水際のウルヴァシー

07

三井と言葉を交わしたショックも引きずりながらお盆休みに入り、束の間の休みに体を休めていた時のことだ。は普段疲れていて中々手を付けられない部屋の掃除をしていた。クローゼットの中までひっくり返し、中学生の頃に買ったものが出てくるとその場でゴミ袋に突っ込み、少ししてから戻したり、を繰り返していた。

デジタルで残るツーショットやキス写などはとっくに処分している。けれど、何しろ別れたのは3年生の2学期が終わる直前。卒アルにはばっちりくっついているところが残っている。だからといってそのためだけに卒アルは処分できない。とりあえずは付箋を貼り付けて目につかないようにしてある。

その他、三井に関わるものは卒業を待たずに全て捨てた。誕生日やホワイトデーにもらったプレゼントも捨てた。中学生が小遣いをやりくりして買ったものだろうけれど、当時はも同じ中学生で、申し訳ない気持ちなんかなかった。自分の部屋にそれが存在しているだけで腹が立った。

だから、卒アルを除けば三井を思い出すものは何も残っていない。あとは制服くらいか。なんとなく捨てられないままクローゼットの中で眠っている中学の制服は、何度も何度も三井の腕に抱き締められた制服で、その上、校章は元々三井のものだ。全く同じものだから特に意味はないけれど、付き合いだしてからすぐに交換した。

はその校章に人差し指でそっと触れてみた。冷たい校章が鈍く光る。

あの日、が願った通りに風が強くなって、だけでなくゴミ拾いをしていた部員たちもみんな目を真っ赤にして涙目になっていた。は努めて平静を装ったし、むしろ風と砂で不機嫌、という風を装ってやり過ごしたので、誰もがまたヤンキーに絡まれてしまったことなど気付かなかった。

お盆休みに入る前日の夜、バスケット部は引退した3年生も全員集まってあの浜で花火をやった。清掃ボランティアをした際に市の担当にお願いしてみたところ、海南の生徒さんたちならいいよ、ゴミは全部持ち帰ってね、と言ってもらえたからだ。

レストランとバイクショップに明かりが灯っていた。バイクショップはシャッターが半分降りていたので、人がいるのかどうかもわからなかった。レストランは開店したばかりの時間で、やっぱり人がいなかった。

先輩マネージャーも来てくれて、日頃から一緒に戦っている部員たちとの花火は楽しかった。花火のお供はペットボトルのジュースとコンビニアイスだったけれど、は心から笑ったしはしゃいだし、遊び疲れた体は幸せでいっぱいになっていた。海南最高、このチーム大好き、私の宝物。

だからもう惑わせないでよ……

片付けの途中だったけれど、は床にぺたりと座り込み、バッグを引き寄せて手を突っ込んだ。花火の時の画像でも見て気持ちを落ち着かせようと思ったのだ。普段バスケットばかりの部員たちが不慣れにはしゃぐ様子は妙な可笑しさがあって、見ていて飽きなかった。だが、は手を止めた。

ない。父親に借りたコンデジがない。

自分の携帯では花火をあまりきれいに撮影できないので、父親に頼んで春に買ったばかりのコンデジを貸してもらったのだ。普段は父が仕事で使っているものだが、もうお盆休みだからいいよ、と貸してくれた。それがない。しまった。は一気に血の気が引く。

さすがにこれはマズい。安い買い物ではないのだし、小学生じゃあるまいし、お父さんに借りたカメラ落としちゃいました! では済まない。その上部活が忙しいの場合、アルバイトして返しますとはいかないのだ。お父さんのコンデジ失くしちゃったから退部します、なんていうのも勘弁して欲しい。

は慌てて着替えると、外に飛び出して自転車で走り出した。春モデルのコンデジがその辺に転がっていたら誰だって持ち去ってしまうかもしれない、けれど確かめないではいられない。万が一ということもある。浜の前の通りを少し行けば交番があるから、そこにも聞いてみよう。

どうかどうか、見つかりますように。また、見つかっても壊れていませんように。

不安に胸をドキドキさせながらは走った。駅まで出来る限りの速度で走り、電車に乗って、下りて今度はバス。お盆休みで車が多く、バスはのろのろ運転だ。はまた焦りでドキドキしてくる。今は既に午後も半ばを過ぎていて、夏の日は長いとはいえ、遊んでいた場所の辺りですぐに見つけられなかったら、浜を探さなければならない。

