ひとりに任せるには負担が大きすぎることにやっと監督が気付き、しかも自分は10時頃のんびりやって来たけれどは5時起きで7時にはもう体育館を開けていたという事実に行き当たると、にわかに焦って練習メニューを考え直すと言い出した。
だが、午前中練習の海南の部員たちは神奈川オールスターチームの練習が見たい。別の場所に隔離されたくない。なので、自分たちでメニューをこなして体育館や部室の準備をちゃんとやるので、予定を変えないで下さいと言ってきた。先輩は監督に貸してあげるので練習見たい。
そう言われてしまうと自分が不要のようで寂しいだったが、ともあれこの日も21時を待たずに終了したし、居残っていた海南の部員たちも駆り出して後始末をし、21時過ぎには学校を出ることが出来た。
一番遠い翔陽組は既にいないけれど、割と距離が近い湘北と陵南もまだ残っていた。というか部室の自分たちが使ったところを片付けたり掃除してくれたりと、とても協力的だった。
「あれっ……えっと」
「……何か思い出したのかもしれないけど黙っててもらえるかな」
「……おお、そうだな」
最終確認に部室に入ってきたは、引退したけどやっぱり顔を出した陵南の魚住に向かってじっとりした目を向けていた。確か牧も魚住に3年前のことを聞いて三井が武石中出身だと知ったはずだ。何でみんな私のことまで覚えてんのよ、あんなの忘れろ!
しかし、最後まで残っていた海南の部員と一緒に部室を出て鍵を閉め、正門を出たところではまたガックリと肩を落とした。本人の宣言通り三井が待っていたからだ。湘北のジャージにスポーツバッグを斜めがけにし、門の傍らに寄りかかっていた。
たまたまの真後ろを歩いていた神が押していた自転車で間に入ってくれたが、三井は動じない。
「お疲れ」
「お疲れ様です。みなさんと一緒に帰らなくていいんですか」
「オレたちは翔陽みたいに遠くないからな。ここで解散。バスで帰れるっていうヤツもいるし」
代表4校のうち、海南湘北陵南は割と距離が近い。翔陽だけが少し離れている。
「てかお前チャリなのか。珍しいな近所から入って海南のスタメンなんて」
「三井さんだって県内なんだから、うちに入ってたら近所組だったでしょうに」
「昔のことをほじくり返すなってんだよ」
「てかどうしたんですか、こんなところで。駅までの道、わからなくなっちゃったんですか?」
を差し置いて口を出してくれた神は、わかりきったことを言う。牧が三井に言ったように、完全に引退するまではは海南のものなのだ。より戻しちゃえば? なんていい加減なことを言っていても、一応は間に入っておきたいんだろう。家族のように大切な仲間だから。
「……を待ってた」
「あっ、そうなんですか。失礼しました。でも先輩朝7時からなので……あまり引き止めないであげてくださいね」
「……いや、一緒に帰ろうと思って」
三井は神ではなくを見て言う。は呆れた顔で肩を落とし、ため息を付いている。三井の性格を考えれば、待つといったからには待っているだろうことはわかる。けれど、承諾した覚えはないし、一緒に帰りたいとも思わないし、しかし疲れているので反論する気力がない。
「中学同じだからな。家が近いんだよ」
「ああ、そうでしたね。駅も同じなんですか?」
「ああ。小学校も隣だからな。歩いても行かれる距離。もうこんな時間だし、送っていくよ」
神は仮面を顔に貼り付けているだろうけれど、三井の方は腹の探り合いをするつもりはないようだ。神がに大丈夫かと囁きかけると、彼女は神の背中をポンと叩いて小さく頷いた。
「どっちみちこの人はウチの近くを通らないと帰れないんだよね」
「そうですか。じゃあほんとにお疲れ様でした。先輩、明日は午後からですよ。忘れないで下さいね」
「ありがと。また明日ね」
