水際のウルヴァシー

13

がポケットに押し込んでいたタオルを引っ張りだすと、三井はそれで涙をそっと拭う。その時に手が触れてしまっても振り払われないとわかると、今度はそっと背中を擦った。背中から肩、そして頭も撫でる。わんわん泣いているの頭を撫で、涙を拭い、しかし何も言わなかった。

そうしてが思う存分泣き、しゃくりあげながらも落ち着くと、三井はまた離れて向かい合う。

「大丈夫か」
……平気」
、オレの話、してもいいか」

言いながら三井はそっと手を差し出した。聞いてくれるなら、この手を取って欲しい。この時はほとんど何も考えていなかった。泣き疲れて何かを考える気力もなかった。ただ三井の声が3年前の大好きだった頃の彼の声と重なって、それが無性に愛しくなって、ついその手を取った。

三井の手はあの頃よりかなり大きくなっていて、小刻みに震えるの手のひらをすっぽりと包み込むと、また指を絡ませて繋ぐ。そしてその手を引いて、ゆっくりと波打ち際を歩き出した。

「オレ、1年の予選の前に、怪我したんだ」
「え……?」
「膝、やっちゃってな。入院も手術もして、だけど間に合わなくて……

思わず顔を上げただったが、三井は振り返らずに先を行く。はまた突然明かされた事実に毒気を抜かれて、ただ三井の背中をぼんやりと見つめていた。怪我って、怪我?

「その時のオレからバスケを取ったら本当に何も残らなかったからな。何もかもがどうでもよくなって、その結果はお前もよく知ってるだろ。バスケ部に戻ったのは今年の5月だ。ブランク2年、てとこだな」

自嘲気味に話す三井だが、は頭が混乱してきた。なんで怪我してヤンキー直行なのよ、直して復帰すればいいじゃん、なんで2年も放置してたのよ! てか今年の5月に戻ったって言うけどそれも何で! 思うだけで言葉にならないだったが、つい繋いだ手を引いて足を止めた。

「ん? どうした」
……何でそんな話私にするの」
……何でだろうな、こんな言い訳みたいなこと言うつもりはなかったんだけど。言い訳か、そうか」

何かを納得したらしい三井は、初めて緩く微笑むと、繋いだ手にギュッと力を込めた。

「オレも色々あって大変だったんだってブチ撒けたいだけかもしれねえな。やめようか」

だが、はすぐに首を振った。何しろ中3の2学期末に喧嘩別れした時から、この三井の考えていることはさっぱりわからなくて、何を言われても要領を得なくて理解できなくて、そのまま丸々2年以上が過ぎてしまった。ここまで来たら三井の話とやらを洗いざらい聞いておきたい気になっていた。

「あの時、何で湘北を選んだの」
「えっ、だからそれは監督が」
「だから、何であの監督だったの。あの人の何が特別だったの」

三井はむず痒そうな顔をしたが、小さく咳払いをすると頷いて話し出した。

「全中の決勝、あの時ギリギリのところで負けてたよな」
「残り12秒で、だけどそれを逆転した……
「後でオレはめちゃくちゃ褒められた。お前にも褒められたよな」

そりゃそうだ。残り12秒からの逆転、あの追い詰められた場面でよくぞシュートを決めた、と三井は誰にでも褒められたし絶賛されたし、しかしそれは結果を考えると当たり前のことだった。は首を傾げる。

「最後まで諦めないでベストを尽くしたって皆に褒められたけど、オレ、あの時諦めてたんだ」
……え!?」
「スーパースター三井がいる限りとか言いながら、これはもう無理だ、オレたちは負けるなって思ってた」

怪我をしていたことよりも何よりも、はそのことに驚いて目を剥いた。

……オレはそんなこと一言も言わなかった。だけど、先生はそれを見抜いて、諦めたらそこで終わりだって言ってくれたんだ。あの時、負けるかもしれない状況に押し潰されそうになって、デカい口叩くことで何とか保ってたそういうオレを、わかってくれたたったひとりの人だったんだ」

