロックの最終戦が初戦。言い方は悪いが、この辺りは海南にとって小手調べ、肩慣らし、景気付けの1戦というところだ。ただ、それが少し他と違うのは、試合である以上は一切の容赦がないところだ。格下相手でも手は抜かない。

たち3年生の最後の夏が始まろうとしていた。