あの浜は海水浴場ではないし海の家も駐車場もないから、行楽客はいないはずだけれど、その代わりに地元民の散歩コースだったり、暗くなると要するに三井たちのような少年少女の遊び場になりがちだ。早く行って早く見つけなければ。また三井やその仲間に遭遇してしまうのも嫌だ。

真夏の太陽がほんの少しだけ傾き始める頃、はつい2日ほど前に訪れた浜に降り立った。遠くに犬の散歩をしている老夫婦が見えるだけで、その他には誰もいない。バス停からこそこそと早足で歩くは、すぐにレストランとバイクショップの方を確認した。バイクショップのシャッターが開いている。

遊んでいたのは店からそれほど離れていない場所で、いつもランニングの時に休憩場所になっているところだ。もし今三井が店にいたら、ウロウロとコンデジを探しているのが丸見えになってしまう。万事休す、は足を止めて防波堤際にしゃがみ込んで膝を抱えた。

日没まではまだ時間があるけれど、何しろ海は東向き、日の沈む西側は少し行くと元々山だった場所を拓いた住宅地が広がっている。日没より早く暗くなってしまうのは目に見えている。どうしよう。

がそうして身動きがとれなくなってから15分ほど経っただろうか。無意味に携帯をいじっていたの耳に、ガヤガヤと複数の男性の声が聞こえてきた。思わず浜の方に降りて防波堤からひょこっと顔を出してみると、バイクショップのガレージの中からバイクが数台出てくるところだった。

バイクが全部出てしまうと、今度はぞろぞろと男が出てきた。顔は見えなかったけれど、髪型でわかる。三井もいたし、この間絡まれた斑髪の男もいる。成り行きを見守っていたの目の前で、今度は外に出されたバイクのエンジンが全てかけられ、浜に爆音が鳴り響く。

やがてバイクは全て走り去ってしまい、後には三井を含めた数人が残された。彼らはその場で何やら喋っていたようだが、中のひとりがガレージのシャッターを下ろすと、全員歩いて移動し始めた。レストランの前を横切り、例の駐車場の方へと消えていく。

よっしゃ! とは思わず腕を振った。店の背後の方へ抜けてしばらく行くと、大きな幹線道路に出る。それに沿って行くと国道とのバイパスに当たり、この辺りでは一番大きな駅に向かうバスの停留所がある。部員と別行動で試合に向かった時に使ったことのある路線が通っているはずだ。そこへ向かったに違いない。

ヤンキーがバス移動かよ、とニヤつきながら、は防波堤を乗り越えて歩道に戻る。これであのレストランとバイクショップは無人、心置きなくコンデジ捜索が出来る。

が、見つからない。はまた血の気が引いて体が冷えてきた。どうしよう、怒られる。

移動中に恐る恐る調べてみたら、父のコンデジは現在ネット平均で25000円前後。一番売れ筋のコンデジは1万円を切っているというのに、なんでこんな高いの買ったのよ。そりゃ確かに花火はきれいに写ったし、夜は写らないんじゃないのとからかわれていた牧もちゃんと写ったし、性能がいいのはわかる。防水だったし。

どうしようどうしよう、部活辞めなきゃだめかもしれない。そりゃ今年もIH優勝はできなかったけど、まだまだこのチームにいたいのに。一緒に優勝目指したいのに。海南が最強であることをこの目で確かめたいのに――

……探してるの、これか」
「ふぁっ、そうそれ、お父さんのカメラ!!! あったー! よかったー!」

ゆっくりと、しかし確実に暮れていく空の下で焦っていたの目の前に、黒いボディのカメラが差し出された。間違いなく父親のカメラで、は歓声を上げてカメラを両手で掴んだ。これで部活辞めなくて済む! あとは壊れていないことを確かめればもう安心!