三井はから目をそらすと、また手を引いて歩き出す。

「だけどその後は諦めないでよく戦った、って誰にでも褒められた。違う、オレは諦めてたんだ。ダメかもしれないって思ってた。褒められるようなことなんかしてなかったのに、先生がいなかったら諦めたままだったのに、ってな。それであの先生のところに行きたい、あの先生の下でバスケがしたい、それしか考えられなくなって」

は泣いたせいで腫れぼったい目でぼんやりと三井の背中を見つめていた。三井の話はの想像の遥か斜め上をいっていて、現実感もないし、まだ何も感じなかった。ただ彼の話す「過去」を飲み下すので精一杯だった。

「お前と喧嘩別れして、だけどオレは湘北で頑張るんだと思えば何とかなったけど、そこで怪我だろ」
「何で戻らなかったの」
……期待をされたのは、オレじゃなかった」
「は?」

いくら手術をするほどの怪我をしたのだとしても、湘北なら彼は貴重な即戦力で主力選手だったろうに。は三井の後頭部を見上げながら首を傾げた。

「大事を取りなさいとは言われたけど……それだけだったんだ。予選に間に合わなくて、こっそり見に行った予選では赤木が活躍してるように見えて、リハビリは少しずつやってたけど、部には顔を出さなくなった。しっかり治して戻っておいでとか、言ってもらえるんじゃないか、どこかでそんなこと考えてたけど、なかったんだ」

は絶句した。なぜだ。理解できない。湘北程度のチームにあの頃の三井がいて、それが大きな怪我をしたのなら、つきっきりでメンタルケアするべきだ。高校最初の公式戦に出られなかったことを考えればなおさらだ。きちんとケアをしておけばこんな強力な戦力をみすみす逃さなくて済んだのに。

も高校トップクラスのチームのマネジメントをして丸2年以上、疑問に思うあまり、つい口が滑った。

「何でそんなバカなことしたの」
「まあ自分で選んだ道だし、不貞腐れてたのも――
「そうじゃなくて監督! なんであんたのこと放置してたのよ! 何でグレてくのを黙って見てたのその人!!」

驚いて振り返る三井の手を振り回しながら、は声を荒らげた。

「そりゃ、ウチだって退部する人が殆どだけど、それでも一応躓きそうになってたら話を聞いたり先輩にアドバイスもらったり、そういうことするよ!? 大事な戦力の心が折れそうになってたのに、何やってたのよその先生、すごい監督なんでしょ!? 私だったらそんなことしないよ!!!」

一気に言ったは息が上がって肩を上下させている。これでも高校トップクラスのチームのマネージャーなのだという自負がある彼女にとって、また三井の性能をよく知る者としても、それを2年間も棒に振らせたことは理解しがたかった。もったいない。これだけの素材がありながら放置しておくなんて!

そんなの剣幕に驚いていた三井だったが、少しだけ距離を縮めると、頭を落として力なく微笑んだ。

…………あの時お前がいてくれたら、不貞腐れなかったかもな」
「え、いやその私は」

「は、はい」

距離の近さをどうしたものかとオロオロしているに三井は囁きかける。

「1分……1分でいいから、3年前に戻らせて欲しい」
「はい?」

一瞬意味がわからずに目を丸くしただったが、三井はそれには構わず、引き寄せて強く抱き締めた。

もう怖くなかった。あれだけギリギリと自分を締め付けていた嫌悪感や怒りはなかった。3年前に比べたらずいぶんと背が高くなった三井の両腕に抱き締められたは波の音を聞きながら目を閉じた。そして、ほぼ無意識のまま手を伸ばして三井の背中をゆっくりと撫で下ろした。

「それでも先生はオレの道標だ。だけど、、一緒にいたかったよ。あの時はああするしかなかったけど、部に戻ってからはどうして一緒にいられなかったんだろうって、何度も思った」

