水際のウルヴァシー

03

4月、私立海南大学附属高校の体育館では、バスケットボール部の新入部員向けのガイダンスが行われていた。毎年大量の新入部員を迎えるので、2・3年生も交えて自己紹介などやっているとそれだけで1日潰れる。そのため、まず全員集められて監督と主将の挨拶を拝聴する。

この年の新入部員はこの時点で41人。海南のバスケット部が強いと知らずに入ってきた初心者はわずかに5人、既に辞める気になっている顔をしているのもいるが、その他の35人はほぼ全員中学時代にバスケット部で主将や副主将の経験者。そして出身地の大会で好成績を残してきている者たちばかりだ。

そして、残りのひとりがである。

今年のマネージャー志望はひとりで、現在のところ、2年生に元女バス主将経験者マネージャーがひとりいるだけなので、監督の方から未経験ではキツくないか、海南のバスケット部は練習が厳しいから、マネージャーも忙しいぞと忠告されたが、は覚悟の上だと言い放った。

のっぴきならない事情があって、私は海南が日本最強であることを証明したい。そのためには何でもやります。

後でヘバッてしまっては可哀想だという仏心で忠告した監督を痺れさせる一言だった。そんなわけで、1年生ながら監督に啖呵切った女子マネージャーとして、まずは2・3年生に知られることになっただったが、何しろバスケットは本当に初心者。授業でやったことがあるくらいだし、ルールも勉強したが、心許ない。

監督と主将の挨拶を40人の男子生徒とともに聞いていたは、いつ専門用語が出てきてもいいように、頭のなかでバスケット教本の目次を反芻していた。バスケット部でしか使われないような隠語が出てきたらひとたまりもないが、一応監督は未経験者だと知っているはずなので、話を振られることはあるまい。

海南バスケット部における心得や日々の練習と試合についての説明をざっくりと受けた1年生40人は、30分ほどでガイダンスを終えて練習を開始した。一方は先輩マネージャーに預けられて、マネジメント上の説明を受けることになった。

「武石? 確か去年全中で……
「はい。そこから興味が出まして」

彼女も元は隣接した市内の中学で女バスの主将を務めていた人物である。さすがに知っていたか。三井のことなどペラペラ喋るわけにはいかないので、はそう嘘をつき、どうせなら強いところがいいと考えて入ってきたと言っておいた。監督に言ったのと異なってしまうが、そこは突っ込まれた方が本当だと言えばいい。

「IH優勝は海南にとっては悲願だからね〜。ベスト4なんか何度も経験してるけど優勝はね〜」
「だけど今年は新人がどうとか聞きましたけど……
「ああ、牧でしょ。あれがいたら武石も勝てなかったかもよ?」

話が見えなくてきょとんとしたに、先輩は微笑みかける。

「あの子は私立だったし、2年生の時に少し海外にいたんだよね。だから県大会とかは出てない。というか、バスケ部にも所属してなかったんじゃないかな。たぶんレベルが違いすぎて一緒にプレイできなかったと思う」

ガイダンスでは自己紹介をしなかったので、その牧とやらが誰だかはわからないけれど、そんなすごいのがいるのか、とは感心した。ほらやっぱりこうしてどこの学校も優秀な選手を集めて強いチームを作ってるというのに。は内心鼻で笑う。一体県立の弱小チームで何が出来るというんだか。

「バスケ部に所属してなかったのに推薦取れたんですか?」
「日本に戻ってからは社会人のチームの練習に入れてもらってたらしくて、そこにOBが」
「そういうルートもあるんですね……
「いや、彼が本当に特殊なだけだと思うよ」

いい傾向だ。中学のクラブ活動ではつりあいが取れなくて大人と練習していたような猛者がいるというのは、心強い。もし予選で三井が這い上がってきたのだとしても、絶対に叩き落としてやる。

監督や先輩マネージャーの前では真面目で従順な顔をしているだが、彼女の心の一番奥底にあるのは「復讐」だった。そのために一番確実な海南に来た。三井がどれだけすごい選手になろうとも、ワンマンチームでできることなどたかが知れている。共に海南や翔陽という道を選ばなかったことを後悔させてやる。

ただでさえ方々の中学のトップ選手が集まっている上に、牧とかいうのがそんなにすごい選手なら、海南はもっともっと強くなれるはずだ。そうして自分の選択が正しかったことを証明してみせる。神奈川の絶対王者は海南、それ以外にないことを知らしめてやる。

「てか、バスケ経験なくて彼氏目的でもないなんて、君も相当珍しいよ」
「そうなんですか? へえ……

そりゃあそうだろう。目的は復讐なのだから。は愛想笑いを顔に貼り付け、先輩の説明を漏らさないようにメモを取り、マネージャーとしてできることに全力投球しようと誓った。

「ああ、噂の牧くんか」
「噂って」
「黒いな〜」
「よく海に行くから」

海南バスケット部新入部員2日目、この日は全員集合次第、1年生だけで集まって1時間以内で自己紹介などをするように指示が出た。既に中心的存在に収まっているらしい日焼けした男子が牧だというので、近くに座っていたは声をかけてみた。しかし本当に黒い。

