水際のウルヴァシー

11

「暑い……私なんか来なきゃよかった……
「バカ言え、今年で最後なんだからちゃんと全部見届けろ」

8月、IHに出場するため、は広島の地に降り立った。7月下旬から8月初旬、日本は1年の内でもっとも暑い時期だ。連日天気予報では高気温のために熱中症厳重警戒、原則運動禁止と注意喚起をしているが、お構いなしである。まあバスケットは室内競技だし、控室はある程度空調が効いているので楽な方かもしれない。

広島空港に到着した海南大附属高校ご一行様は、いわゆる「前乗り」である。今日は7月31日、翌8月1日が開会式にあたる。海南あたりになると予選突破が確実にならなくてもホテルをリザーブしており、部員たちはまずチェックインをし、市内にある体育館を借り受けて練習の仕上げである。

この体育館はIH開催期間中ずっと借りているので、トーナメントが始まっても夜間に練習などで利用することがある。そういう意味もあってやはりマネージャーであるは必要なのだが、昼間はあまり役に立たない。監督の使いっ走り程度である。はそれをわかっていて愚痴た。

「どうせ私は見てるだけ」
「昔は録画係やってたって話も聞いたことあるけどな」
「それすら出来ない私はただのパシリ」

空港からの移動中、はマイクロバスの中でホテルの部屋割り表やら大会スケジュールやらの書類を手にブチブチ文句を言っている。以前はマネージャーが試合を録画していたらしいが、最近では地元のスタジオに依頼している。マネージャーや1年生の近くだと歓声がうるさいので、遠くからプロに撮ってもらった方がいい。

通路を挟んで反対側にいる牧がいちいち相手をしてくれているが、彼もまだボンヤリした顔をしている。

真夏の目が眩むような日差しにはつい目を細める。

今年のIH神奈川代表は海南と湘北だ。ここ数年代表は海南と翔陽が常であり、海南に至っては過去16年間ずっと出場しているわけだが、そこに前年1回戦敗退の湘北が食い込んでくるとは。ずっとベスト4やベスト8で足踏みをしていた県内の強豪校が可哀想になってくる。

……まあ、あいつが戻ったからってわけじゃないけどさ。

今年の湘北は新人が桁外れのバケモノなわけだし、まあそりゃあ三井が復帰したのもプラスにはなっているだろうけど、それだけではないはずだ。というかそうであっては困る。湘北にはIHという別世界を実際に体験して、それがどれだけ厳しい世界なのかを思い知って帰って欲しい。

はずっと自分にそう言い聞かせている。万が一にも勝ち進んだりなんか、しませんように。

ぺらりと書類の束をめくったはしかし、トーナメント表を見て一気に気が抜けた。選手たちには早々に知らされていたであろう組み合わせだが、わざわざが把握しなければならない情報ではないので、今頃になって手渡されたわけだが、湘北の名前を見つけたは緊張が解けて肩を落とした。

山王と愛和、こりゃ無理だわ。1回戦勝てればそれでよし、てところか。

同じ県からの出場なので、海南と湘北は違うブロックでのスタートとなるが、湘北は前年の優勝校と4位の高校と同じブロックだった。しかも、前年優勝校である山王とは2回戦で当たる。万が一1回戦を突破できたとしても、そこが限界だ。いかな湘北が底なしのポテンシャルを秘めていたとしても山王には勝てない。

だって、海南だって1度も勝ったことないんだから。湘北はその海南に負けたの。だから無理。

――本当にそうかな、そういう先入観を覆すような試合は今までにもたくさんあったよ。

だけど山王は別でしょ、そういう先入観のもっと向こうにいるような存在なの。去年も結局負けてる。あの牧が及ばなかった。どうしても届かなかった。今年は正直、山王に勝てるようにずっと準備してきた。他の高校なんかそれに比べたら軽視したって構わないくらい、ひたすら山王対策を頑張ってきた。

――そういうことしてたから翔陽は負けたんじゃないの?

翔陽と一緒にしたらダメ。あそこは正規の監督もいないんだし、藤真ひとりの手には負えなかっただけ。

――だけど、逆境に置かれた時に真価を発揮するタイプなんでしょ?