腕を緩めた三井は体を屈めたまま、の頬に触れた。ふたりはそのまま吸い寄せられるように唇を重ね合わせる。もう何百回もしてきたキスだけれど、それを思い出すこともない。頭の中は真っ白、波に足を浸したまま、唇は3度重ね合わされた。

……山王戦、ひとりで見てた。ずっとあんたなんか負けろって思ってた。だけど、無理だった。最後、勝って欲しいって思ってた。あんたのシュートも、すごいって何度も思った。そう思ってた――

今にもまた唇が触れそうな距離を保ったまま、はぼそぼそと言い、三井の唇、頬、首、そして胸を撫で下ろした。そしてゆっくりと体を引き、少しずつ距離を取って離れる。

「もし、湘北でも海南でも、一緒にいられたらどうなってたんだろう、それは私も思ってた。ずっと3年前のままベタベタしてたのかなとか、キャプテンとマネージャーになってIHに行けたのかなとか、何度も思ったよ。でも、それはただの想像。それが現実になることはないから。私は海南…………寿は湘北だから」

ふざけたあだ名で呼び出す以前、ほんの数ヶ月の間、は三井を「寿」と呼び捨てていた。それからほぼ3年、は久しぶりに彼の名を呼び、そして悲しげに笑った。

「海デート、してくれてありがとう。じゃあ、またね」
「ああ、またな」

三井も引き止めなかった。波打ち際に彼ひとり残したままは振り返って歩き出す。ゴミの入ったビニール袋を拾い集め、自転車に積み込んで静かに走り出す。ゴミは学校に持って行くことになっているから、いつものランニングコースを辿って海南まで行くのだ。

遠ざかる波の音、三井がいつかのように自分を見ていることはわかっていた。彼の視線をずっと背中に感じながら海から離れていく。いつか海南と湘北に別れたように、また果てしない距離を間に置く。

共にあると信じていた夢、それが交わることなど、二度とないのだから。

「いや、あるんだよそれが」
「嘘お……

お盆休みが明けて数日、は部室でがっくりと肩を落としてテーブルに突っ伏した。やけに上機嫌な監督が、今年の国体が選抜に決まったと言ってきた。混成になることは知っていただが、海南から4人しか入らないと聞いて仰天した。そんなふざけた話があるか!

「よく海南の常勝神話とか言われるだろ。あれは17年前からだけど、その頃は選抜だったらしいんだ」
「だけどもう10年以上海南だけで出てるでしょ! ていうかうち、IHで準優勝! 充分でしょ!」
「だけどラインナップ見てみろよ。監督のあのドヤ顔もしょうがないと思うぜ」

練習終了後、神奈川代表チームに入った牧、高砂、神、清田だけが残ってと一緒に代表選手がずらりと並べられた紙を見ている。はそれを見てまたげんなり。

選抜と聞いた時は、海南がベースになり、例えばそう、翔陽から藤真、陵南から仙道、湘北から流川、その程度の「参加」があるんだろうと思っていたわけだ。ところが、海南はベースどころかこの4人だけ。翔陽は3人陵南も3人、と来てなんと湘北は5人。IHのスタメンが全員入っている。

「監督はバカなの!? てかここ、陵南! 魚住カッコ仮、って何なのよ!」
「引退してるんだよな」
「ああ、って赤木もでしょうが!!!」

さっきから選抜のラインナップにツッコミまくっているは力尽きてぐったりとテーブルに突っ伏した。まさかとは思うけど私がマネージャーやるんじゃないでしょうね。

「他に誰がいるんだよ」
「マネージャーはベンチに入らないという海南の伝統がですね」
「まあそこは監督たちも考えてるだろ。練習中は頼むぜ」

へらへら笑って肩を叩く高砂の腹に一発入れたは、事情を知る牧を睨んだ。

「これだけしか入らないのに、うちがホストやらなきゃいけないの?」
「それはしょうがないだろ。もう10年以上国体に出てる実績があるからな」
「ていうか国体までの間他の部員はどうするの。監督がかかりきりになるなら私はそっちを――
……先輩、混成そんなに嫌なんですか?」