がいいと言ったからには深追いするつもりはないようで、神は自転車に跨るとさっさと正門前を後にした。後に残されたのはと三井のふたりだけで、ゴチャゴチャ喋っている間に誰もいなくなっていた。というかみんな疲れていてふたりに構っている余力はなかった。
「朝7時からって何やってたんだ」
「練習」
「ひとりでか?」
「うちの部員はあの4人だけじゃないからね……」
「ああ、そうか。部が大きいと大変だな」
遠ざかる神の後ろ姿を眺めながらふたりは歩き出す。腕が触れそうなほど寄り添うわけはないが、歩道があまり広くないので距離が近い。は疲れているので遠慮なく自分のペースで歩くが、三井も速度を落としてゆっくり歩いている。
「……てかこんな風に遅くなる時、よくあるのか」
「まさか。こんなに遅いのは初めて」
「そんならいいけど……」
「どういう意味よ」
「……いや、こんなに遅くなってんのに誰も送って行ってくれないのかと」
「疲れてる部員に送ってもらったりしないでしょ……どうしてもの時は親に迎えに来てもらう」
一応は質問に答えながら、は疲れも手伝ってまたイライラしてきた。それでも下校途中の往来だと思えば何とか我慢をしていた。三井はどうでもいいようなことをぽつりぽつりと喋り続けていたし、それを無視するのも何だか居心地が悪かったし、惰性でのんびりお喋りをしながら家路を辿っていた。
そうして、約4年前にふたりが初めてキスをして付き合い始めた例の地蔵堂の前を通りかかった。
「懐かしいなここ。全然変わってねえな」
「あのさあ……送ってくれるのはありがたいけど、よく平気だね」
「何が」
「ええとその、私たちは色々あるでしょうが。何でそんないつも平然としてんの」
動揺して泣いて傷付くのはいつも自分の方――はそうとしか思えなかった。
「こ、この間だって、つい勢いとはいえ……」
「」
「しかも部室であんな――はい?」
地蔵堂は全然変わっていないけれど、自販機が変わって夜間消灯タイプになったようで、以前より暗くなっている。さも呆れてます、という声音でくどくど言い出しただったが、三井は真顔で名を呼ぶとじっと見つめてきた。その視線にたじろいだが一歩下がると、三井は一歩進める。
「ど、どうしたの」
「、オレまだお前のこと好きだ」
「ハァ!?」
つい大きな声を出してしまったは慌てて口元を押さえた。まあ、多少は予想していないでもなかったけれど、こんなドストレートに来るとは思っていなかったし、その言葉に全身が震えたのが気持ち悪くて、は思い切り顔を逸らした。今の、何。
三井は三井で、何も今日このタイミングで言おうと考えていたわけではもちろんない。遅いなら一緒に帰ろうとは思ったけれど、牧に焚き付けられなければこんなこと言うつもりはなかった。というか三井自身もここまで直球で言いたいとも思っていなかった。口が滑った。
しかしこれだけ簡潔に言ってしまってからでは、取り繕いようがない。三井は一瞬だけしまったという顔をしたけれど、すぐに気持ちを立て直して距離を縮めた。
「この間も、オレは勢いじゃなかった。てか、去年のも勢いじゃなかった」
「な、なん……何言って、じょ、冗談でしょ?」
「冗談でこんなこと言うかよ。全部本気だ」
はじりじりと後退していくが、三井も距離を保ったままついてくる。やがて三井はの肘に手をかけて少しだけ引いた。触れた瞬間の体が震え、逸らしていた顔は俯いて下を向いた。
「誰か好きなやつとか、いるのか」
「べ、別に私は――」
「いないのか」
「ちょ、ちょっと待って、急にそんなこと言われても私は――」
超展開に慌てたが顔を上げると、三井の顔がすぐ目の前にあった。真顔というか、とても真剣な顔をしていた。言葉を失ったはその三井の顔に3年前の面影を重ねていた。顔が少し長くなったかな、口元はもっと子供っぽかった気がする、頬ももっと丸かった、目はあんまり変わらないかな、昔はおでこ丸出しだったけど、今は見えないな――