「海? バスケじゃなくて?」
「休みの時は波乗ってるから」
「へええ」
「しかもそれが海外仕込みだってんだから、すごいよな」

サーフィンか、海も近いしなるほどね、などと考えていたの後ろから声が混ざる。

「えーっと」
「高砂。お前は覚えにくいだろうから大変だな」
「ああそうそう高砂くん。そういえば先輩から牧くん留学してたって聞いてたわ」
「留学じゃないよ、親の仕事の都合で10ヶ月ハワイに」
「ああそれで波乗り覚えてきたわけね」
「向こうにいる間はバスケか海行ってるかどっちかだったから」

こりゃ本当に変わり種だ……と感心していただが、数日のうちにこの牧という人物がとんでもなく上手いプレイヤーなのだということを目の当たりにして、つい頬が緩んだ。だけじゃない、話に首を突っ込んできた高砂もの素人目には充分戦力になりそうに見えた。

だが、2・3年生の先輩方も充分バケモノじみていて、はわくわくしてきた。三井のことは一旦置いておいたとしても、マネージャーとしてIHに同行し、この目で準決勝や決勝の舞台を間近で見られるかもしれないと思うと、期待に胸が高鳴った。

三井にも言われたけれど、そりゃあ自分は選手じゃない。ただ見ているだけの、部員のマネジメントをするだけの存在で、勝利には直接貢献できない。それでもこのチームの一員として頂点を目指すことは、とても魅力的なことだった。頑張りたい。もしIH優勝が叶うなら、その瞬間に立ち会いたい。

だが、先輩マネージャーが言うように、ここ数年のIHにおける海南はいつもあと一歩というところで優勝に及ばないという成績が続いていて、県内では絶対王者の名をほしいままにしているが、優勝経験はない。そう簡単に手が届く場所ではないのだ。

は手元のメモを覗きこんで気持ちを新たにする。まずは今年の県予選だ。

もちろん毎年これを制しているので神奈川の絶対王者と言われるわけだが、となると目標としては「全勝優勝」となるだろうか。監督の話によれば、彼が就任以来ほぼ負けなしなのだそうだが、それまではたまに翔陽に負けていたらしい。つまりそれを含め敗北はあってはならない、というわけだ。

シード校なので、IHへの出場権を手に入れるまでに都合4戦あるわけだが、内3戦は決勝リーグの各試合ということになるし、監督はここを余裕を持って抜けられないようでは全国でも戦えない、と言いたげだった。

「つまり、気持ちは消化試合ってこと?」
「そういうこと言うんじゃない」
は大人しそうに見えて毒舌だよな」

IHまでの予定表をもらったは正直に感想を言い、牧と同学年の武藤からツッコミを食らったところだ。

「まあ別に勝てれば何でもいいけどね」
「それもどうなんだ」
「お前3年になったら超怖くなりそうだな」
「頑張る」
「奨励してねえよ」

活動実績は全国区で、その分練習は超ハード。そんな海南のバスケット部でも、稀に彼氏欲しさにボンヤリした女子が紛れ込んでくることがあるそうだが、はそれとは対極にいる人物だった。何しろ恐らく1年生の中で1番厳しい。同学年の男子たちは早くも尻に敷かれ気味である。

IH出場権をかけた県予選、大会初日は5月の半ばだが、シードである海南のブロック最終戦は月末。さらに決勝リーグとなると、6月の後半を2週に渡って行われる。まだまだ時間はあるし、この勢いだと監督の言うように練習の基準はIHレベルであって、県内の高校基準ではないかもしれない。

全国の強敵を想定した練習の合間に、県内の強豪校の相手をする感じか……

あまりバカ正直に口に出してしまうのも憚られるので、は頭の中で失礼なことを考える。

「ところで君らは試合に出られるの?」
「牧は出るだろな」
「そうかあ、まあまだ1年だしね」
「ま、オレは正直言って先輩より牧の方が上手いんじゃねえの、と思うけど」

苦笑いの牧を突っつきながら、武藤がニヤニヤ笑っている。なるほど、まだ試合を見たことはないけど、こいつそれほど上手いってわけか。練習だけ見ても上手そうとは思ったけど、それなりにハイレベルな部員たちが言うのだから間違いないだろう。は武藤の言葉にまた期待が高まった。

三井と別れた直後から、は海南と翔陽、どちらを受験するかで迷った。彼の一方的な約束の反故に対する「復讐」には県内でトップクラスの成績を持つ高校が必要だ。が調べた限りでは、この海南と翔陽が古くから上位をキープしていたが、翔陽は何しろ少し遠かった。結果、は海南を選ぶに至る。

海南にしてよかった。これなら私の望む「バスケ部マネージャー」を実現出来そうだ。

は気合を入れなおし、ぼんやりとつきまとう三井の面影を振り払った。

気持ちの半分以上が復讐目的という、非常に邪な状態のは、慣れない運動部のマネージャー業を必死にこなし、成績も落とすわけにはいかないので勉強も必要、そのせいで余暇はほぼゼロ、学校から帰ると勉強と食事と風呂と睡眠しかしない、という日々が続いていた。