絶望的な気持ちが一瞬で天国に届くほど舞い上がった次の瞬間、は石のように固まり、ギギギと音がしそうなほどぎこちなく顔を上げた。確かにこれは父親のカメラだけどちょっと待って今のは――

「一昨日、ここに置きっぱなしになってた」

2度あることは3度あるとはいうけれどもう4度目だ。はドッと押し寄せる疲労感、そしていい加減うんざりしてがっくりと肩を落とした。遊びに行ったんじゃなかったの……

……どうも、ありがとう、ゴザイマス」

毅然とした態度で対峙しなければという気力も湧かなかった。コンデジが見つかって安堵したのも手伝って、はものすごい不機嫌な顔で棒読みの礼を述べた。一応拾っておいてくれたことには感謝しよう。しかしそれを保管しておいてくれなくてもよかったのに。なぜ交番に預けてくれなかったのだ。

……感謝の気持ちゼロだな」
「高いカメラなので助かりマシター」
「あのな」

潮風に吹かれた三井は長い髪をかき上げて呆れた。だが、はそれもイラつく。

「ちょうどお前らが帰っていく時に来たんだよ。それで置きっぱなしになってたから拾っておいただけだろうが」
……交番にでも預けておいてくれたらよかったんですけどねー」
……海に投げ捨てりゃよかった」

から視線をそらし、三井は体を海の方へ向けてそう吐き捨てた。イラついているしげんなりしているけれど、コンデジを拾っておいてくれたことに対する態度として非常に礼を失している自覚はある。それでも三井に対しては普通に接することすら癪に障るのだ。

だが、三井は低く落ち着いた声でまた話しかけてきた。

「マネージャー、続けてるんだな」

咄嗟に返事ができなかったの方をちらりと見た三井は、また視線を戻して息を吐く。

「2年目になるとだいぶ体力つくよな。食えるようになるし、起きられるようになるし」

返事なし。

「中3の時のこと、まだ怒ってんのか」
「は!?」

つい顔を上げたは直後にしまった、と口元を抑えたが、気持ちの方が抑えられなかった。

「怒ってるとか……怒ってないとか……そういう問題?」
「もう関係ないんだろ。けど面白くないって顔してるから」
「関係なくなったら怒ってた気持ちが一瞬で消えるなんて、そんなことあるわけないでしょ」
「じゃまだ怒ってるのか」
「怒ってるとかそういうことじゃ――

は低い声で反論していたが、言いながらカメラを持った手を見つめて言葉を切った。三井と喧嘩別れしてから1年8ヶ月、中学を卒業してから1年5ヶ月、彼に対して常に怒っていたわけじゃない。なぜなら自分が正しかったことは証明済みだし、海南はちゃんと強いし、大見得切った本人はヤンキー堕ちだ。

じゃあ何なんだろう。イラついているのは確かだし、何度も遭遇してしまうのはうんざりするし、しかしそれは思い出したくない過去が最悪の形で目の前に現れるからだ。本人が言うように、三井に対しては「関係ない」のだから、何も思わないのが正解のはずなのに。

だってそうでしょ、喧嘩別れした元カノに会ってどうしてそんな普通に――あ、そっか

「普通、気まずいでしょ。笑顔でこんにちはなんて、誰も言わないでしょ」
「へえ。オレはあんまり気にならないけど」
「そんなわけないでしょ。MVP取った時のチームと今でも連絡取ってるっていうの?」
「何人かは取ってるけど」
「ハァ!?」

そんなバカな。だってあの頃あんたの周りにはスターだの天才だのっておだてるのが大量にいて……あれっ? それってバスケ部員だった? ていうか中心的存在だったスタメン以外の部員て、誰だっけ、私、なんでこんなに覚えてないんだろう――

……あの時の3年生は12人、今でもバスケ続けてるのはふたりだけだ」
「えっ、嘘……
「12人の内ひとりは高校すら行ってねえ。1年の時にやめてる」

はぽかんと口を開けたまま、なびく三井の髪を見つめている。

「そんな風に中坊の頃のことにいつまでも振り回されてたら疲れないか?」
「なん……振り回されてなんか、私は別に」
「15歳なんて、てんで子供だった。それだけだろ。昔の話だ」

それはそうだ。親にこんなことを言うと「15も17も大して変わらない、どっちも子供だ」と言われるけれど、にとって15歳は17歳より12歳に近い。小学生と中学生は一括りな感じがする。給食食べてた頃、でひとまとめに出来る。スニーカーで歩いて学校に通ってた頃で、義務教育だった。だから子供だ。

そういう意味では三井の言うこともわかる。昔の話だ。

「だけどそれと、あんたが約束反故にして勝手に推薦断ったのとは関係ないから」
……そういや、そのことで喧嘩した時から、お前オレのこと名前で呼ばないんだな」
「今でもあんなふざけた名前で呼べっていうの!?」