バカみたい。海南がずっと神奈川の王者だったように、山王は日本一をずっと守ってる。湘北は負ける。万が一なんてない、あるかもしれないなんてことを考えちゃうから怖いだけだよ。自問自答を繰り返すはやがて書類を膝に投げ出し、窓の外の入道雲を見上げてため息をついた。

開会式の日、また監督のパシリをしていたは部員たちのところに戻ろうとして足を止めた。会場の外で湘北と顔を合わせたらしく、どこかの高校も交えてなんだかわいわい騒いでいる。何遊んでんだ!

はたまにこういう男子の雑なところが理解できなくて首を傾げる。試合中は殺すか殺されるかみたいな剣幕だというのに、それを離れると仲がいいというか、まるで普通に話している。それが割と湿っぽい女子であるにはよくわからない。今も清田と一緒になって三井がバカ笑いしている。お前ら……

というか1ヶ月ほど前には牧と清田が湘北の桜木を連れて愛知の決勝リーグを見に行ったというし、本当にもう男の子はよくわからない。試合が終わった後、新幹線までの時間が余ったからといって3人でわいわい食事をして来たというし、それを聞いたは勢いで清田を叩いた。意味わかんないから。

湘北がいなくなったのを確かめてから、は足早に合流した。今日は開会式に出た後、体育館直行で練習である。ついでに開会式の最中もアリーナの外で待機である。

さて、その日の夜、練習を終えて帰ってきた部員たちはそれぞれ体を休めてのんびりしていた。明日は試合がないので、湘北の初戦を観戦しに行くことになっている。はホテルに残るつもりでいたので、それをロビーで牧に言うと、真顔で怒られた。

「怒ることないでしょ……
「マネージャーでも海南の一員ならそんなことで逃げるなよ。見届けろって言っただろ」
「湘北を見届けてどうすんのよ」

呆れた顔をしたの腕を引っ張って牧はロビーを出た。今年の宿は2階がロビー階となっていて、外に張り出した大きなバルコニーがある。牧はそこまでを引きずって行き、人の目がないことを確かめると遠慮もせずに言い放った。

「湘北じゃない、お前は海南だけじゃなくて三井もちゃんと見届けろ」
「はあ? な、何言ってんの、そんなことどうでも……
「翔陽戦からこっち、お前はもうずっとおかしい」

ふざけて誤魔化そうとしただったが、牧の顔が怖くて言い返せない。

「試合の時はグズグズ言ってて構わんと言ったけど、あれからどれだけ経ったと思ってるんだ」
……ごめん」

牧が何も言わないので、はそれに甘えてずっと不貞腐れていた。それは事実だ。また湘北が快進撃を続けるものだから、いつまで経っても気持ちが晴れない。それどころか落ち込む一方だった。

「普通、3年生は夏で引退だ。冬まで残れるのは推薦か内部かしかない。お前の話が本当なら三井には推薦の話なんて来てないはずだ。今年いきなり出てきたんだからな。推薦ないやつは冬まで残っちゃいけないなんてことはないけど、そしたら確実にフリーターか無職か浪人てところだ。大学でバスケやりたかったら三井は夏で引退するしかない。つまり、このIHがあいつの最初で最後の晴れ舞台ってことになる」

は大きく頷く。牧の言う通りだ。3年前の三井のことを考えると、せっかく復帰したバスケットを捨てて就職するとか専門に進学するなんてことは考えられないに決まってる。大学に進学してバスケットを続けたいと思うはずだ。それには受験をするしかない。グレてヤンキー堕ちしていた彼は非常に厳しい境遇にある。