「……今すぐよりを戻したいとか、そういうことじゃない。だけど、3年前だって別にお前のことが嫌いになってああいうことになったわけじゃないし、今は近くに、いるから……」
三井の言う通り、どちらも他に好きな人が出来たとか嫌いになるほどの諍いをしたわけではなかった。喧嘩別れというよりは進路別れだ。もそれは承知しているけれど――
「お前も同じ気持ちのはずだとか、そんなことは思ってねえけど……その、どう思ってるんだ」
「どうって、何を」
言いながらは自分の顔が燃え上がったのかと思うほど熱くなったので、息を呑んだ。何を、ってそんなの決まってるじゃないか。また視線を逸らしたに三井は囁きかける。
「オレのこと、好きとか嫌いとか、そういうこと」
その声を聞きながらはぎゅっと目を閉じ、感情の波が押し寄せてくるのを肌で感じていた。
「……嫌いなら、諦めるから」
「え、諦める? 何を?」
「何って、お前のことを。今は好きだと思ってるけど、忘れるようにするから」
そう言うと三井は少し微笑んだ。自然な、しかし3年前にはなかった穏やかな笑顔だった。別々の道を進んだふたり、が海南で高校バスケットの先頭を走っている間に、ずっと遠くで不貞腐れていた三井が覚えた笑顔だったのだろう。それを感じ取ったは、つい零した。
「……諦めたら終わりなんじゃないの」
「う、いやそれはバスケの話で」
「私があんたなんか嫌いって言ったら諦めて、また投げ出すの」
ぼんやりした顔でそんなことを言い出したを、三井は勢いよく引き寄せて抱き締めた。反応しないの体を強く締め上げて頭を落とし、ぎゅっと目を閉じる。
「……そうしたくないから言ってるんだ」
「だったらそうすればいいじゃん」
「は?」
「好きなら好きでいいじゃん」
「そりゃそうだけど、だけどオレはお前がどう思ってるのか知りたい」
少し考えてからはゆっくりと三井の背中を撫でた。
「私は……今ちょっとはっきりわからない。あんたのことを好きか嫌いかを考えようとすると、熱が出たみたいになる。だけど、私にとって人を好きなるっていうのは3年前に一度だけしか経験がないから、わからない。今は、好きでもない嫌いでもない、それを今すぐ見つけなきゃいけないとも思えない」
未だ「約束を反故にして裏切った」ことへの憤りや悲しみ、そして事情があったにせよ粗暴なヤンキーなどに身をやつしていたことへの怒り、そういうものがの中に燻っていて、明確な答えを出してしまうことに怯えている。しかし、今のはそれすらも認めたくなかった。
何しろの高校バスケットはまだ終わっていないのだ。なぜか国体の世話も焼いているし、冬の選抜も残っているし、その間には大学の推薦もあるし。
いまここで答えを出し、その感情に溺れてしまうのも切り離されるのも怖い。
「それが待てないんだったら、やっぱり諦――」
「待ってる。やっぱりどうしても嫌だってお前の口から聞くまで、待ってる」
腕を緩めた三井はきっぱりと言い、そしてするりと顔を寄せてくる。はふと思いついて口を開いた。
「……頼みたいことがあるんだけど」
「頼み?」
「私もいい加減にはしたくない。ちゃんと考えたいとは思ってる。だから、だからその――」
ただの思いつきだった。けれどそれが今一番の望みだという確信がある。は少しためらってから言う。
「すぐそばで見られるはずだった、寿の、本気のバスケが見たい」
「本気って……IHだって本気だったけど」
「あれで終わりなの? もうあれ以上の力は出ないの?」
「……わかった。国体と冬の予選、見ててくれ」
黙って頷いたが逃げないので、三井は勝手にキスした。抵抗もされないので、ゆっくりと時間をかけてキスをして、名残惜しそうに離れる。いつかこの場所で勇気を絞り出して言った言葉が蘇る。あの頃、三井もが好きで好きで仕方なかった。それを鮮明に思い出す。
「今でも、変わってない。が、欲しい」