最終的には彼のことを「ちゃぴたん」と呼んでいた。思い出すだけで背筋がゾッとする。

「ふざけた、って自分で言い出したんだろうが。さすがにあれはちょっとどうかと思ってた」

なびく髪の向こうにニヤついた口角が見えて、の頭に血がのぼる。

「何でそんな……何で平気でそんな話できるのよ」
「別に、大したことじゃないだろ」
……人の気持ちを踏みにじっておいて、大したことないとかふざけんな」

は思わず足で砂を蹴り上げ、三井の足元に引っ掛けた。

「もう忘れろよ。過去は変えられないし、今更どうでもいいだろ」
「変えられないことと、それが大したことじゃなかったかどうかは関係ない!」
「お前は何でそんなにこだわってんだよ」

砂を蹴り続けていたに向き合った三井は一歩足を進めて近付いてきた。

「お前、今でもオレのこと好きなのか?」
「ハァ!?」

額のあたりの血管が破裂するんじゃないかというほどの怒りに、は肩を震わせた。三井の言葉が信じられないのと、こだわってなんかいないと思うのと、それでもこうして頭に来てばかりの自分がもうさっぱりわからなかった。そして、怒りがピークに達すると、今度は泣きたくなってきた。

そりゃあ、あの頃は好きだった。大好きだった。だけどその気持ちを粉々にしたのはお前じゃないか!

「また付き合ってもいいけど。オレ今女いねーし」
「な、なん……わた……
「海南なんかにいたら遊ぶ暇ねえだろうけど」

過ぎた怒りによる過度なストレス、自己防衛本能が働いての目に涙が溢れる。そんなの頬に三井の指が伸びてきて、今にも零れそうな涙をすくって払い除けた。三井も何だか生気のないぼんやりした顔をしている。何を考えているのか、何も読めない。だが、

「マネージャーがヤンキーと付き合ってるって知ったら、ははは、海南の連中、どうするんだろうな」

三井はそう言って歪んだ笑顔を見せると、の顎を掴んで唇を押し付けた。

西日にふたりの影が長く伸びる砂浜、いつかのようにパン、という乾いた音が響く。

……またかよ。お前に殴られたのこれで2度目だぜ」
「殴られるようなことを、したからでしょ」
「キスくらいなんだってんだ。もう何百回もしただろうが」

三井の頬を思い切り叩いたの手は震えていた。平手打ちだったが、今はギュッと握りしめているので、真っ白になってきた。しかしの顔は怒りと混乱による興奮で真っ赤、涙のせいで目も真っ赤。

「何で、こんなに頭に来るのかわかった。私、あんたのこと大好きだった」
「へえ、過去形か」
「元気で明るくてバスケに一生懸命でみんなに好かれてて、そういう三井寿が誰よりも大好きだった」

そういう三井寿はもういない。この世のどこにも存在しない。

「それを、あんたが、私から奪ったから。私の大好きな人を、あんたが殺したから」

1年以上も付き合ってきたのに、試合の最中の一瞬の出来事に心を奪われて三井は変わった。が誰より愛していた三井寿はぼんやりしたままひとりで湘北行きを決めてしまい、との約束はかき消えた。あの頃が何より大事にしていた「ちゃぴたん」は死んだのだ。

「どっちもオレだろ」
「あんたは私から大事な人を奪った。絶対に許さない」
「オレは何も変わってねえよ」
「私はあんたのいない海南でIH優勝チームのマネージャーになるから」
「そもそもオレはお前のものじゃねえからな」
「地べた這いずりながら海南が頂点に登っていくのを見てればいい」

手にしていたコンデジをしっかりとバッグの中に押し込んだは、両手で顔を撫で付けて涙を拭き、ついでにさくさくと髪もかき上げて背筋を伸ばした。やっと三井に対する怒りの理由も分かったし、それはに新たな決意をもたらした。彼氏欲しいなとか浮ついたこと、もう二度と思うもんか。絶対優勝してやる。

「IHで優勝したいって言ってたけど、あんたはそれを捨てた。私は、それを海南の仲間たちと取りに行くから」

一歩後ずさったはまた溢れ出しそうになる涙を堪えて大きく息を吸い込む。

「だからあんたはずっとそこにいれば!?」

振り返って走り出す、三井は潮風に吹かれながらその後姿をいつまでも見つめていた。