ほぼ事情を知らない神がの顔を覗きこんで首を傾げた。途端に牧が吹き出す。バカめ、という顔をしている。数日前に海で色々あったばかりなので、はこんなラインナップは御免被る、という勢いだけでツッコミまくっていたわけだ。

あいつは引退するんだとばかり思ってたのに……

「いやその嫌というわけではないんだけど」
「まあ湘北とかはちょっと怖いですか? だったら宮さんとかにもいてもらいましょうか」
「ええとうん、神くんあのね」
「もうゲロッといた方がいいんじゃねえのか」

笑いを堪えきれない様子の牧が口元を押さえながら涙目になっている。はともかく、牧のそんな様子の方が気になる高砂と後輩ふたりの視線に負けて、は肩を落としてぼそぼそと白状した。元カレです。

「マジすか!!!」
「あんまり大きな声出さないで。今は別に関係ないから」
「はー元カレ……あれっ、そういや先輩翔陽と湘北の試合の時号泣――
「信長!!!」

高砂と神は薄ら笑いで目がマジだ。一方の清田は驚いたついでに予選の記憶が蘇り、にやーっと笑った。

「牧は知ってたのか」
「予選の前にな。その前にも先輩がずいぶん心配してて、何となく聞かされてたし」

とりあえず三井がグレていたことは黙っている方向らしい。牧は軽く受け流す。

「それで気まずいんですか」
「ま、まあね……
「試合見て号泣するくらいなら、よりを戻せばいいじゃないですか」
「神くんはなんなの」
「あっはっは、いいんじゃないのかそれ」
「牧!!!」

衝撃が和らぐにつれ、複雑な表情で赤くなっているが面白くなってきた。神は優しい笑顔で淡々とをイジり倒す。普段尻に敷かれているので、ぎゃふんと言わせるいいチャンスだ。

「あ、この間言ってたお姫様抱っこの話か!」
「あー、姫ポジとか言ってたやつすね」
「へえ、割と怖そうな顔してるのに先輩を姫扱いしてたんですかあ。意外〜」
「お前らいい加減にしろよ……

牧が腹を抱えて笑っている。その腹にも一発入れたは、髪をかき回して雑念を振り払う。

「ふん! 選抜になったってうちには他にも部員がいるんだし、その間練習を中止する訳にはいかないんだし、代表の方はいくらでもスタッフ集められるでしょ! 監督が言ってた国体も頼むってのはそういう意味だよ絶対」

ニヤニヤしたままの牧たちに鼻息荒く反論しただったが、翌日、監督から直々に代表の合同練習も頼むと言われてしまった。それを近くで聞いていた神と清田がつい吹き出し、般若の形相のにダッシュで追いかけられて蹴られた。ちゃんと追いつかれてあげる後輩が健気だ。

「痛え……本気で蹴られた」
「まあしょうがないよな、監督にとっても一番話が早くて便利なのはなんだし」

牧の言う通り、つまりはまた監督のパシリというわけだ。そのために監督はご丁寧にも代表の練習中に海南の部員たちがこなすメニューをたっぷり用意してきた。に逃げ道はない。

追い詰められてイライラしているを他所に、10年以上ぶりの選抜チームの選に漏れた部員たちは期待が高まっていた。海南と陵南の両監督が好き放題選んで詰め込んだチームはまさに今年の神奈川オールスター。それが面白くないのはだけだ。

夏休み中、代表の練習は毎週末と他に都合のついた数日間。移動の手間もあるので、基本的には午後から開始の、終了は時間が許すまでとなっている。そんなわけでは朝に登校してきてから部員たちの通常練習を管理し、午後からは代表チームのスタッフとして夜まで残ることになった。

……もしかして一番ハードなの私じゃないの?」

予定表を見ていたの呟きに、今度は牧と高砂が吹き出した。脇腹ペンチの刑に処された。