……お前も、外部、行くんだろ」

牧の低い声には顔を跳ね上げた。厳しいが穏やかな顔だった。

「お前もこの夏で終わるんだろ。もうあいつから逃げるなよ」

私は逃げてたんだろうか――ふと意識が遠のいたの肩に牧の手が置かれる。

「海南の部員なら立ち向かっていけよ」
「マネージャーなのに?」
「オレはそういう差別はしない」

ふっと鼻で笑うの頬を牧は軽くつまんで揺らした。日本人のすることじゃない。はまた笑った。

「もう中学の時とか、ヤンキーだったこととか、そういうの忘れて見てみろよ」
「そんなこと……
「そうことに囚われてると見えるものも見えないぞ」

牧は体の向きを変えて夏の夜空を見上げた。もそれに倣う。星は見えなかった。

「まっさらな気持ちで見てみたら、違う景色が見えるかもしれないぞ」
「違う景色……
「それをどう受け止めるかは、お前次第だ」

は大きく頷いて、小さく「ありがとう」と呟いた。

湘北の1回戦目、は部員たちとは離れた場所で遠目に観戦をしていた。相変わらずトラブルの多い試合だったけれど、湘北は勝った。簡単に勝ったようには見えなかったけれど、歯を食いしばって必死で食らいついて勝ったようにも見えなかった。

これまで湘北の強みは「勢いまかせ」なのだと思っていた。だからいくら翔陽に勝っても海南には勝てなかったのだと思っていた。そういう意識がずっとの中にあり、三井を認めたくないのも手伝って、いつまで経っても「去年一回戦負け」なのだからと目を逸らしていた。

牧はそこから逃げるなと言いたかったのかもしれない。は今、三井がいる湘北というチームの現実を見ていないから。しかし、1回戦を勝利してしまった彼らが昨年の優勝校に挑むという恐ろしい現実に比べたらものの比ではなかった。

なんで私が緊張しなきゃいけないの、と毎回同じ文句を頭のなかで繰り返して気持ちを鎮めようとしたけれど、あまりうまく行かなかった。翌日は海南の初戦だというのに、完全に心ここにあらず。しかし牧はもう何も言わなかった。ただ、翌日海南が初戦を余裕で突破した後に妙なことを聞かれた。

「本当はどっちなのか、答えは出たか?」
……答えって、何の?」
「三井に、勝って欲しいのか、負けて欲しいのか」

はつい口をつぐんで目を逸らした。牧はニヤリと笑うと、そのまま立ち去る。

正しい答えは「負けて欲しい」でなければならないはずだ。そのためには海南に入り、運動部経験もないのに必死で頑張ってきたのだ。をそういう境遇に追いやった三井はその報いとして負けなければならないはずだ。それを望んでいるはずなのに、咄嗟に答えられなかった。

山王を目当てに詰めかける観客、試合を終えた海南の部員たちもコートがよく見える場所を陣取っている。はまた彼らから離れ、ひとり制服のまま遠くからコートを見下ろしていた。

――もし中学の時の約束が現実になったなら、IH優勝をかけて山王と対戦することになっていたんだろうか。三井はキャプテン、私はマネージャー、高校最強のチームに一緒に挑んでいたんだろうか。それが、三井はブランク2年、私は海南のマネージャー。だけど同じ体育館の中、相手は山王。

くらりと目眩を感じたの眼下でまたホイッスルが鳴り響く。

これもまた妙な試合だった。同様、誰が考えても湘北は軽く捻り潰されて終わり、というところのはずだ。なのに、どうも様子がおかしい。海南や翔陽の時と同じだ。湘北という妙なチームの持つトラブル体質のせいか、試合は山王が圧倒するだけの展開ではなくなってきて、もいつしか身を乗り出して見ていた。

スーパープレイが飛び出て体育館が沸く傍ら、なぜか陵南の魚住が乱入してきたり、何を思ったか清田がキーキー喚いたりと、試合以外のことにも気を取られつつ、は倒れそうになる体を必死で奮い立たせながら試合の行方を目で追っていた。

互角とか、張り合ってる、とは言えない。だけど湘北はとにかくしつこい。海南の試合と同じように、彼らは勝ちを諦めることを知らないようにも見えた。いつしか会場は「もしかして逆転も有り得るのでは」「まさか山王が負けるのか?」という不安定な期待と不気味な高揚感で満たされ始めた。