三井はもう赤くなったりはしなかった。3年前より本気だった。あの時関係は破綻してしまったけれど、気持ちは壊れたりしなかったから。は返事をせずに、そっと三井の頭を撫でた。目を伏せた彼のまつげが何故か中学生の頃の彼と重なって、無意識に頬にそっとキスをしていた。
またの耳に波の音が聞こえる。瞼の裏に真っ白な光の降り注ぐ波打ち際、そして肌に潮風を。
以来、と三井は傍目には「同中出身で家が近所」な、ざっくり言って「友達」という認識を持たれる程度には良好な付き合い方が出来るようになった。なのでは牧たちにも心配をされなくなったし、三井に惑わされることなく合同練習のサポートも出来るようになった。
それを、結局どうしたんだなどと突っ込んでこないのは牧たちのへの信頼の表れである。彼らはを心から信頼しているので、彼女がどんな選択をしようと構わない。ただ彼女が揺らぐことのない決断が出来ればそれでいいからだ。
例え再度大喧嘩して険悪になっても、突然よりを戻してバカップルになっても、それがの選択なら。
一方の三井も言いたいことは全て言ってしまったので、吹っ切れてしまった。初日ほど遅くなる日はなかったけれど、まだ明るい内に合同練習が終わることもなかったので、どちらも用がなければ一緒に帰ろうと誘って、余計なことは言わずキスもせずに家までちゃんと送り届けた。
新学期になっても週末に合同練習が入ったりしながら約1ヶ月、神奈川代表チームは国体に出場するため、海南の所有するバスで会場付近である西東京まで出かけて行った。微妙に時間のかかる距離なのでホテルを取ってある。試合は連日行われるし、試合だけしてすぐ解散とはいかないからだ。
そして忙しくサポートに徹していたは置いていかれた。
「せめて土日くらいは連れて行けよ!!!」
「まあまあ、どうせ週末は見に行くんだろ」
「初日から! トーナメント見たかった!! 全試合見たかった!!!」
今年の神奈川のように代表を選抜にしている都道府県は多い。つまりドリームチームだらけだ。今年の神奈川のようにIHに出場できなかった選手が紛れ込んでいる場合も多い。は代表漏れした武藤や宮益相手にジタバタ暴れていた。推薦対策と平行して頑張ったのに、見たけりゃ自分でおいで、って!
「だってさあ、万が一土日までもたなかったらどうするのよ……」
「牧に藤真に仙道に流川がいてそれはないと思うけど……」
「そんなのわかんないじゃん。土日の両日で全員出てくるとは限らないじゃん。沢北戻ってくるじゃん」
「それこそ山王と当たるかどうかもわかんないだろ」
「見たいよ〜最初からドリームチーム見たいよ〜」
面倒くさいタイプの選手も多かったので、それに牧を始めとする各校のリーダー的存在の選手が振り回されているのも面白かったし、にとっては三井の「本気」を確かめねばならないという理由もある。自分で言ったからにはちゃんと見届けて答えを出す義務がある。
一応勝ち続けているという報告だけが届く教室では不貞腐れた数日を過ごし、そしてようやく週末になって観戦に赴いた。海南の部員たちも見に行くと言っていたけれど、はひとりで来た。また泣いてしまうとは思わなかったけれど、ひとりでじっくりと考えながら見たかったのだ。
その日は運よく牧と清田が出ていたし、後半になって三井も投入されたし、しかも勝った。最初は深刻な顔をして観戦していたのだが、次第に表情が緩み、また父親に借りたコンデジのズームで写真を撮る余裕まで出てきた。しかし、帰る頃にはぐったりと疲れてヨロヨロになっていた。
試合を見て興奮していて冷静ではないと何度も言い聞かせた。本気を見せろと言ったけれど、まだ本気には程遠い気がしたし、にとっての「本気」は彼女の中の県大会を超えることだ。それには及ばなかった。まだやれるはず。もっともっとやれるはずだ。だから答えはまだ出ない。――けれど、何度も思ってしまった。
コートの中を駆けまわる三井を、他の誰よりかっこいいと思ってしまった。