何しろ復讐などというものは実に甘美なものであるから、はそれをつらいとは思わなかった。

それに、の主張が正しければ、ワンマンチームではブロック突破すら怪しいわけで、三井と対戦して負かすことは望んでいなかった。ただ自分が海南のマネージャーである状態で湘北が敗退し、海南がいつものように県を制することが出来ればいい。自分が正しかったことが証明出来ればそれでいい。

高校総体県予選を迎えたは、授業を受けながらソワソワしていた。まだ1年目でマネージャーのは公欠で観戦には行かれない。1年生からは牧が観戦に行っているので、その報告を待っている。湘北の1回戦は一体どんなだったろう。トーナメント表では、前年ベスト8の粟戸工業との対戦だった。

前年ベスト8、いい相手じゃないか。県内では充分強い高校ということになる。自分ひとりで湘北をIH優勝に導くと三井は豪語していたが、彼の言うことが正しいなら軽く勝利することが出来るはずだ。県内の上位8校に手こずっているようじゃ、全国の強敵相手に勝てるわけがないじゃないか。

放課後、足早に部室に駆け込んだは牧をとっ捕まえて1回戦の様子を聞かせろとせがんだ。

「粟戸工業と……ええと、そうだ湘北だ、高くていいセンターがいたんだよな」
「センター?」
「もしかしたら1年かもしれないんだけど、あんまりチームの状態がよくなさそうでな」
「ちゃんと使えてない、とか?」
「まあ、その辺はどっちもどっちだろうな。ちょっともったいなかった」

しかし牧は、それしか話してくれなかった。というより、湘北の試合はそれ以外のことは大して印象に残っていないようだった。センター? どう考えても三井のポジションではない。は内心首を傾げる。

「恐らく190以上はある感じだったな。なんで湘北に入ったんだか」
「そういうことってあるの?」
「そういうことって?」
「ええと、身体的に有利だったりしても、あんまり実績のない高校に入っちゃうケースとかって」
「さあどうなんだろうな、知ってるか高砂」
「オレも自分の中学周辺しかわからんけど……あんまり聞かないな。初心者だったんじゃないのか」

まあ牧も高砂も1年生だ。その辺の事情に詳しくないのは仕方ない。190センチの身長を持ってバスケットをしに弱小校へ入学したのなら、それは三井のように監督が目当てだったのかもしれない。はそう考えた。

結局、湘北はダブルスコアで粟戸工業に敗北、昨年までの成績同様、1回戦負けで予選を終えた。それを聞くと、はスッと心の中の重いものが抜けていくのを感じていた。三井がどうなったかはわからないけれど、ほらやっぱり勝てなかったじゃない、それでIH優勝だなんて、本当に口だけ――

そして、それと同時に、三井に対して、彼が約束を破ったことに対して感じていた怒りや憤りもどんどん薄れていった。あの自信満々のMVP三井寿はもうこの神奈川の高校バスケット界にはいないのだ。いたら牧が見逃すはずがない。の意識の中からも、三井という存在が薄れていった。

「そうは言ってもまだ1回戦目だからな。てか何か気になるチームでもあったのか?」
「ううん、私予選見たことないし、高校の大会ってどんな風なんだろうって」
「そんなのもうすぐ実際に見るんだから、その時見ればいいだろ」
「うちのは別。大会全体を見てみたかったんだってば」

聞かれたから答えてやったのに、はあまり満足していない様子で、牧は少し呆れてため息をついた。どうにもこのは謎が多くて、マネージャーとしては頑張っているけれど、その言動の端々に暗いものが見える。そんな風に感じていた牧だったが、そういうはこの日以降、すっかりいなくなってしまった。

の中から三井という存在が消え、彼と共に強豪校に進学できなかった悔しさも消え、彼女には海南でIH優勝を目指すという目標だけが残った。復讐に囚われていたは、決勝リーグを優勝抜けしたところで完全にそれを忘れ、ただ仲間たちと高みを目指すだけの女子マネージャーになった。

夏休み、合宿、IH、国体、冬の選抜、遠征、練習――

海南バスケット部1年目、はその役目を全うし、完全に同学年の部員たちを尻に敷くまでになった。は厳しくてしっかりしていて、しかし明るく気さくな「いいマネージャー」だった。同学年の部員たちはもちろんのこと、先輩たちにも可愛がられ、入部当初は無愛想だった彼女にも笑顔が戻ってきた。

入部当初は完全なるド素人であったが、それも毎日コツコツと教本を読み返し、時には同学年の部員をとっ捕まえて説明をさせたり、隙あらば監督にも突撃して、はマネージャーとして必要な知識も詰め込んでいった。2学期を迎える頃には体力も付いてきて、のマネージャーライフはますます充実していった。

自分の手で湘北をIH優勝に導くのだと豪語していた三井は、高校バスケット界から姿を消した。

が海南1年目を終えるまでの間に、彼の消息を聞くことはなかった。