もちろんも同じだった。三井がシュートを打つたび、ぐさりぐさりと胸に刃物が刺さる気がした。

牧の言う通りに、過去のことは全て忘れて見てみたのだ。あまりに美しく、作り物のような弧を描いてボールは飛んで行く。2年のブランクによる体力のなさで今日もヘバっているけれど、何故かシュートだけは入る。気持ち悪いくらい入る。それを、はついに「すごい」と思ったのだ。

何度もそう思ってしまって、その度にグサリと痛みが走るので胸はもう傷だらけだ。けれどは少しずつ震え出す体に満ちる思いには逆らえなくなっていた。勝って欲しい、負けないで欲しい、3年前みたいに、勝利を手にして欲しい――

残り時間が少なくなるに連れて、山王ばかりを応援していた観客は真っ二つに割れ、湘北を応援する声も増えてきた。その中ではまた限界を超えてしまって涙を零していた。迫る試合終了を前にとうとう海南の部員たちが声を上げて応援し始めたのが聞こえると、大歓声の中で嗚咽を漏らして一緒に声を上げた。

「お願い、勝って、負けないで、勝って――

それはあの日、中学の県大会で祈ったことと同じだった。

勝って、そしてひとつになりたい、身も心も繋がりたい――そう思ったあの日と同じだった。

今はどうだったのだろう。三井に勝って欲しいと思うことと、彼をどう思うかはまた別の話だったし、興奮の試合展開でそれどころじゃなかったし、好きだの嫌いだのを飛び越えた感情で見ていた。

試合終了のブザーが鳴った時、はスコアボードを確かめると、勢いよく振り返って客席を飛び出した。体育館の廊下に転がり出たはそのまま壁伝いにずるずると崩れ落ちて、階段の踊り場に逃げこむと口元を覆って嗚咽を押し殺した。我慢しようとすればするほど涙が溢れる。

湘北は、三井は勝ったのだ。

コートの方からは体育館が揺れるほどのどよめきと歓声が鳴り止まない。無理もない。日本の高校バスケット界の頂点に君臨していた支配者がとうとうその座を引きずり下ろされた。しかも、初出場に。これは事件だ。

はいくつもの感情の波の中で押し潰されないように喘いでいた。勝ってくれて嬉しい、勝ってしまって悔しい、山王に勝てたなら愛和にも勝つんだろうか、だけどもし準決勝が湘北相手なら楽かもしれない、三井は何を思うんだろう、あいつはどこまで行くんだろう、私はこれからどうしたいんだろう、どうなるんだろう――

いつしかコートの騒ぎが聞こえなくなった頃、まだしゃくり上げていたのところに牧がやって来た。

「こんなところでグズってたのかよ」
「だ、だって……
「お前が戻らないから高砂と探しに出たんだぞ。携帯も音切ってるだろ」

厳しい声だった。は身を縮めて頭を垂れる。申し開き用がない。

「答え、出たんじゃないのか」
……うん」
「ホテル、ひとりで帰れそうか?」
……うん、大丈夫」
「そういうの、今夜までだぞ。明日からは元に戻れるな?」
……約束します」

は大きく頷いた。これでも3年間マネージャーをやってきたのだ。意地でも元に戻してみせる。

、正式に引退するまでは、お前は海南のものだからな」

何だかやたらと楽しそうな、弾んだ牧の声に顔を上げると、顔面にジャージがばさりと投げつけられた。驚いたが慌ててジャージを取り除けると、牧の後ろ姿しか見えなかった。

まあそりゃひどい顔、してるだろうからね。は牧の大きなジャージを手に吹き出し、素直にそれを羽織った。そして携帯を取り出して監督に電話をかけ、生理痛の薬が切れたので医務室に世話になっている、そういう事情なので別行動で帰らせて下さいと言った。生理ではなかったけれど、監督は返事だけで許可してくれた。

歩いて駅まで行こう、乗りなれない電車に乗って、ホテルまで帰ろう。のろのろと歩いて体育館を出たは、牧のジャージを着たまま空を見上げ、その眩しさに目を細めて手をかざす。

耳に潮騒がこだましていた。真っ白な夏の日差しの下、いつまでも波の音がを包んでいた。